■2015年5月17日 パンセ通信No.32『姿勢・呼吸・内観によって変わる心身』
皆 様 へ
私たちが本当に自分らしく生きて、しかも自分のために生きることが、そのまま他の人や生物のいのちの育みとつながっていく。またそうなるように、他者との関わり方やモノとの関わり方も思いやりに満ちたものに変わり、社会や経済のありようも、やさしく心づかいにあふれるものへと変わっていく。『パンセ・ドゥ・高野山』では、そのように生きられるよう自分を変え、またそのためのガイド役として『高野山の案内犬ゴン』をシンボルに戴いて、プロジェクトを推進しております。5月19日の火曜日も、そんな取り組みの一環として、パンセの集いを行います。表参道のフィルムクレッセントにおいて16時からです。
さて、そんなやさしく無理のない自分に変わって生きていけるようになるために、前回では、まず心と一体となった身体に着目してみました。現実を変えるのは困難だし、心も変えようと思って変えられるものではないので、心と一体となった身体に着目し、それを変えてみることによって心にも影響を及ぼし、自分を変えられる糸口が見つけていこうという試みです。じつはこの方法を、長い年月をかけて体系化したのが伝統宗教です。身体を本来の自然な状況に戻すことによって、心も自然な状況で作動し始め、その結果、自分も他者も生かす本源的ないのちの力が働き出すと考えたのです。
そこでまず、身体のバランスを自然な状態に戻す方法として、姿勢と呼吸法などがあります。そしてその自然な身体状態で、心の作用を整え直す方法が内観法です。また、こうした本来の自然な身体や心の働きを司る、いのち根源として“気”の循環というものも想定します。“気”というのは、素粒子が物質の根源であるとすれば、いのちの根源である粒子あるいはエネルギ-といったもので、自然界にも宇宙にも、このいのちの気の粒子であり力が満ちていると考えるのです。
普段の私たちの心身の状態というのは、中枢神経が優位に働き、主には外界の情報を取り、外界に働きかけようとして動いています。そのために、抹消神経の自律神経系においても、交感神経が副交感神経より優位に働き、内臓や血管を興奮させて過度に機能させようとします。心の働きにおいても、外にばかり意識が向かって、外から得た情報を自分なりによく吟味して消化して、自分のものとして組み立て直そうとする機能が、顧みられなくなってしまいます。このために身体のレベルでは、ストレスを増大させて内臓に負荷をかけたり、抹消の器官や部位にまで毛細血管を通じて血流や気流が行きわたらなくなってしまいます。それ故に酸素と二酸化炭素の代謝も滞り、そうした部分が病気の温床となっていくのです。また当然全身としての免疫力も低下していきます。一方心のレベルでは、外部の価値観に振り回されて、自分が無くなるという状況が生じてきます。よくエリ-トと呼ばれる人たちは、巧みなタイムマネ-ジメントで寸暇を惜しんで仕事をすると言われますが、それでは、外部に働きかける能力は高まるかもしれませんが、内的な能力は消耗するばかりで、やがては枯渇してしまいます。またこんな人物からは、期待できる創造性などは生まれてきません。残念ながら効率性が求められる現代社会にあっては、エリ-ト的な働き方は称賛されても、ボ~っと無駄な時間を浪費することに対しては、価値が認められません。でもじつは、このボ~っと時間を無駄に浪費している時にこそ、私たちの脳は全く別の部位が働いて、外部から得た情報を自分の者となるように、活発に処理しているのです。こうして自分のものとして情報を位置づけ直したところから、始めて確かな自分の認識や価値や創造力が組み上がっていくのです。
さてそこで、まず身体の自然なバランスの取戻しから考えてみます。最初に姿勢からです。私たちは、長年いろいろなストレスと闘いながら、身体の様々部位に負荷をかけて生活してきたものですから、当然身体のあちこちに、いろいろなゆがみや偏りが生じています。その偏りから様々な痛みや故障や病気が発症してきて、心の作用にも悪い影響を及ぼすのです。だからまずそれを、自然な状態に戻してやると、随分と楽になってきます。基本的には丹田に意識を集中させる方法を取ります。丹田というのは、お臍(へそ)の下の下腹部のあたりで、身体の重心のあるところです。イメ-ジとしては「腹を据える」という言葉があるように、体が大地と一体となって一番安定するポイントです。この時、背中は前かがみにも反った状態にもならない、最も自然な状態なります。立っている場合には、爪先立ちしてゆっくりかかとを下ろして、かかとがそっと地面につくぐらいのイメ-ジです。この姿勢で丹田(丹田といっても、重心なので一点をイメ-ジします)に意識を持っていきます。けっしてお腹に力を入れたり力んだりしてはいけません。ただ、上の方からだんだんに意識を下腹部に下ろしていって、どっしり安定するポイントを探すイメ-ジです。力を入れずに、ただ意識をそこに持っていくだけです。こうすると全身の体の力は抜けているのですが、押されても容易には動かない安定した状態となります。またこの状態で、しっかり足指で大地を蹴るように歩くと、足腰への偏った負荷も軽減されていくので、腰痛や膝の痛みも緩和されていきます。