■2015.8.2パンセ通信No.43『モノの豊かさからいのちの豊さの価値へ』
皆 様 へ
成長社会から成熟社会へ。モノの豊かさと自己実現を価値として追及してきた時代から、いのちの豊かさを価値としてその実現を求める時代へ。今時代は大きな転換点に立っています。そして恐らく、経済や社会制度としては先進国としての基盤を築いた日本は、またその一方で、個々の生命を包み込む大いなるいのちの流れを感じ取り、人と自然との共生をその精神・文化の根底に抱くことから、この新しいいのちの時代を切り拓く、フロントランナ-の位置に立っているのかもしれません。これまで個人の側から、私たちが幸せを追及する主体となる条件を探ってきましたが、今回はそうした個々の私たちを包み込むいのちという概念を明らかにすることによって、そのいのちの価値を実現する社会・経済の仕組みを考える基点を整理していってみたいと思います。次回のパンセの集いは、8月4日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
いのちとは、身体という枠組みをもって、モノと心の両方によって養われるものであり、また逆にこのいのちが、私たちの身体と心とモノの代謝を司る、と言うことが出来るでしょう。成長社会においては、私たちはしばしばモノと心がバラバラになる経験をしてきました。豊かさを求めて懸命に働き、物資的な富を手にするのですが、心は憔悴しきってしまうという経験です。反対に心の豊かさを求めるなら、富を追及し地位を上昇させる競争から自ら脱落することとなり、貧窮や蔑みの生活を余儀なくされてしまいます。従っていのちの価値を求める成熟社会とは、端的に言って、モノと心の両方の豊かさを求める社会であり、その両方を媒介するものとしての身体に対しても十分な配慮が向けられる時代ということになるでしょう。身体は、いのちを構成するものであって、労働のための道具などではないからです。このように私たちが“いのち”というものを考えてみる時、まずそれは、身体と心によって構成されていて、モノの代謝によって養われるものであり、さらに“いのち”においては、身体と心とモノとが統一的に把握されていて、健康な身体と心、そして豊かなモノとの関わりが求められてくる、そういったイメ-ジを私たちは抱いていると言って良いでしょう。
次にいのちというものは、非常に不思議な働きをもった力(エネルギ-)であることが思い起こされます。物質の世界にあっては、あらゆるものの秩序が乱れ、乱雑さが増大する方向に向かいます。熱力学の第二法則でいう、エントロビ-の増大です。しかし生命(いのち)は異なります。身体で囲われた生命系の中では、エントロピ-は増大せず、秩序を自己形成していきます。つまりエントロピ-を低減させていくのです。そして生命と生命がおりなす生態系の環境においても、多様な共生や生存競争の中で、みごとなバランスをとり、調和と秩序が形成されていきます。これが物質界を司るエネルギ-とは異なる、生命のエネルギ-の不思議です。現代物理学では、素粒子としてクォ-クやレプトン、ヒッグス粒子などを想定しますが、東洋では古来より、いのちの粒子であり力の単位として、“気”というものを想定してきました。もしそれが実在するとしたなら、宇宙というのはエントロピ-を増大させる物質という系と、“気”をベ-スにした調和と秩序を形成する“いのち”という系があって、その2つの系のバランスの上に成り立っているということになります。仮にそうだとするなら、人体という生命系を対象とする医学なども、身体を物質的に捉えて悪い部分を切除したり、悪い菌を死滅させるなどという物理的発想ではなく、いかに身体全体の調和を自己回復させ、いのちの自律的な秩序形成を取り戻すかということが、治療の目的になって来るのかもしれません。ここでも気づかされることは、私たちの思考と興味がいかに物質中心に偏ったものとなっていて、いのちの仕組みについては関心が払われて来なかったかということです。
もちろんそうは言っても、かつて私たちの先人が行ったように、“気”などという概念を持ち出していのちを物質に相対するような実体的な体系として捉えようとすることは、現状ではあまりにも実証デ-タが乏しく、オカルト的呪術の域を脱しないものとなってしまうことでしょう。しかしそれでも、私たち個人の意識の内側から、“いのち”というものをどう捉えているかというイメ-ジを取り出して、その意義を確認してみる作業は有効なことかと思われます。
