■2015年5月10日 パンセ通信No.31『君はまずは身体を慈しめよ、すべてはそれからだ』
皆 様 へ
素晴らしい好天と気候に恵まれたゴ-ルデン・ウィ-クが終了し、いつまでもボ~っとしていたい今日この頃なのですが、はやそうもさせてもらえない日常がスタ-トしております。パンセの集いも、今度の火曜日5月12日から、またいつもどおりこつこつと毎週の集いを続けてまいります。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
連休が終わって、さぁ頑張らねばと思うのですけど、どうにも調子が入らない個人的な気分と同様に、世の中でも、この間統一地方選挙があったり、いよいよ安保法制の国会審議が始まったり、大阪都構想の住民投票があったりで、またヨーロッパではギリシアのデフォルト問題が大詰めを迎えたりと、きっと大変なことが起こっているのでしょうけど、どうにも他人事に思えて危機感の持てない私たちです。こうして世界はどんどん悪い方向に向かい、気づいた時には取り返しのつかない状況になってしまっているなどということもあるのかもしれませんが、危機はあまりにも多すぎて、すべての危機に反応して生きていたのでは身が持たないのも事実です。
そう考えると、こうして日常に埋没して生きるのも、けっして悪い面ばかりでなく、人間の大きな知恵の一つなのかもしれません。よく子供の頃の時間は長かったが、年を経るに従って1年はあっという間に過ぎてしまうという話を聞きますが、それは確かに道理のあることなのです。子供の頃は、まだ多くのものが未知で未体験であるため、毎日が驚きの連続です。でも四六時中そんなことをやっていると、神経がまいってしまいますし、またいちいち“未知との遭遇”への対応を考えているようだと、効率が悪くて日常生活なんて送れやしません。そこで人間は、“習慣”とか“惰性”とかいう素晴らしい知恵を編み出したのです。私たちは“毎日”を生活していきますが、しかしよく考えてみれば、毎日はけっして同じ内容ではありせん。今日に昨日とまったく同じことが繰り返し起こったのであれば、それは不気味で、人生にも人間にも新味は無く、進歩が無くなってしまいます。つまり、本当は毎日違ったことが無数に起こっているのですけど、私たちはその違いを無視して、同じように朝起きて、顔を洗って、出勤していきます。要するに余計なことは考えないで、無駄なエネルギ-は省いて、日々惰性で平凡にそして平安に生きているのです。これはすごい知恵です。そしてこの習慣の繰り返しの毎日になってしまうから、大人の時間は子供の時間よりも刺激が少なく、短く感じられてしまうのです。もちろん一部には、大人になっても毎日違いに気づいて、興奮して生きている人もいますが、それは奇人とか天才とか、聖書でいえば預言者とか言われる変な人たちで、そういう特異な気づきは、そういう人たちにまかせておけば良いのです。
ただし、普通の庶民である私たちにとっても、いやでもその習慣の平安を突き崩す事態や事件(危機)が襲い掛かってきて、必死でモノを考え、自分と現状を打開せねばならない時がやってきます。人生とはそういうものだからです。だからその時にこそエネルギ-を集中させて考えれば良いのであって、普段は惰性でボ~としていれば良いのです。けれども問題なのは、あまりにボ~っと鈍くなりすぎていると、危機が襲い掛かっているのになおそれに気づかず、引き続きボ~っとしているということが、私たちには起こってしまうということです。キリスト教の世界で最も重要な思想家の1人であるキェルケゴ-ルという人は(もっともキリスト教会内では無視されていますが)、こういう状態にある私たちを指して、“絶望”-死(破滅)に至る病にあると言います。無限に拓かれてあるはずの可能性を自ら閉ざし、世の中の流れに同調して(自分になることを放棄して、世間に身売りして)生きることに安住しているからで、『絶望状態にあることを知らないでいる絶望』の形態と評し、破滅が間近に忍び寄るのに気づかない絶望の最も危険な形態だと教えています。
