■2015年7月19日 パンセ通信No.41『人間の欲望の4つの病理と、成熟社会を担う主体形成』
皆 様 へ
安保法案が衆議院で強行採決されました。その一方で、世論調査では8割の人たちが説明不十分と答えています。ここに成熟社会のとば口に立った日本の、2つの姿が現れているように感じます。1つは、政治家や懸命に賛成反対運動に没頭する人たちの姿。それぞれ熱心に主張を展開するのですが、議論は平行線のままです。反対する者はいつまでたっても反対で、賛成する者は賛成。結果的には政治権力か大衆運動かの力の強さで事が決していきます。これが戦後日本が今日までたどってきた、旧態依然たる政治状況の姿です。しかしここで注目しなければならないのは、8割の人たちが説明不十分と考えているということです。これは何を意味しているのでしょうか。国民の大多数がどうも腑に落ちない、このまま決まってしまって良いのかと思っているということです。言い換えれば、なぜ、何のために安保法制は必要で、結果がどうなるのかを、自分の頭で考え納得したいと思っているということです。つまり国民主権が深化し始めているのです。これが2つ目の日本の姿です。成熟社会を開こうとする日本にとっては、じつは安保法制の賛否以上に、こちらの方が重要で主戦場です。一人一人が自分で考え、立場の違う者同士がどう議論を噛み合わせて、より深い認識と共通了解を得ていくか。どうやら安倍首相は、日本国民に素敵なパンドラの箱を開けてくれたようです。これまでの私たちの思考パタ-ンは、直感補強型といって、例えば安倍首相は悪いという直感を持つと、その直感を補強する情報ばかり集めて自分の意見を組み立てる思考法です。これでは自分の意見の正当性を言い募るばかりで、反対者と喧嘩になるだけで議論にはなりません。もう1つの思考パタ-ンは、直感検証型といって、安保法制が悪いという直感を持ったなら、その直感の由来する理由を掘り下げて考える思考法です。すると反対者も賛成者も、じつは動機まで掘り下げると『自分と愛する者のいのちと暮らしを守りたい』という点で共有でき、ただそのための方法論として、安保法制に賛成あるいは反対を唱えているという構図が見えてきたりします。動機つまり目的は同じなのだから、方法論として何がベストか、ここに議論の接点が生まれてきます。そしてどうすれば本当にその目的を達成できるのか、共に補い合って考えていくことが出来ます。こうしてより優れた解決策と国政運営の可能性が見えてくるのです。
国民主権というのは、国民の大半が思考方法を直感補強型から直感検証型に切り替えるということで、これは独裁政権や利権政治にとっては、ごまかしが効かなくなって困ったことになります。じつはパンセの集いで目指している成熟社会の生き方理想(目標)というのも、この思考方法を身につけることと不可分となっています。直感補強によるヒステリックで魔女狩り的思考が横行する中で、直感検証思考を培うことは並大抵のことではありません。欧米でさえ、まともには行えていません。パンセの集いではその困難な営みを少しずつ推し進め、成熟社会における真の国民主権を担える主体形成を行っていければと思っています。次回のパンセの集いは、連休明けの7月21日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
さてこれまで、生きる力の源泉となる欲望が、人間の場合、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関関係の中から生み出されてくることを見てきました。だとすると、私たちが幸せを感じて生きられる時というのは、2つの感覚を同時に持てる時であるということがわかってきます。1つは、自分の思いのままに願いを実現して生きられるという自由の感覚を持てる時です。もう1つは、他の人や社会、または生態系の全体のためになって生きられて、自分の存在が他者から承認・称賛され、生きる意味と価値が感じられる時です。ではこの2つの感覚を満たして生きていくためには、どのような力が必要となってくるのでしょうか。それには3つの力が求められてきます。1つは、自分の思いを自由に満たすことの出来る自己実現の力。もう1つは相互に承認しあい、力づけあって関係性を築き、全体の福利を実現しようとするいのちへの配慮の力。この中には、相手を許して和解する力や他者のいのちを支え育む力も含まれてくることでしょう。そして3つ目の力が、自己実現といのちへの配慮という、いわば利己と利他の相矛盾する2つの力を調整し、両方ともに実現していく力です。それはまさに生きる力と言って良いものでしょう。自己実現の力というのは、今の社会でも中心的に求められているので、わかりやすいかと思います。しかしいのちへの配慮の力と生きる力というのは、能力としては明確には意識されず、体系的な教育もなされていません。本来道徳教育というのは、国を愛することなどではなく、この2つの力を養うことなのですけれども。しかし、長い歴史をかけてこの2つの力を培ってきたのが伝統宗教であって、いのちの力と生きる力の知恵こそが、伝統宗教の智慧の領域ということになります。
