■2015年5月31日 パンセ通信No.34『慈しみのいのちの世界と、現実との橋渡し』
皆 様 へ
これまで身息心(姿勢・呼吸・心)を整えて、身体と酸素そして気の流れの自然なバランスを取り戻して、平安な心地よさのうちに心を内観し、自分を含めたすべてのいのちを愛おしむ柔和な心境に至る道を考えてきました。こうして心が変えられたところで、次に私たちの行いが変わり、人やモノとの関わり方が変わり、人生や世界が優しいまなざしの内に創造性豊かに変わっていくこと出来るように、そのステップをご一緒に考えていければと思います。次回のパンセの集いは、6月2日の火曜日です。いつもどおり16時から、表参道のフィルムクレッセントで行います。
前回は、内観・瞑想(黙想)の筋道についてお話を致しました。私たちの身体と心を、これまでの歪みや煩いから矯正し、本来の自然なバランスに戻してあげると、私たちの中に眠っていたいのちの力が働き始めます。その力は、私たちの心と身体を癒し、脳からはセロトニンやオキシトシンなどのホルモンを分泌して、いのちの本来のあり方について私たちに気づかせてくれます。いのちの本来は、自己保存のために互いにいがみ合って、生存競争を繰り広げるようなものではありません。すべてのいのちが支え合い、大きな調和のうちに互いに生かし合って生きているのです。私たちはすぐに、苦しみや怒りや憎しみに囚われて世界を見てしまいますが、実際には苦しみも喜びも、すべてのものは移ろってゆき、固定されたものも、永遠なものも、実体としては何もありません。しかしその移ろいゆく現象の背後で、生命は大きな慈しみと憐みの意志のもとに、すべて1つにつながっており、互いに配慮しあい、励ましあい、美しいハ-モニ-を奏でているのです。いのちは、小さなウィルスに至るまでどれ1つ消えて無くなることなどありません。雲と水との関係のように、ただ姿を変えて変容していくだけです。私のいのちも、無数のいのちから形づくられ、私もまた他の無数のいのちをつくっていきます。こうしていのちは本来、けっして滅びることなく、さらに多くのいのちを形づくりながら1つに連なって、より大きな美しい調和へと変容を続けていくのです。
このいのちの実相に触れた時、私たちは心の底から感謝と柔和の平安な気持ちに包まれ、嬉しさとやさしさが込み上げてきます。これが内観・瞑想によって至る三昧や禅定、あるいは涅槃とも言ってよい、自他一如のいのちの境地のイメ-ジです。しかしここで注意しなくてはならないのは、瞑想はいのちの実相に触れて、三昧の境地に至ることだけが目的ではないということです。むしろここから後の作法や手続きの方が、重要とも言えるのです。その三昧のいのちの境地と、現実の生活とを、私たちは橋渡ししていかなければならないからです。そしてじつはそれこそが、伝統宗教が最も大切にする智慧とわざの部分と言って良いのです。
確かに、ごく少数の卓越した修行者の場合には、その方が三昧の境地に至り、そこから祈り続けることに大きな意味があります。それだけで宇宙全体のいのちの様相が変わり、より一層希望とやすらぎに満ちたものへと変化していくからです。実際にお大師様(弘法大師空海)は、高野山奥の院の御廟にあって禅定に入られ、今も私たちのために祈り、1人1人の求めに寄り添って救済を続けておられます。また主イエス・キリストは、全能の神の右に座して私たちをとりなし、救いの手をさし伸べ続けておられます。事実どれほど多くの迷える魂が、歴史を通じてこうした聖なる存在によって救われ、立ち直ってまた確かな自分のいのちの物語を紡いでいったことでしょうか。
しかし私たち凡人の場合には、そうはいきません。中には自分1人救われたと悦に入って、自分だけの心地よい妄想の世界に遊んでいるような者もおりますが、そんな逃避行為はお話になりません。ましてや、自分は悟ったと優越感を吹聴し、教祖気取りで周囲の人たちをひれ伏させて、従わぬ人々を裁こうとする者など、全くの論外で罰当たりです。
大切なことは、自分が意識の深層で垣間見た本源のいのちの実相を、罪と執着の満てる現実の俗世に橋渡しし、いかに自分の人生をそのいのちの本来のあり方に寄り添わせるようにしていけるかということです。そして少しでも世界を、愛と慈しみで荘厳された調和へと回復していけるかということです。それが密教でいえば即身成仏・密厳国土ということであり、また阿弥陀仏の浄土であり、キリスト教の神の支配ということになるのです。そして、その実現に向けた現実生活での実践の歩みが、利他行・菩薩行であり、信仰者の生きる道ということになるのです。
