■2015.7.26 パンセ通信No.42『成熟社会の生き方理想とその実現の評価基準』
皆 様 へ
去る6月5日に高野山の麓にある慈尊院で開催されました「高野山の案内犬ゴンちゃんありがとうコンサ-ト」、ゴンちゃんの満13回忌法要を兼ねたその様子を収録した映像を、You Tubeにアップ致しました。ご興味のある方は、
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去る6月5日に高野山の麓にある慈尊院で開催されました「高野山の案内犬ゴンちゃんありがとうコンサ-ト」、ゴンちゃんの満13回忌法要を兼ねたその様子を収録した映像を、You Tubeにアップ致しました。ご興味のある方は、
をクリックするか、パンセ・ドゥ・高野山のホ-ムペ-ジから、ゴンのコミュニティ⇒ゴンのコンサ-ト⇒ゴンちゃんありがとうコンサ-トで視聴してみて下さい。
さて、成熟社会の生き方理想とその実現のプロセスの検討を進めております。それはまた言い換えれば、私たちが幸せを求めて生き続け、それ故にまた国民主権を担う主体ともなっていくことを意味しております。これまで洗い出してきた条件を整理しつつ、具体的な生活の仕方や仕事の仕方についても、踏み込んで考えを進めていければと思います。次回のパンセの集いは、7月28日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
私たちが幸せになるためには、必要条件(経済的条件、地位、名声等)と十分条件(生活や生き方の質)を満たすことが求められます。この必要条件と十分条件を充足するためには、まずこの条件を満たせるような社会と経済の仕組みが必要となります。そしてもう1つ必要となるのが、一人一人がこの幸せの条件を求める主体となって、自分の幸せと社会の幸せの実現に向けて生き始めるということです。そのためには、特に十分条件についてもう少し明確にし、幸せとは何かという目標を明確にしておかなければなりません。そこでまず私たちは、どういう時に幸せを感じられるのかということについて考えてみたいと思います。そうすると第1に、私たちが自由に生きられる時という条件が浮かび上がってきます。人間は誰でも自分の思いを自由に実現して、思いのままに生きられれば幸せを感じるものでしょう。そしてもう1つは、他の誰かのために役立って自分の存在が認められたり感謝されたりして、自分の生きる意味と価値が実感できる時です。つまり幸せの十分条件を言い換えると、思いを実現して自由に生きられると同時に、人に役立って自分の生きる意味と価値が感じられるという、2つの条件を同時に満たす時と言えることがわかってきます。この状態のことを、他者と役立ち合う関係を築くことで互いの自由をより大きく実現しあうという意味で、“関係性の自由(自分の自由が他者のためになり、他者の自由が自分のためになる関係)”という言葉で呼んでおくことと致します。
じつはこの幸せの十分条件は、人間の欲望の基本構造から読み取れるものと表裏一体をなしています。人間は一人一人個別の身体をもって生きているのですが、同時に一人では生きられず、社会を形成し自然の生態系とも調和して生きています。従って一方では、私たちは自分の個別的な生存を保証し利益を求める欲望、つまり個別性の欲望を持っているわけですが、もう一方では、全体の利益や調和を求める欲求、つまり普遍性の欲求をも持って生きているのです。従って先ほどの幸せの十分条件を、人間の欲望の側面から言い換えてみると、個別性の欲望と普遍性の欲求を相関させて、両方を満たして生きていくということになってくるでしょう。ここで前回、この個別性の欲望を満たす力として“自己実現の力”という言葉を用い、また他者を配慮し相互に協力する関係を築いて、全体の福利を向上させたいという普遍性の欲求を満たす力として、“いのちへの配慮の力”という言葉を置いてみました。そして“自己実現の力”と“いのちへの配慮の力”の両方を兼ね備えた力こそが、まさに私たちが“(幸せに)生きる力”ということになってくるのでしょう。これまでの成長社会においては、お金や権力などの幸せの必要条件が幸せそのものと同一視されたため、金儲けや権力を求め、またそれを維持する力が重要視されました。しかし今私たちが立ち入ろうとする成熟社会においては、“関係性の自由”を求めて、個別性の欲望と普遍性の欲求を調和させる“自他に生きる力、いのちの価値を実現する力”こそが求められてくるのです。
