■2015年7月12日 パンセ通信No.40『成熟社会の基本的な生き方目標と病理』
皆 様 へ
人間の心は、常に捉えようなく変化していきます。だからその心の主で、すべてのことの判断の起点となる“私”も捉えどころがなく、その実体など求めても無駄だという意見もあります。“私”を求めても、玉ねぎの皮を剥くように、その芯(実体)はない。確かに私たちは常に移ろいゆく変化の諸相の中に生きているわけですから、自分を固定した存在と捉えるのは危険でしょう。自分が常に良い方向にも悪い方向にも変化していくことの出来る、可能性に開かれた存在として捉えることは重要です。しかしそれでもやっぱり、“私”はあって、毎日いや一瞬ごとに無数のことを判断して生きています。この捉えどころのない“私”が、その場限りで揺れ動いて判断する状況にあって、それでも私と社会が幸せの方向に向かって歩んでいくためにはいったいどうすれば良いのでしょうか。そこでまずパンセの集いでは、伝統宗教の智慧に依りながら、この捉えようの無い“私”が現象する心の基本構造を見てきました。そして今、その心の構造のもとで織りなされる私たちの判断の構造を考えています。こうした基本構造を踏まえることで、取りとめない移ろいの中に現れる“私”であっても、その傾向を掴み、めげることなく幸せの方向に向かい続ける手立てを考えていければと思います。次回のパンセの集いは、7月14日の16時からです、いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
さて日本の国内では、集団的自衛権と安保法制およびその憲法解釈で、政治状況が揺れています。経済ではギリシア危機と中国の株価暴落、そして日本の財政金融の危機的状況も、いよいよ秒読み段階に入ってきた感があります。経済成長が鈍化する中で、自国利益を優先しようとする先進国間の利害対立が次第に先鋭化しつつあり、その一方でTPPなどによってグロ-バル企業とグロ-バルエリ-トが、自己の利益を極大化させ格差を固定化しようとしている。それに対抗するかのように、途上国や民族・宗教に基づく集団が、その格差に対して激しく利害を対立させて異議申し立てを行っている。このように全体世界が混迷していることを映して、私たちの日常生活の領域も不安や困難が増しています。こうした状況にあって私たちはいかに“判断”すれば良いのか。危機と混迷の時代においては、往々にして私たちはその困難さから判断を先送りしたり放棄したりして、全体の風潮に流されていきます。しかしその全体の風潮というものが、いかに責任の所在がなく愚かな判断を下し、いかに取り返しのつかない結果をもたらすことになるかは、私たちが先のアジア・太平洋戦争などを通じて十二分に体験しているところです。とはいえその一方で、危機と混迷は、私たちが原点に立ち戻って一番大切な価値から“判断”を行うチャンスでもあるのです。では原点とは何か。一番大切なものとは何か - それはやっぱり“私”でしょう。私のいのちにとって一番大切なこと。マスコミや識者や政治家などに騙されてはなりません。たとえ捉えようのない“私”であっても、やっぱり一人一人が私に戻って、“私のいのち”を本当に大切にすることから判断していくしか困難は打開できないでしょう。しかしそれが、危機を乗り越えて、新しい世界と暮らしの可能性を見い出していくチャンスでもあるのです。なぜなら、私のいのちの中には、他者のいのちへの配慮も組み込まれており、自分を大切にすることは、他者も社会の全体も大切にすることにつながるからです。そうやって人類は、危機的状況から時代を新しい次元へと推し進めてきたのです。そのように混迷の現代にあって、一人一人が自分に立ち返って求め、判断を行っていくことができるように、私の求めの構造と、その求めに従って判断を行う構造について、前回に引き続いて考えていってみたいと思います。
ところで生物というのは、食べ物であったり生殖であったりと、常に何かを求めて生きる存在であるのですが、人間の場合その求め(欲望)は、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関関係の中から生み出されてくるものであることを、前回見てきました。従って“私の求め”の中には必然的に“私たちの求め”や“全体の求め”がオーバ-ラップされて入っているはずであり、他者を顧みず自分の利益だけを考えるということは、その本来からはあり得ないはずなのです。単純に言えば、自分のためにもなり人のためにもなることを生き方の目標とし、その目標に沿って日々の状況に対して判断を下していくことが、自分も人も良くなっていって、私たちは幸せになっていけるはずなのです。ところが、それがそうはいかないところが問題なのです。その過程に、人間存在が抱える沢山の病理が入ってきて妨げを行うからです。そこでまず、そうはいかなくする仕組みをよく吟味して、それに対処する方法から、私たちが幸せを求めて歩み続けていける道を考えていければと思います。