まぁ、そんなことはことさら声を大きくしなくても、誰でも潜在的には気づいていることなのですが、それでも問題を先送りして日常的習慣に甘んじて生きてしまうのは、いったい何故なのでしょうか。それには、2つぐらいの原因があるかと思われます。1つは、本当に自分にとっての危機や重要な節目を選り分けて、深刻に察知する力が鈍っているということです。もう1つは、仮にこれはやばいと感じても、ではどうすれば良いかわからないので、先送りしてしまうということです。私たちにとって1番幸せなのは、普段は頭をつかわずボ~っと惰性でそれなりに楽しく生きていて、いざとういう時にだけ感性を働かせて、本当にやばいことだけをより早い段階で察知して対処するということでしょう。そしてその後は、以前よりもよい状態に移行して、そこで再びボ~っと惰性に入る。しかしそのためにはまず、自分にとっての危機を危機として察知し、身体反応としてアクションが起こせるような感受性を取り戻すことが必要になってきます。それではそれはどうすればそれが取り戻せるのか、まずそのことから考えていってみたいと思います。
さて、前回は統合智としての宗教ということに少し触れてみました。宗教は『教・信・行・証』であると言われます。まず教えがあって、それを信じて納得して受け入れ、行いによって納得したことを確認して更に深め、そして確信となったら今度は自分がその教えを他の人のために証して広めていく。このプロセスを別の言い方で、『身体が変われば心が変わる、心が変われば行いが変わる、行いが変われば現実が変わる』と表現致しました。行いが変われば、私たちの人やモノに対する接し方も変わるので、私たちの生活や仕事の仕方が変わって、現実が変わっていきます。そしてその変化の確信を、次々と他の人に伝えていくことによって、多くの人の間で人と人との接し方が変わっていけば、社会が変わっていきます。また多くの人の間で、モノとの接し方が変わっていけば、経済が変化していきます。この変化の一連のプロセスを包含する智慧が、宗教の智慧であるとご紹介申し上げたのです。だとすると、このプロセスでの出発点となるのは“身体(からだ)”ということになります。
私たちが困難に直面する時、あるいは求めていた思想や教えに出会ってわくわくどきどきする時、つまり平凡な日常が破られて考えさせられるような事態になる時には、最初にまず身体に緊張が走り、アドレナリンが分泌され、心拍数や血圧が上がってきます。こうした身体の変化が、心に影響を与えていくのです。また清々しい山の空気に触れたり、温泉にゆったりつかったりすると、心も和んで、平穏の中で生き返ったような気分になっていきます。あるいはもう少しシビアな事例でいうと、私たちが交通事故に遭って身体に障害を負ったり、顔に火傷を負ったり、また整形手術で自分のコンプレックスを取り去ったりすると、私たちの心はおろか、人格にも影響を与えていきます。このように身体の変化が心に影響を及ばすことは異論のないところでしょうが、問題なのは、その身体の変化を、心がどう受け留めるかということです。
身体というのは、非常に不思議な存在です。身体は物質ですが、単なる物質ではありません。もし物質であるならば、物質の法則に従って、ある刺激に対しては同じ反応を示すはずです。でも事故で片足を失った場合、始めの衝撃こそ同じであったとしても、その後の受け止め方は、人によって異なってきます。それこそ絶望して一生悲嘆に暮れる人もある一方で、障害を乗り越えて生き、その生きる姿勢で他の人たちを励ますようになる人もいるのです。この違いが生じてくる原因は、身体の変化に対する心のを受け留め方の相違ということになってくるでしょう。
ではなぜこんな心の相違が生じてくるのか。ここで心というのは、意識の主体である私、精神または自己と言い換えて良いものです。その自己について、先ほどのキェルケゴ-ル先生は次のように言っています。『自己とは、自己自身に関係するところの関係である。』つまり私というのは、何かある私という固定した実体があるのではなく、様々なものと関係を切り結んで生きていくものであり、何よりもその特徴は、自分自身と関係して生きるものだということです。それでは私たちは、自分自身とどのような関係性のうちに生きているのでしょうか。また自分自身でもある身体と、どのような関係性をもって生きているのでしょうか。
