■2015.8.9パンセ通信No.44『生きる意欲と力を育む、いのちの価値』
皆 様 へ
モノの価値からいのちの価値へ。成熟社会の生き方理想を求めるにあたって、私たちは何を価値として生きるかということを考えております。価値というのは、様々な視点に応じて定義できる豊かな内容を持つ言葉ですが、ここではごく単純に、私たちの欲望が大切なものとして求める対象というぐらいに考えておくことと致します。では現在の私たちは、いったい何を価値あるものとして求めているのでしょうか。仮にそれを“いのちの価値”という言葉で表現するとしたなら、そのいのち価値とはいったい何なのか。またどうすればそのいのちの価値を高めることが出来るのか。さらにその価値を高める前提として、そもそもいのち価値というものは、商品の価値のように定量化することが出来るものなのか。あるいは何らかの指標化を行うことによって、その増減をある程度判断することが出来るものなのか。そういったことを順を追って考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、猛暑ではありますが8月11日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
モノの価値というのは、西欧社会が中心になって発達させてきた市場経済、資本制商品生産という社会の仕組みにおいては、交換価値、すなわち一般的等価尺度としての貨幣によって現されます。つまりお金が価値の尺度であり、お金を儲けて増やせば増やすほど、その価値は高くなると考えられています。このようにモノ(商品)の価値は、お金という交換の指標を得ることによって、客観的にも量れるようになりました。じつは具体的なモノ(商品)については、例えばお米は食べるもの、ハサミは切るものといった具合に、用途に応じた様々な使用価値があって、これだけを見ていると共通の価値を取り出すことは出来ません。しかしアダム・スミスからマルクスに至る研究によって、その商品を生産するのに必要な社会的平均的労働時間を比べることによって、その価値が量れるようになったのです。この価値の客観的指標化によって、私たちはモノの生産については飛躍的な発展を遂げることが出来ました。
しかし価値、つまり人が欲し求めるものは、何もお金や商品ばかりではありません。小説や映画による感動体験や生身の恋愛経験、ファッションや食道楽、鉄道オタクやガンダムのフィギュアにはまる者など、主観的に求める効用や満足なども価値としてあり、それは人によって千差万別です。この千差万別な人の主観的・精神的価値の中から、共通の基準を取り出すことは容易なことではありません。しかしこれまでのパンセ通信でも見てきたように、商品(モノ)やお金は、本来は私たちの欲望を満たすための手段、つまり価値充足のための必要条件でしかないのであって、いくらお金を貯めてその価値を高めたところで、生き方の価値を高めることになりません。この千差万別の主観的・精神的価値の中から、生き方の価値を高める共通の指標を取り出すのでなければ、お金と商品だけの豊かさを超える、成熟社会の生き方理想(生き方の価値)を見い出すことは出来ないでしょう。“いのちの価値”というのは、人が求める様々な効用の中から、人が良く生きて後世にわたって繁栄していくために有用な要素を、価値として取り出したものであり、しかも何らかの指標によって量れるものを想定しています。こういったものとしての“いのちの価値”について、これから概略ですが検討していってみたいと思います。
まず“いのち”について考えてみたいと思います。いのちという言葉が、生きるということ、生命に関わっていることは明白でしょう。では生命とは何か。まずは個体として、その生命を維持成長させようとする機能でしょう。そして生殖によって子孫を残す営みも、本能的な求めとして含まれています。さらに、そうした目的が果たせるために適な環境をつくり出すことも、生命は欲望として内在させています。その最適な環境とは、結果としては共生の環境ということになるでしょう。自分の種だけが増殖し、生態系を破壊するのであっては、結局は自分が生き残れないからです。だから自分の種の適度な個体数の減少という結果も、生命は受け入れて共生していくのです。そして“いのち”という言葉を使う時、この生命の営みを育む力、生かす力といったニュアンスがあることも疑いの余地はないでしょう。人間においてはこのいのちの営みが、自律神経系による本能的な営みであるばかりでなく、中枢神経系における意識活動としてもあり、主体的に取り行われることが大きな特徴です。