座っている場合には、2~3度肩を上下させて、両腕が最も自然に下りる所を探します。この姿勢で、同じく丹田(点・心)に意識を向けていきます。背中が前屈みになっていると、胸に意識が向かって呼吸が圧迫されます。逆に背中が反っていると、上腹部や肋骨の一番下の骨あたりに意識が向いて、背骨に緊張を感じます。両足はしっかりと足裏を床につけて、少し膝の間を開けて、どっしりと安定させます。両手は膝の上に軽く置き、当然背中は、椅子の背もたれから離すのですが、イメ-ジとしては、少し前屈みになって体に最も負担が無く、バランスをとる感覚です。正座の時も同じ要領で、少し膝を開いて、足の親指を重ねるなどしてバランスを取ります。座禅や阿字観を行う場合には、半跏趺坐(はんかふざ)か結跏趺坐(けっかふざ)に足を組んで、両膝をしっかり床につけて、その真ん中に頭の重さがくるようにして、手は印を結んで全体をバランスさせます。こうした状態が最も自然で、身体に負荷が少なく、また呼吸も楽に出来る状態なのです。これまでの人生で、身体にすでに歪みが生じて悪い癖がついてしまっているので、始めのうちはこの姿勢は楽に感じませんが、慣れてくると、最もムリなく長時間保てる姿勢だとわかってきます。
次に、この最も自然で楽でしかも長く保てる本来の姿勢で、呼吸の矯正を行っていきます。呼吸には大きく分けて外呼吸と内呼吸があります。外呼吸というのは、酸素を肺に取り込んで、二酸化炭素を吐き出す、私たちが日常意識して行える呼吸です。一方内呼吸というのは、肺から血管を通じて、身体の隅々にまで酸素を行きわたらせ、器官や細胞の機能を活性化させ、老廃物としての二酸化炭素を肺に戻す呼吸です。この呼吸は、私たちが意識して行えるものではなく、自律神経が司ります。ところが先ほど申し上げたように、私たちの意識は常に外に向かって活性化しているために、自律神経において、交感神経が優位な状況に保たれてバランスを崩す状態となっています。この乱れが、自立神経失調症などとなって、私たちに様々な病的症状を引き起こします。さらに、交感神経が優位で興奮したり怒ったり、“頭に血がのぼる”状況を続けている、毛細血管が委縮し、身体の細部や末端にまで血流と気流が行き渡らなくなってしまいます。こうしてその部分の機能が低下し、免疫力が低下して、病原菌やガン細胞への
抵抗力が失われることになってしまいます。
そのために、内臓や器官の働きを鎮静化させ全体として機能を調和させるように、副交感神経の働きを高めて、バランスさせていくことが必要となってきます。こうして緊張が取れて、ストレスが低下してくると、リラックスして本当に気持ち良い身体の状況になっていきます。このリラックスした身体の心地よさを味わい、その状況を求めるようになることが重要なのです。さて、自律神経は私たちの意識で調節できる神経ではないのですが、実は呼吸と大いに関係があります。吸う息の時に交感神経が働き、吐く息の時に副交感神経が働くのです。従って、吐く息に意識を向けていくことで、副交感神経の機能を高めていくことができます。通常中枢神経の機能のもとに、意識を働かせて生きている私たちの呼吸のイメ-ジは、「吸って吐く」というものです。そこでそれを、意識的に逆にするのです。つまり「吐いて吸う」のです。息を吐ききれば、自然に息はすっと入ってきます。これを繰り返すのです。さらに古来より用いられてきた阿吽(あうん)の呼吸を行います。吐く息を出来るだけゆっくりと口から吐いて、吐ききったら鼻からすっと息を吸うのです。この息をゆっくりと吐いている間に、血流と気流が、毛細血管の細部を通じて、身体の隅々にまで行きわたる様子をイメ-ジします。もし身体に悪い箇所があれば、その部分に血流と気流が通うことをイメ-ジします。慣れてくると、身体の細部や末端や悪い部分が、じんじんと暖かくなって敏感に感じられるようになります。そうなると、もうその身体の調和とリラックスした気持ちよさにまかせれば良いので、呼吸に意識を留める必要はありません。もちろん、吐いて吸うリズムで自然に呼吸は続けるのですが、その時の呼吸の回数は、1分間に数回程度にまで落ちる長い息となっています。これが“長生き”の語源となる呼吸の状態です。そしてまたこの時、自分の身体の微細な調子もわかってくるようになります。身体からのシグナルが、敏感に感じられるようになり、それに従って食べ物や食べる量を調節していけば良いのです。
このように、姿勢と呼吸を最も自然で心地よい状態に保って、次に自分の心の動きのバランスを取り戻す方法である、内観法(瞑想、黙想)に移っていきます。それでは、内観法とはいったいどんなものか、そまたれを行った時に、どんな心の変化が私たちに現れてくるのか。それについては、次回のパンセの集いで具体的に考えていってみたいと思います。5月19日の火曜日16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
まぎれもなく自分を生きて
思いやり
皆 様 へ
素晴らしい好天と気候に恵まれたゴ-ルデン・ウィ-クが終了し、いつまでもボ~っとしていたい今日この頃なのですが、はやそうもさせてもらえない日常がスタ-トしております。パンセの集いも、今度の火曜日5月12日から、またいつもどおりこつこつと毎週の集いを続けてまいります。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