確かに私たちは、自分と言う自己意識があるから自分なのであって、この自己意識がなくなれば、それは何か浮遊する精神だけのようなものであって、私が私で無くなってしまいます。この私が私に対する関係の持ち方によって、片足を失った時に一生悲嘆に暮れて生きていくか、それを乗り越えていのちを活かせて生きていくかが決まってきます。では私たちは、自分自身に対してどんな関係の持ち方をしているのでしょうか。でもここで気づくことは、そもそも関係どころか、普段はいろいろなことに追われて生きていく中で、自分自身を意識してさえ生きていないということです。そして身体も同じです。身体は、心の入れ物などではなく、まさに私の意識がそこで働く場であり、心と一体となった私そのものなのですけど、その身体に対しても、私たちは意識を払っていません。かえって運動不足に暴飲暴食、加えて酒にたばこと、身体を酷使することに余念がないばかりです。
じつは身体というのは、自分の意識の場であると共に、外界と接する接点(主観と客観をつなぐもの)でもある重要な媒体です。だから自分の身体への関係の持ち方、配慮の仕方は、私の生活や他者との関わり方の基礎になってきます。自分の身体に配慮できない者は、じつは自分の生活も人生も本当には配慮できず、他者も配慮できないのです。人を育て生かしめる風景をテ-マに詩作を続けられている長田弘さんの詩をもじって言えば、「君はまず“身体”を慈しめよ、すべてはそれからだ!(長田さんの詩は、身体の部分が“風景”です)」ということになるでしょうか。
では私たちは、自分の身体とどういう関係を持てば良いのでしょうか、またどうすれば身体を配慮できる心を持つことができるのでしょうか。ここに身体と心との微妙な関係が浮上してきます。心が身体を配慮できるようになるような、身体に自然で心地よい状態をつくってあげるのです。それが姿勢であったり、呼吸法であったり、瞑想であったりするわけなのですけど、ますはこの身体とのバランスによる自分自身への気遣いを回復することによって、私たちは自分が取り戻せ、いろいろなことに敏感に気づくようになってきます。そしてその後の行動の変化へとつながっていくのです。ではどう心と身体を整えていくのか、その時どんな変化が起こってくるのか。そのことを皆さんとご一緒に考えていければと思います。次回のパンセの集いは、5月12日の火曜日16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
皆 様 へ
素晴らしい好天と気候に恵まれたゴ-ルデン・ウィ-クが終了し、いつまでもボ~っとしていたい今日この頃なのですが、はやそうもさせてもらえない日常がスタ-トしております。パンセの集いも、今度の火曜日5月12日から、またいつもどおりこつこつと毎週の集いを続けてまいります。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
連休が終わって、さぁ頑張らねばと思うのですけど、どうにも調子が入らない個人的な気分と同様に、世の中でも、この間統一地方選挙があったり、いよいよ安保法制の国会審議が始まったり、大阪都構想の住民投票があったりで、またヨーロッパではギリシアのデフォルト問題が大詰めを迎えたりと、きっと大変なことが起こっているのでしょうけど、どうにも他人事に思えて危機感の持てない私たちです。こうして世界はどんどん悪い方向に向かい、気づいた時には取り返しのつかない状況になってしまっているなどということもあるのかもしれませんが、危機はあまりにも多すぎて、すべての危機に反応して生きていたのでは身が持たないのも事実です。
そう考えると、こうして日常に埋没して生きるのも、けっして悪い面ばかりでなく、人間の大きな知恵の一つなのかもしれません。よく子供の頃の時間は長かったが、年を経るに従って1年はあっという間に過ぎてしまうという話を聞きますが、それは確かに道理のあることなのです。子供の頃は、まだ多くのものが未知で未体験であるため、毎日が驚きの連続です。でも四六時中そんなことをやっていると、神経がまいってしまいますし、またいちいち“未知との遭遇”への対応を考えているようだと、効率が悪くて日常生活なんて送れやしません。そこで人間は、“習慣”とか“惰性”とかいう素晴らしい知恵を編み出したのです。私たちは“毎日”を生活していきますが、しかしよく考えてみれば、毎日はけっして同じ内容ではありせん。今日に昨日とまったく同じことが繰り返し起こったのであれば、それは不気味で、人生にも人間にも新味は無く、進歩が無くなってしまいます。