そこで今私たちは、伝統宗教の智慧をたよりとしつつ、私たちが個別性の欲望と普遍性の欲望の相関関係の中で、これからの成熟社会を幸せなものとして生きていくための生き方目標、そして判断の指針を得ていこうと取り組みを続けております。前回までに、私たちの欲望と判断の基本構造を考えながら、そこで生じる病理を明らかにしてきました。1つ目の病理は、人間の心がもろく傷つきやすいものであるが故に、他者を信頼できなくなって頑なになり、普遍性の欲望を断念して自己利益に固執するか、あるいは傷つくのを恐れて他者とは本心から関わらないエゴイストになってしまう問題です。2つ目は、個別性の欲望と普遍性の欲望を相関させて追及しているようで、実は個別性の欲望を、他者やもっと大きな集団の上におし広げて、自分の思いのままを自己実現しようとする病理です。安倍首相などがその典型で、安保法制などと言いながら、じつは自分の思いのままを日本全体で実現したいのです。だから個別性の欲望と普遍性の欲望をすりあわせる葛藤がなく、つまり反対意見は聞く心性が無く、どこまで行っても議論は平行線で噛みあわず、決着は力をもってすることになります。当然勝手な思いを押しつけられる国民の方は反発して抗議運動を起こし、力対力の対決になって、この複雑な国際情勢の中で、真の日本の安全保障を考える道は遠のきます。
さて、個別性の欲望と普遍性の欲望を相関させる意識がしっかりあったとしても、その双方を調和させるには厳しい葛藤があり、忍耐が必要となってきます。第3の病理は、その葛藤に耐えられずに生じてくる病理です。これには3つのパタ-ンがあります。本来は、個人の利害と全体の福利を調和させて生きるのが、健全な人間です。しかしこの調和への努力が不十分だと、私たちは自分の個人的な思想信条を他者の視線で吟味することなく、そのまま普遍的な価値を持つと安易に思いこむことによって、自分の絶対的な正しさを担保しようとします。かつての共産主義運動や現在のIS(イスラム国)などはその典型でしょう。独善的になり、異なる信条の者に不寛容になり、他者への制裁が正当化されます。独善が支配すると、社会は恐ろしく住みにくくなってしまいます。これが個と普遍性の調和の1つ目のパタ-ンの病理です。2つ目のパタ-ンは、普遍性のみが強く意識されて自己を喪失する、自己疎外の病理です。教条的な宗教や会社人間がその典型でしょう。例えば宗教の場合、普遍的な価値である神とは何か、そしてその神を信じることによって得られる自分の幸せとは何かという問いを、常に問い続け、深めていかなければなりません。しかしそれを怠ると、まず普遍的な価値が教条化していきます。本来自分の救いのための神の教えであったはずなのに、いくつかの教えを守れば救われると単純化し、目的と手段とが逆転していきます。こうして自分を規範(教え)に隷属させ、教条化して自由と人間性を喪失させていきます。これは会社人間の場合にも言えることで、自分の生活の幸せのための会社なのに、会社のための人生へと転化していってしまうのです。3つ目のパタ-ンは2つ目の逆で、普遍性を意識しているようでじつは普遍性をないがしろにし、自分だけに生きる病理です。この時、生活は惰性化し形骸化していきます。限られた信者だけの教会や檀家だけの寺、役所の外郭団体などがその典型でしょう。例えば宗教の場合、自分の中に全体の福利や他者の幸せ(神の願い)を体現して生きようと苦闘するのが、本来の信仰のあり方です。しかし自分は神を信じているから救われていると過信し、自分や環境を変える努力をせずに、そのままの日常を繰り返して生きるような例です。自分の生活の中で、実際に人の幸せに役立つ努力を怠る場合は、いのちが干からび、生活が惰性化し、人生が形骸化していきます。だから去勢されたような信仰生活を送っていくことになります。本来神を生きる者は、存分に自分に生きるはずなのに、結局普遍性(他者の幸せ)をないがしろにすることで、神も自分も失ってしまうことになります。また新国立競技場問題で揺れるJSC(日本スポ-ツ振興センタ-)や戦前の陸軍なども同じ構造で、全体のことを考えているようでじつは自己保身以外何も考えておらず、ただ決まったことを軌道修正する智慧も勇気もなく、粛々と遂行して破滅に陥っていきます。