そこでまず私たちの意識を探ってみると、間違いなく“私のいのち”という捉え方があることがわかってきます。先ほども示した、身体と心とモノとの代謝によって構成される個別のいのちです。しかしいのちというものが、身体外の物質との代謝によって養われている以上、単体のいのちというものが存在し得ないことも明らかなことです。従って食う食われるの関係をも含めて、栄養となる物質を受け渡す“共生の系としてのいのち”という捉え方が私たちの中にはあることも、間違いの無いことでしょう。そしてさらに、“受け渡すいのち”というイメ-ジも私たちは抱いています。いのちの目的が生命の維持と子孫の繁栄であるならば、いのちは個別のいのちとして終わってしまうだけでなく、受け渡されて続いていくというイメ-ジを持つことも不思議なことではありません。さらにこのいのちは、直接的に先祖から子孫へと受け渡されるばかりではありません。例えば倒れて朽ちた1本の大木から、昆虫や菌糸類、そして微生物に至るまで無数のいのちが生まれ、養われることも私たちは目にします。つまり死は単なる終わりであるばかりでなく、新たないのちの始まりでもあるのです。それではその死んでいく側のいのちは、いったい何を思うのか。それは決して次のいのちを恨み呪うものでは無いでしょう。例えば先のアジア・太平洋戦争で無残にいのちを奪われた無数の先人たちも、きっと後世の私たちが、平和で豊かな日本、もう二度と同じ過ちを繰り返すことなくいのちの尊さを育む日本を築くことを、祈り求めたに違いありません。私たちは、そのようにイメ-ジしたいと思っているものなのです。そして私たち自身も、素直な心の根底で、後世のいのちの繁栄を願い、そのために尽くしたいと思っているのではないでしょうか。こうした個々のいのちを越えて、過去から未来へといのちの繁栄を願って受け渡される、大きな“普遍のいのち”の流れというものも、どこかで私たちはイメ-ジしているように思われます。
さてここまで、私たちが意識の中で抱く“いのち”というものについてのイメ-ジを考えてきましたが、それを整理してみると以下のようになるでしょうか。いのちとは、身体と心とモノの総合であり、また私のいのち、共生のいのち、普遍のいのちの総合でもある。そしていのちの力というのは、秩序や調和を自己形成していく作用を持ったものでもある。もしそうだとするなら、まず自分の身体と心とモノとの関係を配慮して、バランスのとれた成長と生活を実現することは、いのちの力を高めることにつながっていきます。また自分のいのちと、共生のいのちと、普遍のいのちの調和を図って、そのすべての目的を満たして生きていくことも、いのちの力を強めることとなってきます。そうするとここに、不思議ないのち価値の有り様が垣間見えてくることに気づきます。自分のいのちに配慮して大事に守ること。また他者のいのちや後世のいのちにも配慮して、その支援のためには必要なものを与え、可能な尽力も施していく。じつはそうすればそうするほどいのちはより良く調和し、その力を強め、価値を高めていくのです。モノの価値の場合は、それを使えば消耗し、与えれば無くなり、守るだけでは増えることはありません。しかしいのちの価値の場合には、守れば守るほど、与えれば与えるほど、そしてうまく使って磨けば磨くほど、その価値は高まっていくのです。伝統宗教においては、まさにこの個別のいのち、共生のいのち、普遍のいのいのちを調和させて同時に生きていくことに、即身成仏、永遠のいのちを生きるということの鍵があると考えてきました。そしていのちをこうした価値のあるものとして捉える時、生産が価値の源泉となる成長社会においてはけっして顧みられることのなかった老いと死も、はっきりとその意味の重要性が認められてくるようになると思われます。
このまだ私たちになじみの薄い“いのちの価値”、それをこれまでに考えてきた個人が幸せを追及する条件で言えば、関係性の自由とか個別性の欲望と普遍性の欲求の調和という言葉で、置き換えられるのかもしれません。そのいのちの価値をベ-スにして、どうすれば私たちは自らのいちの力を養い、強めていくことが出来るのか。またその価値を高めるという観点から、私たちは具体的にどのような生き方や生活の仕方、働き方をしていけば良いのか。そして社会経済のあり方は、どのような仕組みであれば良いのかについて、順を追ってこれから考えていければと思います。次回のパンセの集いは、8月4日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。