つまり、本当は毎日違ったことが無数に起こっているのですけど、私たちはその違いを無視して、同じように朝起きて、顔を洗って、出勤していきます。要するに余計なことは考えないで、無駄なエネルギ-は省いて、日々惰性で平凡にそして平安に生きているのです。これはすごい知恵です。そしてこの習慣の繰り返しの毎日になってしまうから、大人の時間は子供の時間よりも刺激が少なく、短く感じられてしまうのです。もちろん一部には、大人になっても毎日違いに気づいて、興奮して生きている人もいますが、それは奇人とか天才とか、聖書でいえば預言者とか言われる変な人たちで、そういう特異な気づきは、そういう人たちにまかせておけば良いのです。
ただし、普通の庶民である私たちにとっても、いやでもその習慣の平安を突き崩す事態や事件(危機)が襲い掛かってきて、必死でモノを考え、自分と現状を打開せねばならない時がやってきます。人生とはそういうものだからです。だからその時にこそエネルギ-を集中させて考えれば良いのであって、普段は惰性でボ~としていれば良いのです。けれども問題なのは、あまりにボ~っと鈍くなりすぎていると、危機が襲い掛かっているのになおそれに気づかず、引き続きボ~っとしているということが、私たちには起こってしまうということです。キリスト教の世界で最も重要な思想家の1人であるキェルケゴ-ルという人は(もっともキリスト教会内では無視されていますが)、こういう状態にある私たちを指して、“絶望”-死(破滅)に至る病にあると言います。無限に拓かれてあるはずの可能性を自ら閉ざし、世の中の流れに同調して(自分になることを放棄して、世間に身売りして)生きることに安住しているからで、『絶望状態にあることを知らないでいる絶望』の形態と評し、破滅が間近に忍び寄るのに気づかない絶望の最も危険な形態だと教えています。
まぁ、そんなことはことさら声を大きくしなくても、誰でも潜在的には気づいていることなのですが、それでも問題を先送りして日常的習慣に甘んじて生きてしまうのは、いったい何故なのでしょうか。それには、2つぐらいの原因があるかと思われます。1つは、本当に自分にとっての危機や重要な節目を選り分けて、深刻に察知する力が鈍っているということです。もう1つは、仮にこれはやばいと感じても、ではどうすれば良いかわからないので、先送りしてしまうということです。私たちにとって1番幸せなのは、普段は頭をつかわずボ~っと惰性でそれなりに楽しく生きていて、いざとういう時にだけ感性を働かせて、本当にやばいことだけをより早い段階で察知して対処するということでしょう。そしてその後は、以前よりもよい状態に移行して、そこで再びボ~っと惰性に入る。しかしそのためにはまず、自分にとっての危機を危機として察知し、身体反応としてアクションが起こせるような感受性を取り戻すことが必要になってきます。それではそれはどうすればそれが取り戻せるのか、まずそのことから考えていってみたいと思います。
さて、前回は統合智としての宗教ということに少し触れてみました。宗教は『教・信・行・証』であると言われます。まず教えがあって、それを信じて納得して受け入れ、行いによって納得したことを確認して更に深め、そして確信となったら今度は自分がその教えを他の人のために証して広めていく。このプロセスを別の言い方で、『身体が変われば心が変わる、心が変われば行いが変わる、行いが変われば現実が変わる』と表現致しました。行いが変われば、私たちの人やモノに対する接し方も変わるので、私たちの生活や仕事の仕方が変わって、現実が変わっていきます。そしてその変化の確信を、次々と他の人に伝えていくことによって、多くの人の間で人と人との接し方が変わっていけば、社会が変わっていきます。また多くの人の間で、モノとの接し方が変わっていけば、経済が変化していきます。この変化の一連のプロセスを包含する智慧が、宗教の智慧であるとご紹介申し上げたのです。だとすると、このプロセスでの出発点となるのは“身体(からだ)”ということになります。
