■2015.8.23パンセ通信No.46『個人の求めと社会規範との間での意味と価値の対立』
皆 様 へ
寝屋川の中学生の女の子と男の子が、理由もなく残忍な方法で殺されるという、またしても私たちの心に衝撃を与える事件が起こりました。また日本を取り巻く周囲の状況においても、天津での爆発事故、バンコクでのテロ、朝鮮半島軍事境界線での緊張、桜島噴火警戒下での川内原発再稼働、そして中国経済減速に伴う世界的な株安の連鎖と、毎度のことながら私たちの不安を掻きたてる事態が生じております。恐らく誰もがすでに心の奥底で意識していることなのでしょうけど、現在の世界はこのままでは破綻の淵へと向かい、それをなんとか繕って長らえさせようとしているだけなのであり、しかも私たちは、その事実から出来るだけ目を背けようとしている。それが私たちの深層が捉える、現在の世界の姿ではないでしょうか。でも、かといってどうすれば良いのでしょうか。安保法制の論理がとっくに破綻しており、世論からも支持されていないのに、安倍首相が自民党総裁選での無投票再選に強気なのは、代わりとなるビジョンが描けないでいるからでしょう。再び政権交代がおこったとして、仮に民主党が政権を担うとしても、いったいどんな国民生活を目指して、どのような経済社会のシステムをつくろうというのでしょうか。しかしそれでもビジョン形成に向けて、私たちの心が求める共通項といったものが次第に明らかになってきつつあるように思います。そうした私たちの求めをつなぎあわせて、これからの時代の展望を少しでも描き出す努力を続けていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、まだまだ暑さの続く8月25日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
ところで私たちは、この新しいビジョンを描き出そうとするにあたり、“いのちの価値”というキ-ワ-ドを軸にして、考えてみようとしております。一般に生物は、自分の欲望との相関で、対象物を意味づけし、その中から価値あるものを見分け、実存的な世界を都度生成して生きています。例えば朝会社に通勤する時、あそこのパン屋さんの角を曲がれば良いとか、その先の通りにはこわい犬がいるので気をつけなければいけないとか、私たちは風景全般から、駅まで行くために必要な情報、注意しなければならないものを仕分けて意味付けしていきます。そして便利な近道や電車に乗る際の定期券などは、特に重要で価値あるものとして意識に刻まれます。またもし毎日通るパン屋さんに素敵な店員さんがいて、その人と親しくなるなら、そこで買うパンは特別の価値を持ってきたりします。このように人間を含めた生き物は、自分の求めに応じて外界から都度必要なものを選り分け、その意味を了解し価値を与えて、自分にとっての生きる世界を生成していきます。従って、私たちが日常生活において都度生成していく現実世界は、基本的には自分にとっての意味と価値で満たされた世界となっているのです。ところが人間が他の生物と異なるところは、この一人一人の意味了解と価値づけがあわさっていって、文化社会全般としての意味と価値を共同幻想としてつくっていくということです。そして一旦形成された共同幻想としての意味と価値は強固で、日常において都度生成される個人の意味と価値と対立し、あるいは共同幻想としての規範の制約の中で意味と価値を生成するように、私たちの欲望を押し込める機能を果たしたりするのです。例えば封建制社会の末期には、自由な恋愛や職業選択は、身分制秩序において安定した社会を崩壊させるものとして、当時の社会文化的価値規範とするどく対立しました。しかし人々の求めは、自由な人生選択と生き方チャレンジへと向かい、その方向で一人一人が、都度自分にとっての意味と価値ある現実をつくり出そうとしていきました。その一人一人の個人の欲求から積み重ねられた小さな試みが、やがて封建的な社会の価値規範を崩して、近代的なものへと塗り替えていったのです。その仕組みは、言語が長い年月をかけて変化していく状況とよく似ています。例えば日本語には、文法を含めた構造(ラング)があって、その構造に基づいて私たちは日々の言葉を発して(パロ-ル)コミュニケ-ションしていきます。しかし例えば若者言葉のように、毎日の求めに応じて発せられる言葉の中で、次第に新しい用い方が試みられ、その方が気持ちをよく言い表すようになっていったなら、それが積み重なってやがて文法や言語の構造も変えていくことになります。
