ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.38『一人一人が幸せになる仕組みづくりと、個人の力づくり』

Jun 28 - 2015

■2015年6月28日 パンセ通信No.38『一人一人が幸せになる仕組みづくりと、個人の力づくり』

皆 様 へ

成熟社会において私たちが幸せになっていくためには、二組の重なりあった二つの条件があって、それを共に満たしていくことが必要となってきます。1組目の2つの条件とは、幸せには必要条件(経済的な豊かさ)と十分条件(生き方の豊さ、生かし合いのいのちの関係)とがあって、その2つを共に満たしていかねばならないということです。そして2組目の2つの条件は、今述べた幸せの必要十分条件を満たすために、社会・経済全体の仕組みを整えることと、もう1つは、一人一人の個人が、幸せを求めることの出来る主体的な力量をつけていくということです。この成熟社会において幸せになるための2重の2つの条件については、すでにこれまでの取り組みで洗い出してきたわけですけど、さらにその内容を、順を追って掘り下げて考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは6月30日の火曜日、16時からです。いつもどおり表参道のフィルムクレッセントで行います。

さて1組目の2つの条件、つまり幸せの必要十分条件につきましては、これまでパンセ通信No.36「幸せの内実と条件」、パンセ通信No.37「成熟社会の目標と宗教の役割、そして留意点」において少し触れてきましたので、今回は2組目の2つの条件のうちの、一人一人が幸せを求める主体となっていくための条件について考えていってみたいと思います。それがはっきりすれば、その条件を満たすための社会・経済の仕組みも、次第にはっきりしてくることでしょう。そして現在の安保法制をめぐる日本の政治的混乱や、世界の経済的危機に対処する視覚も、次第に浮かび上がってくるものと思われます。

社会の全体が平均的に幸せになっても、私自身が幸せになるとは限らない - これが成熟社会において答えねばならない大切な課題の1つです。現在の私たちの国の政治の動きを見ていると、国民主権を国家主権に変えたいのではないかと思われるような動きもありますが、元来成熟社会においては、本当の意味での一人一人が幸せになる仕組みづくりが求められてきます。それでは、幸せになれない人に対しては、社会が手をさしのべて幸せにしてあげれば良いのでしょうか?でもそれでは、依存型福祉社会をつくるだけで、社会の負担も大きくて長続きせず、支援された側の人間だって負い目が残り、本当には幸せにはなれません。従って一方では、一人一人が幸せを求めて自分でそれを実現していけるように、その心と力を身につけていかなければないのです。そのためにパンセ通信No.36で、幸せの十分条件を明らかにすることから、一人一人が幸せを追い求める道筋を考えてきました。私たちの自意識(自我)は、表面的には自分自身の利害損得の欲望をもとに動いています。誰だって、他の人が損を被っても、自分だけは得をしたいと考えるものです。そして自分が得をすれば満足し、自分が損をすれば我慢がならない。しかしこの自己欲を満たそうとしていくと、主観的にも現実の生活においても、不幸に帰結していくことは、すでに見てきたとおりです。従って、幸福の十分条件としては、“生かし合いのいのちの関係”、つまり共に幸せに生きるということを条件として求めざるを得なくなってきます。実際に私たちは、身勝手に生きて軋轢を生むよりも、支え合って生きていく方が嬉しくて、力が湧いてくるものです。そしてこの幸せの十分条件に生きる知恵と術を提供してきたのが、伝統宗教だったわけです。伝統宗教においては、本当に自分を大切にするという時に、同時に他者に配慮し、過去の先人の智慧と経験に配慮し、未来の世代の幸せにも配慮するということが含みこまれます。そしてこうして、自分の幸せと後の世代までも含めたすべての他者の幸せとが1つになって、調和して生きていくことこそが、じつは自然の生命が、太古の昔から未来に向けて滅びずにいのちを受け渡して繁栄してきた叡知であり、その大きないのちの調和に生きることを、伝統宗教は理想として求めてきたのです。