まず、そうは言ってもやはり自分の利益しか求めない人間が生まれてくるという問題があります。それは何故か。それは無知とか教育の問題に由来するのではなく、じつはその人がどこかで裏切られて深く傷つき、屈折した精神となってしまったことに由来することが多いのです。他者を信頼出来ずに意固地となって、自分に固執して心を閉ざしてしまう。ディケンズの小説『クリスマスキャロル』に登場するスクルージはその典型でしょう。これが最初の病理です。私たちの心というものが、かくも傷つきやすく屈折しやすいものであるということは、私の求めと私の判断の仕組みを考えていく上で、よくわきまえておかなければならないことです。挫折に屈して他者を顧みず、個別性の欲望(自己利益)だけを求めて生きていっても、結局精神的にも傷を深め、また他者との対立も深めることから、自分も人も傷つけて、不幸を増していってしまうばかりです。
次に、“私の求め(利益)”と“私たちの求め(利益)”あるいは“全体の求め(利益)”の両方を、なんとか同時に満たして生きていこうとする人であっても、この“私たち”とか“全体”という射程が、家族であったり、会社であったり、国家であったりと、範囲が限られてくる人が現れてくるということです。もちろん、人類全体とか地球全体ということも意識はしているのでしょうけど、その主たる関心の範囲が限られてくるのです。そこにはどんな病理が潜んでいるのでしょうか。その1つ1つの範囲と個別性の欲望との相関を見ていくことから、そこで私たちが何を目標としてどう判断しているのかを検討することによって、問題点を洗い出していきたい思います。
まず、普遍性の欲望を家族の範囲に限った場合の個別性の欲望との相関です。個別性の欲望の内容につきましては、前回4点ほどに整理しましたが、一言で言えば、自分の思い(のまま)に生きたいという欲望です。家族というのは、ある意味自分の身体性の延長で、自分の思いや利害が拡張した人間関係の範囲と捉えることも出来ます。だから基本的には個別性の欲望を拡張したものに過ぎず、普遍性の欲望との軋轢は小さくてすみます。だから悪人でも家族を大切にし、家族の中ではわがまま勝手に暴君然と振る舞うことも出来るのです。でも互いにわがままに振る舞えば当然ぶつかり合いが生じるので、家族関係がうまくいかなくなって苦しむことがしばしばです。この個別性の欲望の拡張は、普遍性(意識する他者の範囲)を家族から企業や国家に拡大した場合にも同様に見受けられます。私たちは基本的には、出来るだけ大きな集団のリーダ-となって、自分の思いのままを大きく行使して生きていきたいと思うのです。でもそのために権力抗争に終始し、心労を深め、人相が変わるほどに人間の尊厳を汚す行いにも手を染めることになってしまいます。ここでもう1つ気づくことは、私たちの心性の中には、自分の利害をもとに、ある一定の範囲の人々を内と外に区切って、内側は見方、外側は敵とする働きがあるということです。家族、企業、国家等というのも、自分の普遍性の範囲を広げているように見えて、じつは自分の利益共同性から見た敵と味方の範囲を拡大しているだけに過ぎないということがわかってきます。つまり個別性の欲望はかように根強く、普遍性の欲望との間で葛藤する(自分も生かし人も生かす道を粘り強く見つける)かのように見えて、じつは個別性の欲望を、他者の上へと押し広げているだけに過ぎないのです。このように私たちは、個別性の欲望と普遍性の欲望を相関させて生きていく存在であることは本能的にわかっていても、結局その葛藤に耐えることを避けて、じつは個別性の欲望を普遍性の領域へと拡張させることだけによって、自分の目標や判断の指針をつくってしまうことがあるのです。これが第2の病理です。結局これも、自分の思いをより大きな人間集団の上に実現したいという野望が拡大するだけで、その野望同士がより大きくぶつかりあって、私たちはますます心も生き方も平安を失い、幸せにはほど遠くなっていきます。