ここまで考えてくると、成長社会の生き方理想と成熟社会の生き方理想の違いがはっきりしてきます。成長社会においては、まず自分が成功し、先んじて豊かになることを人々は求めていました。そうすれば、結果として社会全体も豊かになったからです。しかし成熟社会においてはそれでは不十分で、自分が豊かになると同時に、他者や全体が豊かになることを意識的に求めるのでなければなりません。そうでないと、どこかで破綻をきたしてしまうことに人間は気づいたからです。従って、成長社会の価値を『モノの豊かさと自己実現』の価値と称するとするならば、成熟社会の価値は、『生かし合いのいのちの価値』として対置することが出来るでしょう。つまり社会の価値が、モノの豊かさからいのちの豊かさに移り、いのちの価値を求める者が成功者となって尊敬されて幸福を得、しかも結果として経済的にも満たされるという社会になってくるものと思われます。これでようやく、人間性の高徳さと、社会的な地位や富が比例する社会が実現するということになるのでしょうか。
このように成熟社会の生き方理想を『(生かし合いの)いのちの価値を求める』ことと置いてみるなら、先ほど考えた幸せの十分条件や、人間の欲望の基本構造は、自分がこのいのちの価値に生きられているかどうか、幸せに向かって過たずに歩んでいるかどうかを判断する、重要なリトマス試験紙(判断指標)の役割を果たすことがわかってきます。
私たちがこれからつくっていこうとする成熟社会においては、まず何よりも私たち自身が幸せにならなければなりません。そのためにはまず必要条件として、自分が人間として(健康で文化的に)生きていくに足る経済的基盤や環境、また時間も含めた生活の余裕があるかどうかということがチェックポイントとなってきます。加えて十分条件として、自分のやりたいことを自由にやれているかどうかも、そして同時にそれが、どこかで他の人にも役立っているかどうかも評価の基準となってきます。つまり自分のやりたいことが他の人にも役立って認められているかどうか、またそれを通じて自分自身の意味や価値を感じられているかどうかということが、自分の生き方の評価項目になってくるということでしょう。それでは私たちは、いったいどんなプロセスをもって、この幸せの条件を満たす人間になっていくことが出来るのでしょうか。そこでここでは、その概略が例示できるように、イメージ的なお話しをしてみたいと思います。幸せの十分条件を満たすための最初は、やはり自分自身の取戻しということから始まるのでしょう。自分自身のやりたいことを見つけて、それに没頭することが出来ているかどうか。そのレベルでは“オタク”なのですが、自分が没頭していることの中で、これは大切だ素晴らしいというものを見つけて、他の人にも伝えたくてたまらなくなる。それは必ず、他の誰かにも役立つはずだと思えるてくるからです。そうやって他の誰かに働きかけて、やがて役立つ関係が出来てきて、自分の存在価値が感じられるようになってくる。じつはこのプロセスは、単純な再生産過程(ル-ティンワーク)というよりは、価値創造のプロセスです。従って成熟社会における働き方は、時間も意欲も会社への献身が求められる正社員よりも、契約社員や派遣労働やパートタイムのように、自分の時間が取れる働き方が主流となってくるのかもしれません。もちろん現在政府が進めている労働法制の改悪の延長上に出来上がる仕組みとは、根本的に趣旨が違います。政府が目指すのは、企業が労働コストをさらに下げたり、派遣会社の事業拡大を目指すにすぎないものだからです。同一労働同一賃金や短時間勤務・自由時間労働制、そして労働生産性の向上等により、半日労働や週3日労働で生活が成り立つ仕組みを考えていかなければならないでしょう。そうやって短時間の労働で生活の糧を得る仕組みをつくって、自分の好きなことに没頭にできる時間をつくる。そしてまた、たくさんの人がオタク的に没頭して見出す新たな価値を、他の人のニ-ズに結びつけてビジネスにする仕組みも求められてくることになるでしょう。
