皆 様 へ
先週大阪に伺って、「高野山の案内犬ゴン」の歌をつくられたバンディ石田さんや、歌手の妙佳さん、そしてこの歌のCD制作やプロモートをなさる(株)FM大阪ヒューマンネットの濃添社長とお会いしてきました。ゴンの歌については、高野山周辺地域の情報提供を行う橋本新聞でも取り上げられ、6月5日(ゴンちゃんとお大師様のお母様の命日です)に、慈尊院の境内で、ミニコンサ-トの開かれることが紹介されています。
先週大阪に伺って、「高野山の案内犬ゴン」の歌をつくられたバンディ石田さんや、歌手の妙佳さん、そしてこの歌のCD制作やプロモートをなさる(株)FM大阪ヒューマンネットの濃添社長とお会いしてきました。ゴンの歌については、高野山周辺地域の情報提供を行う橋本新聞でも取り上げられ、6月5日(ゴンちゃんとお大師様のお母様の命日です)に、慈尊院の境内で、ミニコンサ-トの開かれることが紹介されています。
http://hashimoto-news.com/news/2015/04/24/27861/
一方伊勢崎の芳賀妙純先生は、ゴンちゃんのデザインの入ったとってもかわいくておいしいクッキ-をつくられ、このほど一箱分を送ってきて下さいました。いろいろ試行錯誤の末、ゴンちゃんの姿の入ったクッキ-の型をつくられたそうです。このように少しずつではありますが、様々な皆さんが、それぞれ自分の得意分野で、あるいは自分にできるささやかなことで、その人なりのゴンの物語への関わりを始めておられます。ゴンの物語は、人を励まし、やさしい心を引き出してくれます。そして、私たちが互いに思いやる心の力を育むための格好の素材を提供してくれます。私たちもそれぞれが、自分なりのゴンの物語を思い描き、自分なりの手法で表現し、心の力を養っていければと思っております。
パンセの集いは、今週もいつもどおり火曜日、4月28日に行います。場所は表参道のフィルムクレッセントで16時からです。なお、『高野山の案内犬ゴン』の物語は、関朝之さん作の児童書がハ-ト出版さんから発売されています。長らく絶版となっていて、古書市場でも手に入りにくかったのですが、昨年末に新装版が発行されました。定価は1,620円(消費税込み)です。ご興味のある方は、下記をご参照下さい。
http://www.810.co.jp/hon/ISBN978-4-89295-987-5.html
さて、久方ぶりに大阪に行って、感じさせられることがいくつかありました。まず、訪れたFM大阪の入居する湊町の建物のすごさです。バンディさんたちが紹介して下さったように、まるで巨大なUFOのようなビルで、重力に無理矢理にでも逆らって巨大なエネルギ-を噴出し、今にも途方もない重量物を空中に浮遊させようとでもいう意志を感じさせる建物です。しかもそれが、大阪市の建てた公共建造物だというのですから驚きです。そこで改めて気づいてみると、難波界隈や梅田周辺にも、デザイン性豊かな目を見張る先進的な建物が建っています。御堂筋の通りも、新宿通りなどよりはるかにセンスがよくて心地よく、また一歩裏通りへ入れば、裏原宿にも似たアメリカ村があって、若者文化の香りが漂っています。私の住む東京などよりは、よほど先進的・前衛的な“都会”を感じさせてくれます。そこには、私たちがこれまで思い描いてきた人類の未来文明のイメ-ジが、先鋭的なイメ-ジで凝縮され、ビジュアル化されているように感じます。まさに私たちが追い求めてきた1つの方向性の帰結が、大阪の都心の局所で、東京に先んじてデザインされて具現化されており、“すごい”“進んでいる”という思いを抱かされました。
しかしそのすごさと先進性の一方で、大阪出身の私が子供の頃通っていた小学校は統廃合されて無くなり、古くからの街並みでは高齢者世帯が目立ち、あちこちで空き家が生まれています。その空き家が次第に取り壊されて、残った区画には雑草が生い茂っている。以前から市街地に古びた空き家が増えていたのは気がついていたのですが、これまではそれが建て替えられて小ぶりなマンションになるか、整地されて駐車場に生まれ変わっていました。それが今は、もはや駐車場に整地される気力も失って、土地が野ざらしになっている。しかもそんな野ざらしの土地が、街のあちこちに虫食い状態のように増殖し始めているのです。それ故当然でしょうけど、あれほど賑わって人混みで歩くことさえままならなかった商店街が、次々と店舗が廃業していき、ついにはアーケ-ドも朽ちてきて、地方都市さながらのシャッタ-通りになってしまっている。この大阪の都心の局所での前衛性と、古くからの市街地での荒廃との鮮烈なギャップは、いったい何を意味しているのでしょか?