それでは、意識活動として生きる部分の多い人間は、より本能的な部分が優位な生物と、その“いのち”においてどこが違うのでしょうか。生命活動の目的というのは、先ほど見てきたように代謝によって個体の生命の維持成長を図り、子孫を残し、またそのために最適な共生環境をつくり出すことです。従って生物は、こうした目的を達成することを欲望する存在であるとも言えます。しかし物質の化学反応とは異なり、生物は自動的な原因結果の反応によって、この生命活動のプロセスを行うわけではありません。生物にはいのちがあり、そのいのちというのはより良く生きようとする力ですから、出来るだけうまく生きられたり危険を避けられる仕組みやプロセスを、生物は工夫するのです。そしてこのうまく生きられたり逃れられたりする仕組みが、生命にとって意味あるものとして認識され、次第にそのプロセスが価値づけられていくことになります。生物の活動原理は欲望充足ですから、意識世界が高度化していくほど生き物は、欲望の対象が直接的な生命維持活動から、意味を与えられ価値づけされたプロセスへと移っていくことになります。つまりいのちは、直接的な対象物からその欲望対象を、より良く生きられるために意味と価値ある仕組みへと移していくのです。そして意識性の高度に発達した人間になると、この意味と価値あるものが、もっとうまく生きられるであろう幻想や物語にまで練り上げられていきます。つまり人間は、単純なビタミンやたんぱく質などの栄養素に欲望するというよりは、生きるために意味と価値ある幻想を描いて、それを欲望して生きる存在だと言うことが出来るのです。
それでは現代においては、私たちはどんな意味と価値ある幻想を求めて生きているのでしょうか。少し前の成長社会においては、お金持ちになること、出世すること、名声を得ることがその幻想の中身であり、誰もが成功者として求める要件でした。しかし現在の私たちにおいては、そうはいきません。今私たちは、一定水準の生産力は手にしたものの格差や分配の問題が深刻化し、環境や資源の制約によって成長の限界が露呈し、しかもお金や出世が直接的な幸せもたらさないことを悟っています。だから、新しい意味と価値ある幻想が求められるようになっているのです。その現在における私たちの欲望対象としての幻想を、今“いのちの価値”という言葉に置いて考えてみているのです。
この“いのちの価値”については、これまでのパンセ通信で検討してきた、幸せの十分条件や個別性と普遍性の人間の欲望の基本構造、そしてその人間の欲望にまつわる原罪や病理そして疎外を振り返ることから、ある程度のデッサンを行うことが出来るものと思われます。しかしその前に、どうしても欲望について押さえておかなければならないことがあります。それは、欲望には“退廃する欲望”と“成長する欲望”があるということです。退廃する欲望とは、欲望を機械的な刺激反応系として捉えた場合、ある対象を与えて欲望を刺激しても、やがてそれに慣れて、もっと強い刺激を与えないと欲望が喚起されないというメカニズムです。古代ロ-マのカリギュラ帝の時代には、刺激を求めて残虐で猟奇的な趣向をエスカレ-トさせていった言われます。エログロの世界ですね。しかしこのようにして欲望を刺激していっても、それは生きる力を消耗させるだけで、それを高めたり再生したりすることにはなりません。従って、“いのちの価値”を構成する欲望というのは、退廃する欲望ではなく、生きる力を強め、生きる意欲をますます健全に育む欲望というものになってくるのです。
さてこうした前提を置きながら、“いのちの価値”として幻想される内容を考えていってみたいと思います。その時に、各人の千差万別の効用に捉われると共通項が見い出せなくなってしまうので、それを捨象し、『生きる意欲と力を高める、再生する』という評価の観点に立って、指標化できそうなものを取り出して見ることにしてみます。そうすると、以下のようになるでしょうか。それは私のいのちと、共生のいのちと、普遍のいのちが連関して統括されたものであり、秩序や調和を自己形成するものである。そしてそれによって、生きる意欲と力を高め、また再生するものである。つまり、私が私らしく自由に自分の思いを自己実現して、同時にそのことが他の人のいのちを励ましたり育んだりすることにつながり、さらには後の世代をも含めた生態系全体の秩序や調和を高めることにも貢献する。それによって、自分の生きる意味と価値が他者からも承認されてより確かなものとなっていく。こうした生き方が、たとえささやかなものであっても日常実践的に行える時、私たちの生きる意欲と力は高まり、私たちの欲望は利己的で退廃的なもとはならず、拡大循環していくことが出来るのではないでしょうか。
このように私たちは、成熟社会における私たちの生き方目標を“いのちの価値”と置き、その評価の観点として“生きる意欲と力を高める”あるいは“再生する”ということを仮定してみました。それでは、この生きる意欲と力というのは、どうすれば身につけることができ、そのための教育のシステムはどのようなものであれば良いのでしょうか。また、この“いのちの価値”と商品の交換価値(貨幣)とはどのような関連にあり、経済システムの中にどう取り込めるものなのでしょうか。そして“いのちの価値”という原理と、現在の政治体制の原理である保守やリベラルとはどう関わり、どう政治体制に反映させることが出来るのでしょうか。そのことを検討していきながら、具体的に私たちがどう日常生活を暮らし、働いていけば良いのか、そしてそのような価値を求めて生きて行こうとする時、改めて宗教の智慧はその生き方の助けとして有効なものであるかどうかを考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、8月11日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