一方、現在の社会を中核的に担っている正社員の人たちからも、幸せの条件を満たして生きていけるようになる道があるはずです。そのプロセスも、イメージ的に考えてみると次のようになるでしょうか。有力企業の正社員というのは、すでに自分の生存や利益を十分確保する能力を持った人、つまり自己実現の能力とそれを発揮するための地位などの機会を持っている人ということになるでしょう。しかし成熟社会にあっては、それだけでは足りません。自分の事業が、他の人のいのちの養いにも役立ち、全体にも貢献していることをチェックしながらビジネスを進めていかなければなりません。この時の全体というのは、現代においては人間社会だけではなく、地球規模での生態系の環境全体、そして後の世代の幸せまでをも考慮した全体ということになるでしょう。従って原発などのように生態系を乱し、将来の世代に負担を残すような事業は、この評価では排除されることになります。またいのちの価値を求める成熟社会にあっては、事業の目的は利益ではなく、結果として確保するものということになってくるでしょう。目的は“いのちの価値を高める”ことです。他者や全体のいのちを育み、自分自身も仕事を通じて幸せになることが目的となります。またそうした事業活動を維持し、また必要な範囲で拡大するために要する利益を確保できたかということも評価の対象となってきます。もちろん“いのちへの配慮、いのちの価値を高める”ことが目的ですから、結果だけでなくそのプロセスも重要になってきます。事業活動の過程において、他者と自分のいのちの価値を高め、結果として必要な生活資材と幸せを得ることが出来たかどうか。こうしたことが評価の目安となってくるのでしょう。しかしこう考えてくると、そもそもその大前提である“自己実現の力”に対する“いのちへの配慮の力(いのちの価値を高める力)”というものが、これまでの社会では意識的体系的に身につけてこられなかったことに気づかされます。
さて成熟社会においては、価値が“モノの豊かさ”から“いのちの豊かさ”に移り、そこで私たちが幸せを実現して生きていくためには、自分と人に役立つ“関係性の自由”に生きて、個別性の欲望と普遍性の欲望を調和させる“自他に生きる力、いのちの価値を高める力”が求められてくることを見てきました。このように生きられるようになって始めて、私たちは国民主権を担える主体となることも出来るのでしょう。そしてまたイメ-ジ的ではありますが、そうした理想のもとでの生き方と仕事の仕方を、ほんの少しですが垣間見てみました。今後、こうした生き方理想の詳細について、この理想を実現する社会経済の仕組みとの相関において考えることによってさらに明らかにし、今ここからどのようにスタ-トしていけば良いかを検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは、7月28日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
さて、成熟社会の生き方理想とその実現のプロセスの検討を進めております。それはまた言い換えれば、私たちが幸せを求めて生き続け、それ故にまた国民主権を担う主体ともなっていくことを意味しております。これまで洗い出してきた条件を整理しつつ、具体的な生活の仕方や仕事の仕方についても、踏み込んで考えを進めていければと思います。次回のパンセの集いは、7月28日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
私たちが幸せになるためには、必要条件(経済的条件、地位、名声等)と十分条件(生活や生き方の質)を満たすことが求められます。この必要条件と十分条件を充足するためには、まずこの条件を満たせるような社会と経済の仕組みが必要となります。そしてもう1つ必要となるのが、一人一人がこの幸せの条件を求める主体となって、自分の幸せと社会の幸せの実現に向けて生き始めるということです。そのためには、特に十分条件についてもう少し明確にし、幸せとは何かという目標を明確にしておかなければなりません。そこでまず私たちは、どういう時に幸せを感じられるのかということについて考えてみたいと思います。そうすると第1に、私たちが自由に生きられる時という条件が浮かび上がってきます。人間は誰でも自分の思いを自由に実現して、思いのままに生きられれば幸せを感じるものでしょう。そしてもう1つは、他の誰かのために役立って自分の存在が認められたり感謝されたりして、自分の生きる意味と価値が実感できる時です。つまり幸せの十分条件を言い換えると、思いを実現して自由に生きられると同時に、人に役立って自分の生きる意味と価値が感じられるという、2つの条件を同時に満たす時と言えることがわかってきます。この状態のことを、他者と役立ち合う関係を築くことで互いの自由をより大きく実現しあうという意味で、“関係性の自由(自分の自由が他者のためになり、他者の自由が自分のためになる関係)”という言葉で呼んでおくことと致します。