そこには、2つの現実と2つの未来が引き裂かれて併存しているように感じさせられました。1つには、私たちがこれまでに思い描きあこがれてきた、都市の高度の集積と魅惑の文化空間の実現。しかしその一方で、もはやこれまでの集積と機能が維持できなくなって、放置されつつある日常の生活空間としての都市の衰退。このアンバランスは、都市機能の衰退という足元の現実には目を向けないようにして、ひたすら都心の局所部での前衛性を高めることで、そこに人々の関心を収斂させ、未来への希望をなんとか鼓舞し、足もとの現実の不安を払拭しようとしている、そんな大阪という都市のもがきが見てとれるようにも思えました。そう思うと、大阪における都市の局所部だけでの前衛的な再開発は、本当はもっと広範域での都市機能の再開発を行いたかったにも関わらず、もはやそれを行うだけの余力を失ってしまったことを暗示しているようで、この前衛性が、反って痛々しさを感じさせるようにも思われました。
などと大阪の人にはとんでもなく失礼で勝手なことを書いてきましたが、その真意は、私の故郷でもある大阪が、東京の近未来、そして日本の大都市の近未来の姿を先取りして暗示しているように思えてならなかったからです。特に東京では、従来からの一極集中という強みにあわせて、2020年の東京オリンピックの開催を控えて、現時点では湾岸地域を中心に活発な再開発が進められています。しかし、東京という都市全体の成長力に関しては、大阪と同じように本当はすでに陰りが見え始めているのではないか。東京オリンピックという、最後のあがきのためのカンフル注射は打たれているが、オリンピック後は、投資案件としての魅力の減少から外資等が資金を引き上げ、地価や不動産価格の下落が十分に予想されます。また少子高齢化の影響の進展から、このままでは間違いなく都市機能も衰退していくことでしょう。現在大阪で先駆けて生じている、都心の局所部での前衛性と古くからの市街地での都市機能の衰退というアンバランスは、東京でも2020年以降には、恐らく確実に生じてくる現象だと思われます。
しかし私たちは、都市の機能の衰退という足元の日常生活でのリアルな問題に、深刻に目を向けようとはしていません。大阪都心の局所部での前衛的な都市デザインや、東京オリンピックでの湾岸開発といった、従来型の延長線でのビジョンを先鋭化させた都市開発のプロジェクトに心を逃避させて、つかの間の期待に不安を先送りしようとしてしまいます。それではなぜ私たちの心は、現実のリアルで深刻な問題から目を反らし、ただデザイン性の豊かさでごまかされただけの従来の延長線のビジョンにしがみつこうとするのか。なぜ私たちは、都市のそのものがすでに私たちに呼びかけている新しいビジョンに目を向け、創造性豊かに新しい都市イメ-ジをデザインすることが出来ないでいるのか。確かに、建物が取り壊されて空き地となった宅地に、ペンペン草が生えている状況は、都市の衰退の現実を私たちに突き付けます。しかしその一方で、床と建物に長年覆われ、もう2度と外気に触れることがないかと思われた床下の地面が、ようやく解放されて、いま春のやさしい陽光に照らされ、雑草たちを豊かに育んでいます。私たちが耳を澄ませば、その大地と雑草たちの喜びの声が聞こえてこないでしょうか。そもそも地方を衰退させ、無理矢理にでも人口を都市に集中させてきたこれまでの仕組み自体が異常だったのかもしれません。私たちはこれまでのような稠密な都市機能の幻想に執着することなく、新しい現実を受け入れ、そこで私たちがより実生活の豊かさに即して、しかも都市文化の魅惑を満喫できるような、これまでとは質の違うまちの仕組みづくりを、始めていけるチャンスにあるのかもしれません。