モノの価値からいのちの価値へ。成熟社会の生き方理想を求めるにあたって、私たちは何を価値として生きるかということを考えております。価値というのは、様々な視点に応じて定義できる豊かな内容を持つ言葉ですが、ここではごく単純に、私たちの欲望が大切なものとして求める対象というぐらいに考えておくことと致します。では現在の私たちは、いったい何を価値あるものとして求めているのでしょうか。仮にそれを“いのちの価値”という言葉で表現するとしたなら、そのいのち価値とはいったい何なのか。またどうすればそのいのちの価値を高めることが出来るのか。さらにその価値を高める前提として、そもそもいのち価値というものは、商品の価値のように定量化することが出来るものなのか。あるいは何らかの指標化を行うことによって、その増減をある程度判断することが出来るものなのか。そういったことを順を追って考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、猛暑ではありますが8月11日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
モノの価値というのは、西欧社会が中心になって発達させてきた市場経済、資本制商品生産という社会の仕組みにおいては、交換価値、すなわち一般的等価尺度としての貨幣によって現されます。つまりお金が価値の尺度であり、お金を儲けて増やせば増やすほど、その価値は高くなると考えられています。このようにモノ(商品)の価値は、お金という交換の指標を得ることによって、客観的にも量れるようになりました。じつは具体的なモノ(商品)については、例えばお米は食べるもの、ハサミは切るものといった具合に、用途に応じた様々な使用価値があって、これだけを見ていると共通の価値を取り出すことは出来ません。しかしアダム・スミスからマルクスに至る研究によって、その商品を生産するのに必要な社会的平均的労働時間を比べることによって、その価値が量れるようになったのです。この価値の客観的指標化によって、私たちはモノの生産については飛躍的な発展を遂げることが出来ました。
しかし価値、つまり人が欲し求めるものは、何もお金や商品ばかりではありません。小説や映画による感動体験や生身の恋愛経験、ファッションや食道楽、鉄道オタクやガンダムのフィギュアにはまる者など、主観的に求める効用や満足なども価値としてあり、それは人によって千差万別です。この千差万別な人の主観的・精神的価値の中から、共通の基準を取り出すことは容易なことではありません。しかしこれまでのパンセ通信でも見てきたように、商品(モノ)やお金は、本来は私たちの欲望を満たすための手段、つまり価値充足のための必要条件でしかないのであって、いくらお金を貯めてその価値を高めたところで、生き方の価値を高めることになりません。この千差万別の主観的・精神的価値の中から、生き方の価値を高める共通の指標を取り出すのでなければ、お金と商品だけの豊かさを超える、成熟社会の生き方理想(生き方の価値)を見い出すことは出来ないでしょう。“いのちの価値”というのは、人が求める様々な効用の中から、人が良く生きて後世にわたって繁栄していくために有用な要素を、価値として取り出したものであり、しかも何らかの指標によって量れるものを想定しています。こういったものとしての“いのちの価値”について、これから概略ですが検討していってみたいと思います。
まず“いのち”について考えてみたいと思います。いのちという言葉が、生きるということ、生命に関わっていることは明白でしょう。では生命とは何か。まずは個体として、その生命を維持成長させようとする機能でしょう。そして生殖によって子孫を残す営みも、本能的な求めとして含まれています。さらに、そうした目的が果たせるために適な環境をつくり出すことも、生命は欲望として内在させています。その最適な環境とは、結果としては共生の環境ということになるでしょう。自分の種だけが増殖し、生態系を破壊するのであっては、結局は自分が生き残れないからです。だから自分の種の適度な個体数の減少という結果も、生命は受け入れて共生していくのです。そして“いのち”という言葉を使う時、この生命の営みを育む力、生かす力といったニュアンスがあることも疑いの余地はないでしょう。人間においてはこのいのちの営みが、自律神経系による本能的な営みであるばかりでなく、中枢神経系における意識活動としてもあり、主体的に取り行われることが大きな特徴です。
