ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.30『心と身体と行いと-統合智としての宗教』

May 03 - 2015

2015年5月3日 パンセ通信No.30『心と身体と行いと-統合智としての宗教』

皆 様 へ

5月5日子供の日の火曜日は、連休の中日でもありますので、パンセの集いはお休み致します。でももしお暇な方がおられましたら、表参道のフィルムクレッセントに遊びに来て下さい。午後の14時~18時ぐらいまでは開けております。普段の集いでは行えない、正しい姿勢と呼吸法と瞑想による心の力をリフレッシュする実践でも行ってみたいと思います。伝統宗教が培ってきた手法で、毎日短時間継続すれば感性が磨かれ、気づきが多くなり、身体感覚で自分にとって大切なものと無駄なものとが見分けられるようになってきます。まぁ、心身のバランスがとれて美容と健康にも良いので、草食系の男子の皆さんにも効果があるかもしれません。また無用な情報に惑わされず、見えなかった課題と手順が見えてきて、平常心で腹を据えて仕事にかかれるようになるので、キャリア系の女性の皆さんにも役立つかもしれません。もちろん創造性も開発されるので、ア-ト・ソフト開発系の人にも良いかも?

もっとも、内面のいのちの力というのは、普段私たちが考えている能力とは異質な次元のものなので、こんな効果が期待できるなどと見返りを求めるような脳と身体の働き方(いわゆる邪念)をさせた瞬間に、雲散霧消して手からすべり落ちていきます。だから無欲にならねば!- う~んでも、それは凡人には無理~!などと考えてしまうから、余計に難しくなって手がつけられなくなってしまいます。あるいは、求める訓練を始めてみても長続きしない。確かに、私たちの内面のいのちの力を起動させるには、ちょっとしたコツが必要になってきます。それは、これまでの生活と人生で歪めに歪めてきた私たちの心と身体を、もっとも自然で無理のない状態に、やさしく戻してあげることなのです。だから本当は、けっして難しいことでも何でもありません。その時、憂いを忘れて心は平安でどこまでものびやかになり、身体は本当に心地よくなるのです。日常の心配事や執着が、もはやどうでも良くなるぐらいに解き放たれて、本当に気持ちよくなった時に、私たちの内面のいのちの力は自然に発動し、高まっていくのです。とはいえ現代に生きる私たちは、理性が邪魔して感性の働きを自由にさせず、常に課題に追われて心が急いているものですから、自然な求めのままに心を働かせることなど容易に出来ることではありません。また知性のつめ込み教育の偏重で、感性を鍛えることを怠ってきたために、自分にとって何が本当に心地よく自然なのかという感覚さえ、よくわからず麻痺しているというやっかいな問題を抱えているのですが。

いずれにせよこれから少しずつ、仏教やキリスト教等の伝統宗教で培われてきた、心と身体と行いを自然に心地よく調和させて、その働きを回復し、自分も社会も生きやすくしていく方法を、普通の私たちが無理なく実践していけるように、準備をすすめていければと思っております。もちろん苦しみや悲しみの中にある人も、その試練の意味がわかってきて、時間の経過と共に見えなかった糸口が見えるようになってくるはずです。そしてそう遠くない時期に、両国大徳院の荘厳で素晴らしい施設を利用したり、東京などの都会を離れた地で、雑念から遠ざかり静かに自分と向き合っていのちの力を高めていけるように、増田ご住職や伊勢崎の妙純先生とも相談して仕組みを段取りしていければと思っておりますので、いましばらく準備の整うまで、お待ち頂ければと存じます。

それともう1つ、前回もご案内しましたが、6月5日(金)に高野山の麓の慈尊院で、『高野山の案内
犬ゴンちゃん、ありがとうコンサ-ト』が開催されます。バンディ石田さんや、歌手の妙佳さんが出演なさいます。その案内が九度山町のホ-ムペ-ジに掲載されておりますので、ご興味のある方は以下をご参照下さい。

http://www.town.kudoyama.wakayama.jp/dd.aspx?itemid=4295

またこの機に高野山を訪れて、慈尊院のゴンちゃんの石像にも会いたいという方がいらっしゃいましたら、フィルクレッセントの白鳥までご連絡下さい。ご一緒に参りましょう。高野山の開創1200年の大法要も終わって、少しゆったり高野山見物が出来るかもしれません。 さて、いよいよ宗教の智慧を実践的に用いて、私たちがいのちの力を伸ばし、心もモノも豊かに育んでその果実を享受していけるようになる歩みを始めていければと思います。でもその前にもう1度、今回は現代の私たちの知性の問題点と、宗教の智慧の意味について整理しておきたいと思います。

