■2015年3月15日 パンセ通信 No.23 『成功するための、内面の物語の作り方』
皆 様 へ
私たちが幸せに生きるためには、十分なお金と備えが必要です。でも一方で、そのお金を稼ぎ出し、自分がよく生きられるための環境を整える能力も必要なことは、自明なことでしょう。どちらが大事かというと、お金が無くても能力があれば、いつでもお金を稼げるのですから、やっぱり能力の方が大事だ!
などとすぐに二項対立的にものごとを捉えて、どっちを選ぶかとか、どっちが正しいかなんて考え方をするから、堅苦しくなって無理が生じてきます。私たち庶民にとっては、両方が必要で、素直に両方を一緒に求める方法を考えれば良いのです。じつは私たち日本人は、本来このどっちつかずで両方をた
てるというものの考え方は大得意で、自然に身についていると言えるほどです。2000年に届かぬほどの昔に、インドで竜樹が、悪戦苦闘して中観派という哲学まで打ち立てねばならなかったほどのものの見方を、いともやすやすと身に着けているのですからたいしたものです。もっとも竜樹やその後の修行者の方々のように、必死で考え格闘してはいないものですから、私たちの両様を生かす捉え方は、あいまいでいい加減で、結論を出さない無責任な態度といった誹(そし)りを受けることにもなるのですが。
まぁとにかく、3月17日の火曜日もパンセの集いをもって、私たちがお金も儲け、同時に生きる能力も高めていく方法を、引き続き考えていきたいと思います。いつもどおり、16時から表参道のフィルムクレッセントで行います。
さて冒頭のお金か能力かという例について、その時の私たちの意識の働き方を見てみると、おもしろいことに気づきます。私たちは誰でも、お金持ちになることや、良い会社に就職して出世することには、非常に強い関心を持っています。でも、それを可能にする人間的能力を高めることについては、お金を儲けるほどには熱心に意識していないようです。せいぜいお金儲けの手段に役立つ程度の目先の技術や能力を、通信教育か何かで学ぶほどの関心です。それでは、ほんとうにお金持ちになって社会で成功するために、その手段を考えているかというと、これも本気で求めて努力しているようには見えません。あるのはただ、お金持ちになりたい、成功したいという思いだけ。ならば成功するのは、全くの運だのみということになりますから、せめて運気を上昇させるために、正月以外にも熱心に神社仏閣に参拝すればよいものなのですが、それもやらない。だからまあ私たちは、いつまでたってもうだつが上がらず、日本も衰退していくということになるのですが。
そこでそんな私たちが成功して、少しは日本も良くしていくためには、まずは思いだけではなく、成功するための方法論や、自分の人間的能力を高めることにも、意識を向けていかなればなりません。そのためには、そんな意識が働くように、少しは自分を変えていく必要が生じてきます。そこで前回は、自他未分離の純粋経験の領域というものに焦点を当てて、私たちのものの見方が変わる原理というものを見てきました。公園の樫の木を見て、“木”とか“樫”とかいう概念が生じてくる前の、生の感覚の領域です。私たちは、意識の奥のこの領域にまで立ち戻ることにより、既成概念の囚われを越えて、新しい創造的なものの見方や、自分自身を再生する視点を得てくることができるのです。
例えばパワハラの上司に仕える場合、“無慈悲で横暴な人物”というレッテルでその人を見るものですから、その人の一挙手一投足のすべてが、“無慈悲で横暴”に見えてきます。しかしそんなレッテルを外して、ありのままのその人の行動を見ていると、案外やさしくて思いやりのある面が見えてきたりするものです。そうすると私たちのその人に対する人物像は、“無慈悲で横暴“から、言葉は乱暴だけど“本当はやさしくて思いやりある”人へと、編み変わっていきます。しかしこうした肯定的なものの見方へと変化するならいいのですが、その一方で、今まで信頼していた人の行動をよく見てみると、いろいろ不可解な点が見えてきて、その挙句に、この人は“私を騙そうとしている詐欺師”ではないかという新たな疑いが浮かび上がってきたりもするものです。そしてその結果その人を遠ざけ、ますます自分が孤立し、孤独と不信感を募らせるということにもなりかねません。
このように、私たちが純粋経験にまで立ち戻って自分のものの見方を改めるのは良いのですが、うまく認識を再構成しないと、お金儲けの手腕も人間的能力も高めるようなものの見方が出来るようにはなりません。いわば周囲をうまく味方につけて、自分も環境も良く変えていけるようなものの見方です。そして、生きる意欲の湧いてくるような取り組みが行えて、もはやどっちつかずで無責任なんて誹(そし)りを受けることなく、本当に両方を実現することが出来るような自分自身への変え方です。
