ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信 No.28『心を変えて、世界を変えていく方法論』

Apr 19 - 2015

皆 様 へ

伝統宗教の智慧とわざから学んで、心を変えて、行いを変えて、いのちを発揮できる仕組みづくりを目指す『パンセ・ドゥ・高野山』のプロジェクトでは、このたびTwitterでのコミュケーションもスタート致しました。以下のURLをクリックするか、


https://twitter.com/gon_koyasan

あるいはパンセ・ドゥ・高野山のWebサイトで、トップページ右上のGon's Twitterからアクセスすることが出来ますので、お試し下さい。プロジェクトの最新情報を紹介するほか、たまに高野山の案内犬ゴンちゃんがつぶやきます。また、(株)ゼウスの桂さんと宮澤さんのご尽力で、『パンセ・ドゥ・高野山』のコンテンツの紹介も行っております。桂さん、宮澤さん有難うございます。気軽にご参照頂くか、ご興味ある方はフォローして頂ければ幸いです。

さて以前に、日本は『モノが栄えて、心が滅ぶ』段階から、いよいよ『心が滅んで、モノも滅ぶ』状況へと向かいつつあるようだというお話を致しました。それはけっして杞憂などではなく、実際に私たちは、すでに70年前に終わった先の戦争で、無数のいのちを失い、すべてのいのちが傷つき、国も経済も滅びるに至った痛恨の経験を有しております。だからこそ今私たちは、ここで心を立て直して、『心が栄えて、モノが栄える』仕組みづくりに取り組んで行かなければならない。とまぁ、頭の中の論理で考えるのは簡単ですけど、でも実際に心を変えて心を立て直すなんてことが、はたしてどうすれば出来るのでしょうか。そもそも頑固に凝り固まった私たちの“心を変える”なんてことが、本当に出来るものなのでしょうか。4月21日のパンセの集いは、まずはそうしたことから出発して、考えを進めあっていければと思います。いつもどおり16時から、表参道のフィルムクレッセントで行います。

ところで“心を変える”と言いますが、ではそもそも“心”とは何でしょうか?「自分ではわかっているけど、人に説明しようとすると、出来ないもの」などと、禅問答のような答え方をする人もいらっしゃいますけど、確かに、どこまでも茫漠として捉えようのないものです。そこでそれをまたあえて、多少は腑に落ちるようにと、以下のように無理くりこじつけて考えてみることにしてみます。

まず心は、物理的・科学的にも捉えることが出来るということです。最近の脳科学の進歩により、脳のどの部位が心のどんな作用を司り、どんなホルモンが、私たちの感情や気分に影響を与えるのかがわかりつつあります。こうしたアプロ-チから、誰にも共通する心の機能の客観的な事実が、今後もどんどん解明されてくることと思われます。しかしその一方で、心というのがやっかいなのは、そのバラバラの機能を解明して、それを寄せ集めればわかるというものではない側面があるということです。つまり、心の様々な働きを統べ治める“主体”があるということです。意志を持ち、判断し、泣いたり笑ったりする“主体”。その“主体”の意識をつくり、その意識の中で起こる様々な作用のことも、私たちは“心”と呼んでいます。この主体によって統べられた心は、物理的・科学的側面からの“客観的”な共通事実の解明を目指したアプロ-チでは、捉えることが出来ません。なぜなら、自分の心の総体は、自分によってはアプローチできるものであっても、他人の心の総体は、その人でないとわからないからです。それはどこまで行っても“主観的”なもので、他人の意識の中に私が入り込むなんてことは、出来るはずがないからです。このように心を考える時、物理的・客観的はアプロ-チと、主観的な意識主体を解明するアプロ-チの、両方が必要であることがわかってきます。そしてこの主観的なアプロ-チからすれば、結局“心がわかる”ということは、“自分がわかる”ということであり、“心を変える”ということは、“自分を変える”ということと同義であることがはっきりしてきます。そしてまた“自分を知り、自分を変える”という方法論が、近代合理主義が隆盛を誇る現代社会では、私たちの日常の中ですっかり劣化してしまって、そのための問題意識さえ希薄となり、学校教育のカリキュラムの候補にさえ登ってこないことに気づかされます。

そこでここでは、主観的な心の側面からの“自分がわかり、自分が変わる”というアプロ-チに焦点を当てて、考えていってみたいと思います。もちろん物理的・客観的アプロ-チによって、薬の投与等でうつ病が治るという対応も、きわめて重要であることは了解しておかなければなりません。でも仮にそうした外的処方によって気分が改善しても、やっぱりその事実を自分の中にしっかりと受け止めて、もはやうつ病ではない自分という自己像を、自己の意識の中に統一して把握して納得していかないと、どうにも収まりのつかないのが、私たちの心の厄介なところです。科学的アプロ-チに慣れた現代では、心に対する物理的・客観的アプロ-チは、今後も専門家の手によってどんどん進んでいくでしょう。しかし主観的な意識の統合体としての“自分がわかる、そして自分を変える”という対応については、そのアプロ-チの手法がバラバラで、まだまだ体系化されてはいません。いったいどのように考え、どう対応していけば良いのでしょうか。

