ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信 No.24 『正しい宗教と、楽しく役立つ宗教』

Mar 22 - 2015

■2015年3月22日 パンセ通信 No.24 『正しい宗教と、楽しく役立つ宗教』

皆 様 へ

どうすれば私たちは、もう少し良い生活が出来て、心も満たされて生きていくことができるのでしょうか。この問いへの向き合い方を考え続けておりますが、その答えは、じつは時代状況によって変わってくるように思われます。高度成長の頃には、お金を稼ぎ、出世すれば良かったのですし、戦前の社会であれば、大日本帝国バンザイを叫び、非国民にならないように率先して国威発揚に貢献していれば良かったのです。何が成功で、何が社会から求められることなのかがはっきりしていましたから、その求めに応じて頑張れば、心の満足も自ずと伴ってきました。でも、幕末や敗戦直後の時代においては、そうはいきません。世の中が行き詰まったり、今までの体制が崩壊した時には、従来の成功や出世の尺度は通用しなくなるからです。特に敗戦の時などは、茫然自失と共に、痛切な反省や罪の念にも襲われます。なんと愚かなことをしでかしてしまったのか。他人を見殺しにして、なんで自分だけが生き残ってしまったのか等々。

こういう時には、本当に痛切に、心の求めやいのちの飢え渇きを覚えるものですから、外部の既成の価値観に合わせるのではなく、心の求めを満たす内面の方から、現実の生活のあり方や生き方を考え直していく他ありません。これから、何を心の支えにして生きていけば良いのだろう。本当に心を満たす生き方って何なんだろうか。1人1人がその問いと向き合い、生き直しを図っていくしかありません。20年も成長が止まり、少子高齢化に未曾有の財政赤字が重なり、しかも年間3万人もの人が自殺して、若者が希望を持てない課題先進国である現代の日本は、やはりどう見ても、行き詰まりの社会状況にあると言えるでしょう。それでパンセの集いでも、私たちの心の求めから、現実の生活や仕事を見直して良くし、またそれを可能とする内面のいのちの力の高め方について、考えを進めております。3月24日の火曜日も、いつもどおり16時から、表参道のフィルムクレッセントで集いを行います。

さて前回までに、私たちが八方塞がりの状況を越えて、自分の身近な周囲に可能性がどんどん見えてきて、嬉しさに思わず体が動き出すような、そんなものの見方が出来るための条件について考えてきました。そしてそのために、純粋経験の領域というものに焦点を当ててみました。言葉や概念で対象を捉える前の、自他未分離のままに意識に現れる経験の領域です。ここからどのようにものの見方を再構成していけば、私たちのいのちが本当に喜んで、生きる力が湧いてくるような心の目が拓かれてくるのか。そして思い通りにならないつらい現実を、心が満たされるように1歩1歩変えていくことができるのか、思案を試みてきました。

そのためにまず、この純粋経験の成り立ちに目を向け、この経験にその性質が組み込まれて影響を与える、大地自然のいのちの叡知というもの仮定してみました。なぜならもしこの叡知の中に、私たちを再生して新鮮な驚きで満たし、人生を創造的に充実させていく要素があるなら、余計な方法論は抜きにして、素直にこの大地自然の叡知を含む純粋経験の求めに応じて、私たちの意欲や認識や価値観を再構成していけば良いからです。

地球上に生命が誕生したのは、今から36億年前だと言われています。気の遠くなるほどの長い時間です。その長い長い年月をかけて、生命は膨大な実証経験と試行錯誤を積み重ね、よりうまく生きられる絶妙の仕組みとバランスを編み出してきました。もちろんその背後では、無数の失敗と夥(おびただ)しい種の絶滅もありました。しかしその経験も取り込んで、生命はどうすれば自分たちが滅び、どうすれば自分たちが生き残って繁栄できるかという実証デ-タを、文字通りいのちを懸けて蓄積してきました。
その叡知は、人間のどんなビッグデ-タの解析も及ぶものではありません。その至宝の情報を、生命は遺伝子に集約して、後の世代へと受け渡し、私たちにも受け継がれています。だから私たちは、誰もが過たずに、自分を生かし他のいのちを生かして調和して生きていく能力が、本来的に備わっているのです。

私たちの体(からだ)一つとっても、60兆もの細胞から構成され、腸内だけでも100兆個もの細菌たちが共生していると言われています。その1つ1ついのちがみごとに調和し、私たちを生かしています。おバカな私の自我が、“もう死にたい”と思っても、細胞たちや細菌たちや、心臓や肺などの臓器たちは、けなげに私たちを生かすために、懸命に機能して働き続けているのです。

私たちは、その無数のいのちに支えられています。私たちのちっぽけな意識があれこれ思い煩うことなんて越えて、その情報が、遺伝子を通じて私たちの脳の奥底に蓄積されています。しかもそのいのちの情報は、私たちの個体を越えて、大地自然のいのちの流れの中にも蓄積されていて、私たちは、その大いなる自然のいのちの力によっても、外からしっかり支えられているのです。私たちはこのように、この36億年にわたって洗練されてきたいのちのデータベ-スによって、内面からも外面の自然からも支えられているのです。そして私たちの中のいのちの力と、大地自然のいのちの叡知が出会った時に、私たちの純粋経験というものが生み出されてくるのです。