さてそのために、もう1度私たちの意識と純粋経験について、良く見ていくことにしましょう。私たちの意識の一番奥底というのは、恐らく混沌として無定形な、生きるエネルギ-とか生きようとする意志といった、何か得体の知れないものが渦巻いているのでしょう。それはあらゆる生物にとって根源的なもので、すべての神話が、混沌から世界が創造されると物語る所以(ゆえん)です。そうすると、この意識の奥底の混沌のいのちの領域で、井戸とそれをつなぐ地下水脈のように、私たちの意識は、地上のすべてのいのちの源流ともいえる水脈と、つながっていると考えることも出来るでしょう。そしてこの混沌のいのちの源流から、まず私たちの純粋経験というものが形成されてくる。この純粋経験は、カメラのように対象物をそのままに映し出すことで得られるようにも思いますが、やはりそんな受動的なものではなく、何らかのこちら側の志向的意志と対象物の影響とが一瞬のうちに相互に作用して、純粋経験が感知されるのでしょう。そしてこの時、この自分にも、その周囲の存在物にも、その根底にはいのちの源流というものが流れているのですから、私たちが捉える純粋経験は、このいのちの源流からの影響を受けて、その経験を結ぶと考えて良いでしょう。
そうすると、私たちが最初に直覚的に形成する、まだ言葉では捉えられない純粋経験の感覚というものには、すでにこのいのちの地下水脈が持つ傾向といったものが、色濃く反映されていると考えることができるでしょう。それでは、このいのちの地下水脈の持つ性質というのは、いったいどういうものなのでしょうか。
私たちが大地自然と触れる時、そこには誰もが、大いなる自然の息吹といったものを感じるものです。実際に私たちは、春の芽吹きにいのちが躍動し、夏の木立とそよ風にいのちが癒され、山の絶景にいのちが洗われる思いがするものです。それはきっと、この大地自然のいのちの源の力と、私たちのいのちが呼応して、いのちが再生し充電されていくからなのでしょう。この大いなるいのちの恵みと育みの力の影響を受けて、私たちの純粋経験が形成されていくと考えてみるのです。
それでは、そのいのちを育む大地の力とはいったいどんなものか。自然においては1つ1つのいのちが、自分を大切にみんな精一杯に生きています。またそれぞれのいのちがみごとに調和して、互いに生かし合う環境をつくっています。どんな難解な多次元方程式を解いても、人間の知恵や技術が、すべてを調和させて生かす自然の叡知のように最適解を導き出せるものではありません。小さな里山さえ、人間の手だけでは造り出せるものではないでしょう。自然はその智慧を、気の遠くなるような長い年月と膨大な経験の中から見出し、受け継ぎ、増し加え、そして後の世代が滅びずに繁栄していくように用いていきます。言うなれば本当に自分を大切にし、他のすべてのいのちを配慮し、共に生かし合って繁栄して
いくための智慧。そして目先の利益だけではなくずっと先の将来の世代が幸せになるよう判断する叡知。その珠玉の叡知の詰まった過去からの情報を、けっして疎かにしないで将来に受け渡していく。それが大地自然のいのちが持つ、根源的な傾向と言えるものでしょう。この未来の世代まで含むすべてのいの
ちを配慮する力が、私たちの純粋経験にはすでに刻印されていると考えることが出来るのです。ですから私たちは、人を傷つけるよりも人に役立った時の方が、はるかに嬉しく感じ、殺すよりも生かす時の方が、いのちが励まされて生きる力が湧いてくるものなのです。自然環境を破壊するよりも、自然のいのちの多様性を守る方が、はるかに心が平安で満たされるものなのです。
このように私たちが、すべてを生かす大地のいのちの叡知に沿って、純粋経験からものの見方を紡いでいく時、様々ないのちが呼応して働き、私たちは、自分も他者も生かして、現実を変えていける力を発揮することが出来るようになるのです。みんなが喜ぶ、だからみんなが協力してくれて成功する。そして自分もみんなも、そのいのち力が育まれる。その結果としてお金持ちにもなることが出来る。単純に言えば、こういったプロセスになりましょうか。
もちろんここまでの話しは、全くもって科学的根拠はありません。また実証的に検証することもできません。でも以前にも申し上げたととおり、内面の意識の世界、深層のいのちの領域では、論理的な実証よりも、むしろどういう物語を作れば、私たちが励まされ、嬉しくなって立ち上がることができるかということの方が問題となってきます。因果関係が解らなくても、現実に私たちが変わり、周囲の環境が変わり、良く生きていけるようになることの方が大事なのです。
そんな物語の作り方と受け止め方を、もう少し詳しく実践的に、今度のパンセの集いでは考えていければと思います。3月17日の火曜日です。お時間許す方は、ご参加頂けましたら幸いです。
皆 様 へ
私たちが幸せに生きるためには、十分なお金と備えが必要です。でも一方で、そのお金を稼ぎ出し、自分がよく生きられるための環境を整える能力も必要なことは、自明なことでしょう。どちらが大事かというと、お金が無くても能力があれば、いつでもお金を稼げるのですから、やっぱり能力の方が大事だ!