皆 様 へ
成長社会から成熟社会へ。モノの豊かさと自己実現を価値として追及してきた時代から、いのちの豊かさを価値としてその実現を求める時代へ。今時代は大きな転換点に立っています。そして恐らく、経済や社会制度としては先進国としての基盤を築いた日本は、またその一方で、個々の生命を包み込む大いなるいのちの流れを感じ取り、人と自然との共生をその精神・文化の根底に抱くことから、この新しいいのちの時代を切り拓く、フロントランナ-の位置に立っているのかもしれません。これまで個人の側から、私たちが幸せを追及する主体となる条件を探ってきましたが、今回はそうした個々の私たちを包み込むいのちという概念を明らかにすることによって、そのいのちの価値を実現する社会・経済の仕組みを考える基点を整理していってみたいと思います。次回のパンセの集いは、8月4日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
いのちとは、身体という枠組みをもって、モノと心の両方によって養われるものであり、また逆にこのいのちが、私たちの身体と心とモノの代謝を司る、と言うことが出来るでしょう。成長社会においては、私たちはしばしばモノと心がバラバラになる経験をしてきました。豊かさを求めて懸命に働き、物資的な富を手にするのですが、心は憔悴しきってしまうという経験です。反対に心の豊かさを求めるなら、富を追及し地位を上昇させる競争から自ら脱落することとなり、貧窮や蔑みの生活を余儀なくされてしまいます。従っていのちの価値を求める成熟社会とは、端的に言って、モノと心の両方の豊かさを求める社会であり、その両方を媒介するものとしての身体に対しても十分な配慮が向けられる時代ということになるでしょう。身体は、いのちを構成するものであって、労働のための道具などではないからです。このように私たちが“いのち”というものを考えてみる時、まずそれは、身体と心によって構成されていて、モノの代謝によって養われるものであり、さらに“いのち”においては、身体と心とモノとが統一的に把握されていて、健康な身体と心、そして豊かなモノとの関わりが求められてくる、そういったイメ-ジを私たちは抱いていると言って良いでしょう。
次にいのちというものは、非常に不思議な働きをもった力(エネルギ-)であることが思い起こされます。物質の世界にあっては、あらゆるものの秩序が乱れ、乱雑さが増大する方向に向かいます。熱力学の第二法則でいう、エントロビ-の増大です。しかし生命(いのち)は異なります。身体で囲われた生命系の中では、エントロピ-は増大せず、秩序を自己形成していきます。つまりエントロピ-を低減させていくのです。そして生命と生命がおりなす生態系の環境においても、多様な共生や生存競争の中で、みごとなバランスをとり、調和と秩序が形成されていきます。これが物質界を司るエネルギ-とは異なる、生命のエネルギ-の不思議です。現代物理学では、素粒子としてクォ-クやレプトン、ヒッグス粒子などを想定しますが、東洋では古来より、いのちの粒子であり力の単位として、“気”というものを想定してきました。もしそれが実在するとしたなら、宇宙というのはエントロピ-を増大させる物質という系と、“気”をベ-スにした調和と秩序を形成する“いのち”という系があって、その2つの系のバランスの上に成り立っているということになります。仮にそうだとするなら、人体という生命系を対象とする医学なども、身体を物質的に捉えて悪い部分を切除したり、悪い菌を死滅させるなどという物理的発想ではなく、いかに身体全体の調和を自己回復させ、いのちの自律的な秩序形成を取り戻すかということが、治療の目的になって来るのかもしれません。ここでも気づかされることは、私たちの思考と興味がいかに物質中心に偏ったものとなっていて、いのちの仕組みについては関心が払われて来なかったかということです。
もちろんそうは言っても、かつて私たちの先人が行ったように、“気”などという概念を持ち出していのちを物質に相対するような実体的な体系として捉えようとすることは、現状ではあまりにも実証デ-タが乏しく、オカルト的呪術の域を脱しないものとなってしまうことでしょう。しかしそれでも、私たち個人の意識の内側から、“いのち”というものをどう捉えているかというイメ-ジを取り出して、その意義を確認してみる作業は有効なことかと思われます。