このように、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関を意識できたとしても、それを正しく調和させることは困難で、病理に襲われます。もし自己欲に囚われる自分を一旦否定して、普遍のいのちへと自己を解放し、また個に戻って日常の中で普遍の価値を実現して生きていくことが出来るならば、つまり個と普遍との絶えざる往還が出来るようになれば、自他のいのちは再生し、時代を突き破るダイナミックな力を得ることも可能になってきます。それが宗教が、危機の時代において新しい社会・文化の体制を切り拓いてくることの出来た理由です。しかし人間が厄介なのは、仮にこの個と普遍の往還がうまく出来たとしても、さらにまだ厄介な病理を宿しているということです。それが第4の病理です。
第4の病理は、認識と意志の乖離の問題です。たとえば自分のライバルが優れた業績を上げたとした場合、最初に“すごい”という意識がやってきます。これが認識です。しかしその次の瞬間、その業績を貶める思考が働いてきます。これが意志です。私たちは正しい認識を得たとしても、自分の気持ちとしては受け入れられず、別の判断を下し、別の対応を意志してしまうということが往々にして起こるのです。正しくとも、自分(の立場)としては認められないのです。だから成熟社会の生き方理想と判断の指針がはっきりしてきたとしても、それを意志するかどうかは別問題ということになってきます。人間というのは、本当に厄介ですね。
以上、人間の欲望の構造と判断の構造、そしてそこに潜む4つの病理を見てきました。これをもとにいよいよ成熟社会の生き方理想とその実現のプロセス、そしてそれを担う個人主体の形成について考えていきたいと思います。まさに成熟社会の国民主権を担う人間づくりとシステムづくりというところでしょうか。次回のパンセの集いは、7月21日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
皆 様 へ
安保法案が衆議院で強行採決されました。その一方で、世論調査では8割の人たちが説明不十分と答えています。ここに成熟社会のとば口に立った日本の、2つの姿が現れているように感じます。1つは、政治家や懸命に賛成反対運動に没頭する人たちの姿。それぞれ熱心に主張を展開するのですが、議論は平行線のままです。反対する者はいつまでたっても反対で、賛成する者は賛成。結果的には政治権力か大衆運動かの力の強さで事が決していきます。これが戦後日本が今日までたどってきた、旧態依然たる政治状況の姿です。しかしここで注目しなければならないのは、8割の人たちが説明不十分と考えているということです。これは何を意味しているのでしょうか。国民の大多数がどうも腑に落ちない、このまま決まってしまって良いのかと思っているということです。言い換えれば、なぜ、何のために安保法制は必要で、結果がどうなるのかを、自分の頭で考え納得したいと思っているということです。つまり国民主権が深化し始めているのです。これが2つ目の日本の姿です。成熟社会を開こうとする日本にとっては、じつは安保法制の賛否以上に、こちらの方が重要で主戦場です。一人一人が自分で考え、立場の違う者同士がどう議論を噛み合わせて、より深い認識と共通了解を得ていくか。どうやら安倍首相は、日本国民に素敵なパンドラの箱を開けてくれたようです。これまでの私たちの思考パタ-ンは、直感補強型といって、例えば安倍首相は悪いという直感を持つと、その直感を補強する情報ばかり集めて自分の意見を組み立てる思考法です。これでは自分の意見の正当性を言い募るばかりで、反対者と喧嘩になるだけで議論にはなりません。もう1つの思考パタ-ンは、直感検証型といって、安保法制が悪いという直感を持ったなら、その直感の由来する理由を掘り下げて考える思考法です。すると反対者も賛成者も、じつは動機まで掘り下げると『自分と愛する者のいのちと暮らしを守りたい』という点で共有でき、ただそのための方法論として、安保法制に賛成あるいは反対を唱えているという構図が見えてきたりします。動機つまり目的は同じなのだから、方法論として何がベストか、ここに議論の接点が生まれてきます。そしてどうすれば本当にその目的を達成できるのか、共に補い合って考えていくことが出来ます。こうしてより優れた解決策と国政運営の可能性が見えてくるのです。