じつはこの幸せの十分条件は、人間の欲望の基本構造から読み取れるものと表裏一体をなしています。人間は一人一人個別の身体をもって生きているのですが、同時に一人では生きられず、社会を形成し自然の生態系とも調和して生きています。従って一方では、私たちは自分の個別的な生存を保証し利益を求める欲望、つまり個別性の欲望を持っているわけですが、もう一方では、全体の利益や調和を求める欲求、つまり普遍性の欲求をも持って生きているのです。従って先ほどの幸せの十分条件を、人間の欲望の側面から言い換えてみると、個別性の欲望と普遍性の欲求を相関させて、両方を満たして生きていくということになってくるでしょう。ここで前回、この個別性の欲望を満たす力として“自己実現の力”という言葉を用い、また他者を配慮し相互に協力する関係を築いて、全体の福利を向上させたいという普遍性の欲求を満たす力として、“いのちへの配慮の力”という言葉を置いてみました。そして“自己実現の力”と“いのちへの配慮の力”の両方を兼ね備えた力こそが、まさに私たちが“(幸せに)生きる力”ということになってくるのでしょう。これまでの成長社会においては、お金や権力などの幸せの必要条件が幸せそのものと同一視されたため、金儲けや権力を求め、またそれを維持する力が重要視されました。しかし今私たちが立ち入ろうとする成熟社会においては、“関係性の自由”を求めて、個別性の欲望と普遍性の欲求を調和させる“自他に生きる力、いのちの価値を実現する力”こそが求められてくるのです。
ここまで考えてくると、成長社会の生き方理想と成熟社会の生き方理想の違いがはっきりしてきます。成長社会においては、まず自分が成功し、先んじて豊かになることを人々は求めていました。そうすれば、結果として社会全体も豊かになったからです。しかし成熟社会においてはそれでは不十分で、自分が豊かになると同時に、他者や全体が豊かになることを意識的に求めるのでなければなりません。そうでないと、どこかで破綻をきたしてしまうことに人間は気づいたからです。従って、成長社会の価値を『モノの豊かさと自己実現』の価値と称するとするならば、成熟社会の価値は、『生かし合いのいのちの価値』として対置することが出来るでしょう。つまり社会の価値が、モノの豊かさからいのちの豊かさに移り、いのちの価値を求める者が成功者となって尊敬されて幸福を得、しかも結果として経済的にも満たされるという社会になってくるものと思われます。これでようやく、人間性の高徳さと、社会的な地位や富が比例する社会が実現するということになるのでしょうか。
このように成熟社会の生き方理想を『(生かし合いの)いのちの価値を求める』ことと置いてみるなら、先ほど考えた幸せの十分条件や、人間の欲望の基本構造は、自分がこのいのちの価値に生きられているかどうか、幸せに向かって過たずに歩んでいるかどうかを判断する、重要なリトマス試験紙(判断指標)の役割を果たすことがわかってきます。
私たちがこれからつくっていこうとする成熟社会においては、まず何よりも私たち自身が幸せにならなければなりません。そのためにはまず必要条件として、自分が人間として(健康で文化的に)生きていくに足る経済的基盤や環境、また時間も含めた生活の余裕があるかどうかということがチェックポイントとなってきます。加えて十分条件として、自分のやりたいことを自由にやれているかどうかも、そして同時にそれが、どこかで他の人にも役立っているかどうかも評価の基準となってきます。つまり自分のやりたいことが他の人にも役立って認められているかどうか、またそれを通じて自分自身の意味や価値を感じられているかどうかということが、自分の生き方の評価項目になってくるということでしょう。それでは私たちは、いったいどんなプロセスをもって、この幸せの条件を満たす人間になっていくことが出来るのでしょうか。そこでここでは、その概略が例示できるように、イメージ的なお話しをしてみたいと思います。幸せの十分条件を満たすための最初は、やはり自分自身の取戻しということから始まるのでしょう。自分自身のやりたいことを見つけて、それに没頭することが出来ているかどうか。