ここで菩薩行や信仰者の歩みという言葉を使って、ぎょっとされる方もあるかもしれませんが、じつはそれは何も特別なことではないのです。私たちが確かな生きがいを感じて、人生をより良く生きていこうとするさまを、言い換えているにすぎないのです。もちろん僧籍や聖職にある方々と、私たち人口の大半を占める庶民とでは、その役割とするところは異なってきます。僧侶や聖職者の役割は、三昧の境地から得た本来のいのちの実相を、それを知らずにいる庶民に伝え、利害得失で傷つけあう生き方から、共に生かし合う慈しみのいのちへと招き入れ、そのいのちに生きることを支えることにあります。一方私たち庶民の課題は、何よりも自分自身のいのちのあり方を変えていくことです。人のいのちの幸せが、自分のいのちの幸せとなるような、人と世界に役立つ意味と価値ある人生の嬉しさに、歩めるようになることです。
そのために、ただ三昧のいのちの境地を味わうばかりではいけません。そのいのちの境地を、現実の生活につないでいかなくてはなりません。そこで瞑想において大切となってくるのは、慈しみに満ちた境地を保持しながら、ゆっくりと意識を現実に戻していくプロセスです。半眼から目を見開いて光を取り入れ、息を強めて深呼吸して、外呼吸を取り戻していきます。身体をゆっくり揺らして、半跏趺坐(はんかふざ)または結跏趺坐(けっかふざ)に足を結んでいる場合は足を解いて、全身に血液を巡らせていきます。この時の、心も身体もまた元に戻っていく解き放たれた感覚が重要なのです。柔和な心の状態のままに、閉ざしていた外界の刺激と再び接していく際の、その時の意識に結ばれる世界の像が重要となってくるのです。
以前滝に打たれる行を行っている修行者の方の、お話を伺う機会がありました。大切なことは滝に打たれるそのことではなく、その後の心身の状況だとおっしゃっていました。凍えるような冬の日に滝に打たれると、身体はほんとうに冷え込みます。でもその後は、体の芯から暖かさがにじみ出て来て、1日中ぽかぽかとした体感に包まれるそうです。この身体の芯から発する暖かさが、心の中も暖かく包みこみ、見るもの聞くもの接するもののすべてが、暖かい優しい気持ちから捉えることが出来るようになるとのことでした。この暖かい外界に対するまなざしこそが、大切なのです。私たちも心地良くリラックスした瞑想の境地から、ゆっくりと心身を現実に戻す時に、その境地のままに世界を捉えられるようになります。普段は意識しない鳥たちの讃美のさえずりが耳を捉え、道端の草花たちが挨拶を交わしているのがわかってきます。微細な空気中の粒子たちが、いのちの喜びに光輝いてダンスし、世界が光に包まれていることがわかってきます。
このどこまでもやさしく暖かい感覚で、世界を捉えていくことが大事なのです。その時私たちのまなざしは、もはや不安や恐れや焦りから世界を捉えようとはしません。自分の利害のための勝手な対象として、人やモノを自分の利用手段として見るようなことはしません。そこにあるいのちに寄り添い、いかにそのいのちの力を高めていけるか。そこにあるモノたちと、いかに豊かないのちの物語をつくっていけるか。世界と自分との関係が、全く異なって見えてきます。そしていのちを互いに高めあっていくための、新しい可能性が見えてくるのです。自分の儲けが優先される目では見えなかった可能性が、無限に開けて見えてきます。そしてこの時私たちには、多くのインスピレ-ションと創造性が開示されてくるのです。自分の利益のための創造性など、結局は自分と人を不幸にするだけですが、人と自分のいのちを生かす創造性には、私たちの思いを越えた啓示が次々に与えられて、私たちが自分のすぐ身の回りの日常から、奇跡をもたらす1歩を踏み出していくことが出来るようになるのです。
こうして私たちは、瞑想の境地から現実の世界に戻る過程において、世界をいのちの育みの相から捉えられるようになり、私たちの日常の行いを変えていける手掛かりをつかめるようになるのです。もちろん現実のプロセスは、それほど容易なものではありません。すぐに私たちの意識は、現実の煩いと利害の世界に連れ戻されてしまいます。しかし、あせってはなりません。効率性と時間が重視される現代においては、何事も即効性が求められるのですが、こればっかりはそうはいきません。長い時間をかけて自分のいのちを歪めてきたのですから、元に戻すのにも時間がかかります。でも地道に、心身の本来の心地よさに身をまかせていのちの力が働くことを繰り返せば、何週間か何ケ月かの後には、やがて自分の世界の捉え方と、自分の現実への接し方が変わってきているのに気づくはずです。
この小さな変化をさらにしっかりと育んで、私たち庶民が自分の生活と働き方を変えていけるようになるために、そして人も自分も幸せに意味と価値ある人生を送っていけるようになるために、筋道を立てて考えていきたいと思います。パンセの集いは、6月2日今度の火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
