■2015年5月24日 パンセ通信No.33『瞑想が拓く、生死を越えたいのちのつながり』
皆 様 へ
一杯の水の入ったグラスをかざして、禅僧のティク・ナット・ハンが、子供たちに語ります。『水に姿を変えた“雲さん”、あなたは死んでなんかいません。グラスの中の“雲さん”、空にいるのは楽しかったですか。さぞかしいい眺めだったでしょうね。美しい地球を楽しむ時間はありましたか。雲となって空に浮かぶのは素敵ですね。でも雨となって大地に降りてくるのも、捨てたものじゃないですよ。かわいい雲さん、空が恋しいですか。空に帰れるようにしてあげましょうか。今すぐ空に帰りたかったら、お鍋に入れて沸かしてあげましょう。ちょっと熱いけど、15分でまた空に帰れます。でも、ゆっくりしていって。地上も美しいですよ。私の体の中へ遊びに来ませんか。体のすみずみにまで行けるように、あなたをゆっくり飲み込んであげましょう。私の体は、すばらしい世界です。いろんな道を通って、肝臓さんや肺さん、腎臓さん、細胞さんたちみんなに会えますよ。数時間たったら、息として体から出てきて下さい。水蒸気となって私の吐く息について行けば、ゆっくり空へ上って、また雲になれますよ。それでは雲さん、Bon Voyage(良い旅を)!」
たった1杯のグラスに入った水から、これだけのことを感じ取れるティク・ナット・ハンの感性というのは、何と恵まれて豊かなものなのでしょうか。しかもここには、生死を越えたいのちの尊いつながりと、深い慈しみのまなざしがあります。そんないのちの豊かさに気づいて、日々を生きられるようになったら、どんなに素敵なことでしょうか。そんな願いを心に抱いて、5月26日火曜日のパンセの集いも、表参道のフィルムクレッセントで行います。いつもどおり16時からです。
さて私たちが、本当にやさしく平安で、いのちの慈しみ知って生きていけるようになるために、まず身息心-つまり姿勢と呼吸と心を整えることから始めることをお話しました。前回は、そのうち姿勢と呼吸の整え方について、ご説明致しました。姿勢を最も自然なバランスに保ち、吐く息を意識した呼吸法によって体の調和を取り戻すと、ほんとうにリラックスしてきて、心身の奥底から心地よい状態となってきます。何よりも、この心地よさを味わうことが大切です。この状態で、今度は意識を自分の内面に向けていきます。方法としては、外界からの情報や刺激を極力遮断して、身体を心地良い状態のままに、そっと動かさないように静かに置いてあげます。具体的には、テレビやPCやスマホなどのスィッチを切って、薄暗い静けさの中で、楽な姿勢のまま体を動かさないようにします。そうすれば、自然と意識は自分に向かい、自分の中に蓄積された記憶を整理し始めます。これが内観法(瞑想)のスタ-トです。
最初にいろいろなことが、次から次へと意識に浮かんできます。仕事の締切をどうしようとか、お客さんへの謝りの電話をどのようにかけようとか、その他家族のことや恋人のことなど人間関係から、果ては晩御飯のおかずまで、いろいろなことが浮かんでは消えていきます。心の中で気に掛かっていることや煩っていることが、次々と意識に上ってくるのです。その浮かんできたことを、そのままどんどん意識の上で流していって下さい。なんだ自分はこんなことを気にかけていたのかと、外から眺めるような気分で、意識が現れては消えるにまかせて下さい。憎い上司が浮かんできても、感情を交えて囚われないように気をつけて下さい。脳が、情報処理を始めているのです。普段の私たちは、寸暇を惜しんで外からの情報を詰め込み、それを継ぎはぎして資料をつくったり、答えを求めようとしたりします。しかもテレビのコマ-シャルでは、商品名が連呼して意識に刷り込まれ、最近ではサブリミナル効果といって、私たちの無意識までコントロ-ルして欲望を刺激しようとします。現代人が、“私”を無くしてしまう空しさに襲われるのも、無理のないことかもしれません。こうして自分が無くなってしまうので、自分の立ち位置からしっかり全体を把握して、本当に自分のための対応を考えるということが出来なくなってしまいます。そして私たちの行動は短絡的になり、頭に浮かぶ気になることから、感情にまかせて次々手を付けるということになってしまいます。結果として私たちは、まずい行動と対応を積み重ね、どんどん自分を窮地に追い込んでしまう結果となるのです。
