ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信 No.27『もう1つの選択 ー 高野山の案内犬ゴンの道』

Apr 12 - 2015

■2015年4月12日 パンセ通信 No.27『もう1つの選択 ー 高野山の案内犬ゴンの道』
                  
皆 様 へ

高野山の案内犬ゴンの物語を御存知でしょうか?高野山に実在した、平成の忠犬ハチ公ともいえる、人々の心を捉えたワンちゃんの物語です。高野山の麓(ふもと)のまち九度山に、昭和の終わりごろにひょっこり現れたノラ犬ゴンは、やがて参詣口にあたる慈尊院というお寺から、高野山までの片道22Kmにもわたる山道を、参拝者のために先導して道案内をしていきます。そして案内した多くの人々を、勇気づけ励まし続けました。じつはこの『パンセ・ドゥ・高野山』の取り組みも、このゴンの物語を映画化しようという企画からスタ-トしたのです。このゴンちゃんに魅せられたのは、何も私どもばかりではありません。直接ゴンを知る人たちのみならず、現在もこのゴンの物語に心惹かれる人が増えています。『パンセ・ドゥ・高野山』のWebサイトで、法話のコーナーを持って頂いている芳賀妙純先生もその一人です。両国大徳院の増田ご住職もそうです。そしてこのたび、このゴンへの思いを、とってもなじみやすくて覚えやすいフォークソングに作り上げて下さった方々がいらっしゃいます。

大阪をベ-スに活躍されるロックミュ-ジシャンでラジオパ-ソナリティ-のバンディ石田さんと、歌手の妙佳(Taeka)さんです。YouTubeにアップされていますので、以下をクリックして試聴してみて下さい。(歌詞は4番まであるのですが、2番の途中まで聞くことができます。)


歌は妙佳さん、作詞は妙佳&バンディ石田さん、作曲はバンディ石田さんで、背景の絵は、ゴンの物語を紙芝居にしたものだったと思います。また先日4月8日には、慈尊院で行われた高野山開創1200年の記念法会で、このゴンの歌がお披露目されました。その様子も以下でご覧頂けます。


(なおゴンの歌は、『パンセ・ドゥ・高野山』のホ-ムペ-ジからも試聴できます。)

4月14日火曜日のパンセの集いでは、改めてこの「高野山の案内犬ゴン」の物語が、生きづらさの増す現代において持つ意味、また私たちの心を惹く理由について考えてみたいと思います。いつもどおり16時から表参道のフィルムクレッセントにおいてです。

ゴンは不思議な犬でした。紀州犬と柴犬の雑種で、雄の白犬でしたが、いつどこで生まれ、どこからやってきたのかわかりません。またそんな雑種のノラ犬が、なぜ九度山の慈尊院から高野山へ、それも場合によっては檀上伽藍からさらに奥ノ院まで、7時間以上もかかる山道を知っており、人を案内することができたのか。それも全くわかりません。しかもこのゴンは、人間が理性と引き換えに見失ってしまった、生き物本来の言葉を越えたいのちの共感能力といったものも、しっかりと保持していたようです。だから訪れて来る人たちの、単に地理的な行先のみならず、魂の奥底にあるいのちの求めをも察することが出来たのだと思われます。ゴンは、人生の様々な重荷や迷いに苛まれつつ、生きるしるべを求めて高野山にやってきた人々に寄り添い、その人たちの心を励まし、いのちの立ち直りへとも案内していきました。こうしてゴンはいつしか、かつてお大師様(弘法大師空海)が修行の根本霊場を求めて旅された時、高野山の地へと案内したと言われる、狩場明神様のお遣いの犬の再来とも噂されるようになったのです。

このようにゴンは、賢く不思議な犬でしたが、不思議という言葉の意味には、人間の分別思量の限界を越えたということに加えて、それに心が惹かれるというニュアンスも含まれています。そこでここからは、ゴンという犬にまつわる事実の不思議さはそのままに置いて、ゴンのいったいどういう面に私たちの心が惹かれるのかということについて、考えを進めていってみたいと思います。