連休が終わって、さぁ頑張らねばと思うのですけど、どうにも調子が入らない個人的な気分と同様に、世の中でも、この間統一地方選挙があったり、いよいよ安保法制の国会審議が始まったり、大阪都構想の住民投票があったり、そしてヨーロッパではギリシアのデフォルト問題が大詰めを迎えたりと、きっと大変なことが起こっているのでしょうけど、どうにも他人事に思えて危機感の持てない私たちです。こうして世界はどんどん悪い方向に向かい、気づいた時には取り返しのつかない状況になってしまっているなどということもあるのかもしれませんが、危機はあまりにも多すぎて、すべての危機に反応して生きていたのでは身が持たないのも事実です。
そう考えると、こうして日常に埋没して生きるのも、けっして悪い面ばかりでなく、人間の大きな知恵の一つなのかもしれません。よく子供の頃の時間は長かったが、年を経るに従って1年はあっという間に過ぎてしまうという話を聞きますが、それは確かに道理のあることなのです。子供の頃は、まだ多くのものが未知で未体験であるため、毎日が驚きの連続です。でも四六時中そんなことをやっていると、神経がまいってしまいますし、またいちいち“未知との遭遇”への対応を考えているようだと、効率が悪くて日常生活なんて送れやしません。そこで人間は、“習慣”とか“惰性”とかいう素晴らしい知恵を編み出したのです。私たちは“毎日”を生活していきますが、しかしよく考えてみれば、毎日はけっして同じ内容ではありせん。今日に昨日とまったく同じことが繰り返し起こったのであれば、それは不気味で、人生にも人間にも新味は無く、進歩が無くなってしまいます。つまり、本当は毎日違ったことが無数に起こっているのですけど、私たちはその違いを無視して、同じように朝起きて、顔を洗って、出勤していきます。要するに余計なことは考えないで、無駄なエネルギ-は省いて、日々惰性で平凡にそして平安に生きているのです。これはすごい知恵です。そしてこの習慣の繰り返しの毎日になってしまうから、大人の時間は子供の時間よりも刺激が少なく、短く感じられてしまうのです。もちろん一部には、大人になっても毎日違いに気づいて、興奮して生きている人もいますが、それは奇人とか天才とか、聖書でいえば預言者とか言われる変な人たちで、そういう特異な気づきは、そういう人たちにまかせておけば良いのです。
ただし、普通の庶民である私たちにとっても、いやでもその習慣の平安を突き崩す事態や事件(危機)が襲い掛かってきて、必死でモノを考え、自分と現状を打開せねばならない時がやってきます。人生とはそういうものだからです。だからその時にこそエネルギ-を集中させて考えれば良いのであって、普段は惰性でボ~としていれば良いのです。けれども問題なのは、あまりにボ~っと鈍くなりすぎていると、危機が襲い掛かっているのになおそれに気づかず、引き続きボ~っとしているということが、私たちには起こってしまうということです。キリスト教の世界で最も重要な思想家の1人であるキェルケゴ-ルという人は(もっともキリスト教会内では無視されていますが)、こういう状態にある私たちを指して、“絶望”-死(破滅)に至る病にあると言います。無限に拓かれてあるはずの可能性を自ら閉ざし、世の中の流れに同調して(自分になることを放棄して、世間に身売りして)生きることに安住しているからで、『絶望状態にあることを知らないでいる絶望』の形態と評し、破滅が間近に忍び寄るのに気づかない絶望の最も危険な形態だと教えています。
まぁ、そんなことはことさら声を大きくしなくても、誰でも潜在的には気づいていることなのですが、それでも問題を先送りして日常的習慣に甘んじて生きてしまうのは、いったい何故なのでしょうか。それには、2つぐらいの原因があるかと思われます。1つは、本当に自分にとっての危機や重要な節目を選り分けて、深刻に察知する力が鈍っているということです。もう1つは、仮にこれはやばいと感じても、ではどうすれば良いかわからないので、先送りしてしまうということです。私たちにとって1番幸せなのは、普段は頭をつかわずボ~っと惰性でそれなりに楽しく生きていて、いざとういう時にだけ感性を働かせて、本当にやばいことだけをより早い段階で察知して対処するということでしょう。そしてその後は、以前よりもよい状態に移行して、そこで再びボ~っと惰性に入る。しかしそのためにはまず、自分にとっての危機を危機として察知し、身体反応としてアクションが起こせるような感受性を取り戻すことが必要になってきます。それではそれはどうすればそれが取り戻せるのか、まずそのことから考えていってみたいと思います。