このように私たちは、自分が良く生きようとする求めに応じて、都度自分にとっての意味と価値を生成して現実をつくっていこうとするのですけど、その求めが、共同幻想としての社会文化規範と相容れないことが起こる時、私たちは生きづらさを感じるようになるのです。そしてまた、ほんとうはこうあってほしいとかこうしたいと思うのですけれど、それが出来ずに仕方が無いとあきらめることで、日常世界での意味と価値が色褪せていってしまったり、また自分にとっての意味と価値ある現実を、うまく生成出来なくなってしまうという事態が生じていくのです。現代というのは、そういう意味では封建制社会の末期と同じように、広範な人々の一般の求めと、これまでの価値規範との間に齟齬が生じ、私たちがもどかしさを感じている時代ということが出来るように思います。
それではその齟齬というのは、どのように生じているのでしょうか。今私たち一般が求めているのは、安保法制や原発再稼働への反対が過半数を占めるように、一人一人の暮らしやいのちの価値を最優先に、自分にとっての意味と価値ある世界をつくっていきたいということではないでしょうか。それに対するこれまでの共同幻想的社会文化規範というのは、経済の価値や国の安全保障の価値を優先させるといったものでしょう。原発反対と安易に唱えるが、全体としての日本のエネルギ-供給を考えた時に、いったいどうそれを保障するつもりなのか。またお客様のためや従業員の働きやすさ、また生活賃金保証などと要求するが、会社がつぶれたらどうするのかという論理です。また平和平和と言うが、防衛力・軍事力が不十分なために、他国に攻められる隙をつくったり、弱腰になって外交的に不利益を被ったらどうするのかという議論にもなってきます。いずれにしても、個人の利益といってもそれは全体に依存しているのだから、個人の安全や生活を先に立てて主張するのは、無責任だという価値観です。しかし封建制社会の末期そして近代の始めにおいても、個人の自由を求める者は、全体の秩序を乱すとんでもない無責任な輩と思われていたのです。しかしその自由への希求が、人々一般の求めとなっていって、やがて封建社会の価値規範を掘り崩していきます。同じように今私たちの間では、無責任とか身勝手とか言われようとも、自分を含めて一人一人の生活やいのちの価値を最優先することから、エネルギ-も経済も安全保障も国家の仕組みも、考えていってみたいという求めが強まっているのです。なぜそのような求めが広く生じてきたのでしょうか。1つにはそれが出来る社会経済的な条件が整ってきたからでしょう。また、経済や国の安全保障を優先する価値論理の中に、結局は自分を含めた一人一人のいのちよりも、経済や全体の価値原理を優先する欺瞞を感じとるからでしょう。私たちの欲望は、私たちの理性を越えて、じつに鋭敏です。低成長のゼロサム社会に至る前は、自分も何らかの形で勝ち組になって、経済や社会を司る側に身を置けるような幻想が残っていました。だから自分も経済優先、国家優先の論理の恩恵に預かれる余地が残っていると思うことが出来たのです。しかし0ないしマイナス成長社会になってくると、自分を含めて大多数の者が、負け組の弱者となって、経済や全体の価値の前に自分のいのちと生活が犠牲にされる危険の方が高くなってきているのを感じ取っているのです。私たちの欲望はけっしてなまくらではなく、その危険をしっかり察知しているのです。それは公害問題や戦前の軍国主義体制で、そうした危険を現実に経験した共通体験を、意識の底に持っているからでもあるしょう。
