■2015年6月14日 パンセ通信No.36『幸せの内実と条件-ゴンのCDと映画の役割』
皆 様 へ
幸せとは一体何でしょうか。そしてまた何があれば幸せになれるのでしょうか。そしてどういう条件が整えば、私たちが不安や恐れを越えて、本当に幸せに暮らしていける社会や経済の仕組みをつくっていくことが出来るのでしょうか。今週から再びこの問題をテ-マとして、今まで考えてきたことを整理しつつ、取り組んでいってみたいと思います。次回のパンセの集いは、6月16日の火曜日16時からです。いつものとおり、表参道のフィルムクレッセントで行います。
幸せとは何でしょうか?そこでまず、私たちは何があれば幸せと思えるか、ということから考えていってみたいと思います。お金があれば幸せでしょうか?これは誰でもわかることですけど、お金は幸せになるための必要条件ではあっても、十分条件ではありません。お金持ちであっても、不幸な人はたくさんいます。では、健康であれば幸せでしょうか?でも果たして、心身ともに本当に健康な人などいるのでしょうか。逆に、病気を持っていれば幸せになれないのでしょうか。ならば、頭が良ければ幸せでしょうか?高い地位につけば幸せでしょうか?美人であれば幸せでしょうか?一流大学を卒業し一流企業に就職すれば、幸せでしょうか?そしてきわめつけは、宝くじに当たれば幸せなのでしょうか?
ここにあげた幾つかのことは、私たちが幸せについて考える時に、たいてい幸せの要素や条件として頭をよぎるものです。そしてここから浮かんでくることは、どうやら私たちは、他の人には手に入らない世の中に稀なものが、自分にだけは手に入れば、幸せになれると考えているようだということです。今の自分にはあり得ないことが実現すれば、幸せになれと考える。そしてそのことをさらに突き詰めて考えていくと、私たちが幸せという言葉を使う時、そこに欲望の影が透けて見えてくることに、気づかされてくるのです。
近現代の市場経済が全面化する以前の社会においては、幸せとは、のどかに平安に、心安らかに暮らせることを意味しました。だから上層階級にある人々は、山里に庵を結んだり、商人であっても隠居することを幸せと考え、そういう暮らしが出来るようになることを目指したのです。もちろん『衣食足りて礼節を知る』の譬えがあるように、物資の不足する庶民階層では、豊富な食料やきれいな着物が、そのまま幸せの目的であり条件となりました。幸せの内実を問う余裕は無く、幸せの必要条件を求めることが、そのままに幸せだったのです。そしてその状況が、日本でもつい先ごろまで、成長社会という名目のもとに続いてきたのです。バブルが崩壊して20年、ようやく社会全体として成長の限界を自覚し、成熟社会への移行を余儀なくされて始めて、広範な庶民が、幸せの必要条件ではなく、その内実について、つまりその十分条件について、考える余裕と必然が生じてきたのです。だから私たちが今もって、幸せの内実について考えることに慣れていないのは、仕方のないことなのです。
さてそのことを踏まえた上で、もう1度私たちの幸せについての捉え方の混乱について、考えていってみたいと思います。宝くじが当たって、高い地位について、美人になって - しかし結局そこから透けて見えてくる私たちの望みは、自分の思い通りに何事も実現して生きていきたいという思いです。金や地位や容姿があれば、もっと自由に自分の思いを実現していけるので、そんなあり得ない力や条件を望むのです。まるで、魔法のランプの精を望むようなものですね。今私たちが望んでいる幸せの内実は、何事も自分の思い通りに実現して生きていきたいということでしょう。しかしそれは、幸せの条件としては、本質的に矛盾を孕んでいます。まず個人の心の問題からしても、「自分の思い通り」を目的に定めると、そんな我儘が通らないことが常なのですから、しょっちゅういらいらして怒ってばかりいなければなりません。だからとても心の平安など、望めたものではありません。またみんなが「自分の思い通り」を貫き始めたら、当然そこで、お互いの思いと思いのぶつかり合いが生じてきます。そして誰一人、自分の思いを100%実現できる者などいませんから、誰も幸せにはなれません。そしてただ、お互いの自我と自我のぶつかり合いから、争いと憎しみが残っていくだけです。幸せになろうとして不幸になり、天国を造ろうして地獄を生み出すパラドックスですね。