それでは、意識活動として生きる部分の多い人間は、より本能的な部分が優位な生物と、その“いのち”においてどこが違うのでしょうか。生命活動の目的というのは、先ほど見てきたように代謝によって個体の生命の維持成長を図り、子孫を残し、またそのために最適な共生環境をつくり出すことです。従って生物は、こうした目的を達成することを欲望する存在であるとも言えます。しかし物質の化学反応とは異なり、生物は自動的な原因結果の反応によって、この生命活動のプロセスを行うわけではありません。生物にはいのちがあり、そのいのちというのはより良く生きようとする力ですから、出来るだけうまく生きられたり危険を避けられる仕組みやプロセスを、生物は工夫するのです。そしてこのうまく生きられたり逃れられたりする仕組みが、生命にとって意味あるものとして認識され、次第にそのプロセスが価値づけられていくことになります。生物の活動原理は欲望充足ですから、意識世界が高度化していくほど生き物は、欲望の対象が直接的な生命維持活動から、意味を与えられ価値づけされたプロセスへと移っていくことになります。つまりいのちは、直接的な対象物からその欲望対象を、より良く生きられるために意味と価値ある仕組みへと移していくのです。そして意識性の高度に発達した人間になると、この意味と価値あるものが、もっとうまく生きられるであろう幻想や物語にまで練り上げられていきます。つまり人間は、単純なビタミンやたんぱく質などの栄養素に欲望するというよりは、生きるために意味と価値ある幻想を描いて、それを欲望して生きる存在だと言うことが出来るのです。
それでは現代においては、私たちはどんな意味と価値ある幻想を求めて生きているのでしょうか。少し前の成長社会においては、お金持ちになること、出世すること、名声を得ることがその幻想の中身であり、誰もが成功者として求める要件でした。しかし現在の私たちにおいては、そうはいきません。今私たちは、一定水準の生産力は手にしたものの格差や分配の問題が深刻化し、環境や資源の制約によって成長の限界が露呈し、しかもお金や出世が直接的な幸せもたらさないことを悟っています。だから、新しい意味と価値ある幻想が求められるようになっているのです。その現在における私たちの欲望対象としての幻想を、今“いのちの価値”という言葉に置いて考えてみているのです。
この“いのちの価値”については、これまでのパンセ通信で検討してきた、幸せの十分条件や個別性と普遍性の人間の欲望の基本構造、そしてその人間の欲望にまつわる原罪や病理そして疎外を振り返ることから、ある程度のデッサンを行うことが出来るものと思われます。しかしその前に、どうしても欲望について押さえておかなければならないことがあります。それは、欲望には“退廃する欲望”と“成長する欲望”があるということです。退廃する欲望とは、欲望を機械的な刺激反応系として捉えた場合、ある対象を与えて欲望を刺激しても、やがてそれに慣れて、もっと強い刺激を与えないと欲望が喚起されないというメカニズムです。古代ロ-マのカリギュラ帝の時代には、刺激を求めて残虐で猟奇的な趣向をエスカレ-トさせていった言われます。エログロの世界ですね。しかしこのようにして欲望を刺激していっても、それは生きる力を消耗させるだけで、それを高めたり再生したりすることにはなりません。従って、“いのちの価値”を構成する欲望というのは、退廃する欲望ではなく、生きる力を強め、生きる意欲をますます健全に育む欲望というものになってくるのです。
さてこうした前提を置きながら、“いのちの価値”として幻想される内容を考えていってみたいと思います。その時に、各人の千差万別の効用に捉われると共通項が見い出せなくなってしまうので、それを捨象し、『生きる意欲と力を高める、再生する』という評価の観点に立って、指標化できそうなものを取り出して見ることにしてみます。そうすると、以下のようになるでしょうか。それは私のいのちと、共生のいのちと、普遍のいのちが連関して統括されたものであり、秩序や調和を自己形成するものである。そしてそれによって、生きる意欲と力を高め、また再生するものである。つまり、私が私らしく自由に自分の思いを自己実現して、同時にそのことが他の人のいのちを励ましたり育んだりすることにつながり、さらには後の世代をも含めた生態系全体の秩序や調和を高めることにも貢献する。それによって、自分の生きる意味と価値が他者からも承認されてより確かなものとなっていく。こうした生き方が、たとえささやかなものであっても日常実践的に行える時、私たちの生きる意欲と力は高まり、私たちの欲望は利己的で退廃的なもとはならず、拡大循環していくことが出来るのではないでしょうか。
このように私たちは、成熟社会における私たちの生き方目標を“いのちの価値”と置き、その評価の観点として“生きる意欲と力を高める”あるいは“再生する”ということを仮定してみました。それでは、この生きる意欲と力というのは、どうすれば身につけることができ、そのための教育のシステムはどのようなものであれば良いのでしょうか。また、この“いのちの価値”と商品の交換価値(貨幣)とはどのような関連にあり、経済システムの中にどう取り込めるものなのでしょうか。そして“いのちの価値”という原理と、現在の政治体制の原理である保守やリベラルとはどう関わり、どう政治体制に反映させることが出来るのでしょうか。そのことを検討していきながら、具体的に私たちがどう日常生活を暮らし、働いていけば良いのか、そしてそのような価値を求めて生きて行こうとする時、改めて宗教の智慧はその生き方の助けとして有効なものであるかどうかを考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、8月11日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。