そこでとりあえず、科学の手法のように対象化して分析的に考えて体系化してみるのではなく、統合された意志や意識主体の傾向が捉えやすいように、感性的な方法よって比喩的に捉えてみることにしてみます。たとえば私たちは、この世界を生きる時に、現実に置かれた制約の中で、それぞれがその人なりの夢や希望や理想を抱いて生きています。言い換えれば、人は誰でもその望みに沿って、自分を主人公にした物語を描いて、その物語に沿ってこの世界を生きているとも言えるでしょう。その時に、どんな素敵な物語をつくって生きていけるかによって、その人の人生が決まってくるとも考えて良いでしょう。そうすると、“自分がわかる”ということは、この自分の描いている物語が意識化出来て、自分なりに評価できるということであり、また“自分が変わる”ということは、この自分の物語を、どう自分が本心から深く心喜んで満足できるようなものに、バージョンアップしていけるかということになるでしょう。誰でも人は、良い方向に向かって自分の可能性が見えた時に始めて、“自分がわかる・自分が変わる”という実感を持って、納得できるものだからです。また自分が“わかる(・・・)”ということと、自分が“かわる(・・・)”ということは、表裏一体のもので、自分が“わかった”時には、すでに自分は“変わる”ということが生じているのでしょう。(『自分自身知る』ということについては、「パンセ・ドゥ・高野山」のホームペ-ジにも記事がありますので、ご興味のある方は以下をクリックしてご参照下さい。)

http://www.pensee-du-koyasan.com/pages/jinbon

それでは、この無意識のうちにも今自分がつくっている物語というのは、どうすれば捉えることが出来、また変えていくことができるのでしょうか。そのためには幾つかの方法があるように思われます。1つには、意識の中で自分の物語(自我)が組立てられていく心の仕組みを知り、今自分がつくっている物語が絶対的なものではなく、その背後にもっと深い自分の願いやもっと無理なく心喜べる求めがあることに、気づいていくという方法でしょう。そしてその求めから、今の自分を捉え、変えていく。大乗仏教の根本の教えを(仏教の精要、密蔵の肝心)わずか262文字に凝縮した般若心経では、人間存在や心のことを、五蘊(ごうん)と捉え、この五蘊がすべて空(五蘊皆空)であると知ることによって、一切の苦厄から解き放たれる(つまり自分が変わる)と説きます。五蘊とは、色受想行識の集まりのことです。現実世界における物資的現象(色)を感受し(受)、知覚し(想)、意志しまた行動し(行)、そしてその結果経験が蓄積されて知識や認識として組み上げられていく(識)。その作用の集合体が、心であり、私であり、人間存在であると説くのですけれど、同時にまたそれは“空”だというのです。それは諸行無常、時間の変化の中で生成変化していくものであり、「これが私だ」とか「世界とはこんなものだ」という固定的な実体として捉えられるものではないと教えます。だから自分と自分の物語も、その内容に目を向けて固定的に捉えるのではなく、むしろ色受想行識の要素を用いて物語が組み上げられては変化していくその仕組み、“空”の場、“空”の領域で組み上げられるその仕組みを、理解することに目を向けるよう諭すのです。こうして私たちは、物語の生成のからくりを知って、常に開かれて自由に変化し、向上していく自分の物語をつくる糸口をつかむことができるようになるのです。ちょっとややこしい話をしてしまいましたが、この仕組みの智慧(般若の智慧)に気づくと、私たちは今の自分の物語が、じつはいろいろなものに囚われた見識の浅いもので、もっと自分らしくて人間らしい素敵な物語につくりなおして、生きていけるようになるということでしょう。

しかしやっぱり、心の中で考えるだけでは、自分がわかり心を変えていくことは困難で、仏教では、自分を見つめ自分の物語を変えていくために、自分自身のより深い求めへの理解(法話、キリスト教では説教)とあわせて、“身体”を変え、感情をなだめることもセットにして行っていきます。『体が変われば心が変わり、心が変われば行動が変わり、行動が変われば結果(現実)が変わる』という理屈です。この“身体”を変えるということが、自分を知り自分を変える2つ目の方法で、具体的には呼吸法、瞑想(キリスト教では黙想)、断食、祈り、読経(讃美歌)、清掃、瑜伽、その他の修行などによる、人間の本来の内的生命を覚醒させる身体の変容を指します。

そして3つめが、ちょっと反語的にも聞こえるかもしれませんが、苦しみや悲しみそして罪の自覚の経験です。苦しみや悲しみを招いてしまう自分を変えたいがために、自分を知って、自分の物語を変えようとするのですけど、皮肉なことに、苦しみや悲しみという外界からの衝撃(変容)は、自分自身を痛切に悟らせ、なんとかそんな自分から離脱しようと強いモチベ-ションを与えます。変わらないと苦しみが続くだけだからです。問題なのは、この苦しみ悲しみへの対処の仕方です。そのためにキリスト教では教会をつくり、仏教ではサンガを形成し、慰め励まし合いながら、自分自身と向き合うという辛い作業を行います。そして変わり合っていくための新しい人間関係の集団、慰めの共同体を形成していくのです。これが自分が変わるための3つめの方法です。やはり私たちは、1人では自分を知り自分を変えていくということは出来ないのです。自分が変わる環境、人間関係が必要となってくるのです。

さて、『心を変えて、行動を変えて、現実を変える』にあたっての最初の1歩である“心を変える”ための基本的な方法論を、伝統宗教の智慧から概観してきました。しかしその教えの目ざすところは、私たちが人間らしい心やさしい物語をつくって、心底喜んで生きていく時に、じつは自分の現実も改善して、今の社会や経済の困難も解決していくことが出来るという単純なことなのです。そのために信仰を持たない普通の人たちが、日常の生活の中で無理なく心を養って、現実を変えていける簡単で楽しい方法を、ご一緒に考えていければと思います。次回のパンセの集いは、4月21日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。