これまで身息心(姿勢・呼吸・心)を整えて、身体と酸素そして気の流れの自然なバランスを取り戻して、平安な心地よさのうちに心を内観し、自分を含めたすべてのいのちを愛おしむ柔和な心境に至る道を考えてきました。こうして心が変えられたところで、次に私たちの行いが変わり、人やモノとの関わり方が変わり、人生や世界が優しいまなざしの内に創造性豊かに変わっていくこと出来るように、そのステップをご一緒に考えていければと思います。次回のパンセの集いは、6月2日の火曜日です。いつもどおり16時から、表参道のフィルムクレッセントで行います。
前回は、内観・瞑想(黙想)の筋道についてお話を致しました。私たちの身体と心を、これまでの歪みや煩いから矯正し、本来の自然なバランスに戻してあげると、私たちの中に眠っていたいのちの力が働き始めます。その力は、私たちの心と身体を癒し、脳からはセロトニンやオキシトシンなどのホルモンを分泌して、いのちの本来のあり方について私たちに気づかせてくれます。いのちの本来は、自己保存のために互いにいがみ合って、生存競争を繰り広げるようなものではありません。すべてのいのちが支え合い、大きな調和のうちに互いに生かし合って生きているのです。私たちはすぐに、苦しみや怒りや憎しみに囚われて世界を見てしまいますが、実際には苦しみも喜びも、すべてのものは移ろってゆき、固定されたものも、永遠なものも、実体としては何もありません。しかしその移ろいゆく現象の背後で、生命は大きな慈しみと憐みの意志のもとに、すべて1つにつながっており、互いに配慮しあい、励ましあい、美しいハ-モニ-を奏でているのです。いのちは、小さなウィルスに至るまでどれ1つ消えて無くなることなどありません。雲と水との関係のように、ただ姿を変えて変容していくだけです。私のいのちも、無数のいのちから形づくられ、私もまた他の無数のいのちをつくっていきます。こうしていのちは本来、けっして滅びることなく、さらに多くのいのちを形づくりながら1つに連なって、より大きな美しい調和へと変容を続けていくのです。
このいのちの実相に触れた時、私たちは心の底から感謝と柔和の平安な気持ちに包まれ、嬉しさとやさしさが込み上げてきます。これが内観・瞑想によって至る三昧や禅定、あるいは涅槃とも言ってよい、自他一如のいのちの境地のイメ-ジです。しかしここで注意しなくてはならないのは、瞑想はいのちの実相に触れて、三昧の境地に至ることだけが目的ではないということです。むしろここから後の作法や手続きの方が、重要とも言えるのです。その三昧のいのちの境地と、現実の生活とを、私たちは橋渡ししていかなければならないからです。そしてじつはそれこそが、伝統宗教が最も大切にする智慧とわざの部分と言って良いのです。
確かに、ごく少数の卓越した修行者の場合には、その方が三昧の境地に至り、そこから祈り続けることに大きな意味があります。それだけで宇宙全体のいのちの様相が変わり、より一層希望とやすらぎに満ちたものへと変化していくからです。実際にお大師様(弘法大師空海)は、高野山奥の院の御廟にあって禅定に入られ、今も私たちのために祈り、1人1人の求めに寄り添って救済を続けておられます。また主イエス・キリストは、全能の神の右に座して私たちをとりなし、救いの手をさし伸べ続けておられます。事実どれほど多くの迷える魂が、歴史を通じてこうした聖なる存在によって救われ、立ち直ってまた確かな自分のいのちの物語を紡いでいったことでしょうか。
しかし私たち凡人の場合には、そうはいきません。中には自分1人救われたと悦に入って、自分だけの心地よい妄想の世界に遊んでいるような者もおりますが、そんな逃避行為はお話になりません。ましてや、自分は悟ったと優越感を吹聴し、教祖気取りで周囲の人たちをひれ伏させて、従わぬ人々を裁こうとする者など、全くの論外で罰当たりです。
大切なことは、自分が意識の深層で垣間見た本源のいのちの実相を、罪と執着の満てる現実の俗世に橋渡しし、いかに自分の人生をそのいのちの本来のあり方に寄り添わせるようにしていけるかということです。そして少しでも世界を、愛と慈しみで荘厳された調和へと回復していけるかということです。それが密教でいえば即身成仏・密厳国土ということであり、また阿弥陀仏の浄土であり、キリスト教の神の支配ということになるのです。そして、その実現に向けた現実生活での実践の歩みが、利他行・菩薩行であり、信仰者の生きる道ということになるのです。
