■2015.8.30パンセ通信No.47『私たちの求めからつくる新たな社会規範』
皆 様 へ
前回のパンセの集いには、茨城県の大子町から軍兵六農園の小橋寛生さんが参加して下さいました。1ヶ月ほど前には、群馬県の伊勢崎から尼僧の芳賀妙純先生にもご参加頂いております。遠方からのご参加に本当に感謝申し上げる次第でございます。小橋さんは炭素循環農法という、微生物と植物の共生という自然の生態系の仕組み活用した農業を推進され、無肥料・無農薬でお野菜を栽培されています。そしてガンにならない身体を養う野菜をつくりたいとおっしゃっていましたが、それも道理のあることだと思いました。ガンは無差別に細胞増殖して、身体の生命秩序を破壊する病(やまい)です。またアレルギ-性疾患や現在残された多くの難病も、なんらかの形で免疫システムや身体の調和の乱れから生じてくる病です。これに対して自然の生態系に働くいのちの力は、人間の知識や知恵をはるかに凌駕した巧みさで、すぐれた調和と秩序を自己形成していく力を持っています。このいのちの力を詰め込んだお野菜なのですから、それを身体に取り込んだ時に、この調和を取り戻すいのちの力が作用しないはずはありません。小橋さんのような取り組みは、いのちの価値に基づいたこれからの成熟社会を担う産業の1つとして、注目すべきものだと思っています。また近々のうちに、特集としてパンセ・ドゥ・高野山のホ-ムペ-ジでも取り上げさせて頂ければと思っておりますが、すでにWeb上でも発信されている情報がございますので、ご興味のある方は以下をご参照下さい。
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前回のパンセの集いには、茨城県の大子町から軍兵六農園の小橋寛生さんが参加して下さいました。1ヶ月ほど前には、群馬県の伊勢崎から尼僧の芳賀妙純先生にもご参加頂いております。遠方からのご参加に本当に感謝申し上げる次第でございます。小橋さんは炭素循環農法という、微生物と植物の共生という自然の生態系の仕組み活用した農業を推進され、無肥料・無農薬でお野菜を栽培されています。そしてガンにならない身体を養う野菜をつくりたいとおっしゃっていましたが、それも道理のあることだと思いました。ガンは無差別に細胞増殖して、身体の生命秩序を破壊する病(やまい)です。またアレルギ-性疾患や現在残された多くの難病も、なんらかの形で免疫システムや身体の調和の乱れから生じてくる病です。これに対して自然の生態系に働くいのちの力は、人間の知識や知恵をはるかに凌駕した巧みさで、すぐれた調和と秩序を自己形成していく力を持っています。このいのちの力を詰め込んだお野菜なのですから、それを身体に取り込んだ時に、この調和を取り戻すいのちの力が作用しないはずはありません。小橋さんのような取り組みは、いのちの価値に基づいたこれからの成熟社会を担う産業の1つとして、注目すべきものだと思っています。また近々のうちに、特集としてパンセ・ドゥ・高野山のホ-ムペ-ジでも取り上げさせて頂ければと思っておりますが、すでにWeb上でも発信されている情報がございますので、ご興味のある方は以下をご参照下さい。
https://ja-jp.facebook.com/pages/%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%85%AD%E8%BE%B2%E5%9C%92/665650510131314
また宅配で野菜セットの定期購入も可能です。
http://blog.goo.ne.jp/gunbeiroku/c/a38387f84149e6402efbe5398da46d91
また宅配で野菜セットの定期購入も可能です。
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これから次第に、こうしたいのちの価値を育む取り組みのネットワ-クを広げていきたいと思っております。次回のパンセの集いは、すっかり秋めいてきた9月1日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
さて、生きる意欲と力を励ますいのちの価値について検討を進めておりますが、前回は“生きる意欲と力を励ます”要素となる意味と価値について考えてみました。あらゆる生き物は、自分の欲望(求め)にとって必要なものを見分けて意味あるものとし、特に重要なものを価値づけし、実存的な(自分にとって意味と価値ある)現実を都度生成して生きています。ところが人間はそれだけでは不十分で、そんな自分をさらに全体の中において俯瞰し、他者や社会との関係から自分の存在が意味を持ち、価値づけられると確認できるのでなければ、自分の人生に意味があり価値を持つものとして実感することが出来ません。またこれも前回見てきたことですけど、人間は一人一人の意味と価値があわさって、社会文化全般としての意味と価値を共同幻想としてつくっていきます。しかしこの共同幻想は一旦形成されると強固な価値規範となり、すでに個々人の求めが変わり、個々の日常では新しい意味と価値ある現実が都度生成されているにも関わらず、それを制約する力として働くようになってしまいます。時代の構造転換の時は特にそうで、私たちは日々の日常実感においても人生の意味と価値のレベルにおいても、すでに芽生えている新しい求めと、これまでに形成されている共同幻想としての価値規範との間に軋轢を感じ、生きづらさ感じるようになっていきます。現在はまさに、モノの豊かさを競う成長社会からいのちの価値を求める成熟社会への転換点にあるために、私たちがこうした生きづらさを感じ、また経済社会の仕組みも行き詰まりの様相を呈してきているのです。