さて、前回は統合智としての宗教ということに少し触れてみました。宗教は『教・信・行・証』であると言われます。まず教えがあって、それを信じて納得して受け入れ、行いによって納得したことを確認して更に深め、そして確信となったら今度は自分がその教えを他の人のために証して広めていく。このプロセスを別の言い方で、『身体が変われば心が変わる、心が変われば行いが変わる、行いが変われば現実が変わる』と表現致しました。行いが変われば、私たちの人やモノに対する接し方も変わるので、私たちの生活や仕事の仕方が変わって、現実が変わっていきます。そしてその変化の確信を、次々と他の人に伝えていくことによって、多くの人の間で人と人との接し方が変わっていけば、社会が変わっていきます。また多くの人の間で、モノとの接し方が変わっていけば、経済が変化していきます。この変化の一連のプロセスを包含する智慧が、宗教の智慧であるとご紹介申し上げたのです。だとすると、このプロセスでの出発点となるのは“身体(からだ)”ということになります。
私たちが困難に直面する時、あるいは求めていた思想や教えに出会ってわくわくどきどきする時、つまり平凡な日常が破られて考えさせられるような事態になる時には、最初にまず身体に緊張が走り、アドレナリンが分泌され、心拍数や血圧が上がってきます。こうした身体の変化が。心に影響を与えていくのです。また清々しい山の空気に触れたり、温泉にゆったりつかったりすると、心も和んで、平穏の中で生き返ったような気分になっていきます。あるいはもう少しシビアな事例でいうと、私たちが交通事故に遭って身体に障害を負ったり、顔に火傷を負ったり、また整形手術で自分のコンプレックスを取り去ったりすると、私たちの心はおろか、人格にも影響を与えていきます。このように身体の変化が心に影響を及ばすことは異論のないところでしょうが、問題なのは、その身体の変化を、心がどう受け留めるかということです。
身体というのは、非常に不思議な存在です。身体は物質ですが、単なる物質ではありません。もし物質
であるならば、物質の法則に従って、ある刺激に対しては同じ反応を示すはずです。でも事故で片足を失った場合、始めの衝撃こそ同じであったとしても、その後の受け止め方は、人によって異なってきます。それこそ絶望して一生悲嘆に暮れる人もある一方で、障害を乗り越えて生き、その生きる姿勢で他の人たちを励ますようになる人もいるのです。この違いが生じてくる原因は、身体の変化に対する心のを受け留め方の相違ということになってくるでしょう。
ではなぜこんな心の相違が生じてくるのか。ここで心というのは、意識の主体である私、精神または自己と言い換えて良いものです。その自己について、先ほどのキェルケゴ-ル先生は次のように言っています。『自己とは、自己自身に関係するところの関係である。』つまり私というのは、何かある私という固定した実体があるのではなく、様々なものと関係を切り結んで生きていくものであり、何よりもその特徴は、自分自身と関係して生きるものだということです。それでは私たちは、自分自身とどのような関係性のうちに生きているのでしょうか。また自分自身でもある身体と、どのような関係性をもって生きているのでしょうか。
確かに私たちは、自分と言う自己意識があるから自分なのであって、この自己意識がなくなれば、それは何か浮遊する精神だけのようなものであって、私が私で無くなってしまいます。この私が私に対する関係の持ち方によって、片足を失った時に一生悲嘆に暮れて生きていくか、それを乗り越えていのちを活かせて生きていくかが決まってくるのです。では私たちは、自分自身に対してどんな関係の持ち方をしているのでしょうか。ここで気づくことは、関係どころか、普段はいろいろなことに追われて生きていく中で、自分自身を意識してさえいないということです。そして身体も同じです。身体は、心の入れ物などではなく、まさに私の意識がそこで働く場であり、心と一体となった私そのものなのですが、その身体に対しても、私たちは意識を払っていません。かえって運動不足に暴飲暴食、加えて酒にたばこと身体を酷使することに余念がないばかりです。
じつは身体というのは、自分の意識の場であると共に、外界と接する接点(主観と客観をつなぐもの)でもある重要な存在です。だから自分の身体への関係の持ち方、配慮の仕方は、私の生活や他者との関わり方の基礎になってきます。自分の身体に配慮できないものは、じつは自分の生活も人生も本当には配慮できず、他者も配慮できないのです。人を育て生かしめる風景をテ-マに詩作を続けられている長田弘さんの詩をもじって言えば、「君はまず“身体”を慈しめよ、すべてはそれからだ!(長田さんのの詩は、身体の部分が“風景”です)」ということになるでしょうか。
では私たちは自分の身体とどういう関係を持てば良いのか、またどうすれば身体を配慮できる心を持つことができるのか。ここに身体と心との微妙な関係が浮上してきます。心が身体を配慮できるようになるような、身体に自然で心地よい状態をつくってあげるのです。それが姿勢であったり、呼吸法であったり、瞑想であったりするわけなのですけど、ますはこの身体とのバランスによる自分自身への気遣いを回復することによって、私たちは自分が取り戻せ、いろいろなことに敏感に気づくようになってきて、その後の行動の変化へとつながっていくのです。ではどう心と身体を整えていくのか、その時どんな変化が起こってくるのか。そのことを皆さんとご一緒に考えていきたいと思います。次回のパンセの集いは、5月12日の火曜日16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