それでは私たちが、現実の問題をリアルに認識して、その現実を素直に受け入れて、しかしそこにある新しい可能性を創造的にデザインして、自分もまちも豊かに楽しく育んでいくためにはいったいどうすれば良いのでしょうか。またそのような能力を持った自分を、どのようにつくっていけば良いのでしょうか。そのために自分を変えて、行動を変えて、現実の生活を良く変えていくための実践的な方法を、見い出していかなければなりません。しかしそのためには、私たちが慣れ親しんでいるものの見方・考え方とはちょっと違う思考方法を行い、普段は使わない脳の部分を作動させていかなければならないのかもしれません。いよいよそのための具体的な実践方法を、ご一緒に検討していければと思っています。次回のパンセの集いは、4月28日の火曜日です。お時間許す方は、ご参加下さい。
パンセの集いは、今週もいつもどおり火曜日、4月28日に行います。場所は表参道のフィルムクレッセントで16時からです。なお、『高野山の案内犬ゴン』の物語は、関朝之さん作の児童書がハ-ト出版さんから発売されています。長らく絶版となっていて、古書市場でも手に入りにくかったのですが、昨年末に新装版が発行されました。定価は1,620円(消費税込み)です。ご興味のある方は、下記をご参照下さい。
http://www.810.co.jp/hon/ISBN978-4-89295-987-5.html
さて、久方ぶりに大阪に行って、感じさせられることがいくつかありました。まず、訪れたFM大阪の入居する湊町の建物のすごさです。バンディさんたちが紹介して下さったように、まるで巨大なUFOのようなビルで、重力に無理矢理にでも逆らって巨大なエネルギ-を噴出し、今にも途方もない重量物を空中に浮遊させようとでもいう意志を感じさせる建物です。しかもそれが、大阪市の建てた公共建造物だというのですから驚きです。そこで改めて気づいてみると、難波界隈や梅田周辺にも、デザイン性豊かな目を見張る先進的な建物が建っています。御堂筋の通りも、新宿通りなどよりはるかにセンスがよくて心地よく、また一歩裏通りへ入れば、裏原宿にも似たアメリカ村があって、若者文化の香りが漂っています。私の住む東京などよりは、よほど先進的・前衛的な“都会”を感じさせてくれます。そこには、私たちがこれまで思い描いてきた人類の未来文明のイメ-ジが、先鋭的なイメ-ジで凝縮され、ビジュアル化されているように感じます。まさに私たちが追い求めてきた1つの方向性の帰結が、大阪の都心の局所で、東京に先んじてデザインされて具現化されており、“すごい”“進んでいる”という思いを抱かされました。
しかしそのすごさと先進性の一方で、大阪出身の私が子供の頃通っていた小学校は統廃合されて無くなり、古くからの街並みでは高齢者世帯が目立ち、あちこちで空き家が生まれています。その空き家が次第に取り壊されて、残った区画には雑草が生い茂っている。以前から市街地に古びた空き家が増えていたのは気がついていたのですが、これまではそれが建て替えられて小ぶりなマンションになるか、整地されて駐車場に生まれ変わっていました。それが今は、もはや駐車場に整地される気力も失って、土地が野ざらしになっている。しかもそんな野ざらしの土地が、街のあちこちに虫食い状態のように増殖し始めているのです。それ故当然でしょうけど、あれほど賑わって人混みで歩くことさえままならなかった商店街が、次々と店舗が廃業していき、ついにはアーケ-ドも朽ちてきて、地方都市さながらのシャッタ-通りになってしまっている。この大阪の都心の局所での前衛性と、古くからの市街地での荒廃との鮮烈なギャップは、いったい何を意味しているのでしょか?
