ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信 No.25 『パンセの目的と新しいゲ-ムづくり』

Mar 29 - 2015

■2015年3月29日 パンセ通信 No.25 『パンセの目的と新しいゲ-ムづくり』

皆 様 へ

『パンセ・ドゥ・高野山』のホ-ムペ-ジを、ようやくリニュ-アル出来
て、Web上に公開致しました。何やら得体の知れないサイトですが、
http://www.pensee-du-koyasan.com/ をクリックしてご参照頂ければ幸い
です。安いサ-バを使っているもので、表示されるまでかなり時間を要し
ますが、カップ麺を待つほどまでにはかかりせんので、忍耐して頂ければ
と存じます。制作して下さった(株)ゼウスの皆さんと、特に担当して下さ
っているボン・ミントウさん(ミャンマ-から来て日本で頑張っていらっ
しゃいます)、どうも有難うございます。

さて、3月24日にドイツ旅客機の墜落事故が発生しました。その原因が、副
操縦士による意図的行為であったという疑いが強まっています。自殺テロ
などというという表記をしている記事まで出ています。犠牲になられた150
名の方々のご冥福をお祈り致しますと共に、1つのいのちのケアを怠る代償
が、いかに莫大で取り返しのつかない結果をもたらすものであるかを、改
めて考えさせられます。年初からこのような事件が、いったい幾つ続けば
収まるものなのでしょうか。他人事ではありません。自殺、犯罪テロ、依
存症、引きこもり等、日本でももっと広範に、いのちが呻き苦しむ事例が
発生し、その損失の規模は計り知れないものとなっています。私たちの生
きる時代は、もうとっくの昔に物の豊かさを求める時代から、1人1人の
魂の飢え渇きを癒し、いのちの豊かさを価値として求める時代へと、移行
しているのかもしれません。

価値とは、人が欲しがる対象のことです。低成長にもがき苦しむ日本では、
すでに私たちの欲望は、その対象を物質的生活の豊さから、1人1人のい
のちの豊かさへと移し始めているように思われます。だからもはや経済成
長だけを求めても、欲望は食傷して消費に回らず、いのちの励ましやいの
ちの価値を育む手段として機能しないのであれば、なりわいや経済の価値
は、ただそれだけを求めても仕方のないものとなってきています。『パンセ
・ドゥ・高野山』では、こうした問題意識から、私たちのいのちの力とい
のちの価値を高めることを目的とする、暮らしや仕事、ビジネスや経済の
あり方を考え、改めてその向上と成長を図る方法を検討したいと思ってお
ります。3月31日の年度末の火曜日ですが、いつもどおり16時から、
表参道のフィルムクレッセントでパンセの集いを行います。

ところで今申し上げたとおり、単純にお金持ちになったり社会的に成功す
ることに、私たちはもはや飽きたりなくなってきています。1つには格差
が拡大し、富と出世の競争ゲームに勝つことが困難となり、このゲ-ムそ
のものの魅力が失せてきているからなのでしょう。また若い人の中で、収
益性と社会性を両立させる仕事を求める人が増えてきているように、人を
押しのけて自分だけが成功したり、何があっても自分だけは生き残るとい
う自己責任を求めるだけでは、後ろめたさが残り、社会の行き詰まりを加
速するだけだという実感が、増してきているからなのでしょう。もはや物
質的な豊さや、地位と名誉の富を求めるゲームだけでは、需要が喚起でき
ず、成熟社会の日本に暮らす私たちの求めには、応じていけないように感
じられます。そこで市場経済のゲ-ムに加えて、新たな人生・社会ゲ-ム
の必要が生じてくることになります。それはやはり、新たに私たちが求め
始めている、一人一人のいのちの富を押し拡げるゲ-ムとでもいうことに
なりましょうか。もしそうだとして、ではそのいのちの富、言い換えれば
いのちの豊かさ、いのちの力、いのちの価値といったものは、いったいど
ういうものなのでしょうか。

先日3月21日のお彼岸の中日に、大徳院の両国陵苑で、ご主人のお墓参りに
来られていた年配のご婦人と、お話しする機会がありました。14年間の介
護の後に、ご主人を見送ったそうです。とてもやすらかな最期で、観音様
のようなお顔で旅立たれたそうです。今はご主人の残して下さった小さな
家と年金で、つましく暮らしているとのこと。でも毎日暖かに見守ってく
ださるご主人の気配を感じ、お仏壇にお参りしてご主人と思いを交わすこ
とが、何よりの楽しみだとか。そして最近では、老人福祉施設にボランテ
ィアに出かけ、そこでご老人に寄り添って慰めてあげたり、励ましたりし
て喜んでもらえることが、何よりも嬉しくて嬉しくて仕方がないとおっし
ゃっていました。そんな話を、小一時間にわたってずっと語り続けられた
のですが、でもそれを聞いてうっとうしく感じることはなく、心が満たさ
れて感謝に溢れていらっしゃる様子が伝わってきて、なにやらそれを聞く
だけで、私の心も和んでくるのを感じることが出来ました。