このように私たちの個別性の欲望が拡張していく傾向を知ると、結局私たちは普遍性の欲望の範囲(他者のいのちを配慮する範囲)に区切りを設ける限り内と外が生まれ、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関が働かなくなってしまうことがわかります。従って私たちが、自分と他者の両方のいのちを生かす道を粘り強く求めて幸せになっていくためには、この他者の範囲を無限大に広げていくしかないのです。つまりすべての人のためと自分のためとの相関。いや成熟社会に入った現代においては、単にすべての人間のみならず、地球上のすべてのいのちとその生態環境ということにまで広げることが出来るでしょう。しかも後の世代の幸せをも含めて。それは別の言い方をすれば、私たちはようやくのこと、後の世代の繁栄までも含んだ地球全体の生態系の調和までをも考えないと、自分のいのちも維持できないということに思い至るレベルにまで、私たちの意識の範囲が達したということになるのでしょう。
さてここまで、私たちが幸せを追及する主体となっていくための、人間の欲望(求め)の基本構造と判断の構造を洗い出し、そこに生じる病理を2つまで見てきました。成熟社会に達した私たちの基本的な生き方目標というのは、個別性の欲望として自分の生活を守り、自分の能力才能と利益を伸ばしつつ、一方普遍性の欲望として、後の世代の繁栄までをも含めた地球上の全生命のいのちと生態系の向上に寄与する、という2つのことの相関関係の中で、その双方を満たして生きていくということになるのでしょう。そしてその目標が、判断の指針となってきます。確かにこれなら一切の後ろめたさもなく自分も良くなって、他の人にも役立って、しかも地球環境にも貢献できて、自分の生きる意味と価値が確かに持てて幸せに生きていけるはずです。ところがこのように個別性の欲望と普遍性の欲望をしっかり相関させて生きていくとしても、そこにまた別の第3、第4の病理が生じてくるのです。
この病理の全容を明らかにしつつ、成熟社会の基本的な生き方目標に向けて、いかにぶれずに正しく判断し続けていくことができるのか。その方法を引き続き考えていきたいと思います。次回のパンセの集いは、7月14日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
皆 様 へ
人間の心は、常に捉えようなく変化していきます。だからその心の主で、すべてのことの判断の起点となる“私”も捉えどころがなく、その実体など求めても無駄だという意見もあります。“私”を求めても、玉ねぎの皮を剥くように、その芯(実体)はない。確かに私たちは常に移ろいゆく変化の諸相の中に生きているわけですから、自分を固定した存在と捉えるのは危険でしょう。自分が常に良い方向にも悪い方向にも変化していくことの出来る、可能性に開かれた存在として捉えることは重要です。しかしそれでもやっぱり、“私”はあって、毎日いや一瞬ごとに無数のことを判断して生きています。この捉えどころのない“私”が、その場限りで揺れ動いて判断する状況にあって、それでも私と社会が幸せの方向に向かって歩んでいくためにはいったいどうすれば良いのでしょうか。そこでまずパンセの集いでは、伝統宗教の智慧に依りながら、この捉えようの無い“私”が現象する心の基本構造を見てきました。そして今、その心の構造のもとで織りなされる私たちの判断の構造を考えています。こうした基本構造を踏まえることで、取りとめない移ろいの中に現れる“私”であっても、その傾向を掴み、めげることなく幸せの方向に向かい続ける手立てを考えていければと思います。次回のパンセの集いは、7月14日の16時からです、いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
さて日本の国内では、集団的自衛権と安保法制およびその憲法解釈で、政治状況が揺れています。経済ではギリシア危機と中国の株価暴落、そして日本の財政金融の危機的状況も、いよいよ秒読み段階に入ってきた感があります。経済成長が鈍化する中で、自国利益を優先しようとする先進国間の利害対立が次第に先鋭化しつつあり、その一方でTPPなどによってグロ-バル企業とグロ-バルエリ-トが、自己の利益を極大化させ格差を固定化しようとしている。それに対抗するかのように、途上国や民族・宗教に基づく集団が、その格差に対して激しく利害を対立させて異議申し立てを行っている。このように全体世界が混迷していることを映して、私たちの日常生活の領域も不安や困難が増しています。