そこには、2つの現実と2つの未来が引き裂かれて併存しているように感じさせられました。1つには、私たちがこれまでに思い描きあこがれてきた、都市の高度の集積と魅惑の文化空間の実現。しかしその一方で、もはやこれまでの集積と機能が維持できなくなって、放置されつつある日常の生活空間としての都市の衰退。このアンバランスは、都市機能の衰退という足元の現実には目を向けないようにして、ひたすら都心の局所部での前衛性を高めることで、そこに人々の関心を収斂させ、未来への希望をなんとか鼓舞し、足もとの現実の不安を払拭しようとしている、そんな大阪という都市のもがきが見てとれるようにも思えました。そう思うと、大阪における都市の局所部だけでの前衛的な再開発は、本当はもっと広範域での都市機能の再開発を行いたかったにも関わらず、もはやそれを行うだけの余力を失ってしまったことを暗示しているようで、この前衛性が、反って痛々しさを感じさせるようにも思われました。
などと大阪の人にはとんでもなく失礼で勝手なことを書いてきましたが、その真意は、私の故郷でもある大阪が、東京の近未来、そして日本の大都市の近未来の姿を先取りして暗示しているように思えてならなかったからです。特に東京では、従来からの一極集中という強みにあわせて、2020年の東京オリンピックの開催を控えて、現時点では湾岸地域を中心に活発な再開発が進められています。しかし、東京という都市全体の成長力に関しては、大阪と同じように本当はすでに陰りが見え始めているのではないか。東京オリンピックという、最後のあがきのためのカンフル注射は打たれているが、オリンピック後は、投資案件としての魅力の減少から外資等が資金を引き上げ、地価や不動産価格の下落が十分に予想されます。また少子高齢化の影響の進展から、このままでは間違いなく都市機能も衰退していくことでしょう。現在大阪で先駆けて生じている、都心の局所部での前衛性と古くからの市街地での都市機能の衰退というアンバランスは、東京でも2020年以降には、恐らく確実に生じてくる現象だと思われます。
しかし私たちは、都市の機能の衰退という足元の日常生活でのリアルな問題に、深刻に目を向けようとはしていません。大阪都心の局所部での前衛的な都市デザインや、東京オリンピックでの湾岸開発といった、従来型の延長線でのビジョンを先鋭化させた都市開発のプロジェクトに心を逃避させて、つかの間の期待に不安を先送りしようとしてしまいます。それではなぜ私たちの心は、現実のリアルで深刻な問題から目を反らし、ただデザイン性の豊かさでごまかされただけの従来の延長線のビジョンにしがみつこうとするのか。なぜ私たちは、都市のそのものがすでに私たちに呼びかけている新しいビジョンに目を向け、創造性豊かに新しい都市イメ-ジをデザインすることが出来ないでいるのか。確かに、建物が取り壊されて空き地となった宅地に、ペンペン草が生えている状況は、都市の衰退の現実を私たちに突き付けます。しかしその一方で、床と建物に長年覆われ、もう2度と外気に触れることがないかと思われた床下の地面が、ようやく解放されて、いま春のやさしい陽光に照らされ、雑草たちを豊かに育んでいます。私たちが耳を澄ませば、その大地と雑草たちの喜びの声が聞こえてこないでしょうか。そもそも地方を衰退させ、無理矢理にでも人口を都市に集中させてきたこれまでの仕組み自体が異常だったのかもしれません。私たちはこれまでのような稠密な都市機能の幻想に執着することなく、新しい現実を受け入れ、そこで私たちがより実生活の豊かさに即して、しかも都市文化の魅惑を満喫できるような、これまでとは質の違うまちの仕組みづくりを、始めていけるチャンスにあるのかもしれません。
それでは私たちが、現実の問題をリアルに認識して、その現実を素直に受け入れて、しかしそこにある新しい可能性を創造的にデザインして、自分もまちも豊かに楽しく育んでいくためにはいったいどうすれば良いのでしょうか。またそのような能力を持った自分を、どのようにつくっていけば良いのでしょうか。そのために自分を変えて、行動を変えて、現実の生活を良く変えていくための実践的な方法を、見い出していかなければなりません。しかしそのためには、私たちが慣れ親しんでいるものの見方・考え方とはちょっと違う思考方法を行い、普段は使わない脳の部分を作動させていかなければならないのかもしれません。いよいよそのための具体的な実践方法を、ご一緒に検討していければと思っています。次回のパンセの集いは、4月28日の火曜日です。お時間許す方は、ご参加下さい。