ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.37『成熟社会の目標と宗教の役割そして留意点』

Jun 21 - 2015

■2015年6月21日 パンセ通信No.37『成熟社会の目標と宗教の役割そして留意点』

皆 様 へ

資本主義市場経済が始まって、人間のモノの富への欲望が解放されて以来、私たちの人生目標は、お金や経済的な豊かさという、幸せの必要条件の面だけに注がれ、それがそのまま幸せと同一視される状況が続いてきました。しかし当然のごとく、経済的な豊かさは、幸せの必要条件であっても十分条件ではありません。つまり、お金持ちであっても、幸せとは限らないということです。でも経済的に貧しい時代(経済成長が必要な時代)には、モノの豊かさを追い求めるだけで精一杯で、私たちの欲望も、経済的利潤を求めることに駆り立てられてきました。しかし一定程度モノの豊かさが充足されてくると、自ずと私たちの求めるものは、経済的な豊かさだけではなく、むしろ生き方の質やその豊かさへと変わっていきます。こうして経済的な成熟社会に至ってようやくのこと、幸せのための必要条件のみならず十分条件が、人生・社会の目標として浮上するようになってきました。次回6月23日火曜日のパンセの集いは、この幸せになるための十分条件と、それを実現する方法について考えていってみたいと思います。いつもどおり16時から、表参道のフィルムクレッセントで行います。

それでは、幸せのための十分条件とは何か。それが前回考えたことです。人間はその表面的な意識においては、自分勝手に生きることを求める存在です。他の人が損をしても自分が得をすれば、とりあえず嬉しく、良かったと思うのです。とりわけこれまでのように、経済のパイが拡大してきた時代においては、結局は社会全体が豊かになるのだから、自分は人より努力して、他の人に先んじて豊かになることが、人生ゲームの目標でもありました。そして自分が先んじて豊かになって、儲けたお金を使って他者に還元すれば、他の人も豊かになるという認識もありました。だから自分だけが得をするということに対する後ろめたさは、随分と緩和され、それほど強く意識する必要のないものでした。しかし経済の成長が止まり、自分が得をすれば誰かが損をするというゼロサム社会になってくると、そうはいきません。また格差が固定したり拡大したりする状況になっても、持てる者はますます豊かになるが、持たざる者はますます貧しくなるので、誰もが幸せな気分にはなれません。持たない人々は、持てる人々に対して不公平感や妬み恨み、そして怒りさえ抱くこととなります。持てる人たちも、もはや後ろめたさをごまかす術はなく、心が痛みます。しかしそれ以上に、そんな心の痛みを麻痺させて、自分の裕福さをを失うことを恐れて不安にかられ、ますます特権を強化して、自分だけが安住しようとして人間が堕落していきます。こうなると、いくらお金があっても不安を解消できなくなってきます。不安を無くそうとお金を貯め込んで、ますます不安が増すという、典型的な不幸の図式に陥ります。その挙句持てる者も持たざる者も、ともに不安で、社会に不信と憎悪と怒りが満ち満ちてきて、人も社会も不幸になっていくのです。

このように私たちの表面的な意識の中には、自分の利害にもとづいて自分の思いを充たし、自分の思いのままに生きることが出来れば良いという願いが内在しています。そしてこれこそが、無意識のうちに抱いている、私たちの表面的な幸せの十分条件の内実なのです。自分の思いのままに何事も実現して生きられれば、幸せと思うのです。しかし前回のパンセ通信でも申し上げたとおり、これでは結局、幸せになろうとして不幸を生み出し、天国をつくろうしとして地獄をつくってしまうことになります。従って私たちが幸せに生きるためには、結局自分の好き勝手を越えて、他者への配慮と共生に生きるということが、求められるざるを得なくなってくるのです。人間は欲望の生き物ですから、自分の思いを実現して生きたいと願うことは、仕方のないことでしょう。しかしその自分の思いの中に、他者を犠牲にしても自分だけというのではなく、自分も他者も満たされて、共に喜んで生きるという願いが入ってこないと、人の心も社会の全体も、幸せにはなれないのです。こうして私たちが、生かしあい支えあって生きることを願い求める時、私たちの後ろめたさや不安、憎悪や怒りの気持ちは解消されていきます。そして共に励ましあって協力する時、私たちは嬉しさに満たされて力を発揮することができるようになるのです。