前回、私たちの深層に流れる大地自然のいのちの叡知(キリスト教では、
そのいのちの力は、自分の中にはなく、天から神様によって与えられると
いうニュアンスが強くなりますが)を覚醒させる、宗教の智慧について少
し触れました。このご婦人は、まさにそのいのちを育む信仰心に目覚めら
れたと言えるでしょう。特に何宗という宗派に属するわけでもなく、ただ
素朴にお仏壇を拝み、月命日にご主人のお墓参りをされているだけです
が、いのちを励ます宗教意識の喜びを実感し、鈴木大拙先生の言葉で言え
ば、“霊性”に生きる存在となられたようです。恐らくご本人は、そのよう
な信仰心を持つようになったことに、気がついてはおられないのでしょう
けれども。

おそらくそのきっかけとなったのは、ご主人が亡くなられたことでしょう。
14年間もの長期にわたって、介護を続けられたとのことですが、並大抵の
ことではありません。しかしこのご婦人は、その長きに渡る介護の労苦を
経て、ご主人を見とったということに、きっと成し遂げたという達成感を
覚えられたに違いありません。そうでなければ私たちは、ちゃんと介護し
なかったという負い目が、必ず心のどこかに残るものなのです。実は私た
ち人間というのは、誰かに迷惑をかけて生きてきたという、様々な負い目
や申し訳なさを、心の深みに抱えて生きているものなのです。一方ご主人
の方も、介護してもらわなければ生きていけないのですから、奥さんへの
申し訳なさを感じておられたことでしょう。その申し訳なさが奥さんの労
苦を受け止める感謝となり、それが奥さんに伝わって、奥さんのいのちを
励ましたと思われます。このご主人の感謝のやさしさが、奥さんの至らな
さの思いを拭い去り、そしてご主人の旅立ちの瞬間には、あらゆる負い目
から奥さんを解き放つという効果を発揮したにちがいありません。その清
々しい満足を、このご婦人は確かに自分のものとして実感されたのです。
そしてこの満足の実感が、このご婦人の意識の奥底にあったいのちへの配
慮を喜ぶ心を引き出し、いのちの充足感に満ち足りる生き方が、出来るよ
うになったのです。

人はじつは、何よりも他の人のため、他のいのちのために生きることが出
来た時、嬉しく感じる存在なのです。自分の労苦があっても、いや自分の
労苦があるからこそ、他の人やいのちために役立って、そして有難うと感
謝される時、もはや何らの負い目を感じる必要もなく、そこに自分の生き
る意味と価値が立ち上がってくるのです。そして心から生きていて良かっ
たという喜びに満たされるのです。その感激と喜びを知った時、私たちの
心は、自分の周囲にいる人や生き物や様々なものに対してさえ、いのちを
感じる目が開かれてきます。慰めを求める心が見えてきて、慈しみを覚え
る心が起こされてきます。そして自分の労苦に打ち勝って、他の人の慰め
を求める心に寄り添い、その心を励ますことで、今度は自分のいのちがも
っと励まされる喜びが見えてきます。人と自分のいのちが励ましあい、感
謝しあって生きていく可能性が見えてきます。このご婦人にとって、お仏
壇とお墓参りで亡くなったご主人と向きあうことが、このいのちの嬉しさ
に生きる心を養い続けているのですね。

さてこの宗教心に目覚めて生きるご婦人から、いのちの力について教えら
れることがたくさんあります。それはもちろん、他者を押しのけて自己実
現を遂げるような能力のことではありません。人に迷惑をかける愚かさに
あっても、生かされてある自分に気づいて感謝し、他のいのちの求めがわ
かり、そのいのちに寄り添い、励ますことに喜びを感じる力です。そして
たとえ自分が不利益を被っても、他のいのちために生きることが、自分の
いのちをもっと励まして嬉しくすることを知っている力です。さらにお互
いの感謝が響き合い、共に信頼を深めて協力しあうことで、自分が人のた
めに被った以上の大きな利益と価値を、生み出していくことが出来るよう
になる力です。自分のためにも、他の人のためにも、将来の世代のために
も、そのいのちを配慮して、いのちを育むことが出来るようになる力です。
いのちの価値とは、言ってみれば、感謝し、人の痛みがわかり、人のため
に生きることが自分の喜びとなる、その度合いということになります。

私たちは、市場競争による経済価値を高めるゲ-ムとあわせて、このいの
ちの価値を高めるゲ-ムにも携わっていかないと、新しい需要を創造して、
私たちの心と社会の行き詰まりを越えていく道が、見い出せないでしょう。

この力は、さきのご婦人の例でわかるように、難しい論理を勉強して身に
つくものではありあません。それではいったいどうすれば、私たちは自分
の周囲に人のいのちの求めが見えてきて、今までにない需要を創造するこ
とが出来るようになるのでしょうか。そして自分のためにも人のためにも、
将来の世代の豊かさのためにも、喜んで生きることの出来る可能性が見え
てくるのでしょうか。またそんな心の力を引き出し、育むために、いった
いどんな仕組みをつくっていけば良いのでしょうか。
次のパンセの集いで、ご一緒に考えていければと思います。3月31日の
火曜日です。お時間許す方は、ご参加下さい。