それではいったいどうすればこの状況から脱することが出来るのでしょうか。そこでまず、私たちが日々日常生活において、自分の求めとの相関で意味と価値ある現実を生成しているその地点にまで一旦立ち戻って、そこで私たちが抱いている素直な求めを取り出してみることにしたいと思います。そしてそれが、現在私たちが抱く共同幻想としての社会文化規範とどのように衝突しているかを、見ていくことが出来ればと思います。
現在私たちが抱く共同幻想としての社会文化規範は、これまでの時代の価値観が凝縮されて社会化されたものですから、成長時代の価値観が反映しています。経済は成長し物質的な富も増大するわけですから、私たちも程度の差こそあれ、そのお裾分けに預かることが出来ました。謙虚な日本人ですから、自分が勝ち組にいるとは言いませんでしたが、大多数が中流意識を持ちました。中流というのは、人並よりは悪くないという気持ちです。運と努力があればもっと良くなれるだろうし、自己実現が可能だという前向きの気分をもち続けることが出来ました。この価値観が残ったままで、経済社会の状況が悪化してきたものですから、『自己責任』などという言葉を為政者にうまく用いられて、それが脅迫的に響くようになってしまったのです。
しかし現実は、とうの昔に日本が世界の先進国に先駆けて0成長あるいはマイナス成長社会に突入しており、それに応じて私たちの日常生活レベルでの求めや意識も変化してきています。もっと良くなるだろう、そのためにいかに得するように立ち回るかというプラス方面を求める思考から、へたをすればもっと悪くなるという、どちらかと言えば負け組サイドに自分を置いた、マイナス思考に私たちの気分は傾斜しているのです。これも前回述べた極端な事例ですが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、かつては私たちは、無意識のうちに加害者(強者)側に自分の身を置いて、うまく答えられないなどと悩んだりしておりました。しかし現在では、むしろ自分を被害者(弱者)の側に身を置いて考えているのではないでしょうか。殺されてはたまりませんから、弱者の側に身をおくなら、この問いは考えるまでもなく否定すべき自明の問いとなります。時代の流れに鋭敏な若者たちが、今果敢に戦争法案に反対しているのも、こうした私たちの気分の変化が影響しているのかもしれません。
それではこうした変化を踏まえて、私たちの日常的なレベルでの求めは、どう違ってきているのでしょうか。例えば次のような気分が、多数の人の求めとして心を占めるようになってきているのではないでしょうか。まず現在の私たちの心を占めているのは、何よりも不安でしょう。まじめに考えれば社会も経済も明るい展望は見えず、不安材料ばかりです。そうした状況にあって、自分はまだかろうじて弱者ではないとしても、いつ弱者になるかわかりません。雇用の不安ばかりでなく、ガンなどの病気や事故等による障害、そして老後の生活等で弱者に陥る可能性は山ほどころがっています。だとするなら弱者になっても生きられる社会を望みたい。いや単に生きるだけではなく、人間らしく生きられる社会にしたい。弱者であっても自分の可能性と自分らしい能力を発揮して、人や社会に役立って生きられるようにしていきたい。しかしそんな社会は経済効率が悪く、成り立たないのではないかという疑念も生じてくるでしょう。でも果たしてそうでしょうか。弱者でも能力が発揮出来る社会というのは、非常に多様性のある柔構造の社会であって、すべての人のニーズに対応するが故に多様な需要が創出し、あらゆる能力の発揮できるむしろ創造性豊かな強靭な社会ではないのでしょうか。
恐らく今私たちが求めているのは、強者の立場よりも弱者の立場に共感し、そこから社会を組み立て直したいという思いで、さらにその方が多様で誰もが生き易く、むしろ強靭な社会をつくれるのではないかというビジョンでしょう。経済学や社会学の法則からすれば、そんな論理は成り立たないと一蹴されるかもしれませんが、ここで大切なことは何が科学的で真実なのかということではなく、何が私たちの求めなのかということです。歴史をつくってきたのは不変の真理などではなく、やはり多数の人間の求めだったからです。そうだとするなら、企業がつぶれたら生活はどうなるとか、国の安全保障の充実が優先とかいう議論に左右されないで、ストレ-トに今の私たちの求めから、その可能性を実現していく方法論を検討していけば良いのでしょう。