国民主権というのは、国民の大半が思考方法を直感補強型から直感検証型に切り替えるということで、これは独裁政権や利権政治にとっては、ごまかしが効かなくなって困ったことになります。じつはパンセの集いで目指している成熟社会の生き方理想(目標)というのも、この思考方法を身につけることと不可分となっています。直感補強によるヒステリックで魔女狩り的思考が横行する中で、直感検証思考を培うことは並大抵のことではありません。欧米でさえ、まともには行えていません。パンセの集いではその困難な営みを少しずつ推し進め、成熟社会における真の国民主権を担える主体形成を行っていければと思っています。次回のパンセの集いは、連休明けの7月21日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
さてこれまで、生きる力の源泉となる欲望が、人間の場合、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関関係の中から生み出されてくることを見てきました。だとすると、私たちが幸せを感じて生きられる時というのは、2つの感覚を同時に持てる時であるということがわかってきます。1つは、自分の思いのままに願いを実現して生きられるという自由の感覚を持てる時です。もう1つは、他の人や社会、または生態系の全体のためになって生きられて、自分の存在が他者から承認・称賛され、生きる意味と価値が感じられる時です。ではこの2つの感覚を満たして生きていくためには、どのような力が必要となってくるのでしょうか。それには3つの力が求められてきます。1つは、自分の思いを自由に満たすことの出来る自己実現の力。もう1つは相互に承認しあい、力づけあって関係性を築き、全体の福利を実現しようとするいのちへの配慮の力。この中には、相手を許して和解する力や他者のいのちを支え育む力も含まれてくることでしょう。そして3つ目の力が、自己実現といのちへの配慮という、いわば利己と利他の相矛盾する2つの力を調整し、両方ともに実現していく力です。それはまさに生きる力と言って良いものでしょう。自己実現の力というのは、今の社会でも中心的に求められているので、わかりやすいかと思います。しかしいのちへの配慮の力と生きる力というのは、能力としては明確には意識されず、体系的な教育もなされていません。本来道徳教育というのは、国を愛することなどではなく、この2つの力を養うことなのですけれども。しかし、長い歴史をかけてこの2つの力を培ってきたのが伝統宗教であって、いのちの力と生きる力の知恵こそが、伝統宗教の智慧の領域ということになります。
そこで今私たちは、伝統宗教の智慧をたよりとしつつ、私たちが個別性の欲望と普遍性の欲望の相関関係の中で、これからの成熟社会を幸せなものとして生きていくための生き方目標、そして判断の指針を得ていこうと取り組みを続けております。前回までに、私たちの欲望と判断の基本構造を考えながら、そこで生じる病理を明らかにしてきました。1つ目の病理は、人間の心がもろく傷つきやすいものであるが故に、他者を信頼できなくなって頑なになり、普遍性の欲望を断念して自己利益に固執するか、あるいは傷つくのを恐れて他者とは本心から関わらないエゴイストになってしまう問題です。2つ目は、個別性の欲望と普遍性の欲望を相関させて追及しているようで、実は個別性の欲望を、他者やもっと大きな集団の上におし広げて、自分の思いのままを自己実現しようとする病理です。安倍首相などがその典型で、安保法制などと言いながら、じつは自分の思いのままを日本全体で実現したいのです。だから個別性の欲望と普遍性の欲望をすりあわせる葛藤がなく、つまり反対意見は聞く心性が無く、どこまで行っても議論は平行線で噛みあわず、決着は力をもってすることになります。当然勝手な思いを押しつけられる国民の方は反発して抗議運動を起こし、力対力の対決になって、この複雑な国際情勢の中で、真の日本の安全保障を考える道は遠のきます。