まず最初に私たちの心を捉えるのは、ゴンがノラ犬だったということでしょう。ノラ犬にすぎなかったゴン。そのノラ犬の孤独とひもじさに自分を重ねあわせ、でもそんな自分にも、ゴンのように人に役立ち、喜んでもらえることが出来るかもしれないという希望を、小さくとも私たちに与えてくれます。またゴンは、道案内をした人たちから食べ物をもらっても、いっさい口にしなかったと言われます。エサ欲しさ、見返り欲しさで人について行ったり、案内をしたのではないのです。ではいったい何のために、大変な距離の山道を案内し続けたのでしょうか。それはきっと、案内することが嬉しかったからに違いありません。人を励ますこと、そして人が喜ぶこと、その人の喜ぶ姿を見て今度は自分が励まされ、そのことがとっても嬉しかったに違いありません。先ほどゴンには、生き物本来の言葉を越えたいのちの共感能力があったと言いましたが、これはじつは、どんな人間にも生き物にも、本当はその心の奥底に存在しているものかもしれません。しかし通常は、目先の必要や利害のために、私たちは、見えても見ないようにして生きています。しかしゴンは違いました。この共感能力、生き物本来のいのちを配慮しあう心に、しっかりと生き続けたのです。このことをさして大徳院の増田ご住職は、ゴンには私たちが学ばねならない“気高さ”があったとおっしゃいます。この“気高さ”によってゴンは、高野山を訪れる人々を案内して、幸せな心にしていくことが出来ました。そしてまた自分自身をも、幸せにしていくことが出来たのです。ノラ犬だったゴンは、この“気高さ”と健気(けなげ)さによって、犬嫌いで有名だった慈尊院の安念清邦ご住職の心を解きほぐし、やがて晴れて慈尊院の飼い犬となります。晩年はご住職やご家族の方々の手厚い世話を受け、平成14年の6月5日に天寿を全うしました。その日は奇しくも慈尊院にゆかり深い、お大師様の母君玉依御前(たまよりごぜん)の御命日でもありました。そして今は慈尊院の境内で、遍路姿のお大師様の像の横に付き従って、石像となって祀られています。そして今も私たちを、お大師様のもとへ、そして仏様の慈悲に生きられるようにと、案内し続けてくれているのです。

そしてゴンから学べるもう1つの大切なことがあります。それはゴンの謙虚さです。犬という存在であるが故に、ゴンは人間のように己の栄光に囚われることはありませんでした。自分には人を立ち直らせる力など、少しも無いことを良く知っていました。しかしゴンは、悠久の大地自然の力と1,200年に及ぶ清浄な人の祈りが凝集したこの高野山の地に、傷ついた人を癒し、魂を浄化し、再生していく力があることを知っていました。だからゴンは、ただ一途に自分に出来ること、つまり案内することに徹したのです。悩み苦しみの中にある人々を、高野山にあるいのちの力へ、お大師様のもとへと案内し続けたのです。この謙虚で一途なゴンの姿も、私たちを励ましてくれる要因の1つでしょう。私たちも、ろくに何も出来ない無力な存在でしかありませんが、こんな私でもゴンのように、何か役立つことが出来るのではないかという思いを起こさせてくれます。ゴンのように、ただ人に寄り添うことだけなら出来るかもしれない、ただ案内することだけなら出来るかもしれないという、ささやかな勇気が奮い起されてきます。

こうしてゴンの物語は、私たちにとって“幸せ”とは何かということのヒントをも、教えてくれるものとなってきます。“幸せ”は、宝くじに当たるようなことでも何でもありません。ノラ犬にしか過ぎないゴンが、22kmもの山道を案内するという労苦を背負っても、人のために役立って、人が喜んでくれることに自分の喜びを見い出していきます。そのために自分が出来る“案内”という役割に精一杯生きていきます。その結果、自分も人も、みんなが喜んで生きられるようになっていきます。幸せとは、人のために役立つことが自分の喜びとなって、自分も人もみんなが喜んで生きられるようになることです。そのために、自分に出来る小さなことに価値を見出して、それに精一杯生きていくことです。そこに、自分の生きる確かな意味が立ち上がってきます。ノラ犬だったゴンは、その生きざまを通じて、私たちに幸せに生きる道とは何かとうことも指し示してくれるのです。