こうした状況にあって私たちはいかに“判断”すれば良いのか。危機と混迷の時代においては、往々にして私たちはその困難さから判断を先送りしたり放棄したりして、全体の風潮に流されていきます。しかしその全体の風潮というものが、いかに責任の所在がなく愚かな判断を下し、いかに取り返しのつかない結果をもたらすことになるかは、私たちが先のアジア・太平洋戦争などを通じて十二分に体験しているところです。とはいえその一方で、危機と混迷は、私たちが原点に立ち戻って一番大切な価値から“判断”を行うチャンスでもあるのです。では原点とは何か。一番大切なものとは何か - それはやっぱり“私”でしょう。私のいのちにとって一番大切なこと。マスコミや識者や政治家などに騙されてはなりません。たとえ捉えようのない“私”であっても、やっぱり一人一人が私に戻って、“私のいのち”を本当に大切にすることから判断していくしか困難は打開できないでしょう。しかしそれが、危機を乗り越えて、新しい世界と暮らしの可能性を見い出していくチャンスでもあるのです。なぜなら、私のいのちの中には、他者のいのちへの配慮も組み込まれており、自分を大切にすることは、他者も社会の全体も大切にすることにつながるからです。そうやって人類は、危機的状況から時代を新しい次元へと推し進めてきたのです。そのように混迷の現代にあって、一人一人が自分に立ち返って求め、判断を行っていくことができるように、私の求めの構造と、その求めに従って判断を行う構造について、前回に引き続いて考えていってみたいと思います。
ところで生物というのは、食べ物であったり生殖であったりと、常に何かを求めて生きる存在であるのですが、人間の場合その求め(欲望)は、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関関係の中から生み出されてくるものであることを、前回見てきました。従って“私の求め”の中には必然的に“私たちの求め”や“全体の求め”がオーバ-ラップされて入っているはずであり、他者を顧みず自分の利益だけを考えるということは、その本来からはあり得ないはずなのです。単純に言えば、自分のためにもなり人のためにもなることを生き方の目標とし、その目標に沿って日々の状況に対して判断を下していくことが、自分も人も良くなっていって、私たちは幸せになっていけるはずなのです。ところが、それがそうはいかないところが問題なのです。その過程に、人間存在が抱える沢山の病理が入ってきて妨げを行うからです。そこでまず、そうはいかなくする仕組みをよく吟味して、それに対処する方法から、私たちが幸せを求めて歩み続けていける道を考えていければと思います。
まず、そうは言ってもやはり自分の利益しか求めない人間が生まれてくるという問題があります。それは何故か。それは無知とか教育の問題に由来するのではなく、じつはその人がどこかで裏切られて深く傷つき、屈折した精神となってしまったことに由来することが多いのです。他者を信頼出来ずに意固地となって、自分に固執して心を閉ざしてしまう。ディケンズの小説『クリスマスキャロル』に登場するスクルージはその典型でしょう。これが最初の病理です。私たちの心というものが、かくも傷つきやすく屈折しやすいものであるということは、私の求めと私の判断の仕組みを考えていく上で、よくわきまえておかなければならないことです。挫折に屈して他者を顧みず、個別性の欲望(自己利益)だけを求めて生きていっても、結局精神的にも傷を深め、また他者との対立も深めることから、自分も人も傷つけて、不幸を増していってしまうばかりです。
次に、“私の求め(利益)”と“私たちの求め(利益)”あるいは“全体の求め(利益)”の両方を、なんとか同時に満たして生きていこうとする人であっても、この“私たち”とか“全体”という射程が、家族であったり、会社であったり、国家であったりと、範囲が限られてくる人が現れてくるということです。もちろん、人類全体とか地球全体ということも意識はしているのでしょうけど、その主たる関心の範囲が限られてくるのです。そこにはどんな病理が潜んでいるのでしょうか。その1つ1つの範囲と個別性の欲望との相関を見ていくことから、そこで私たちが何を目標としてどう判断しているのかを検討することによって、問題点を洗い出していきたい思います。