それでは私たちが、この生かし合いのいのちの関係に生きて、共に幸せになっていくためには、いったいどうすれば良いのでしょうか。それもすでに考えてきたところですが、伝統宗教では、それに対して4つの方法を教えています。まず1つ目は、共に生きるという智慧を知るということです。自分勝手な利得に生きて、滅びを招いてしまう生き方の愚かさに気づいて、生かし合いのいのちの関係に生きていくことの意義と価値を知るということです。そのために宗教では、聖書や仏典などの経典があり、また説教や法話などで、この智慧を繰り返し繰り返し教えていきます。私たちの自然な自意識(自我)では、身勝手な自己欲が先に立って働くので、それを抑えていくためです。だから、生かし合いのいのちに生きることを、長い年月かけて、身体に染みつくまで教えていくのです。2つ目には、その生かし合いのいのちを、頭でわかるだけでなく、自分の五感(いや六感、七感、八感)で体得して、実感していけるようにしていきます。それが祈りや瞑想・内観です。私たちの表面的な意識の奥底には、すべてのいのちと生かし合い、大きな調和に生きることを喜びとする心性が流れています。それが普遍のいのちです。外界の情報を遮断し、自己に向き合うことで、このいのちを呼び覚まし、このいのちにやさしく包まれることの喜びを体感します。そしてその体感した境地から、現実の生活での他者との接し方、生活のあり方を変えていくのです。3つ目は、これが一番苦しく辛いことなのですけれど、自己否定です。自我の欲得に生きる私たちは、どうしてもそのために、どこかで他者を傷つけ、自分を傷つけて生きてしまいます。その自分の罪を見据えて、赦しを求め、悔い改めて生きていくのでなければ、生かしあいのいのちの普遍へと、自分を解き放っていくことはできません。普遍のいのち、普遍の視野に自分を置くためには、どうしても制約のある個的な自分の否定が必要になってくるのです。神仏の助けが必要となってくるのは、まさにこの部分においてなのでしょう。4つ目は、集団の形成です。2つ目で、内観によって生かし合いのいのちを体感し、行いを変えていく道を述べましたが、実際にはお釈迦様のような人でない限り、人は独りで変わっていくことは出来ません。そこで同じ生かし合いのいのちに生きることを望む者が、共に集い、共に励まし合って価値観を強めあっていくのです。共に集うことの効果は、第1にはすでに述べたように、共に価値観を深めあっていくことが出来るということです。自己利益への欲望を抑え、共に生かし合う関係を求め合っていくのです。第2には、困難な悔い改めと自己否定のプロセスを、互いに支え合い励まし合って行っていくことが出来るということです。第3には、生かし合いのいのちの関係に生きることを、自分の内観によるだけではなく、実際の仲間の人間関係のうちで共有して、さらに確かな相互承認と共通了解として確認していくことが出来るということです。そして第4には、今の世の中の価値観と異なって、違う価値観の場をこの世界に造り出せるということです。今の世の中の一般的な価値観は、自己利得を奨励するものです。それに対して、小さくとも生かし合いのいのちに生きる別の人の輪をつくっていくのです。

以上が、私たちが幸せの十分条件を求めて生きていこうとする時に、方策として考えられることでしょう。結局それは、人も自分も生かして、そのために深く配慮しあって幸せの輪を広げていくということですから、自分の人間性を磨き、人徳を高めることと1つのことになってきます。だからこれも当たり前のことかもしれませんが、私たちが幸せになり、幸せな社会を築いていくためには、生活や実務の能力を身につけることと併せて、人間性を高めていくことも条件となってくるのです。

さてここまで、伝統宗教の智慧とわざを頼りに、私たちが生かし合いのいのちに生きていけるようになるための、4つの条件を考えてみました。しかしそれは、あくまでも宗教に依らなければ出来ないようなものではありません。そもそもパンセ・ドゥ・高野山のプロジェクトは、私たちが主体的にも幸せになり、社会的・経済的にも幸せになる仕組みをつくっていくために、科学や哲学の知と並んで、宗教の智をも利用して、その条件を洗い出していこうというものです。その条件が自分なりに掴めてくれば、後はその実現のために、宗教的な枠組みを使おうが、無宗教で進もうが、それはその人の自由です。またどんな宗教を信仰するかも、その人の自由です。山を登るためには、たくさんのル-トがあって、その人に合った登り方をすれば良いからです。ただし、私たちが幸せに生きていくための主体となるためには、もう少し宗教の智慧から押さえておかなければならないポイントがあります。それがまた、前回指摘した宗教のもたらす3つの危険性、すなわち独善性、教条主義、惰性・形骸化という問題にも答えることになってくるでしょう。

世界では、またも6月26日のラマダン中の金曜礼拝の日に、ISによると思われるテロが相次ぎ、犠牲者の数は100名以上にのぼったもようです。しかしこの宗教の3つの危険性は、宗教に内在する要因というよりも、人間存在そのものに根づく病理によるものと考えた方が良いでしょう。宗教は本来、その病理を克服する智慧とわざであるはずなのに、なぜ逆にそれに魅入られてしまうのか。そちらの方が問題です。どこに罠があり、その罠に陥らないようにするためにはどうすれば良いのか。そこからもう少し深く宗教の智慧の本質を探り、さらに私たちが過たずに幸せになれる手立てを探っていきたいと思います。次回のパンセの集いは、6月最後の30日火曜日16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。