などとすぐに二項対立的にものごとを捉えて、どっちを選ぶかとか、どっちが正しいかなんて考え方をするから、堅苦しくなって無理が生じてきます。私たち庶民にとっては、両方が必要で、素直に両方を一緒に求める方法を考えれば良いのです。じつは私たち日本人は、本来このどっちつかずで両方をた
てるというものの考え方は大得意で、自然に身についていると言えるほどです。2000年に届かぬほどの昔に、インドで竜樹が、悪戦苦闘して中観派という哲学まで打ち立てねばならなかったほどのものの見方を、いともやすやすと身に着けているのですからたいしたものです。もっとも竜樹やその後の修行者の方々のように、必死で考え格闘してはいないものですから、私たちの両様を生かす捉え方は、あいまいでいい加減で、結論を出さない無責任な態度といった誹(そし)りを受けることにもなるのですが。
まぁとにかく、3月17日の火曜日もパンセの集いをもって、私たちがお金も儲け、同時に生きる能力も高めていく方法を、引き続き考えていきたいと思います。いつもどおり、16時から表参道のフィルムクレッセントで行います。
さて冒頭のお金か能力かという例について、その時の私たちの意識の働き方を見てみると、おもしろいことに気づきます。私たちは誰でも、お金持ちになることや、良い会社に就職して出世することには、非常に強い関心を持っています。でも、それを可能にする人間的能力を高めることについては、お金を儲けるほどには熱心に意識していないようです。せいぜいお金儲けの手段に役立つ程度の目先の技術や能力を、通信教育か何かで学ぶほどの関心です。それでは、ほんとうにお金持ちになって社会で成功するために、その手段を考えているかというと、これも本気で求めて努力しているようには見えません。あるのはただ、お金持ちになりたい、成功したいという思いだけ。ならば成功するのは、全くの運だのみということになりますから、せめて運気を上昇させるために、正月以外にも熱心に神社仏閣に参拝すればよいものなのですが、それもやらない。だからまあ私たちは、いつまでたってもうだつが上がらず、日本も衰退していくということになるのですが。
そこでそんな私たちが成功して、少しは日本も良くしていくためには、まずは思いだけではなく、成功するための方法論や、自分の人間的能力を高めることにも、意識を向けていかなればなりません。そのためには、そんな意識が働くように、少しは自分を変えていく必要が生じてきます。そこで前回は、自他未分離の純粋経験の領域というものに焦点を当てて、私たちのものの見方が変わる原理というものを見てきました。公園の樫の木を見て、“木”とか“樫”とかいう概念が生じてくる前の、生の感覚の領域です。私たちは、意識の奥のこの領域にまで立ち戻ることにより、既成概念の囚われを越えて、新しい創造的なものの見方や、自分自身を再生する視点を得てくることができるのです。
例えばパワハラの上司に仕える場合、“無慈悲で横暴な人物”というレッテルでその人を見るものですから、その人の一挙手一投足のすべてが、“無慈悲で横暴”に見えてきます。しかしそんなレッテルを外して、ありのままのその人の行動を見ていると、案外やさしくて思いやりのある面が見えてきたりするものです。そうすると私たちのその人に対する人物像は、“無慈悲で横暴“から、言葉は乱暴だけど“本当はやさしくて思いやりある”人へと、編み変わっていきます。しかしこうした肯定的なものの見方へと変化するならいいのですが、その一方で、今まで信頼していた人の行動をよく見てみると、いろいろ不可解な点が見えてきて、その挙句に、この人は“私を騙そうとしている詐欺師”ではないかという新たな疑いが浮かび上がってきたりもするものです。そしてその結果その人を遠ざけ、ますます自分が孤立し、孤独と不信感を募らせるということにもなりかねません。
このように、私たちが純粋経験にまで立ち戻って自分のものの見方を改めるのは良いのですが、うまく認識を再構成しないと、お金儲けの手腕も人間的能力も高めるようなものの見方が出来るようにはなりません。いわば周囲をうまく味方につけて、自分も環境も良く変えていけるようなものの見方です。そして、生きる意欲の湧いてくるような取り組みが行えて、もはやどっちつかずで無責任なんて誹(そし)りを受けることなく、本当に両方を実現することが出来るような自分自身への変え方です。