まず、普遍性の欲望を家族の範囲に限った場合の個別性の欲望との相関です。個別性の欲望の内容につきましては、前回4点ほどに整理しましたが、一言で言えば、自分の思い(のまま)に生きたいという欲望です。家族というのは、ある意味自分の身体性の延長で、自分の思いや利害が拡張した人間関係の範囲と捉えることも出来ます。だから基本的には個別性の欲望を拡張したものに過ぎず、普遍性の欲望との軋轢は小さくてすみます。だから悪人でも家族を大切にし、家族の中ではわがまま勝手に暴君然と振る舞うことも出来るのです。でも互いにわがままに振る舞えば当然ぶつかり合いが生じるので、家族関係がうまくいかなくなって苦しむことがしばしばです。この個別性の欲望の拡張は、普遍性(意識する他者の範囲)を家族から企業や国家に拡大した場合にも同様に見受けられます。私たちは基本的には、出来るだけ大きな集団のリーダ-となって、自分の思いのままを大きく行使して生きていきたいと思うのです。でもそのために権力抗争に終始し、心労を深め、人相が変わるほどに人間の尊厳を汚す行いにも手を染めることになってしまいます。ここでもう1つ気づくことは、私たちの心性の中には、自分の利害をもとに、ある一定の範囲の人々を内と外に区切って、内側は見方、外側は敵とする働きがあるということです。家族、企業、国家等というのも、自分の普遍性の範囲を広げているように見えて、じつは自分の利益共同性から見た敵と味方の範囲を拡大しているだけに過ぎないということがわかってきます。つまり個別性の欲望はかように根強く、普遍性の欲望との間で葛藤する(自分も生かし人も生かす道を粘り強く見つける)かのように見えて、じつは個別性の欲望を、他者の上へと押し広げているだけに過ぎないのです。このように私たちは、個別性の欲望と普遍性の欲望を相関させて生きていく存在であることは本能的にわかっていても、結局その葛藤に耐えることを避けて、じつは個別性の欲望を普遍性の領域へと拡張させることだけによって、自分の目標や判断の指針をつくってしまうことがあるのです。これが第2の病理です。結局これも、自分の思いをより大きな人間集団の上に実現したいという野望が拡大するだけで、その野望同士がより大きくぶつかりあって、私たちはますます心も生き方も平安を失い、幸せにはほど遠くなっていきます。
このように私たちの個別性の欲望が拡張していく傾向を知ると、結局私たちは普遍性の欲望の範囲(他者のいのちを配慮する範囲)に区切りを設ける限り内と外が生まれ、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関が働かなくなってしまうことがわかります。従って私たちが、自分と他者の両方のいのちを生かす道を粘り強く求めて幸せになっていくためには、この他者の範囲を無限大に広げていくしかないのです。つまりすべての人のためと自分のためとの相関。いや成熟社会に入った現代においては、単にすべての人間のみならず、地球上のすべてのいのちとその生態環境ということにまで広げることが出来るでしょう。しかも後の世代の幸せをも含めて。それは別の言い方をすれば、私たちはようやくのこと、後の世代の繁栄までも含んだ地球全体の生態系の調和までをも考えないと、自分のいのちも維持できないということに思い至るレベルにまで、私たちの意識の範囲が達したということになるのでしょう。
さてここまで、私たちが幸せを追及する主体となっていくための、人間の欲望(求め)の基本構造と判断の構造を洗い出し、そこに生じる病理を2つまで見てきました。成熟社会に達した私たちの基本的な生き方目標というのは、個別性の欲望として自分の生活を守り、自分の能力才能と利益を伸ばしつつ、一方普遍性の欲望として、後の世代の繁栄までをも含めた地球上の全生命のいのちと生態系の向上に寄与する、という2つのことの相関関係の中で、その双方を満たして生きていくということになるのでしょう。そしてその目標が、判断の指針となってきます。確かにこれなら一切の後ろめたさもなく自分も良くなって、他の人にも役立って、しかも地球環境にも貢献できて、自分の生きる意味と価値が確かに持てて幸せに生きていけるはずです。ところがこのように個別性の欲望と普遍性の欲望をしっかり相関させて生きていくとしても、そこにまた別の第3、第4の病理が生じてくるのです。
この病理の全容を明らかにしつつ、成熟社会の基本的な生き方目標に向けて、いかにぶれずに正しく判断し続けていくことができるのか。その方法を引き続き考えていきたいと思います。次回のパンセの集いは、7月14日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。