ドーパミン、エンドルフィン
ただし、身体と心とは一体です。
皆 様 へ
私たちが本当に自分らしく生きて、しかも自分のために生きることが、そのまま他の人や生物のいのちの育みとつながっていく。またそうなるように、他者との関わり方やモノとの関わり方も思いやりに満ちたものに変わり、社会や経済のありようも、やさしく心づかいにあふれるものへと変わっていく。『パンセ・ドゥ・高野山』では、そのように生きられるよう自分を変え、またそのためのガイド役として『高野山の案内犬ゴン』をシンボルに戴いて、プロジェクトを推進しております。5月19日の火曜日も、そんな取り組みの一環として、パンセの集いを行います。表参道のフィルムクレッセントにおいて16時からです。
さて、そんなやさしく無理のない自分に変わって生きていけるようになるために、前回では、まず心と一体となった身体に着目してみました。現実を変えるのは困難だし、心も変えようと思って変えられるものではないので、心と一体となった身体に着目し、それを変えてみることによって心にも影響を及ぼし、自分を変えられる糸口が見つけていこうという試みです。じつはこの方法を、長い年月をかけて体系化したのが伝統宗教です。身体を本来の自然な状況に戻すことによって、心も自然な状況で作動し始め、その結果、自分も他者も生かす本源的ないのちの力が働き出すと考えたのです。
そこでまず、身体のバランスを自然な状態に戻す方法として、姿勢と呼吸法などがあります。そしてその自然な身体状態で、心の作用を整え直す方法が内観法です。また、こうした本来の自然な身体や心の働きを司る、いのち根源として“気”の循環というものも想定します。“気”というのは、素粒子が物質の根源であるとすれば、いのちの根源である粒子あるいはエネルギ-といったもので、自然界にも宇宙にも、このいのちの気の粒子であり力が満ちていると考えるのです。
普段の私たちの心身の状態というのは、中枢神経が優位に働き、主には外界の情報を取り、外界に働きかけようとして動いています。そのために、抹消神経の自律神経系においても、交感神経が副交感神経より優位に働き、内臓や血管を興奮させて過度に機能させようとします。心の働きにおいても、外にばかり意識が向かって、外から得た情報を自分なりによく吟味して消化して、自分のものとして組み立て直そうとする機能が、顧みられなくなってしまいます。このために身体のレベルでは、ストレスを増大させて内臓に負荷をかけたり、抹消の器官や部位にまで毛細血管を通じて血流や気流が行きわたらなくなってしまいます。それ故に酸素と二酸化炭素の代謝も滞り、そうした部分が病気の温床となっていくのです。また当然全身としての免疫力も低下していきます。一方心のレベルでは、外部の価値観に振り回されて、自分が無くなるという状況が生じてきます。よくエリ-トと呼ばれる人たちは、巧みなタイムマネ-ジメントで寸暇を惜しんで仕事をすると言われますが、それでは、外部に働きかける能力は高まるかもしれませんが、内的な能力は消耗するばかりで、やがては枯渇してしまいます。またこんな人物からは、期待できる創造性などは生まれてきません。残念ながら効率性が求められる現代社会にあっては、エリ-ト的な働き方は称賛されても、ボ~っと無駄な時間を浪費することに対しては、価値が認められません。でもじつは、このボ~っと時間を無駄に浪費している時にこそ、私たちの脳は全く別の部位が働いて、外部から得た情報を自分の者となるように、活発に処理しているのです。こうして自分のものとして情報を位置づけ直したところから、始めて確かな自分の認識や価値や創造力が組み上がっていくのです。
さてそこで、まず身体の自然なバランスの取戻しから考えてみます。最初に姿勢からです。私たちは、長年いろいろなストレスと闘いながら、身体の様々部位に負荷をかけて生活してきたものですから、当然身体のあちこちに、いろいろなゆがみや偏りが生じています。その偏りから様々な痛みや故障や病気が発症してきて、心の作用にも悪い影響を及ぼすのです。だからまずそれを、自然な状態に戻してやると、随分と楽になってきます。基本的には丹田に意識を集中させる方法を取ります。丹田というのは、お臍(へそ)の下の下腹部のあたりで、身体の重心のあるところです。イメ-ジとしては「腹を据える」という言葉があるように、体が大地と一体となって一番安定するポイントです。この時、背中は前かがみにも反った状態にもならない、最も自然な状態なります。立っている場合には、爪先立ちしてゆっくりかかとを下ろして、かかとがそっと地面につくぐらいのイメ-ジです。この姿勢で丹田(丹田といっても、重心なので一点をイメ-ジします)に意識を持っていきます。けっしてお腹に力を入れたり力んだりしてはいけません。ただ、上の方からだんだんに意識を下腹部に下ろしていって、どっしり安定するポイントを探すイメ-ジです。力を入れずに、ただ意識をそこに持っていくだけです。こうすると全身の体の力は抜けているのですが、押されても容易には動かない安定した状態となります。またこの状態で、しっかり足指で大地を蹴るように歩くと、足腰への偏った負荷も軽減されていくので、腰痛や膝の痛みも緩和されていきます。