だから私たちは、幸せの内実・十分条件について、ここでもう1度しっかりと、捉え直してみないといけないのです。その時伝統宗教が、その幸せの内実について、人間の生きる目的について、はっきりと明示していることに教えられます。人は本質的に自分中心に物事を考え、自分さえ良ければという自我の欲望に生きるものです。しかし、それでは幸せになれません。そこで伝統宗教では、その自我を越えた、普遍的ないのちというものを考えていきます。すべてのいのちが調和し、互いに支え合い、生かし合ういのちのあり方です。これまでの何回かにわたるパンセ通信で、明らかにしてきた内容です。私たちが本当に心から安心して、いのちの喜びに生きていくためには、この普遍的な生かしあいのいのちに生きることが望まれます。高野山真言宗でも、標語として「生かせいのち-大師の御教え今ここに」と掲げ、自他のいのちを生かし、生きとし生けるものすべてが幸せになることを求めています。これが恐らく、成熟社会に至って私たちが、ようやく受け入れられるようになった幸せの内実であり、生きる目標ともなるものでしょう。そしてそのいのちのあり方は、キリスト教や日蓮宗においては、「永遠のいのち」という言葉で表現されるのです。
さて伝統宗教を拠り所に、私たちの生きる目標、つまり幸せの十分条件を、とりあえず「自他を生かすいのちのあり様」ということに定めてみることが出来ました。高野山の案内犬ゴンは、まさにこの自他を生かすいのちを目指して案内した犬であり、そのいのちに向けて、私たちを立ち直らせた導き手でもあります。それでは、私たちが自我の欲望を越えて、自他を生かす普遍のいのちをしっかりと目標として定め、求め、実現していくためには、いったいどのようにしていけば良いのでしょうか。それが次の課題となってきます。
伝統宗教においては、個人がその普遍のいのちを目標として定め、求めるようになるために、3つの道を教えています。もちろんその大前提に、自我や罪を超える神仏のいのち、普遍のいのちがあることを教えるのですが、まずはその教えを受けた後に第1に、祈りや内観(瞑想)によって、自分の意識の奥底に(あるいは自分を無にして気づく)調和と支え合いのいのちのあることに気づき、体感するという方法です。そしてその境地から、現実生活での行いを変えていくという方法です。パンセ通信のNo.30~34にかけて申し述べてきた方法です。2つ目は、すべてのいのちは調和し、支え合って生きているなどときれい事を言っても、現実には食物連鎖で、強い者が弱い者を食べて生きているではないか。私たちだって現実には、自分が生きるために、どこかで他人を犠牲にして生きているではないか、という問いに答え、その事実を見据えながら、普遍のいのちを仰ぎ見て、醜さの中にある自分から脱していく道です。そして3つ目は、人間は1人で変わることは困難なので、同じ価値観を共有する者が集い、共に変わり合っていく集団をつくっていく道です。それが教会であり、檀信徒の集いです。2つ目と3つ目については、また別の機会に触れることとし、今回は、成熟社会において私たちが幸せになっていくための、条件の枠組みについて、さらに考えていくことと致します。
