ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.45『生きる意味と価値の喪失と取戻し』

Aug 16 - 2015

■2015.8.16パンセ通信No.45『生きる意味と価値の喪失と取戻し』

皆 様 へ

これまでの成長を前提とした社会の仕組みが行き詰まり、経済的にも精神的にも生きづらさと不安の増す現代社会にあっては、私たちが、人間の生きる意欲と力を励ましまた再生する“いのちの価値”を求めることは、確かに理由のあることと思われます。もちろんその前提として、生活のために“商品の価値”を求めることは当然のことでしょう。このいのちの価値について、引き続き考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、お盆も終わった8月18日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。

それでは『生きる意欲と力を励ます』ものとはいったい何でしょうか。例えば『生きる意味と価値』というのは、その必要条件を構成するものとして間違いのないものでしょう。私たちは確かに、生きる意味と価値が与えられれば、生きる意欲が湧いてくるものです。逆に言えば、生きる意味と価値が見えなくなっているから、私たちは生きる意欲を失ってしまっているとも言えるでしょう。それでは、なぜ私たちは生きる意味と価値が見えづらくなってしまっているのでしょうか。まずそこから、考えていってみたいと思います。

ごく大雑把に言うと、次のような図式が想定されるのではないでしょうか。これまでも申し上げてきたとおり、生命というのは、関係性の網の目の中で存在できるものであって、単体で生きているものではありません。これは人間も同じです。そうだとすると、私たち人間が、他の人間や他のものとどのような関係を結んで生きてきたかということを見ることによって、私たちの生のあり方とその課題がわかってくるものと思われます。まず近代以前における個人と社会全体との関係を見てみると、まず何よりも全体(共同体)があって、個人はあまり問題にならない、という観念に違和感はありませんでした。個人は全体と調和して全体の中で生かされるという信頼があり、いたずらに個を主張する必要が無かったからです。例えば古代ギリシアのアテネを代表とする都市国家では、国家に先立つ個人という観念は無く、個人が国家にいのちを捧げることは当然のことでした。文学においても個人を描くのではなく、神話や叙事詩という形式で、共同体の歴史と物語を描くことで事足りていたのです。絵画も壁画という形式で、まず建物全体が表すコンセプトがって、それと調和する部分としてしか絵画は描かれまれませんでした。全体は個人に先だってある、調和した存在でした。そしてこの全体の調和を司る確かな実体として、君主や神が疑いなく想定されていたのです。

それが近代になって大きく変わっていきます。個人と全体の関係が対等になってくるのです。個人は、それぞれ自分の立場から世界を対象として把握しようとするようになりました。例えば絵画では、額縁に区切られたキャンバスの中で、遠近法を用いて画家個人が捉えた世界を映そうとするようになりました。文学においては、小説という形式によって個人の自由や恋愛がテ-マとされ、主人公という個人の視点から他者とどう関わり、この世界をどう解釈して生きていくかということがデ-マとなってきます。さらに経済的には個人の利害と競争が問題となってきます。また政治的には、主体となった個人が相互に自分の立場から複雑な駆け引きを行って社会を形成する、民主主義が登場してきます。このように個人が主体となって、全体とお互いに対して向き合うという関係によって、かつてあったような全体と個、また個人同士の関係の安定性は失われていきます。さらに私は他者を、自分の目的から手段として見つめるようになり、私は他者から、手段として見つめられるようになります。手段としようが、手段とされようが、そこにあるのは道具的な関係だけで人間的な共感はなく、やがてそうした目的手段関係に覆われ、人間的な関係に生きる自分というものがわからなくなっていきます。そこで近代から現代に移る頃には、しきりに自画像が描かれて、人間としての自分自身の存在を確かめようとしたり、小説でも、実際に自分が経験した日常から、自分の実存を確かめようとするような私小説風のものが登場してくることになるのです。

現代というのは、こうして自分がわからなくなったりあるいは受け入れられなくなったままに、私たちは主体性を失って大衆と化して漂流し、時にナショナリズムに先導されて帝国主義戦争に駆り出されていのちを熱狂させたり、またその後は経済競争ゲームに狂奔したりして、確かな自分の生の実感を持てないままに過ごしている時代ということになります。しかしいよいよその経済競争ゲームも行き詰まりを見せ、もはや偽りの目標に自分を仮託することも出来ず、見失った自分の姿をダイレクトに突きつけられてきているというのが現状ではないでしょうか。こうして私たちは近代以降、自分を主体にして、全体と他者とをその対象においてその最適な関係を見出そうとしたのですが、そういう関係の持ち方では、目的手段の道具的な関係しか持ち得ず、結局は現代において私たちは、すべての人間的な関係を喪失して孤立化し、ついには自分自身との関係さえも見失って(自分自身がわからなくなって)生きていくという状況にまで立ち至ってしまったようです。唯一残された関係は、商品の生産と交換と消費による抽象的な経済関係だけと言っても良いでしょう。