座っている場合には、2~3度肩を上下させて、両腕が最も自然に下りる所を探します。この姿勢で、同じく丹田(点・心)に意識を向けていきます。背中が前屈みになっていると、胸に意識が向かって呼吸が圧迫されます。逆に背中が反っていると、上腹部や肋骨の一番下の骨あたりに意識が向いて、背骨に緊張を感じます。両足はしっかりと足裏を床につけて、少し膝の間を開けて、どっしりと安定させます。両手は膝の上に軽く置き、当然背中は、椅子の背もたれから離すのですが、イメ-ジとしては、少し前屈みになって体に最も負担が無く、バランスをとる感覚です。正座の時も同じ要領で、少し膝を開いて、足の親指を重ねるなどしてバランスを取ります。座禅や阿字観を行う場合には、半跏趺坐(はんかふざ)か結跏趺坐(けっかふざ)に足を組んで、両膝をしっかり床につけて、その真ん中に頭の重さがくるようにして、手は印を結んで全体をバランスさせます。こうした状態が最も自然で、身体に負荷が少なく、また呼吸も楽に出来る状態なのです。これまでの人生で、身体にすでに歪みが生じて悪い癖がついてしまっているので、始めのうちはこの姿勢は楽に感じませんが、慣れてくると、最もムリなく長時間保てる姿勢だとわかってきます。
次に、この最も自然で楽でしかも長く保てる本来の姿勢で、呼吸の矯正を行っていきます。呼吸には大きく分けて外呼吸と内呼吸があります。外呼吸というのは、酸素を肺に取り込んで、二酸化炭素を吐き出す、私たちが日常意識して行える呼吸です。一方内呼吸というのは、肺から血管を通じて、身体の隅々にまで酸素を行きわたらせ、器官や細胞の機能を活性化させ、老廃物としての二酸化炭素を肺に戻す呼吸です。この呼吸は、私たちが意識して行えるものではなく、自律神経が司ります。ところが先ほど申し上げたように、私たちの意識は常に外に向かって活性化しているために、自律神経において、交感神経が優位な状況に保たれてバランスを崩す状態となっています。この乱れが、自立神経失調症などとなって、私たちに様々な病的症状を引き起こします。さらに、交感神経が優位で興奮したり怒ったり、“頭に血がのぼる”状況を続けている、毛細血管が委縮し、身体の細部や末端にまで血流と気流が行き渡らなくなってしまいます。こうしてその部分の機能が低下し、免疫力が低下して、病原菌やガン細胞への
抵抗力が失われることになってしまいます。
そのために、内臓や器官の働きを鎮静化させ全体として機能を調和させるように、副交感神経の働きを高めて、バランスさせていくことが必要となってきます。こうして緊張が取れて、ストレスが低下してくると、リラックスして本当に気持ち良い身体の状況になっていきます。このリラックスした身体の心地よさを味わい、その状況を求めるようになることが重要なのです。さて、自律神経は私たちの意識で調節できる神経ではないのですが、実は呼吸と大いに関係があります。吸う息の時に交感神経が働き、吐く息の時に副交感神経が働くのです。従って、吐く息に意識を向けていくことで、副交感神経の機能を高めていくことができます。通常中枢神経の機能のもとに、意識を働かせて生きている私たちの呼吸のイメ-ジは、「吸って吐く」というものです。そこでそれを、意識的に逆にするのです。つまり「吐いて吸う」のです。息を吐ききれば、自然に息はすっと入ってきます。これを繰り返すのです。さらに古来より用いられてきた阿吽(あうん)の呼吸を行います。吐く息を出来るだけゆっくりと口から吐いて、吐ききったら鼻からすっと息を吸うのです。この息をゆっくりと吐いている間に、血流と気流が、毛細血管の細部を通じて、身体の隅々にまで行きわたる様子をイメ-ジします。もし身体に悪い箇所があれば、その部分に血流と気流が通うことをイメ-ジします。慣れてくると、身体の細部や末端や悪い部分が、じんじんと暖かくなって敏感に感じられるようになります。そうなると、もうその身体の調和とリラックスした気持ちよさにまかせれば良いので、呼吸に意識を留める必要はありません。もちろん、吐いて吸うリズムで自然に呼吸は続けるのですが、その時の呼吸の回数は、1分間に数回程度にまで落ちる長い息となっています。これが“長生き”の語源となる呼吸の状態です。そしてまたこの時、自分の身体の微細な調子もわかってくるようになります。身体からのシグナルが、敏感に感じられるようになり、それに従って食べ物や食べる量を調節していけば良いのです。
このように、姿勢と呼吸を最も自然で心地よい状態に保って、次に自分の心の動きのバランスを取り戻す方法である、内観法(瞑想、黙想)に移っていきます。それでは、内観法とはいったいどんなものか、そまたれを行った時に、どんな心の変化が私たちに現れてくるのか。それについては、次回のパンセの集いで具体的に考えていってみたいと思います。5月19日の火曜日16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
まぎれもなく自分を生きて
思いやり
皆 様 へ
素晴らしい好天と気候に恵まれたゴ-ルデン・ウィ-クが終了し、いつまでもボ~っとしていたい今日この頃なのですが、はやそうもさせてもらえない日常がスタ-トしております。パンセの集いも、今度の火曜日5月12日から、またいつもどおりこつこつと毎週の集いを続けてまいります。16時から表参道のフィルムクレッセントです。