そこでまず私たちの意識を探ってみると、間違いなく“私のいのち”という捉え方があることがわかってきます。先ほども示した、身体と心とモノとの代謝によって構成される個別のいのちです。しかしいのちというものが、身体外の物質との代謝によって養われている以上、単体のいのちというものが存在し得ないことも明らかなことです。従って食う食われるの関係をも含めて、栄養となる物質を受け渡す“共生の系としてのいのち”という捉え方が私たちの中にはあることも、間違いの無いことでしょう。そしてさらに、“受け渡すいのち”というイメ-ジも私たちは抱いています。いのちの目的が生命の維持と子孫の繁栄であるならば、いのちは個別のいのちとして終わってしまうだけでなく、受け渡されて続いていくというイメ-ジを持つことも不思議なことではありません。さらにこのいのちは、直接的に先祖から子孫へと受け渡されるばかりではありません。例えば倒れて朽ちた1本の大木から、昆虫や菌糸類、そして微生物に至るまで無数のいのちが生まれ、養われることも私たちは目にします。つまり死は単なる終わりであるばかりでなく、新たないのちの始まりでもあるのです。それではその死んでいく側のいのちは、いったい何を思うのか。それは決して次のいのちを恨み呪うものでは無いでしょう。例えば先のアジア・太平洋戦争で無残にいのちを奪われた無数の先人たちも、きっと後世の私たちが、平和で豊かな日本、もう二度と同じ過ちを繰り返すことなくいのちの尊さを育む日本を築くことを、祈り求めたに違いありません。私たちは、そのようにイメ-ジしたいと思っているものなのです。そして私たち自身も、素直な心の根底で、後世のいのちの繁栄を願い、そのために尽くしたいと思っているのではないでしょうか。こうした個々のいのちを越えて、過去から未来へといのちの繁栄を願って受け渡される、大きな“普遍のいのち”の流れというものも、どこかで私たちはイメ-ジしているように思われます。
さてここまで、私たちが意識の中で抱く“いのち”というものについてのイメ-ジを考えてきましたが、それを整理してみると以下のようになるでしょうか。いのちとは、身体と心とモノの総合であり、また私のいのち、共生のいのち、普遍のいのちの総合でもある。そしていのちの力というのは、秩序や調和を自己形成していく作用を持ったものでもある。もしそうだとするなら、まず自分の身体と心とモノとの関係を配慮して、バランスのとれた成長と生活を実現することは、いのちの力を高めることにつながっていきます。また自分のいのちと、共生のいのちと、普遍のいのちの調和を図って、そのすべての目的を満たして生きていくことも、いのちの力を強めることとなってきます。そうするとここに、不思議ないのち価値の有り様が垣間見えてくることに気づきます。自分のいのちに配慮して大事に守ること。また他者のいのちや後世のいのちにも配慮して、その支援のためには必要なものを与え、可能な尽力も施していく。じつはそうすればそうするほどいのちはより良く調和し、その力を強め、価値を高めていくのです。モノの価値の場合は、それを使えば消耗し、与えれば無くなり、守るだけでは増えることはありません。しかしいのちの価値の場合には、守れば守るほど、与えれば与えるほど、そしてうまく使って磨けば磨くほど、その価値は高まっていくのです。伝統宗教においては、まさにこの個別のいのち、共生のいのち、普遍のいのいのちを調和させて同時に生きていくことに、即身成仏、永遠のいのちを生きるということの鍵があると考えてきました。そしていのちをこうした価値のあるものとして捉える時、生産が価値の源泉となる成長社会においてはけっして顧みられることのなかった老いと死も、はっきりとその意味の重要性が認められてくるようになると思われます。
このまだ私たちになじみの薄い“いのちの価値”、それをこれまでに考えてきた個人が幸せを追及する条件で言えば、関係性の自由とか個別性の欲望と普遍性の欲求の調和という言葉で、置き換えられるのかもしれません。そのいのちの価値をベ-スにして、どうすれば私たちは自らのいちの力を養い、強めていくことが出来るのか。またその価値を高めるという観点から、私たちは具体的にどのような生き方や生活の仕方、働き方をしていけば良いのか。そして社会経済のあり方は、どのような仕組みであれば良いのかについて、順を追ってこれから考えていければと思います。次回のパンセの集いは、8月4日火曜日の16時からです。お時間許す方は、ご参加下さい。