ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.39『個別性の欲望と普遍的な求めの矛盾を越えて』

Jul 05 - 2015

■2015年7月5日 パンセ通信No.39『個別性の欲望と普遍的な求めの矛盾を越えて』

皆 様 へ

私たちが幸せを求める主体となり、過たずにその実現を求めて自分と環境とを変えていけるようになるために、前回は伝統宗教の智慧から4つの方法を洗い出してみました。その一方で、宗教の陥る3つの危険性についても見てきました。すなわち1つ目には自分たちだけが正しいと独善的になって不寛容となり、他者を許容せずに裁いてしまうということです。今のイスラム国などはその典型的な例でしょう。また教条的になって、自らの可能性と自由を狭めてしまうことも起こります。仏教の戒律も旧約聖書の律法も、人が幸せに生きるための手段であるはずなのに、逆にそれが目的となって、守れば天国破れば地獄と、それを守ることに汲々としてしまうのです。そして3つ目には、自分は神仏を信仰しお布施もお参りも欠かさないので安心と、自分自身と自分の生活を変えていく努力を怠り、生活が惰性化し形骸化してしまうことです。どうしてそんなことが起こってしまうのでしょうか。ここに私たちが幸せになろうとして不幸になる、人間存在の構造的病理が潜んでいるようです。その病理を解き明かしながら、私たちが過たずに一歩一歩着実に幸せに向かって歩んでいく主体となっていける道をさらに考えていければと思います。次回のパンセの集いは、7月7日七夕の日の16時からです、いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。

まず人間存在の持つ基本的な矛盾の構造から理解をしておかなければなりません。私たちは一人一人個別の身体をもって存在しています。だから自分の生存を第1に求めることは必然です。そこから、他者を犠牲にしても自分の利益を求める心性が生まれてきます。これが人間存在の持つ個別性の欲望です。しかし一方で、人間は社会的動物とも言われます。1人で自立して生きているようでも、すでに言語や貨幣を用いるということからして社会性の生き物で、私たちは無数の人たちとの関係性の網の目によって支えられて生きています。だから私たちの一人一人が、この関係性全体の利益を求めて生きて行くのでなければ、全体の調和が崩れ自分の生存も危うくなってしまいます。これが人間存在の持つ普遍性の欲望です。人間以外の生物の場合には、この個別性の欲望と普遍性の欲望はある意味本能においてビルト・インされていて、大きな自然の調整のメカニズムの力の中でバランスされていきます。しかしながら本能が壊れ、代わりに時空を越えた認知能力を発達させた人間の場合には、自分の自由意志の中で、この個別性の欲望と普遍性の欲望との調和を図っていかなければなりません。自分の生存や生活と他の人の幸せを調和させて実現していくという、ほとんど実現不可能な課題に生涯を通じて取り組んでいかねばならないのです。だから私たちは誰でも、自分が個別性と普遍性の欲望との間で、引き裂かれる経験をします。戦場や災害現場などの極限状態では、自分が生きるために、誰かを犠牲にする選択を迫られます。自分が犠牲になる選択をする人は稀でしょう。しかし自分が生き残ったところで、その罪の念は一生にわたってトラウマとなってその人を苦しめます。それは人間が個別性と普遍性の欲望の狭間で生きる存在だからです。このように極端な事例でなくても、例えば現在の日本において、ぎりぎりの年金で暮らしている高齢者の皆さんが、自分の年金を削って子育て支援のために予算を回すことに、はたして躊躇せずに承認できるものなのでしょうか。ここでも自分の生活と、日本の国全体の福利及び将来の利益とがするどく対立します。このように個別性の欲望と普遍性の欲望の間で、引き裂かれる状態にあることを意識するのが人間であって、そこで必然的に人を傷つけるか自分を傷つけるかの行為を行ってしまうことを、キリスト教では“原罪”と呼びます。じつは最初に述べた宗教の陥る3つの危険性も、この個別性の欲望と普遍的な求めとの相関に生きることに失敗することから生じてくるものなのです。

このように人間は、その存在の本質から原罪を帯びているのです。だとすると、『良い行いをして、罪を犯さないようにしましょう』などと呑気なことを言っている場合ではありません。私たちは人間が罪を犯さざるを得ない存在であることを認め、むしろこの原罪と向き合い、その構造を明らかにしていくのでなければ、私たちがこの原罪を抱えながらも、それでも幸せを求めて生きていけるようになるための条件を見い出していくことは出来ないでしょう。

そこでこの人間存在の持つ基本的な矛盾-原罪の構造について考えていってみたいと思います。まずこの構造の片方の極にあるのが個別性の利害に生きる欲望です。この欲望の中には、4つぐらいの要因が見てとれます。1つは自分の生存を守りたいという欲求、2つ目は生活の安心を確保したいという欲求、3つ目は自分が損せずもっと得して生きていきたいという欲求、いわゆる貪欲ですね。そして4つ目は他の人を蹴落としてでも自分の名声を上げたいという欲望です。人間が集団的・社会的生き物であるが故に生じる身勝手な承認欲求ですね。一方その対極にあるのが、普遍性の利益に生きる欲望です。自分を守り良く生きるためにも、全体が繁栄することを求める欲望です。この個別性の欲望と普遍性の欲望との対抗関係の中で、人間の原罪の構造が生まれてくるのですが、ここで普遍性の欲望について、もう少し詳しく見ておくことにします。