連休が終わって、さぁ頑張らねばと思うのですけど、どうにも調子が入らない個人的な気分と同様に、世の中でも、この間統一地方選挙があったり、いよいよ安保法制の国会審議が始まったり、大阪都構想の住民投票があったり、そしてヨーロッパではギリシアのデフォルト問題が大詰めを迎えたりと、きっと大変なことが起こっているのでしょうけど、どうにも他人事に思えて危機感の持てない私たちです。こうして世界はどんどん悪い方向に向かい、気づいた時には取り返しのつかない状況になってしまっているなどということもあるのかもしれませんが、危機はあまりにも多すぎて、すべての危機に反応して生きていたのでは身が持たないのも事実です。
そう考えると、こうして日常に埋没して生きるのも、けっして悪い面ばかりでなく、人間の大きな知恵の一つなのかもしれません。よく子供の頃の時間は長かったが、年を経るに従って1年はあっという間に過ぎてしまうという話を聞きますが、それは確かに道理のあることなのです。子供の頃は、まだ多くのものが未知で未体験であるため、毎日が驚きの連続です。でも四六時中そんなことをやっていると、神経がまいってしまいますし、またいちいち“未知との遭遇”への対応を考えているようだと、効率が悪くて日常生活なんて送れやしません。そこで人間は、“習慣”とか“惰性”とかいう素晴らしい知恵を編み出したのです。私たちは“毎日”を生活していきますが、しかしよく考えてみれば、毎日はけっして同じ内容ではありせん。今日に昨日とまったく同じことが繰り返し起こったのであれば、それは不気味で、人生にも人間にも新味は無く、進歩が無くなってしまいます。つまり、本当は毎日違ったことが無数に起こっているのですけど、私たちはその違いを無視して、同じように朝起きて、顔を洗って、出勤していきます。要するに余計なことは考えないで、無駄なエネルギ-は省いて、日々惰性で平凡にそして平安に生きているのです。これはすごい知恵です。そしてこの習慣の繰り返しの毎日になってしまうから、大人の時間は子供の時間よりも刺激が少なく、短く感じられてしまうのです。もちろん一部には、大人になっても毎日違いに気づいて、興奮して生きている人もいますが、それは奇人とか天才とか、聖書でいえば預言者とか言われる変な人たちで、そういう特異な気づきは、そういう人たちにまかせておけば良いのです。
ただし、普通の庶民である私たちにとっても、いやでもその習慣の平安を突き崩す事態や事件(危機)が襲い掛かってきて、必死でモノを考え、自分と現状を打開せねばならない時がやってきます。人生とはそういうものだからです。だからその時にこそエネルギ-を集中させて考えれば良いのであって、普段は惰性でボ~としていれば良いのです。けれども問題なのは、あまりにボ~っと鈍くなりすぎていると、危機が襲い掛かっているのになおそれに気づかず、引き続きボ~っとしているということが、私たちには起こってしまうということです。キリスト教の世界で最も重要な思想家の1人であるキェルケゴ-ルという人は(もっともキリスト教会内では無視されていますが)、こういう状態にある私たちを指して、“絶望”-死(破滅)に至る病にあると言います。無限に拓かれてあるはずの可能性を自ら閉ざし、世の中の流れに同調して(自分になることを放棄して、世間に身売りして)生きることに安住しているからで、『絶望状態にあることを知らないでいる絶望』の形態と評し、破滅が間近に忍び寄るのに気づかない絶望の最も危険な形態だと教えています。
まぁ、そんなことはことさら声を大きくしなくても、誰でも潜在的には気づいていることなのですが、それでも問題を先送りして日常的習慣に甘んじて生きてしまうのは、いったい何故なのでしょうか。それには、2つぐらいの原因があるかと思われます。1つは、本当に自分にとっての危機や重要な節目を選り分けて、深刻に察知する力が鈍っているということです。もう1つは、仮にこれはやばいと感じても、ではどうすれば良いかわからないので、先送りしてしまうということです。私たちにとって1番幸せなのは、普段は頭をつかわずボ~っと惰性でそれなりに楽しく生きていて、いざとういう時にだけ感性を働かせて、本当にやばいことだけをより早い段階で察知して対処するということでしょう。そしてその後は、以前よりもよい状態に移行して、そこで再びボ~っと惰性に入る。しかしそのためにはまず、自分にとっての危機を危機として察知し、身体反応としてアクションが起こせるような感受性を取り戻すことが必要になってきます。それではそれはどうすればそれが取り戻せるのか、まずそのことから考えていってみたいと思います。