さてそのために、もう1度私たちの意識と純粋経験について、良く見ていくことにしましょう。私たちの意識の一番奥底というのは、恐らく混沌として無定形な、生きるエネルギ-とか生きようとする意志といった、何か得体の知れないものが渦巻いているのでしょう。それはあらゆる生物にとって根源的なもので、すべての神話が、混沌から世界が創造されると物語る所以(ゆえん)です。そうすると、この意識の奥底の混沌のいのちの領域で、井戸とそれをつなぐ地下水脈のように、私たちの意識は、地上のすべてのいのちの源流ともいえる水脈と、つながっていると考えることも出来るでしょう。そしてこの混沌のいのちの源流から、まず私たちの純粋経験というものが形成されてくる。この純粋経験は、カメラのように対象物をそのままに映し出すことで得られるようにも思いますが、やはりそんな受動的なものではなく、何らかのこちら側の志向的意志と対象物の影響とが一瞬のうちに相互に作用して、純粋経験が感知されるのでしょう。そしてこの時、この自分にも、その周囲の存在物にも、その根底にはいのちの源流というものが流れているのですから、私たちが捉える純粋経験は、このいのちの源流からの影響を受けて、その経験を結ぶと考えて良いでしょう。
そうすると、私たちが最初に直覚的に形成する、まだ言葉では捉えられない純粋経験の感覚というものには、すでにこのいのちの地下水脈が持つ傾向といったものが、色濃く反映されていると考えることができるでしょう。それでは、このいのちの地下水脈の持つ性質というのは、いったいどういうものなのでしょうか。
私たちが大地自然と触れる時、そこには誰もが、大いなる自然の息吹といったものを感じるものです。実際に私たちは、春の芽吹きにいのちが躍動し、夏の木立とそよ風にいのちが癒され、山の絶景にいのちが洗われる思いがするものです。それはきっと、この大地自然のいのちの源の力と、私たちのいのちが呼応して、いのちが再生し充電されていくからなのでしょう。この大いなるいのちの恵みと育みの力の影響を受けて、私たちの純粋経験が形成されていくと考えてみるのです。
それでは、そのいのちを育む大地の力とはいったいどんなものか。自然においては1つ1つのいのちが、自分を大切にみんな精一杯に生きています。またそれぞれのいのちがみごとに調和して、互いに生かし合う環境をつくっています。どんな難解な多次元方程式を解いても、人間の知恵や技術が、すべてを調和させて生かす自然の叡知のように最適解を導き出せるものではありません。小さな里山さえ、人間の手だけでは造り出せるものではないでしょう。自然はその智慧を、気の遠くなるような長い年月と膨大な経験の中から見出し、受け継ぎ、増し加え、そして後の世代が滅びずに繁栄していくように用いていきます。言うなれば本当に自分を大切にし、他のすべてのいのちを配慮し、共に生かし合って繁栄して
いくための智慧。そして目先の利益だけではなくずっと先の将来の世代が幸せになるよう判断する叡知。その珠玉の叡知の詰まった過去からの情報を、けっして疎かにしないで将来に受け渡していく。それが大地自然のいのちが持つ、根源的な傾向と言えるものでしょう。この未来の世代まで含むすべてのいの
ちを配慮する力が、私たちの純粋経験にはすでに刻印されていると考えることが出来るのです。ですから私たちは、人を傷つけるよりも人に役立った時の方が、はるかに嬉しく感じ、殺すよりも生かす時の方が、いのちが励まされて生きる力が湧いてくるものなのです。自然環境を破壊するよりも、自然のいのちの多様性を守る方が、はるかに心が平安で満たされるものなのです。
このように私たちが、すべてを生かす大地のいのちの叡知に沿って、純粋経験からものの見方を紡いでいく時、様々ないのちが呼応して働き、私たちは、自分も他者も生かして、現実を変えていける力を発揮することが出来るようになるのです。みんなが喜ぶ、だからみんなが協力してくれて成功する。そして自分もみんなも、そのいのち力が育まれる。その結果としてお金持ちにもなることが出来る。単純に言えば、こういったプロセスになりましょうか。
もちろんここまでの話しは、全くもって科学的根拠はありません。また実証的に検証することもできません。でも以前にも申し上げたととおり、内面の意識の世界、深層のいのちの領域では、論理的な実証よりも、むしろどういう物語を作れば、私たちが励まされ、嬉しくなって立ち上がることができるかということの方が問題となってきます。因果関係が解らなくても、現実に私たちが変わり、周囲の環境が変わり、良く生きていけるようになることの方が大事なのです。
そんな物語の作り方と受け止め方を、もう少し詳しく実践的に、今度のパンセの集いでは考えていければと思います。3月17日の火曜日です。お時間許す方は、ご参加頂けましたら幸いです。