それではなぜ、一つ一つのいのちの価値をおろそかにすることは、望ましいことではないのでしょうか。これは寝屋川の中学生殺人事件やバンコクのテロ事件にも関連してくることなのですが、なぜ人を殺してはいけないのかという問題ともつながってきます。これには3つの答え方があるように思われます。まず第1には非常に単純なことですが、一人一人のいのちの価値が大事にされないのであれば、自分のいのちもおろそかにされる可能性があるからです。人を殺しても良いなら、自分も殺される可能性が出てくるのです。そして第2には、先に見てきたように私たちは、鋭敏な欲望をもって一人一人が自分が心地よくまたより良く生きていけるように、日々自分にとっての意味と価値を紡ぎ出し新しい現実を生成して生きています。この多様な一人一人の意味と価値の生成の営みこそが、社会全体としての生き残りや繁栄の可能性を高めるのです。今後ますます少子化が加速し、各自治体で人口の取り合い競争が激化していく日本において、私たちは一つ一つのいのちが、いかに全体の存続そして自分の生存にとって必要かということが、はるかに実感をもって捉えられるようになってくるでしょう。そして3つ目には、そのように日々自分を生かそうと懸命に生きるいのちを励ましたり支援したりする時、私たちは自分自身のいのちが喜び、生きる意欲が強まるのを感じます。逆に経済的理由等で、一つのいのちであっても顧みないことがある時、自分自身の生きる力が傷つき、それを繰り返せば次第に虚無化していくのを感じます。つまり人を殺すことは、結局は自分を殺すことになっていってしまうのです。このように、一人一人のいのちの価値をおろそかにすることは、結果として自分のいのちを危険にさらすか、全体の力を弱めるか、自分を傷つけるか、つまり自分のいのちの力を弱めることになってしまうことを、私たちの欲望は鋭敏に直感しているのです。
さて以上のように、私たちが自分の求めから都度自分にとっての意味と価値ある現実を生成し、それが既存の社会文化的規範といかにぶつかるかという状況を見てきました。それでは今、実際のところ私たちはどのようなことを共通項として求めるようになってきているのでしょうか。とりあえずそれを一人一人のいのちの価値という言葉で置いてみましたが、その求めの共通項をさらに詳しく洗い出していってみたいと思います。そしてまた経済や全体優先の価値の欺瞞をも暴いていって、いのちの価値から次の時代の社会文化規範の展望を描き、その規範と商品の価値との関係をも考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、8月25日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
寝屋川の中学生の女の子と男の子が、理由もなく残忍な方法で殺されるという、またしても私たちの心に衝撃を与える事件が起こりました。また日本を取り巻く周囲の状況においても、天津での爆発事故、バンコクでのテロ、朝鮮半島軍事境界線での緊張、桜島噴火警戒下での川内原発再稼働、そして中国経済減速に伴う世界的な株安の連鎖と、毎度のことながら私たちの不安を掻きたてる事態が生じております。恐らく誰もがすでに心の奥底で意識していることなのでしょうけど、現在の世界はこのままでは破綻の淵へと向かい、それをなんとか繕って長らえさせようとしているだけなのであり、しかも私たちは、その事実から出来るだけ目を背けようとしている。それが私たちの深層が捉える、現在の世界の姿ではないでしょうか。でも、かといってどうすれば良いのでしょうか。安保法制の論理がとっくに破綻しており、世論からも支持されていないのに、安倍首相が自民党総裁選での無投票再選に強気なのは、代わりとなるビジョンが描けないでいるからでしょう。再び政権交代がおこったとして、仮に民主党が政権を担うとしても、いったいどんな国民生活を目指して、どのような経済社会のシステムをつくろうというのでしょうか。しかしそれでもビジョン形成に向けて、私たちの心が求める共通項といったものが次第に明らかになってきつつあるように思います。そうした私たちの求めをつなぎあわせて、これからの時代の展望を少しでも描き出す努力を続けていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、まだまだ暑さの続く8月25日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