ところで瞑想は、意識して行うものではありません。こんな自分になりたいとイメ-ジして、努力して目ざすものでもありません。むしろ、努力したり意識したりすることを止めなければなりません。楽な姿勢で、身体の自然な心地良さの中で、脳の持つ本来の機能に委ねるのです。自分の脳を信頼して下さい。リラックスした自然の心身のバランスの中で、私たちの中にある、本来のいのちの力の発現が、機能するにまかせて下さい。そうすると、外部から貯め込んだ膨大な情報を、脳が私のものとして整理し直し、組み立て直してくれるのです。こうして私たちに、確かな“私自身”が戻ってくることになります。瞑想は、この段階でも大きな効果が得られます。まず、いつも浮ついて不安や心配にかられていた自分の意識が、落ち着いて腹が据わってきます。同時に考えや行動が、気掛りなことに対して場当たり的に対応するのではなく、冷静に状況を見渡せるようになってきます。そして相手の思惑が見えてきたり、また長期的な目標を足元から実現していく1歩1歩の道筋が見えてきたりします。また世間の評価を気にすることなく、小さなことから着実に1つ1つ目標に向かって積み上げていく、忍耐と地道さも養われてくるのです。
そこでさらに深く瞑想を続けていくと、気になっていることの整理が一段落し、あまり意識にものごとが浮かばなくなってきます。そして少し退屈した気分にもなってきます。しかしそうなったら占めたものなのです。外部情報の自分なりの位置づけ直しが終わり、いよいよ脳が、意識のさらに下層にある本来のいのちの力を働かせはじめるのです。この時の状態は、もはや意識の流れに囚われず、ボ~っとした状態となっています。現代社会では、何もせずボ~っとしていることは評価されませんが、じつはボ~っとしている時に脳は、普段とは異なる部位が活発に機能し、重要な情報処理を行っているのです。この段階までくれば、もはや私たちは、答えを求めて外に情報を渉猟するようなことは行わず、少ない情報でもあるだけのもので、自分なりに考えてみようとします。そして確かな自分の実感でもって、良し悪しを判断出来るようにもなってきます。こうして私たちは、誰のものでもない確かな自分の考え、また確信が持てるようになってくるのです。自分でしっかり考えるのだから、今まで気づかなかったいろいろなことも見えてきます。アイデアや創意工夫も湧いてきます。つまり創造性が発揮されるようにもなってくるのです。何もしないでボ~っとしているだけでです。不思議ですね。でももっと不思議なのは、こんなに効果があることなのに、私たちはいつも時間を惜しんで、ものの10分間もボ~っとしていることが出来ないことです。このように瞑想は、言い換えればボ~っとしいることの効果を高める、方法論と言っても過言ではないのかもしれません。
さて、この段階を越えてさらに瞑想を続けていくと、私たちの心の深層にある、本来のいのちの働きといったものに突き当たっていきます。以前パンセ通信No.24『正しい宗教と楽しく役立つ宗教』でも述べたことなのですが、私たちの意識の中には、36億年を生き抜いてきた生命の叡知が、遺伝情報となって蓄積されています。生命が、滅びずにいのちを未来に渡ってつないでいき、繁栄させていくための叡知です。利害にもとづく損得関係の知恵や、支配被支配による他者を抑圧したうえでの自分を繁栄させる知恵では、生命は容易に滅びに至ってしまいます。すべての生命が、共にいのちを慈しみ合い、共にいのちを支え合って始めて、いのちは全体として調和して、繁栄していくことが出来るのです。他のいのちの苦しみが、自分のいのちの苦しみとして感じられ、他のいのちの喜びが、自分のこととして喜べる世界です。慈しみと憐みに満ちあふれた、光り輝くいのちの実相の世界で、そこではすべていのちが、一つになって分かれていないのです。このいのちの実相のことを、自他未分離とか三昧(さんまい)の境地とも呼び、この慈しみによって結ばれたいのちは、生死を越えてつながって支え合っているのです。
この限りなく慈愛に満ちて、互いに生かしあういのちの尊さを実感する時、萎えた私たちのいのちは、生死を越えた無数のいのちに励まれていることがわかり、再び生き生きと力を取戻していきます。そして、私たちの世界の見え方と接し方が変わってくるのです。もはや自分の損得は先に立たず、どうすれば他のいのちを立ち上げることが出来るのか、そのことが大切になってきます。そして他者のいのちと自分のいのちが、いやすべてのいのちが深い憐みと慈しみのうちに結ばれていることを知って、生きていけるようになるのです。こうして私たちの生活と仕事は、不安と恐れに彩られたものから、いのちを配慮し合う喜びに満ちた輝かしいものへと、劇的に変化していくことになります。
伝統宗教の瞑想の実際では、気掛りなことについての脳の情報処理が終わった段階で、例えば真言密教の場合には月輪観や阿字観といった観法を用いて、いのちの実相へとまっすぐに至れるように、意識の働きを円滑に整える方法を採っていきます。この身息心(姿勢・呼吸・心)を整えて、いのちの実相から自分を変えて、人とモノとの関わり方を変えて、人生と社会を変えていける道を、さらに詳しく整理して考えていければと思います。次回のパンセの集いは、5月26日の火曜日です。お時間許す方は、ご参加下さい。