さて私たちが幸せに生きていくために、ここまでにその生き方の目標を定め、求め、そして個人としてそこに近づく道を考えてきました。しかしそれだけでは、まだ十分ではありません。社会・経済の全体としての仕組みも、考えなくてはならないからです。伝統宗教の智慧がいかに優れたものであったとしても、今のところ宗教が拓いた道は、個人が普遍的ないのちを知って、そこに自分を飛躍させて生きようとするところまでです。逆に宗教は、いのちを拓くための教えであったはずなのに、この教えを守れば救われるというように、転倒し、排他的ま教条主義に陥る危険性も内包しています。そうならないための条件も、もちろん検討しておかなければなりません。私たちが成熟社会を幸せに生きていくためには、私たちが互いにいのちの豊かさを実現していけるような、社会的・経済的な仕組みとその条件と、そしてそこに至る道筋も、明確にしておかなければなりません。残念がらそれは宗教が、今日まで全く成功していない領分です。現在の日本を含めた先進諸国の混乱は、いまだに個人の生きる目標や社会目標を、物質的経済的豊かさという、幸せの必要条件にしかすぎないものに設定して、社会運営していることにあります。またその背後に隠れて、富(ビジネス)と権力と名声を手にして、自分の思いのままに生きることが、成功者として理想化されていることにあります。
これに対して私たちは、はっきりと支え合いと生かし合いのいのちこそが、普遍的な生き方の理想であることとして、対置していかなければなりません。そしてその生き方を実現していくための、社会経済的な仕組みと条件を、明示していかなければなりません。また農業や観光などを手掛かりに、いのちを育むための産業や働き方についても、モデルを提示していかなければなりません。高野山の案内犬ゴンの物語は、その新たな生き方の理想を指し示すと共に、新たな仕組みと条件を共に考えていくための、私たちを結びつける重要なツ-ルとなってきます。ゴンの歌のCDも、ゴンの小説も映画も、それ自体が目的ではなく、私たちが新しいのちの価値に生きていくことを実現するための、ツ-ルとなった時に始めて、多くの人に受け入れられ、求められ、ビジネス的にも成功していくこととなるのでしょう。
私たちが生かし合いのいのちに生きられるようになるために、いかに仕組みと道筋を明らかにしていくか。それは困難なように見えますが、けっしてそんなことはありません。6月5日のゴンの14回忌を期に、ゴンが再び時空を超えて、強力に私たちを案内し始めているからです。このゴンに導かれながら、いのちの目標を明確にし、条件を洗い出し、それを実現していく道を、共に考えあっていければと思います。次回のパンセの集いは、今度の火曜日、6月16日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
幸せとは一体何でしょうか。そしてまた何があれば幸せになれるのでしょうか。そしてどういう条件が整えば、私たちが不安や恐れを越えて、本当に幸せに暮らしていける社会や経済の仕組みをつくっていくことが出来るのでしょうか。今週から再びこの問題をテ-マとして、今まで考えてきたことを整理しつつ、取り組んでいってみたいと思います。次回のパンセの集いは、6月16日の火曜日16時からです。いつものとおり、表参道のフィルムクレッセントで行います。
幸せとは何でしょうか?そこでまず、私たちは何があれば幸せと思えるか、ということから考えていってみたいと思います。お金があれば幸せでしょうか?これは誰でもわかることですけど、お金は幸せになるための必要条件ではあっても、十分条件ではありません。お金持ちであっても、不幸な人はたくさんいます。では、健康であれば幸せでしょうか?でも果たして、心身ともに本当に健康な人などいるのでしょうか。逆に、病気を持っていれば幸せになれないのでしょうか。ならば、頭が良ければ幸せでしょうか?高い地位につけば幸せでしょうか?美人であれば幸せでしょうか?一流大学を卒業し一流企業に就職すれば、幸せでしょうか?そしてきわめつけは、宝くじに当たれば幸せなのでしょうか?