さて、個別性の欲望と普遍性の欲望を相関させる意識がしっかりあったとしても、その双方を調和させるには厳しい葛藤があり、忍耐が必要となってきます。第3の病理は、その葛藤に耐えられずに生じてくる病理です。これには3つのパタ-ンがあります。本来は、個人の利害と全体の福利を調和させて生きるのが、健全な人間です。しかしこの調和への努力が不十分だと、私たちは自分の個人的な思想信条を他者の視線で吟味することなく、そのまま普遍的な価値を持つと安易に思いこむことによって、自分の絶対的な正しさを担保しようとします。かつての共産主義運動や現在のIS(イスラム国)などはその典型でしょう。独善的になり、異なる信条の者に不寛容になり、他者への制裁が正当化されます。独善が支配すると、社会は恐ろしく住みにくくなってしまいます。これが個と普遍性の調和の1つ目のパタ-ンの病理です。2つ目のパタ-ンは、普遍性のみが強く意識されて自己を喪失する、自己疎外の病理です。教条的な宗教や会社人間がその典型でしょう。例えば宗教の場合、普遍的な価値である神とは何か、そしてその神を信じることによって得られる自分の幸せとは何かという問いを、常に問い続け、深めていかなければなりません。しかしそれを怠ると、まず普遍的な価値が教条化していきます。本来自分の救いのための神の教えであったはずなのに、いくつかの教えを守れば救われると単純化し、目的と手段とが逆転していきます。こうして自分を規範(教え)に隷属させ、教条化して自由と人間性を喪失させていきます。これは会社人間の場合にも言えることで、自分の生活の幸せのための会社なのに、会社のための人生へと転化していってしまうのです。3つ目のパタ-ンは2つ目の逆で、普遍性を意識しているようでじつは普遍性をないがしろにし、自分だけに生きる病理です。この時、生活は惰性化し形骸化していきます。限られた信者だけの教会や檀家だけの寺、役所の外郭団体などがその典型でしょう。例えば宗教の場合、自分の中に全体の福利や他者の幸せ(神の願い)を体現して生きようと苦闘するのが、本来の信仰のあり方です。しかし自分は神を信じているから救われていると過信し、自分や環境を変える努力をせずに、そのままの日常を繰り返して生きるような例です。自分の生活の中で、実際に人の幸せに役立つ努力を怠る場合は、いのちが干からび、生活が惰性化し、人生が形骸化していきます。だから去勢されたような信仰生活を送っていくことになります。本来神を生きる者は、存分に自分に生きるはずなのに、結局普遍性(他者の幸せ)をないがしろにすることで、神も自分も失ってしまうことになります。また新国立競技場問題で揺れるJSC(日本スポ-ツ振興センタ-)や戦前の陸軍なども同じ構造で、全体のことを考えているようでじつは自己保身以外何も考えておらず、ただ決まったことを軌道修正する智慧も勇気もなく、粛々と遂行して破滅に陥っていきます。
このように、個別性の欲望と普遍性の欲望の相関を意識できたとしても、それを正しく調和させることは困難で、病理に襲われます。もし自己欲に囚われる自分を一旦否定して、普遍のいのちへと自己を解放し、また個に戻って日常の中で普遍の価値を実現して生きていくことが出来るならば、つまり個と普遍との絶えざる往還が出来るようになれば、自他のいのちは再生し、時代を突き破るダイナミックな力を得ることも可能になってきます。それが宗教が、危機の時代において新しい社会・文化の体制を切り拓いてくることの出来た理由です。しかし人間が厄介なのは、仮にこの個と普遍の往還がうまく出来たとしても、さらにまだ厄介な病理を宿しているということです。それが第4の病理です。
第4の病理は、認識と意志の乖離の問題です。たとえば自分のライバルが優れた業績を上げたとした場合、最初に“すごい”という意識がやってきます。これが認識です。しかしその次の瞬間、その業績を貶める思考が働いてきます。これが意志です。私たちは正しい認識を得たとしても、自分の気持ちとしては受け入れられず、別の判断を下し、別の対応を意志してしまうということが往々にして起こるのです。正しくとも、自分(の立場)としては認められないのです。だから成熟社会の生き方理想と判断の指針がはっきりしてきたとしても、それを意志するかどうかは別問題ということになってきます。人間というのは、本当に厄介ですね。
以上、人間の欲望の構造と判断の構造、そしてそこに潜む4つの病理を見てきました。これをもとにいよいよ成熟社会の生き方理想とその実現のプロセス、そしてそれを担う個人主体の形成について考えていきたいと思います。まさに成熟社会の国民主権を担う人間づくりとシステムづくりというところでしょうか。次回のパンセの集いは、7月21日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。