昔から私たちの心の働きには、知・情・意の3つがあると言われています。知(知性)というのは、人間の認識の作用を司る働きで、自分(主観)を中心に、自分以外のものをすべて対象として、自分から分けて客観として捉える心の作用です。この働きには、ものごとを“分けて”捉える・理解するという特質があり、私たちが自然界や社会の様々なものをその属性に応じて分別し、要素に分け、その要素間の関連や法則を見出していく能力を担います。ここから科学の知恵が発展し、見出した法則を用いて、人間は自然界等の対象をコントロ-ルしようと試みるのです。この知性のことを、日本では分別と呼び、ドイツの哲学者カント先生は純粋理性と呼びました。近代市民社会の成立以降、知性こそが人間の理性の王道であり、知性によってすべての問題が解決され、知性を磨くことこそが、教育の中心と考えられるようになってきました。それも道理のあることで、封建制度のもとで物質的な貧しさに生きてきた私どもの先人たちは、科学的合理的“知性”によって、自然界からより多くの有用物を取り出して利用し、生活を向上させることが出来るようになったからです。それ故物質的生活の向上は、そのまま私たちの本来の求めであるいのちの豊かさをも実現するものと感じられ、知性こそがいのちの求めに応えるものと実感されたのです。

しかし知性は一方で、次のような根本的な問題点を孕みます。まず、自分を中心に対象を捉えるものですから、当然それは客観認識といっても、どうしても自分本位の自分にとって都合の良い客観の捉え方になってしまいます。だからよく会議などで、「客観的に見れば」などと発言する人がいますが、そういう意見には気をつけなければいけません。客観を装って、自分の意見を押し付けようとしているだけだからだからです。次に知性は、あくまでも心の中の作用を“主観”と“客観”とに分けて、その間に成立する関係を捉えるだけの機能ですから、客観といっても、真実の実在、ありのままの存在を捉えることの出来るものではありません。しかも先程申し上げたように、この心の中の主観と客観の関係さえ、その人の主観によってバイアスがかかってしまうという構造的問題を抱えています。だから知性は、万能のように見えてけっして万能ではなく、それぞれが知性をふりかざして争いの元となったり、知性が備わっていても苦しみや悲しみ、不安や恐怖から逃れられなかったりするのです。このように知性には明確に限界があります。だからカント先生は、すでに18世紀の昔に知性の限界を明らかにして『純粋理性批判』を著し、日本では分別では捉えられない実相を捉えようと、「無分別の分別」が求められてきたのです。まぁ、それから200年以上が経過しているのに、いまだに知性万能主義がまかり通っているのですから、世の中が生きづらく、行き詰まってしまうのも仕方のないことかもしれません。

さて人間の心の働きは、最初に申し上げたとおり何も知性ばかりがすべてではありません。“情”も“意”もあります。情というのは、私たちの感覚や感情の働きで、知性の基礎となるものです。まず感じなければ考えることなど出来ません。情はさらに感性と情性に区分することができます。感性というのは、水は冷たいといったような直接的な感覚のことです。情性というのは、水は清々しいといったような、感性が1度人間の理性を潜り抜けて判断される感受性といったものです。“幸せ”という気分も、ますは“心地よい”“嬉しい”とかいった直接的な感性から理性的に構成されてきます。この情というのは非常に大切で、カント先生は情のことを判断力の範疇で扱っています。確かに快・不快や好き・嫌いといった感性こそが、知性よりもまず私たちの判断の基礎になるからでしょう。

そして知性と情とがあいまった先に、“意”が生じてきます。なるほど合理的な知性による納得と感情の求めが合わさって始めて、私たちの意志が形成されてきます。では私たちは何を意志するのか?人間には最も理に適った求めがあるはずで、その求めに従って生きる時、私たちのいのちは力づけられ、心もわくわくと喜ばしいものとなるものでしょう。だからカント先生は、この意志の理性について、道徳的に生きようとする実践理性と称しておられるのです。なるほど私たちは、“道徳的”に生きる時に一番後ろめたさがなく、心伸びやかに自信をもって生きられるのかもしれません。

このように人間は知性だけで生きるものではなく、知・情・意が合わさってその心は働きます。そしてさらに、この知・情・意を働かせる心のもと、あるいは心の働きの出どころ、まさに主観と客観とが分かれる前の、私たちの心と現実をトータルに捉えて働かせる原理といったものが想定されます。このいのちの根っこのような働きを、鈴木大拙先生は“霊性”と称し、宗教意識と呼ばれるのです。宗教とは、単に神や仏を拝むことではありません。外界の現実をも含めて心の働きの原理を総合的に捉え、さらに何を求めて生きるかを明らかにし、そのために自分を変えて、行いを変えて、現実を変えていくための総体としての“智慧”の働きのことが、宗教なのです。(知性による知恵とは異なり、人間の表面意識を超える心性なので、あえて難しい字で“智慧”と書きます。)

この心と身体とを変え、そして日常の行いと現実とを変え、ひいては社会全体をも変えていく統合智としての宗教の智慧を、現代の私たちの誰でもがわかりやすく納得して実践していけるように、少しずつ解きほぐいて紹介していければと思っています。まずは正しい姿勢と呼吸法で、自分の心を内観する作業からです。連休の終盤で休み疲れしている人がいらっしゃいましたら、5月5日の火曜日の午後、表参道のフィルムクレッセントに立ち寄ってみて下さい。