ところで私たちは、この新しいビジョンを描き出そうとするにあたり、“いのちの価値”というキ-ワ-ドを軸にして、考えてみようとしております。一般に生物は、自分の欲望との相関で、対象物を意味づけし、その中から価値あるものを見分け、実存的な世界を都度生成して生きています。例えば朝会社に通勤する時、あそこのパン屋さんの角を曲がれば良いとか、その先の通りにはこわい犬がいるので気をつけなければいけないとか、私たちは風景全般から、駅まで行くために必要な情報、注意しなければならないものを仕分けて意味付けしていきます。そして便利な近道や電車に乗る際の定期券などは、特に重要で価値あるものとして意識に刻まれます。またもし毎日通るパン屋さんに素敵な店員さんがいて、その人と親しくなるなら、そこで買うパンは特別の価値を持ってきたりします。このように人間を含めた生き物は、自分の求めに応じて外界から都度必要なものを選り分け、その意味を了解し価値を与えて、自分にとっての生きる世界を生成していきます。従って、私たちが日常生活において都度生成していく現実世界は、基本的には自分にとっての意味と価値で満たされた世界となっているのです。ところが人間が他の生物と異なるところは、この一人一人の意味了解と価値づけがあわさっていって、文化社会全般としての意味と価値を共同幻想としてつくっていくということです。そして一旦形成された共同幻想としての意味と価値は強固で、日常において都度生成される個人の意味と価値と対立し、あるいは共同幻想としての規範の制約の中で意味と価値を生成するように、私たちの欲望を押し込める機能を果たしたりするのです。例えば封建制社会の末期には、自由な恋愛や職業選択は、身分制秩序において安定した社会を崩壊させるものとして、当時の社会文化的価値規範とするどく対立しました。しかし人々の求めは、自由な人生選択と生き方チャレンジへと向かい、その方向で一人一人が、都度自分にとっての意味と価値ある現実をつくり出そうとしていきました。その一人一人の個人の欲求から積み重ねられた小さな試みが、やがて封建的な社会の価値規範を崩して、近代的なものへと塗り替えていったのです。その仕組みは、言語が長い年月をかけて変化していく状況とよく似ています。例えば日本語には、文法を含めた構造(ラング)があって、その構造に基づいて私たちは日々の言葉を発して(パロ-ル)コミュニケ-ションしていきます。しかし例えば若者言葉のように、毎日の求めに応じて発せられる言葉の中で、次第に新しい用い方が試みられ、その方が気持ちをよく言い表すようになっていったなら、それが積み重なってやがて文法や言語の構造も変えていくことになります。
このように私たちは、自分が良く生きようとする求めに応じて、都度自分にとっての意味と価値を生成して現実をつくっていこうとするのですけど、その求めが、共同幻想としての社会文化規範と相容れないことが起こる時、私たちは生きづらさを感じるようになるのです。そしてまた、ほんとうはこうあってほしいとかこうしたいと思うのですけれど、それが出来ずに仕方が無いとあきらめることで、日常世界での意味と価値が色褪せていってしまったり、また自分にとっての意味と価値ある現実を、うまく生成出来なくなってしまうという事態が生じていくのです。現代というのは、そういう意味では封建制社会の末期と同じように、広範な人々の一般の求めと、これまでの価値規範との間に齟齬が生じ、私たちがもどかしさを感じている時代ということが出来るように思います。
それではその齟齬というのは、どのように生じているのでしょうか。今私たち一般が求めているのは、安保法制や原発再稼働への反対が過半数を占めるように、一人一人の暮らしやいのちの価値を最優先に、自分にとっての意味と価値ある世界をつくっていきたいということではないでしょうか。それに対するこれまでの共同幻想的社会文化規範というのは、経済の価値や国の安全保障の価値を優先させるといったものでしょう。原発反対と安易に唱えるが、全体としての日本のエネルギ-供給を考えた時に、いったいどうそれを保障するつもりなのか。またお客様のためや従業員の働きやすさ、また生活賃金保証などと要求するが、会社がつぶれたらどうするのかという論理です。また平和平和と言うが、防衛力・軍事力が不十分なために、他国に攻められる隙をつくったり、弱腰になって外交的に不利益を被ったらどうするのかという議論にもなってきます。いずれにしても、個人の利益といってもそれは全体に依存しているのだから、個人の安全や生活を先に立てて主張するのは、無責任だという価値観です。しかし封建制社会の末期そして近代の始めにおいても、個人の自由を求める者は、全体の秩序を乱すとんでもない無責任な輩と思われていたのです。