ここで菩薩行や信仰者の歩みという言葉を使って、ぎょっとされる方もあるかもしれませんが、じつはそれは何も特別なことではないのです。私たちが確かな生きがいを感じて、人生をより良く生きていこうとするさまを、言い換えているにすぎないのです。もちろん僧籍や聖職にある方々と、私たち人口の大半を占める庶民とでは、その役割とするところは異なってきます。僧侶や聖職者の役割は、三昧の境地から得た本来のいのちの実相を、それを知らずにいる庶民に伝え、利害得失で傷つけあう生き方から、共に生かし合う慈しみのいのちへと招き入れ、そのいのちに生きることを支えることにあります。一方私たち庶民の課題は、何よりも自分自身のいのちのあり方を変えていくことです。人のいのちの幸せが、自分のいのちの幸せとなるような、人と世界に役立つ意味と価値ある人生の嬉しさに、歩めるようになることです。
そのために、ただ三昧のいのちの境地を味わうばかりではいけません。そのいのちの境地を、現実の生活につないでいかなくてはなりません。そこで瞑想において大切となってくるのは、慈しみに満ちた境地を保持しながら、ゆっくりと意識を現実に戻していくプロセスです。半眼から目を見開いて光を取り入れ、息を強めて深呼吸して、外呼吸を取り戻していきます。身体をゆっくり揺らして、半跏趺坐(はんかふざ)または結跏趺坐(けっかふざ)に足を結んでいる場合は足を解いて、全身に血液を巡らせていきます。この時の、心も身体もまた元に戻っていく解き放たれた感覚が重要なのです。柔和な心の状態のままに、閉ざしていた外界の刺激と再び接していく際の、その時の意識に結ばれる世界の像が重要となってくるのです。
以前滝に打たれる行を行っている修行者の方の、お話を伺う機会がありました。大切なことは滝に打たれるそのことではなく、その後の心身の状況だとおっしゃっていました。凍えるような冬の日に滝に打たれると、身体はほんとうに冷え込みます。でもその後は、体の芯から暖かさがにじみ出て来て、1日中ぽかぽかとした体感に包まれるそうです。この身体の芯から発する暖かさが、心の中も暖かく包みこみ、見るもの聞くもの接するもののすべてが、暖かい優しい気持ちから捉えることが出来るようになるとのことでした。この暖かい外界に対するまなざしこそが、大切なのです。私たちも心地良くリラックスした瞑想の境地から、ゆっくりと心身を現実に戻す時に、その境地のままに世界を捉えられるようになります。普段は意識しない鳥たちの讃美のさえずりが耳を捉え、道端の草花たちが挨拶を交わしているのがわかってきます。微細な空気中の粒子たちが、いのちの喜びに光輝いてダンスし、世界が光に包まれていることがわかってきます。
このどこまでもやさしく暖かい感覚で、世界を捉えていくことが大事なのです。その時私たちのまなざしは、もはや不安や恐れや焦りから世界を捉えようとはしません。自分の利害のための勝手な対象として、人やモノを自分の利用手段として見るようなことはしません。そこにあるいのちに寄り添い、いかにそのいのちの力を高めていけるか。そこにあるモノたちと、いかに豊かないのちの物語をつくっていけるか。世界と自分との関係が、全く異なって見えてきます。そしていのちを互いに高めあっていくための、新しい可能性が見えてくるのです。自分の儲けが優先される目では見えなかった可能性が、無限に開けて見えてきます。そしてこの時私たちには、多くのインスピレ-ションと創造性が開示されてくるのです。自分の利益のための創造性など、結局は自分と人を不幸にするだけですが、人と自分のいのちを生かす創造性には、私たちの思いを越えた啓示が次々に与えられて、私たちが自分のすぐ身の回りの日常から、奇跡をもたらす1歩を踏み出していくことが出来るようになるのです。
こうして私たちは、瞑想の境地から現実の世界に戻る過程において、世界をいのちの育みの相から捉えられるようになり、私たちの日常の行いを変えていける手掛かりをつかめるようになるのです。もちろん現実のプロセスは、それほど容易なものではありません。すぐに私たちの意識は、現実の煩いと利害の世界に連れ戻されてしまいます。しかし、あせってはなりません。効率性と時間が重視される現代においては、何事も即効性が求められるのですが、こればっかりはそうはいきません。長い時間をかけて自分のいのちを歪めてきたのですから、元に戻すのにも時間がかかります。でも地道に、心身の本来の心地よさに身をまかせていのちの力が働くことを繰り返せば、何週間か何ケ月かの後には、やがて自分の世界の捉え方と、自分の現実への接し方が変わってきているのに気づくはずです。
この小さな変化をさらにしっかりと育んで、私たち庶民が自分の生活と働き方を変えていけるようになるために、そして人も自分も幸せに意味と価値ある人生を送っていけるようになるために、筋道を立てて考えていきたいと思います。パンセの集いは、6月2日今度の火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。