このように考えてくると、この私たちの純粋経験に込められた36億年分の生命の叡知の情報というのは、とてもその全容を言い表せるものではないすごいものだということがわかってきます。そのすごいものを、ただすごいものと言っているだけでは先に進まないので、少しでもその内容を共有するために、あえてその指し示す方向について輪郭だけでも粗デッサンしてみると、次のようなイメ-ジとして取り出してみることが出来るかもしれません。

まず第1は、自分自身のいのちを守り、そのいのちを生かそうとする智慧の情報。第2には、他のいのちをすべて生かそうとする智慧。そして互いのいのちが育み合い、全体として調和して繁栄していくための智慧の情報。第3には、現在の私たちのいのちのためだけではなく、将来のいのちの繁栄のために、現在のあり方を考える智慧の情報。かつてヨ-ロッパ大陸から来た西欧人が、アメリカ・インディアンの人々と接して驚いたのは、彼らが7代先の子孫のことを考えて、意志決定を行っているということでした。このように私たちの中には、本来将来の世代を配慮するという智慧が、自然のうちに組み込まれているのです。そして4つ目が、自分自身の経験や歴史と文化の過去の記憶の中から、そしてまた自然のこれまでの営みの中から、いのちの叡知を見出し学んでいく智慧です。例えば日本列島というのは、元来火山灰に覆われ、川も急峻だっため荒れ地が多かったそうです。それを数万年かけて縄文の人々が森を育み、弥生の人々が水田をつくることで、これほどまでに生物が多様に生息し、豊かな恵みを育む自然の宝庫に生まれ変わらせてきたのです。そのように、過去からいのちの智慧を見とって心を喜ばせ、その智慧を学んで守り育んでいく叡知の情報です。

もし今後の議論を容易にするために、いのちの叡知をさらに大胆に粗っぽく指標的に要約することが許されるなら、自分自身を配慮する智慧、他者を配慮する智慧、過去を配慮する智慧、未来を配慮する智慧とでもまとめることが出来るでしょうか。自己配慮、他者配慮、過去配慮、未来配慮。仮にこの4つの指標に要約されるいのちの力の働きにまかせて、私たちの自我に組み込まれた観念や概念の作用に邪魔させないで、純粋経験から素直にものの見方を形成して行ったとしたら、私たちの目に見える世界は大きく一転していくことになります。そして自分のいのちも他のいのちも、本当に心喜ぶ新たな可能性が、自分自身の日常のすぐ身の周りに次々と見えるようになってくるのです。

以上述べたことは、何ら科学的には実証できない単なる物語ですが、じつはこうした物語によって、自分自身という取るに足りない小さな個人と、すべてを育む大地自然のいのち叡知という普遍存在と一体化させて実感し、掛け替えのない自分という自覚に目覚めさせること。そして、地上のすべてのいの
ちの価値のために生きることが、無上の喜びとなる存在へと生まれ変わらせること。その叡知こそが、宗教の智慧なのです。
(お釈迦様は、こうした存在であること自覚する自分自身を指して、『天上天下唯我独尊』とおっしゃり、聖書では普遍的いのちの担い手である神が、そうした自覚にさえ及ばない私たちを指して『私の目には、あなたは高価で尊い』とおっしゃり、私たちを自覚へと促して下さるのです。)

もちろん、宗教の智慧というものは、1人の人間が一生かかっても得られるものではない深淵さがあります。だから私たちは、様々な宗教で真剣に信仰を行っている方々の足元にさえ及ぶものではありません。私たちの目的は、あくまでも私たちの内面の能力を少し高めて、現実を良く変えていくための知恵を、宗教の智慧の表層からちょっとそのエッセンスだけを拝借しようという程度のものです。ですから私たちの取り組みは、真面目に信心をなさっている方々の『正しい宗教』に対して、『楽しく役立つ宗教』として智慧を利用するものとでも言いましょうか。

こうして私たちが、『正しい宗教』に勤(いそ)しむ方々に尊敬の念を払いつつも、それとは別にこの自己配慮、他者配慮、過去配慮、未来配慮といういのちの叡知の4つの指標を働かせてものごとを見た時に、いったい私たちの現実は、どのようにその見え方が変わってくるのでしょうか。またそこにどんな可能性が見えてきて、私たちの心の持ち方はどのように変化していくのでしょうか。そしてそのいのちの叡知を自覚する存在に生まれ変わっていくためには、私たちはいったいどのような手立てを講じていけば良いのでしょうか。さらにそのようにいのち叡知を発現させていくためには、私たちはどのような人間関係の文化と社会・経済の仕組みをつくっていけば良いのでしょうか。

そういったことを、更に順を追って具体的に考え、私たちの内面と現実を実際に変えていく方法を明らかにしていければと思っております。次のパンセの集いは、3月24日の火曜日です。お時間許す方は、ご参加頂けましたら幸いです。