さて、前回は統合智としての宗教ということに少し触れてみました。宗教は『教・信・行・証』であると言われます。まず教えがあって、それを信じて納得して受け入れ、行いによって納得したことを確認して更に深め、そして確信となったら今度は自分がその教えを他の人のために証して広めていく。このプロセスを別の言い方で、『身体が変われば心が変わる、心が変われば行いが変わる、行いが変われば現実が変わる』と表現致しました。行いが変われば、私たちの人やモノに対する接し方も変わるので、私たちの生活や仕事の仕方が変わって、現実が変わっていきます。そしてその変化の確信を、次々と他の人に伝えていくことによって、多くの人の間で人と人との接し方が変わっていけば、社会が変わっていきます。また多くの人の間で、モノとの接し方が変わっていけば、経済が変化していきます。この変化の一連のプロセスを包含する智慧が、宗教の智慧であるとご紹介申し上げたのです。だとすると、このプロセスでの出発点となるのは“身体(からだ)”ということになります。
私たちが困難に直面する時、あるいは求めていた思想や教えに出会ってわくわくどきどきする時、つまり平凡な日常が破られて考えさせられるような事態になる時には、最初にまず身体に緊張が走り、アドレナリンが分泌され、心拍数や血圧が上がってきます。こうした身体の変化が。心に影響を与えていくのです。また清々しい山の空気に触れたり、温泉にゆったりつかったりすると、心も和んで、平穏の中で生き返ったような気分になっていきます。あるいはもう少しシビアな事例でいうと、私たちが交通事故に遭って身体に障害を負ったり、顔に火傷を負ったり、また整形手術で自分のコンプレックスを取り去ったりすると、私たちの心はおろか、人格にも影響を与えていきます。このように身体の変化が心に影響を及ばすことは異論のないところでしょうが、問題なのは、その身体の変化を、心がどう受け留めるかということです。
身体というのは、非常に不思議な存在です。身体は物質ですが、単なる物質ではありません。もし物質
であるならば、物質の法則に従って、ある刺激に対しては同じ反応を示すはずです。でも事故で片足を失った場合、始めの衝撃こそ同じであったとしても、その後の受け止め方は、人によって異なってきます。それこそ絶望して一生悲嘆に暮れる人もある一方で、障害を乗り越えて生き、その生きる姿勢で他の人たちを励ますようになる人もいるのです。この違いが生じてくる原因は、身体の変化に対する心のを受け留め方の相違ということになってくるでしょう。
ではなぜこんな心の相違が生じてくるのか。ここで心というのは、意識の主体である私、精神または自己と言い換えて良いものです。その自己について、先ほどのキェルケゴ-ル先生は次のように言っています。『自己とは、自己自身に関係するところの関係である。』つまり私というのは、何かある私という固定した実体があるのではなく、様々なものと関係を切り結んで生きていくものであり、何よりもその特徴は、自分自身と関係して生きるものだということです。それでは私たちは、自分自身とどのような関係性のうちに生きているのでしょうか。また自分自身でもある身体と、どのような関係性をもって生きているのでしょうか。
確かに私たちは、自分と言う自己意識があるから自分なのであって、この自己意識がなくなれば、それは何か浮遊する精神だけのようなものであって、私が私で無くなってしまいます。この私が私に対する関係の持ち方によって、片足を失った時に一生悲嘆に暮れて生きていくか、それを乗り越えていのちを活かせて生きていくかが決まってくるのです。では私たちは、自分自身に対してどんな関係の持ち方をしているのでしょうか。ここで気づくことは、関係どころか、普段はいろいろなことに追われて生きていく中で、自分自身を意識してさえいないということです。そして身体も同じです。身体は、心の入れ物などではなく、まさに私の意識がそこで働く場であり、心と一体となった私そのものなのですが、その身体に対しても、私たちは意識を払っていません。かえって運動不足に暴飲暴食、加えて酒にたばこと身体を酷使することに余念がないばかりです。
じつは身体というのは、自分の意識の場であると共に、外界と接する接点(主観と客観をつなぐもの)でもある重要な存在です。だから自分の身体への関係の持ち方、配慮の仕方は、私の生活や他者との関わり方の基礎になってきます。自分の身体に配慮できないものは、じつは自分の生活も人生も本当には配慮できず、他者も配慮できないのです。人を育て生かしめる風景をテ-マに詩作を続けられている長田弘さんの詩をもじって言えば、「君はまず“身体”を慈しめよ、すべてはそれからだ!(長田さんのの詩は、身体の部分が“風景”です)」ということになるでしょうか。
では私たちは自分の身体とどういう関係を持てば良いのか、またどうすれば身体を配慮できる心を持つことができるのか。ここに身体と心との微妙な関係が浮上してきます。心が身体を配慮できるようになるような、身体に自然で心地よい状態をつくってあげるのです。それが姿勢であったり、呼吸法であったり、瞑想であったりするわけなのですけど、ますはこの身体とのバランスによる自分自身への気遣いを回復することによって、私たちは自分が取り戻せ、いろいろなことに敏感に気づくようになってきて、その後の行動の変化へとつながっていくのです。ではどう心と身体を整えていくのか、その時どんな変化が起こってくるのか。そのことを皆さんとご一緒に考えていきたいと思います。次回のパンセの集いは、5月12日の火曜日16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
ドーパミン、エンドルフィン
ただし、身体と心とは一体です。