なぜなら一言で普遍性・全体性と言っても、じつはその普遍性の射程は、人によって異なってくるからです。自分の家族・親族までを普遍性の範囲として、その幸せを守らなければと意識する人もあれば、自分の部族の利害(あるいは現代で言えば企業となりましょうか)までを自分の捉える全体とする人もあるでしょう。あるいは国家の利害こそが普遍的価値と考える人もいるでしょう。特定秘密保護法、労働法制の変更、そして現在審議されている安保法案と、国民主権をなんとか国家主権に変えようと躍起になっているどこかの国の首相はその典型かもしれません。しかし世界は、とうの昔にグロ-バル社会に到達しています。だから、人類全体の幸福を普遍的価値として求める人もいるわけです。さらに人間だけではなく、環境保全や生物多様性など、すべての生命を育む地球の営み全体の調和を普遍的価値とする人も少なくありません。こうして見てくるとこの普遍性の射程の範囲は、人類の歴史の積み重ねと活動領域の広がりにあわせて、拡大してきていることがわかります。そして現代の先進国においては、地球全体の生命環境の調和を普遍的価値とするまでに、人々の意識が求める範囲が広がってきていることがわかります。こうした普遍性の射程の範囲と個別性の欲望との相関関係の織りなしの中で、私たちの生活や人生の求め・目標というものが紡ぎ出されてくるわけです。そしてこの普遍性の射程をさらに拡げて、限界まで拡大しようとするのが宗教です。全地球レベルでの生命の調和に留まらず、全宇宙の生命・物質・エネルギ-の調和までをもその普遍性の領野に収めていこうとします。さらに空間のみならず遠い過去からはるか未来に至るまで、時間の領野の普遍性も視野に収めることを意図します。そして宗教なら当然のことかもしれませんが、死者をもその領野に収めていきます。大きな大木が倒れた後に、無数の生命が誕生していのちの営みを始めていくように、死は決して終わりなどではなく、新たな生の始まりです。このように生死を越えてつながるいのちの幸せをも普遍性の領野として考慮に入れていくことを企図します。時空をはるかに越えて死をも越えて普遍性を求めるのですから、その認識の領野は4次元を超えて5次元に至るのでしょうか。さらにその領域ですべての営みを生かし調和させる力(神・仏)を考えるのですから、その射程は6次元にまで至ると言えるかもしれません。何か現代物理学の最前線である超弦理論を彷彿させるようで、ちょっとわくわくしますね。ただ宗教の場合は、その普遍性の境地をもはや言葉で表すことが出来ないので、言語や論理を越えた体感による智慧(悟り)といったものも認知の手段として排除しません。でもじつはこうして普遍性の限界にまで至ろうとする捉え方は、さほど荒唐無稽で無謀なものでもないのです。なぜなら、人間の意識の構造がそのようなものとして出来ているからです。私たちは意識の中では、時間と空間を越えて、いろいろな所に自由に行き来することが出来ます。死者とだって会うことができるのです。そして意識には、世界の果てまで究めたいという性質が組み込まれているのです。だとすると宗教は、私たちの意識の限界を普遍性の果てとして、そこにおいて一切のものが調和することを普遍的な求めとして、その究極に向かって自分を開いていこうとするものであることが解ってきます。そしてその一方で私たちの個別性の欲望をしっかりと見据え、その両極の求めを相関させて、現実の日々の営みの中で究極の普遍性(自分のいのちと一切のいのちの生かしあいと調和)を実現して生きていこうとするのが宗教であることが解ってきます。

さて、この自分の持つ普遍性の求めと個別性の欲望の相関関係の中で、私たちの求める幸せの内容、言い換えれば生きる目標が決まってくるわけですが、この相関関係の起こる場で、もう1つ考慮に入れておかなければならないことが生じてきます。それは人間の認知能力が持つ、普遍性に加えてのもう1つの他の動物とは異なる特徴である“時間”の概念です。私たちが現実に生きるのは、“今、ここ”においてでしかありません。従って人間以外の生き物の欲望・感情は、“今、ここ”におけるものでしかないのです。しかし人間だけは、現実には“今、ここ”に生きているにも関わらず、意識の上では過去・現在・未来に生きており、過去の後悔や未来の不安や希望に生きる存在となるのです。

こうしていよいよ、私たちの生きる目標と同時に、原罪が生まれてくる構造を解析する指標が整理できてきました。それを踏まえて、私たちが主体的に幸せを求めて歩めるようになる条件を、さらに詳細に整理していければと思います。個別性と普遍性の欲望の相関の中で、また時間性の影響のもとで、私たちはどのように生きる目標、幸せの内容を思い描くようになるのか。そしてそれを求めるのに逆に、どのように原罪に陥るのか。その事実を見据えた上で、それでも幸せを求めて、私たちはいったいどう生きていけば良いのか。そのことを順を追って考えていければと思います。次回のパンセの集いは、7月7日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。