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一杯の水の入ったグラスをかざして、禅僧のティク・ナット・ハンが、子供たちに語ります。『水に姿を変えた“雲さん”、あなたは死んでなんかいません。グラスの中の“雲さん”、空にいるのは楽しかったですか。さぞかしいい眺めだったでしょうね。美しい地球を楽しむ時間はありましたか。雲となって空に浮かぶのは素敵ですね。でも雨となって大地に降りてくるのも、捨てたものじゃないですよ。かわいい雲さん、空が恋しいですか。空に帰れるようにしてあげましょうか。今すぐ空に帰りたかったら、お鍋に入れて沸かしてあげましょう。ちょっと熱いけど、15分でまた空に帰れます。でも、ゆっくりしていって。地上も美しいですよ。私の体の中へ遊びに来ませんか。体のすみずみにまで行けるように、あなたをゆっくり飲み込んであげましょう。私の体は、すばらしい世界です。いろんな道を通って、肝臓さんや肺さん、腎臓さん、細胞さんたちみんなに会えますよ。数時間たったら、息として体から出てきて下さい。水蒸気となって私の吐く息について行けば、ゆっくり空へ上って、また雲になれますよ。それでは雲さん、Bon Voyage(良い旅を)!」
たった1杯のグラスに入った水から、これだけのことを感じ取れるティク・ナット・ハンの感性というのは、何と恵まれて豊かなものなのでしょうか。しかもここには、生死を越えたいのちの尊いつながりと、深い慈しみのまなざしがあります。そんないのちの豊かさに気づいて、日々を生きられるようになったら、どんなに素敵なことでしょうか。そんな願いを心に抱いて、5月26日火曜日のパンセの集いも、表参道のフィルムクレッセントで行います。いつもどおり16時からです。
さて私たちが、本当にやさしく平安で、いのちの慈しみ知って生きていけるようになるために、まず身息心-つまり姿勢と呼吸と心を整えることから始めることをお話しました。前回は、そのうち姿勢と呼吸の整え方について、ご説明致しました。姿勢を最も自然なバランスに保ち、吐く息を意識した呼吸法によって体の調和を取り戻すと、ほんとうにリラックスしてきて、心身の奥底から心地よい状態となってきます。何よりも、この心地よさを味わうことが大切です。この状態で、今度は意識を自分の内面に向けていきます。方法としては、外界からの情報や刺激を極力遮断して、身体を心地良い状態のままに、そっと動かさないように静かに置いてあげます。具体的には、テレビやPCやスマホなどのスィッチを切って、薄暗い静けさの中で、楽な姿勢のまま体を動かさないようにします。そうすれば、自然と意識は自分に向かい、自分の中に蓄積された記憶を整理し始めます。これが内観法(瞑想)のスタ-トです。
最初にいろいろなことが、次から次へと意識に浮かんできます。仕事の締切をどうしようとか、お客さんへの謝りの電話をどのようにかけようとか、その他家族のことや恋人のことなど人間関係から、果ては晩御飯のおかずまで、いろいろなことが浮かんでは消えていきます。心の中で気に掛かっていることや煩っていることが、次々と意識に上ってくるのです。その浮かんできたことを、そのままどんどん意識の上で流していって下さい。なんだ自分はこんなことを気にかけていたのかと、外から眺めるような気分で、意識が現れては消えるにまかせて下さい。憎い上司が浮かんできても、感情を交えて囚われないように気をつけて下さい。脳が、情報処理を始めているのです。普段の私たちは、寸暇を惜しんで外からの情報を詰め込み、それを継ぎはぎして資料をつくったり、答えを求めようとしたりします。しかもテレビのコマ-シャルでは、商品名が連呼して意識に刷り込まれ、最近ではサブリミナル効果といって、私たちの無意識までコントロ-ルして欲望を刺激しようとします。現代人が、“私”を無くしてしまう空しさに襲われるのも、無理のないことかもしれません。こうして自分が無くなってしまうので、自分の立ち位置からしっかり全体を把握して、本当に自分のための対応を考えるということが出来なくなってしまいます。そして私たちの行動は短絡的になり、頭に浮かぶ気になることから、感情にまかせて次々手を付けるということになってしまいます。結果として私たちは、まずい行動と対応を積み重ね、どんどん自分を窮地に追い込んでしまう結果となるのです。