しかしその自由への希求が、人々一般の求めとなっていって、やがて封建社会の価値規範を掘り崩していきます。同じように今私たちの間では、無責任とか身勝手とか言われようとも、自分を含めて一人一人の生活やいのちの価値を最優先することから、エネルギ-も経済も安全保障も国家の仕組みも、考えていってみたいという求めが強まっているのです。なぜそのような求めが広く生じてきたのでしょうか。1つにはそれが出来る社会経済的な条件が整ってきたからでしょう。また、経済や国の安全保障を優先する価値論理の中に、結局は自分を含めた一人一人のいのちよりも、経済や全体の価値原理を優先する欺瞞を感じとるからでしょう。私たちの欲望は、私たちの理性を越えて、じつに鋭敏です。低成長のゼロサム社会に至る前は、自分も何らかの形で勝ち組になって、経済や社会を司る側に身を置けるような幻想が残っていました。だから自分も経済優先、国家優先の論理の恩恵に預かれる余地が残っていると思うことが出来たのです。しかし0ないしマイナス成長社会になってくると、自分を含めて大多数の者が、負け組の弱者となって、経済や全体の価値の前に自分のいのちと生活が犠牲にされる危険の方が高くなってきているのを感じ取っているのです。私たちの欲望はけっしてなまくらではなく、その危険をしっかり察知しているのです。それは公害問題や戦前の軍国主義体制で、そうした危険を現実に経験した共通体験を、意識の底に持っているからでもあるしょう。
それではなぜ、一つ一つのいのちの価値をおろそかにすることは、望ましいことではないのでしょうか。これは寝屋川の中学生殺人事件やバンコクのテロ事件にも関連してくることなのですが、なぜ人を殺してはいけないのかという問題ともつながってきます。これには3つの答え方があるように思われます。まず第1には非常に単純なことですが、一人一人のいのちの価値が大事にされないのであれば、自分のいのちもおろそかにされる可能性があるからです。人を殺しても良いなら、自分も殺される可能性が出てくるのです。そして第2には、先に見てきたように私たちは、鋭敏な欲望をもって一人一人が自分が心地よくまたより良く生きていけるように、日々自分にとっての意味と価値を紡ぎ出し新しい現実を生成して生きています。この多様な一人一人の意味と価値の生成の営みこそが、社会全体としての生き残りや繁栄の可能性を高めるのです。今後ますます少子化が加速し、各自治体で人口の取り合い競争が激化していく日本において、私たちは一つ一つのいのちが、いかに全体の存続そして自分の生存にとって必要かということが、はるかに実感をもって捉えられるようになってくるでしょう。そして3つ目には、そのように日々自分を生かそうと懸命に生きるいのちを励ましたり支援したりする時、私たちは自分自身のいのちが喜び、生きる意欲が強まるのを感じます。逆に経済的理由等で、一つのいのちであっても顧みないことがある時、自分自身の生きる力が傷つき、それを繰り返せば次第に虚無化していくのを感じます。つまり人を殺すことは、結局は自分を殺すことになっていってしまうのです。このように、一人一人のいのちの価値をおろそかにすることは、結果として自分のいのちを危険にさらすか、全体の力を弱めるか、自分を傷つけるか、つまり自分のいのちの力を弱めることになってしまうことを、私たちの欲望は鋭敏に直感しているのです。
さて以上のように、私たちが自分の求めから都度自分にとっての意味と価値ある現実を生成し、それが既存の社会文化的規範といかにぶつかるかという状況を見てきました。それでは今、実際のところ私たちはどのようなことを共通項として求めるようになってきているのでしょうか。とりあえずそれを一人一人のいのちの価値という言葉で置いてみましたが、その求めの共通項をさらに詳しく洗い出していってみたいと思います。そしてまた経済や全体優先の価値の欺瞞をも暴いていって、いのちの価値から次の時代の社会文化規範の展望を描き、その規範と商品の価値との関係をも考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、8月25日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。