この状態から私たちは、何を対象にどのような新たな関係を築くことによって、人間的な関係を再生していくことが出来るのでしょうか。安倍首相が目指すように、国家を主体に個人を従属させるという関係性のもとで、一人では無力な個人がナショナリズム的に全体と一体化することによって、自在感を満足させ、生のエネルギ-を活性化させるというような方法では、戦前への逆戻りで、また同じ破滅を繰り返すことになるでしょう。個人のいのちの価値を無視したこうした動きは、やがてヒステリックな狂奔となり、これを操ろうとする者の意志をも越えて制御が効かなくなっていってしまうからです。そうすると私たちは、見失った自分自身との関係をまず取戻し、そこからもう1度自分自身にとって意味と価値ある世界の全体を再構築し、その世界像を他者とつきあわせて共通了解することによって、他者との関係を共に生きて支え合えるものへと再生していく以外、現在のジレンマと脱していく道は無いもののよう思われます。この共通了解によって共生できる世界像が、前回のパンセ通信で述べた、意味と価値ある共同幻想と言えるものなのです。

では自分自身との関係をどう再生し、自分自身をどう取り戻していけば良いのでしょうか。しかし本当にはやりたくない勉強や仕事を、自分の目標と思い込まされて育ってきた私たちは、もはや何が自分にとってやりたいことなのかさえわからないほどに、自分自身が劣化しています。この自分のやりたいことの実感を取り戻すためには、本当には快・不快、そして自分にとって良い・悪いという生身の感情にまで遡って、自分を再生させることが必要になってくることでしょう。しかし私たちが受けた学校教育では、工場労働者を育成したり社会階層を分別することを目的として、知識教育による序列づけが主眼とされてきたものですから、自分自身の判断の基礎になる快・不快、好き・嫌いなどの感性を養う教育は皆無と言って良いほどなおざりにされてきました。こうして現代においては、私たちの基本的な感性までが麻痺してしまって、これが自分にとってやりたいこと、大切なことという実感さえ持つことが困難となってしまっているのです。そのことは、私たちが自分のやりたいことから世界を再構成しようとするにあたっては、かなり致命的なこととなっています。

しかしそれでも、生命とは関係性であるという最初に述べた原理に立ち返って考えてみるなら、あるヒントが思い浮かんできます。近代において私たちは、あくまでも自分を主体(目的)として世界や他者を対象(手段)として、自分にとっての意味と価値あるものをつくり出そうとして挫折してしまいました。ここで意味と価値というのは、自分がより良く生きていこうとするにあたって、見出してくるもののことです。それではいった何故挫折したのか。これは素直に考えてみればわかることなのですけど、生物として関係性に生きる私たちにとって、意味と価値というものは、果たして自分自身の中だけから生まれてくるものなのかということです。例えば自分自身にとっては、自分の満足につながる意味あるテ-マがあったとしても、それに利害の関わる他の人たちから反発を食らったのでは、そのテ-マの遂行は挫折し、憎しみや恨みも生じてしまうことになります。逆に、自分のやろうとすることが他の人たちの利益や生きる励ましとなって、感謝されて応援してもらえるなら、まして有難うと口に出して言ってもらえるなら、私たちはまぎれもなく自分自身の存在の意味と価値を、実感として感じることが出来るのではないでしょうか。そしてその時、自分自身の生きる意欲と力も励まされます。そうだとするなら、今度は自分が、誰かが他の人に役立つ取り組みをしている時に、それを承認して応援してあげるなら、その人の生きる意欲と力を励まします。そしてさらにその人の頑張る姿を見て、また自分が勇気づけられることにもなるのです。

このように生きる意味と価値というのは、私たちが自分自身の確かな求めから出発して、より良く生きて行こうとする時に見出していくものなのですが、何よりもそれは、他の人との関係性の中から生成してくるものであることがわかってきます。このことを切り口として、私たちがいのちの求めから、どう世界や他者に向き合い、意味と価値を見出して生きる力を励まされ、商品の価値とあわせていのちの価値に生きられるようになるかを考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、8月16日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。




曼荼羅的世界観

それに関わる

と全体と他者とを等距離において
生きづらさ  物理的と精神的

他者との関係  自分の中に全体
意味と価値を求めて生きる