ここにあげた幾つかのことは、私たちが幸せについて考える時に、たいてい幸せの要素や条件として頭をよぎるものです。そしてここから浮かんでくることは、どうやら私たちは、他の人には手に入らない世の中に稀なものが、自分にだけは手に入れば、幸せになれると考えているようだということです。今の自分にはあり得ないことが実現すれば、幸せになれと考える。そしてそのことをさらに突き詰めて考えていくと、私たちが幸せという言葉を使う時、そこに欲望の影が透けて見えてくることに、気づかされてくるのです。
近現代の市場経済が全面化する以前の社会においては、幸せとは、のどかに平安に、心安らかに暮らせることを意味しました。だから上層階級にある人々は、山里に庵を結んだり、商人であっても隠居することを幸せと考え、そういう暮らしが出来るようになることを目指したのです。もちろん『衣食足りて礼節を知る』の譬えがあるように、物資の不足する庶民階層では、豊富な食料やきれいな着物が、そのまま幸せの目的であり条件となりました。幸せの内実を問う余裕は無く、幸せの必要条件を求めることが、そのままに幸せだったのです。そしてその状況が、日本でもつい先ごろまで、成長社会という名目のもとに続いてきたのです。バブルが崩壊して20年、ようやく社会全体として成長の限界を自覚し、成熟社会への移行を余儀なくされて始めて、広範な庶民が、幸せの必要条件ではなく、その内実について、つまりその十分条件について、考える余裕と必然が生じてきたのです。だから私たちが今もって、幸せの内実について考えることに慣れていないのは、仕方のないことなのです。
さてそのことを踏まえた上で、もう1度私たちの幸せについての捉え方の混乱について、考えていってみたいと思います。宝くじが当たって、高い地位について、美人になって - しかし結局そこから透けて見えてくる私たちの望みは、自分の思い通りに何事も実現して生きていきたいという思いです。金や地位や容姿があれば、もっと自由に自分の思いを実現していけるので、そんなあり得ない力や条件を望むのです。まるで、魔法のランプの精を望むようなものですね。今私たちが望んでいる幸せの内実は、何事も自分の思い通りに実現して生きていきたいということでしょう。しかしそれは、幸せの条件としては、本質的に矛盾を孕んでいます。まず個人の心の問題からしても、「自分の思い通り」を目的に定めると、そんな我儘が通らないことが常なのですから、しょっちゅういらいらして怒ってばかりいなければなりません。だからとても心の平安など、望めたものではありません。またみんなが「自分の思い通り」を貫き始めたら、当然そこで、お互いの思いと思いのぶつかり合いが生じてきます。そして誰一人、自分の思いを100%実現できる者などいませんから、誰も幸せにはなれません。そしてただ、お互いの自我と自我のぶつかり合いから、争いと憎しみが残っていくだけです。幸せになろうとして不幸になり、天国を造ろうして地獄を生み出すパラドックスですね。
だから私たちは、幸せの内実・十分条件について、ここでもう1度しっかりと、捉え直してみないといけないのです。その時伝統宗教が、その幸せの内実について、人間の生きる目的について、はっきりと明示していることに教えられます。人は本質的に自分中心に物事を考え、自分さえ良ければという自我の欲望に生きるものです。しかし、それでは幸せになれません。そこで伝統宗教では、その自我を越えた、普遍的ないのちというものを考えていきます。すべてのいのちが調和し、互いに支え合い、生かし合ういのちのあり方です。これまでの何回かにわたるパンセ通信で、明らかにしてきた内容です。私たちが本当に心から安心して、いのちの喜びに生きていくためには、この普遍的な生かしあいのいのちに生きることが望まれます。高野山真言宗でも、標語として「生かせいのち-大師の御教え今ここに」と掲げ、自他のいのちを生かし、生きとし生けるものすべてが幸せになることを求めています。これが恐らく、成熟社会に至って私たちが、ようやく受け入れられるようになった幸せの内実であり、生きる目標ともなるものでしょう。そしてそのいのちのあり方は、キリスト教や日蓮宗においては、「永遠のいのち」という言葉で表現されるのです。
さて伝統宗教を拠り所に、私たちの生きる目標、つまり幸せの十分条件を、とりあえず「自他を生かすいのちのあり様」ということに定めてみることが出来ました。高野山の案内犬ゴンは、まさにこの自他を生かすいのちを目指して案内した犬であり、そのいのちに向けて、私たちを立ち直らせた導き手でもあります。それでは、私たちが自我の欲望を越えて、自他を生かす普遍のいのちをしっかりと目標として定め、求め、実現していくためには、いったいどのようにしていけば良いのでしょうか。それが次の課題となってきます。