今日本も世界も、困難な課題と激しい国際競争にさらされています。この課題を解決し、競争に打ち勝っていくためには、国が富んで強くなっていかなければなりません。国が富むためには、企業が強くなり、グロ-バルに事業を展開していかなければなりません。国が強くなるためには、軍隊が強くなり、その軍備をもってグロ-バルに展開する企業の権益を守っていかなければなりません。だから集団的自衛権も残業代0円のような労働法制の規制緩和も、大切なことだと思います。そしてそのために私たち国民も自助努力を行い、国が強くなるために献身していかなければならないでしょう。でも果たして私たちの選択肢は、本当に「この道しかない」ものなのでしょうか?

前回、ザビエルが始めて日本にキリスト教の布教に来た時、戦国時代の争乱にも関わらす、人々が貧しさの中で互いにいたわり助け合い、異国から来たサビエルたちにさえ手を差し伸べるやさしさのあったことに、サビエルが感動するお話を紹介しました。また最近では、アジアから見た日本を紹介するWebサイトSearchainaで、中国の方が、「日本人はバカ、中国人は賢い」という記事を掲載されました。その中で日本人は「馬鹿正直」、「馬鹿丁寧」な行動を貫いて、「馬鹿でも暮らしやすい社会」を築いたと指摘されています。一方で中国は、「小賢しく立ち振る舞わないとやっていけない社会」と論じられています。利口に振る舞う中国人は、自分に都合の良いことがあればそちらを優先するので、規則はたちまち無力化してしまう。だから社会全体に「信頼」が生まれることはなく、人々は永遠に疲れ果てて暮らすことになる。でも「馬鹿に徹する日本文化」は、規則を重んじ、他人を尊重するからこそ、自分の目先の利益を求めることをしないで、そこに「崇高な精神が具体化」してくると説いていらっしゃいます。そして他人を大切にする日本人の生き方から、「自分の目の前に、世界は生き生きとした姿を示してくれる」とさえ結論づけておられます。

ゴンの物語は私たちに、日本人が大切に受け継ぎ守り育ててきた、もう1つの道を指し示してくれるものでもあります。人のために生き、人が喜んでくれることが自分の喜びになる。その他人を尊重する文化の中で、馬鹿でも暮らしやすいように、1つ1つのいのちを大切にして、互いが出来ることに徹して力を発揮しあっていく。国が富む、強くなるということには、1人1人の国民が心も生活も豊かになって、世界中の人々の喜ぶ笑顔のために、祈りを込めてモノづくり、わざづくりに励んでいくという道もあるのではないでしょうか。その道を拓くことは、私たちのみならず、中国の人も世界の人も、日本に熱く期待していることではないでしょうか。

ゴンの物語は、私たちにいろいろなことを教え、また私たちのやさしい心を引き出してくれます。そして1人1人が、自分のゴンの物語をつくって行くことが出来ます。『こんな僕でも役立って、誰かのために生きられる』-そんなゴンの物語を、皆さんの1人1人がつくり、また一緒につくっていくプロジェクトを進めていければと思っております。そのこともテーマとして、4月14日の火曜日にパンセの集いを持ちたいと思います。ご興味があり、お時間許す方は、お気軽にご参加下さい。

P.S.ゴンの物語のサポ-ト記事は、以下をクリックするか、『パンセ・ドゥ・高野山』Webサイトのトップペ-ジスライドショ-写真のうち、ゴンのイラストのある写真をクリックしてお読み頂くことが出来ます。
http://www.pensee-du-koyasan.com/pages/gontalk
(パンセ・ドゥ・高野山のホ-ムペ-ジURL)
http://www.pensee-du-koyasan.com/