そのレベルでは“オタク”なのですが、自分が没頭していることの中で、これは大切だ素晴らしいというものを見つけて、他の人にも伝えたくてたまらなくなる。それは必ず、他の誰かにも役立つはずだと思えるてくるからです。そうやって他の誰かに働きかけて、やがて役立つ関係が出来てきて、自分の存在価値が感じられるようになってくる。じつはこのプロセスは、単純な再生産過程(ル-ティンワーク)というよりは、価値創造のプロセスです。従って成熟社会における働き方は、時間も意欲も会社への献身が求められる正社員よりも、契約社員や派遣労働やパートタイムのように、自分の時間が取れる働き方が主流となってくるのかもしれません。もちろん現在政府が進めている労働法制の改悪の延長上に出来上がる仕組みとは、根本的に趣旨が違います。政府が目指すのは、企業が労働コストをさらに下げたり、派遣会社の事業拡大を目指すにすぎないものだからです。同一労働同一賃金や短時間勤務・自由時間労働制、そして労働生産性の向上等により、半日労働や週3日労働で生活が成り立つ仕組みを考えていかなければならないでしょう。そうやって短時間の労働で生活の糧を得る仕組みをつくって、自分の好きなことに没頭にできる時間をつくる。そしてまた、たくさんの人がオタク的に没頭して見出す新たな価値を、他の人のニ-ズに結びつけてビジネスにする仕組みも求められてくることになるでしょう。
一方、現在の社会を中核的に担っている正社員の人たちからも、幸せの条件を満たして生きていけるようになる道があるはずです。そのプロセスも、イメージ的に考えてみると次のようになるでしょうか。有力企業の正社員というのは、すでに自分の生存や利益を十分確保する能力を持った人、つまり自己実現の能力とそれを発揮するための地位などの機会を持っている人ということになるでしょう。しかし成熟社会にあっては、それだけでは足りません。自分の事業が、他の人のいのちの養いにも役立ち、全体にも貢献していることをチェックしながらビジネスを進めていかなければなりません。この時の全体というのは、現代においては人間社会だけではなく、地球規模での生態系の環境全体、そして後の世代の幸せまでをも考慮した全体ということになるでしょう。従って原発などのように生態系を乱し、将来の世代に負担を残すような事業は、この評価では排除されることになります。またいのちの価値を求める成熟社会にあっては、事業の目的は利益ではなく、結果として確保するものということになってくるでしょう。目的は“いのちの価値を高める”ことです。他者や全体のいのちを育み、自分自身も仕事を通じて幸せになることが目的となります。またそうした事業活動を維持し、また必要な範囲で拡大するために要する利益を確保できたかということも評価の対象となってきます。もちろん“いのちへの配慮、いのちの価値を高める”ことが目的ですから、結果だけでなくそのプロセスも重要になってきます。事業活動の過程において、他者と自分のいのちの価値を高め、結果として必要な生活資材と幸せを得ることが出来たかどうか。こうしたことが評価の目安となってくるのでしょう。しかしこう考えてくると、そもそもその大前提である“自己実現の力”に対する“いのちへの配慮の力(いのちの価値を高める力)”というものが、これまでの社会では意識的体系的に身につけてこられなかったことに気づかされます。
さて成熟社会においては、価値が“モノの豊かさ”から“いのちの豊かさ”に移り、そこで私たちが幸せを実現して生きていくためには、自分と人に役立つ“関係性の自由”に生きて、個別性の欲望と普遍性の欲望を調和させる“自他に生きる力、いのちの価値を高める力”が求められてくることを見てきました。このように生きられるようになって始めて、私たちは国民主権を担える主体となることも出来るのでしょう。そしてまたイメ-ジ的ではありますが、そうした理想のもとでの生き方と仕事の仕方を、ほんの少しですが垣間見てみました。今後、こうした生き方理想の詳細について、この理想を実現する社会経済の仕組みとの相関において考えることによってさらに明らかにし、今ここからどのようにスタ-トしていけば良いかを検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは、7月28日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。