伝統宗教においては、個人がその普遍のいのちを目標として定め、求めるようになるために、3つの道を教えています。もちろんその大前提に、自我や罪を超える神仏のいのち、普遍のいのちがあることを教えるのですが、まずはその教えを受けた後に第1に、祈りや内観(瞑想)によって、自分の意識の奥底に(あるいは自分を無にして気づく)調和と支え合いのいのちのあることに気づき、体感するという方法です。そしてその境地から、現実生活での行いを変えていくという方法です。パンセ通信のNo.30~34にかけて申し述べてきた方法です。2つ目は、すべてのいのちは調和し、支え合って生きているなどときれい事を言っても、現実には食物連鎖で、強い者が弱い者を食べて生きているではないか。私たちだって現実には、自分が生きるために、どこかで他人を犠牲にして生きているではないか、という問いに答え、その事実を見据えながら、普遍のいのちを仰ぎ見て、醜さの中にある自分から脱していく道です。そして3つ目は、人間は1人で変わることは困難なので、同じ価値観を共有する者が集い、共に変わり合っていく集団をつくっていく道です。それが教会であり、檀信徒の集いです。2つ目と3つ目については、また別の機会に触れることとし、今回は、成熟社会において私たちが幸せになっていくための、条件の枠組みについて、さらに考えていくことと致します。
さて私たちが幸せに生きていくために、ここまでにその生き方の目標を定め、求め、そして個人としてそこに近づく道を考えてきました。しかしそれだけでは、まだ十分ではありません。社会・経済の全体としての仕組みも、考えなくてはならないからです。伝統宗教の智慧がいかに優れたものであったとしても、今のところ宗教が拓いた道は、個人が普遍的ないのちを知って、そこに自分を飛躍させて生きようとするところまでです。逆に宗教は、いのちを拓くための教えであったはずなのに、この教えを守れば救われるというように、転倒し、排他的ま教条主義に陥る危険性も内包しています。そうならないための条件も、もちろん検討しておかなければなりません。私たちが成熟社会を幸せに生きていくためには、私たちが互いにいのちの豊かさを実現していけるような、社会的・経済的な仕組みとその条件と、そしてそこに至る道筋も、明確にしておかなければなりません。残念がらそれは宗教が、今日まで全く成功していない領分です。現在の日本を含めた先進諸国の混乱は、いまだに個人の生きる目標や社会目標を、物質的経済的豊かさという、幸せの必要条件にしかすぎないものに設定して、社会運営していることにあります。またその背後に隠れて、富(ビジネス)と権力と名声を手にして、自分の思いのままに生きることが、成功者として理想化されていることにあります。
これに対して私たちは、はっきりと支え合いと生かし合いのいのちこそが、普遍的な生き方の理想であることとして、対置していかなければなりません。そしてその生き方を実現していくための、社会経済的な仕組みと条件を、明示していかなければなりません。また農業や観光などを手掛かりに、いのちを育むための産業や働き方についても、モデルを提示していかなければなりません。高野山の案内犬ゴンの物語は、その新たな生き方の理想を指し示すと共に、新たな仕組みと条件を共に考えていくための、私たちを結びつける重要なツ-ルとなってきます。ゴンの歌のCDも、ゴンの小説も映画も、それ自体が目的ではなく、私たちが新しいのちの価値に生きていくことを実現するための、ツ-ルとなった時に始めて、多くの人に受け入れられ、求められ、ビジネス的にも成功していくこととなるのでしょう。
私たちが生かし合いのいのちに生きられるようになるために、いかに仕組みと道筋を明らかにしていくか。それは困難なように見えますが、けっしてそんなことはありません。6月5日のゴンの14回忌を期に、ゴンが再び時空を超えて、強力に私たちを案内し始めているからです。このゴンに導かれながら、いのちの目標を明確にし、条件を洗い出し、それを実現していく道を、共に考えあっていければと思います。次回のパンセの集いは、今度の火曜日、6月16日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。