私たちが困難に直面する時、あるいは求めていた思想や教えに出会ってわくわくどきどきする時、つまり平凡な日常が破られて考えさせられるような事態になる時には、最初にまず身体に緊張が走り、アドレナリンが分泌され、心拍数や血圧が上がってきます。こうした身体の変化が、心に影響を与えていくのです。また清々しい山の空気に触れたり、温泉にゆったりつかったりすると、心も和んで、平穏の中で生き返ったような気分になっていきます。あるいはもう少しシビアな事例でいうと、私たちが交通事故に遭って身体に障害を負ったり、顔に火傷を負ったり、また整形手術で自分のコンプレックスを取り去ったりすると、私たちの心はおろか、人格にも影響を与えていきます。このように身体の変化が心に影響を及ばすことは異論のないところでしょうが、問題なのは、その身体の変化を、心がどう受け留めるかということです。
身体というのは、非常に不思議な存在です。身体は物質ですが、単なる物質ではありません。もし物質であるならば、物質の法則に従って、ある刺激に対しては同じ反応を示すはずです。でも事故で片足を失った場合、始めの衝撃こそ同じであったとしても、その後の受け止め方は、人によって異なってきます。それこそ絶望して一生悲嘆に暮れる人もある一方で、障害を乗り越えて生き、その生きる姿勢で他の人たちを励ますようになる人もいるのです。この違いが生じてくる原因は、身体の変化に対する心のを受け留め方の相違ということになってくるでしょう。
ではなぜこんな心の相違が生じてくるのか。ここで心というのは、意識の主体である私、精神または自己と言い換えて良いものです。その自己について、先ほどのキェルケゴ-ル先生は次のように言っています。『自己とは、自己自身に関係するところの関係である。』つまり私というのは、何かある私という固定した実体があるのではなく、様々なものと関係を切り結んで生きていくものであり、何よりもその特徴は、自分自身と関係して生きるものだということです。それでは私たちは、自分自身とどのような関係性のうちに生きているのでしょうか。また自分自身でもある身体と、どのような関係性をもって生きているのでしょうか。
確かに私たちは、自分と言う自己意識があるから自分なのであって、この自己意識がなくなれば、それは何か浮遊する精神だけのようなものであって、私が私で無くなってしまいます。この私が私に対する関係の持ち方によって、片足を失った時に一生悲嘆に暮れて生きていくか、それを乗り越えていのちを活かせて生きていくかが決まってきます。では私たちは、自分自身に対してどんな関係の持ち方をしているのでしょうか。でもここで気づくことは、そもそも関係どころか、普段はいろいろなことに追われて生きていく中で、自分自身を意識してさえ生きていないということです。そして身体も同じです。身体は、心の入れ物などではなく、まさに私の意識がそこで働く場であり、心と一体となった私そのものなのですけど、その身体に対しても、私たちは意識を払っていません。かえって運動不足に暴飲暴食、加えて酒にたばこと、身体を酷使することに余念がないばかりです。
じつは身体というのは、自分の意識の場であると共に、外界と接する接点(主観と客観をつなぐもの)でもある重要な媒体です。だから自分の身体への関係の持ち方、配慮の仕方は、私の生活や他者との関わり方の基礎になってきます。自分の身体に配慮できない者は、じつは自分の生活も人生も本当には配慮できず、他者も配慮できないのです。人を育て生かしめる風景をテ-マに詩作を続けられている長田弘さんの詩をもじって言えば、「君はまず“身体”を慈しめよ、すべてはそれからだ!(長田さんの詩は、身体の部分が“風景”です)」ということになるでしょうか。
では私たちは、自分の身体とどういう関係を持てば良いのでしょうか、またどうすれば身体を配慮できる心を持つことができるのでしょうか。ここに身体と心との微妙な関係が浮上してきます。心が身体を配慮できるようになるような、身体に自然で心地よい状態をつくってあげるのです。それが姿勢であったり、呼吸法であったり、瞑想であったりするわけなのですけど、ますはこの身体とのバランスによる自分自身への気遣いを回復することによって、私たちは自分が取り戻せ、いろいろなことに敏感に気づくようになってきます。そしてその後の行動の変化へとつながっていくのです。ではどう心と身体を整えていくのか、その時どんな変化が起こってくるのか。そのことを皆さんとご一緒に考えていければと思います。次回のパンセの集いは、5月12日の火曜日16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。