しかしこれは、少し考えてみれば至極当然なことかもしれません。なぜなら、人間は社会をつくってしか生きられない存在で、自分勝手に生きられると思うことの方が、単なる幻想にしかすぎないからです。いや人間社会だけでなく、目に見えない微生物に至るまで、あらゆる生き物との見事な共生のバランスの中で、私たちは生かされてあるものなのです。そのバランスを保った上で、より豊かに生かしあって生きていくことしか、私たちの幸福の十分条件はありません。そしてこの事実をしっかりと認識し、その生かしあいのいのちを求めて生きる術を説いてきたのが、伝統宗教なのです。伝統宗教は、他のすべてのいのちへの配慮のみならず、さらにこうしたいのちのあり方を受け継いできた過去の智慧に対する配慮(滅びないで、生き残って繁栄していくための叡知)、そして未来のいのちに対する配慮までをもを含んだものとしての自己配慮、つまり自分自身を大切にするということを教えているのです。

さてこのように考えてくると、私たちが幸せになるためには、幸せの必要条件(経済的な豊かさ)を整えることと、他者を配慮しない自分勝手な皮相な願いを越えて、生かし合いのいのちに生きることを求めるという、幸せの十分条件をも満たしていくことが必要になってくることがわかってきます。そして生かしあいのいのちに生きるということは、結局その人の人格の豊かさ、人間性の高潔さを意味することと同じであることがわかってきます。

それでは、実際に幸せを実現していくためには、どうすれば良いのでしょうか。これも、2つの対応が必要となってきます。1つには、社会全体として経済的な豊かさを整え、また生かし合いのいのちを実現する仕組みや制度をつくり出していくことです。もう1つには、全体としてではなく、一人一人の個人が皮相な我欲を越えて、生かしあいのいのちに生きることを求める、人間的な成長を遂げていくことが必要だということです。前者のためには、現実の社会経済の基盤を整える作業が必要となってきますから、自然科学や社会科学や経営の知識が求められてくるでしょう。後者については、伝統宗教が築いてきた智慧とわざが、有効な働きを担ってくるのです。

さていよいよこれから、生かしあいのいのちを育む、社会経済の仕組みについて考え、また一人一人がいのちの豊かさに生きられる条件について考えていくことになるわけですけど、なぜ後者においては、哲学や心理学のみならず、宗教が有効となってくるのでしょうか。また宗教には、次のような事態をもたらす危険性も孕んでいるのですが、その原因とそうならないための対応についても、検討していかなければなりません。その危険性とは、1つには独善的になって不寛容となり、他者を許容せずに裁いてしまうということです。また教条的になって、自らの可能性と自由を狭めてしまうことも起こります。そして3つ目には、ある信条と規範に従えば自分は救われると思い込み、生活が惰性化し形骸化してしまうということです。だから現代においては、宗教が時代遅れと見なされ、信仰者が愚かに思えてしまうことがおこり、宗教は怖いとさえ見なされてしまうのです。しかしここには、宗教という範疇を越えた、人間存在に深く根差した病理が横たわっています。宗教は、まさにその病理を克服するために模索されてきた智慧なのですけど、その宗教的叡知を実践する過程において、逆にこの病理に魅入られてしまうということが起こってしまうのです。それはなぜなのでしょうか、どうすればそれを克服していくことができるのでしょうか。

そうした課題について、順を追って検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは、今度の火曜日6月23日の16時からです、お時間許す方はご参加下さい。