ところで瞑想は、意識して行うものではありません。こんな自分になりたいとイメ-ジして、努力して目ざすものでもありません。むしろ、努力したり意識したりすることを止めなければなりません。楽な姿勢で、身体の自然な心地良さの中で、脳の持つ本来の機能に委ねるのです。自分の脳を信頼して下さい。リラックスした自然の心身のバランスの中で、私たちの中にある、本来のいのちの力の発現が、機能するにまかせて下さい。そうすると、外部から貯め込んだ膨大な情報を、脳が私のものとして整理し直し、組み立て直してくれるのです。こうして私たちに、確かな“私自身”が戻ってくることになります。瞑想は、この段階でも大きな効果が得られます。まず、いつも浮ついて不安や心配にかられていた自分の意識が、落ち着いて腹が据わってきます。同時に考えや行動が、気掛りなことに対して場当たり的に対応するのではなく、冷静に状況を見渡せるようになってきます。そして相手の思惑が見えてきたり、また長期的な目標を足元から実現していく1歩1歩の道筋が見えてきたりします。また世間の評価を気にすることなく、小さなことから着実に1つ1つ目標に向かって積み上げていく、忍耐と地道さも養われてくるのです。
そこでさらに深く瞑想を続けていくと、気になっていることの整理が一段落し、あまり意識にものごとが浮かばなくなってきます。そして少し退屈した気分にもなってきます。しかしそうなったら占めたものなのです。外部情報の自分なりの位置づけ直しが終わり、いよいよ脳が、意識のさらに下層にある本来のいのちの力を働かせはじめるのです。この時の状態は、もはや意識の流れに囚われず、ボ~っとした状態となっています。現代社会では、何もせずボ~っとしていることは評価されませんが、じつはボ~っとしている時に脳は、普段とは異なる部位が活発に機能し、重要な情報処理を行っているのです。この段階までくれば、もはや私たちは、答えを求めて外に情報を渉猟するようなことは行わず、少ない情報でもあるだけのもので、自分なりに考えてみようとします。そして確かな自分の実感でもって、良し悪しを判断出来るようにもなってきます。こうして私たちは、誰のものでもない確かな自分の考え、また確信が持てるようになってくるのです。自分でしっかり考えるのだから、今まで気づかなかったいろいろなことも見えてきます。アイデアや創意工夫も湧いてきます。つまり創造性が発揮されるようにもなってくるのです。何もしないでボ~っとしているだけでです。不思議ですね。でももっと不思議なのは、こんなに効果があることなのに、私たちはいつも時間を惜しんで、ものの10分間もボ~っとしていることが出来ないことです。このように瞑想は、言い換えればボ~っとしいることの効果を高める、方法論と言っても過言ではないのかもしれません。
さて、この段階を越えてさらに瞑想を続けていくと、私たちの心の深層にある、本来のいのちの働きといったものに突き当たっていきます。以前パンセ通信No.24『正しい宗教と楽しく役立つ宗教』でも述べたことなのですが、私たちの意識の中には、36億年を生き抜いてきた生命の叡知が、遺伝情報となって蓄積されています。生命が、滅びずにいのちを未来に渡ってつないでいき、繁栄させていくための叡知です。利害にもとづく損得関係の知恵や、支配被支配による他者を抑圧したうえでの自分を繁栄させる知恵では、生命は容易に滅びに至ってしまいます。すべての生命が、共にいのちを慈しみ合い、共にいのちを支え合って始めて、いのちは全体として調和して、繁栄していくことが出来るのです。他のいのちの苦しみが、自分のいのちの苦しみとして感じられ、他のいのちの喜びが、自分のこととして喜べる世界です。慈しみと憐みに満ちあふれた、光り輝くいのちの実相の世界で、そこではすべていのちが、一つになって分かれていないのです。このいのちの実相のことを、自他未分離とか三昧(さんまい)の境地とも呼び、この慈しみによって結ばれたいのちは、生死を越えてつながって支え合っているのです。
この限りなく慈愛に満ちて、互いに生かしあういのちの尊さを実感する時、萎えた私たちのいのちは、生死を越えた無数のいのちに励まれていることがわかり、再び生き生きと力を取戻していきます。そして、私たちの世界の見え方と接し方が変わってくるのです。もはや自分の損得は先に立たず、どうすれば他のいのちを立ち上げることが出来るのか、そのことが大切になってきます。そして他者のいのちと自分のいのちが、いやすべてのいのちが深い憐みと慈しみのうちに結ばれていることを知って、生きていけるようになるのです。こうして私たちの生活と仕事は、不安と恐れに彩られたものから、いのちを配慮し合う喜びに満ちた輝かしいものへと、劇的に変化していくことになります。
伝統宗教の瞑想の実際では、気掛りなことについての脳の情報処理が終わった段階で、例えば真言密教の場合には月輪観や阿字観といった観法を用いて、いのちの実相へとまっすぐに至れるように、意識の働きを円滑に整える方法を採っていきます。この身息心(姿勢・呼吸・心)を整えて、いのちの実相から自分を変えて、人とモノとの関わり方を変えて、人生と社会を変えていける道を、さらに詳しく整理して考えていければと思います。次回のパンセの集いは、5月26日の火曜日です。お時間許す方は、ご参加下さい。