さてこうした私たちの求めの可能性を検討するにあたって、参考として浮上してくるのが自然の生態系や身体(生命体)のシステムです。私たちの自然観は、現代において再び大きく変質してきています。近代において一時自然は、人間が支配し資源として利用するものへと貶められました。しかし今私たちは再び、自然の生態系や身体が人間の知識や知恵をはるかに凌駕した精緻な仕組みであり、いろんな異物や脅威にも柔軟に対応し、異物も弱者も取り込んで多様な生命が共生できる秩序を自己再生していくことの出来るシステムであることに気づいています。それは生命体(身体)についても同じで、病原体と思われるものさえもじつは何らかの共生のメカニズムの機能を担い、一部のウィルスなどは私たちの遺伝子の中に取り込まれ、それが生命進化に重要な働きを果たしてきたことも知られるに至っています。このように自然は、今や再び私たちが畏怖しその巧みさを学び続ける対象として、私たちの前に浮上してきているのです。そしてこの自然の多様な生命秩序の自己形成の仕組みを、私たちが生きる社会・経済にも応用できないかと、今無意識のうちにも求めているのです。こうして私たちの多くは、今の私たちの求めにも自然の秩序にも共通に働く力を、いのちの力として取り出して、これをこれまでの社会規範に対抗する新しい価値規範に練り上げたいと求めていると想定することも許されるのではないでしょうか。本日の安保法案反対の国会前10万人集会、全国100万人集会には、少なくとも国会前には10万人をはるかに上回る人々が集まったようです。しかし安保法制反対や安部内閣打倒だけが目標ではないはずです。この多数の人々の新しい求めに、なんとか形を与える取り組みを進めていきたいと思います。次回のパンセの集いは、9月1日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
さて、生きる意欲と力を励ますいのちの価値について検討を進めておりますが、前回は“生きる意欲と力を励ます”要素となる意味と価値について考えてみました。あらゆる生き物は、自分の欲望(求め)にとって必要なものを見分けて意味あるものとし、特に重要なものを価値づけし、実存的な(自分にとって意味と価値ある)現実を都度生成して生きています。ところが人間はそれだけでは不十分で、そんな自分をさらに全体の中において俯瞰し、他者や社会との関係から自分の存在が意味を持ち、価値づけられると確認できるのでなければ、自分の人生に意味があり価値を持つものとして実感することが出来ません。またこれも前回見てきたことですけど、人間は一人一人の意味と価値があわさって、社会文化全般としての意味と価値を共同幻想としてつくっていきます。しかしこの共同幻想は一旦形成されると強固な価値規範となり、すでに個々人の求めが変わり、個々の日常では新しい意味と価値ある現実が都度生成されているにも関わらず、それを制約する力として働くようになってしまいます。時代の構造転換の時は特にそうで、私たちは日々の日常実感においても人生の意味と価値のレベルにおいても、すでに芽生えている新しい求めと、これまでに形成されている共同幻想としての価値規範との間に軋轢を感じ、生きづらさ感じるようになっていきます。現在はまさに、モノの豊かさを競う成長社会からいのちの価値を求める成熟社会への転換点にあるために、私たちがこうした生きづらさを感じ、また経済社会の仕組みも行き詰まりの様相を呈してきているのです。
それではいったいどうすればこの状況から脱することが出来るのでしょうか。そこでまず、私たちが日々日常生活において、自分の求めとの相関で意味と価値ある現実を生成しているその地点にまで一旦立ち戻って、そこで私たちが抱いている素直な求めを取り出してみることにしたいと思います。そしてそれが、現在私たちが抱く共同幻想としての社会文化規範とどのように衝突しているかを、見ていくことが出来ればと思います。
現在私たちが抱く共同幻想としての社会文化規範は、これまでの時代の価値観が凝縮されて社会化されたものですから、成長時代の価値観が反映しています。経済は成長し物質的な富も増大するわけですから、私たちも程度の差こそあれ、そのお裾分けに預かることが出来ました。謙虚な日本人ですから、自分が勝ち組にいるとは言いませんでしたが、大多数が中流意識を持ちました。中流というのは、人並よりは悪くないという気持ちです。運と努力があればもっと良くなれるだろうし、自己実現が可能だという前向きの気分をもち続けることが出来ました。この価値観が残ったままで、経済社会の状況が悪化してきたものですから、『自己責任』などという言葉を為政者にうまく用いられて、それが脅迫的に響くようになってしまったのです。
しかし現実は、とうの昔に日本が世界の先進国に先駆けて0成長あるいはマイナス成長社会に突入しており、それに応じて私たちの日常生活レベルでの求めや意識も変化してきています。もっと良くなるだろう、そのためにいかに得するように立ち回るかというプラス方面を求める思考から、へたをすればもっと悪くなるという、どちらかと言えば負け組サイドに自分を置いた、マイナス思考に私たちの気分は傾斜しているのです。これも前回述べた極端な事例ですが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、かつては私たちは、無意識のうちに加害者(強者)側に自分の身を置いて、うまく答えられないなどと悩んだりしておりました。しかし現在では、むしろ自分を被害者(弱者)の側に身を置いて考えているのではないでしょうか。殺されてはたまりませんから、弱者の側に身をおくなら、この問いは考えるまでもなく否定すべき自明の問いとなります。時代の流れに鋭敏な若者たちが、今果敢に戦争法案に反対しているのも、こうした私たちの気分の変化が影響しているのかもしれません。
それではこうした変化を踏まえて、私たちの日常的なレベルでの求めは、どう違ってきているのでしょうか。例えば次のような気分が、多数の人の求めとして心を占めるようになってきているのではないでしょうか。まず現在の私たちの心を占めているのは、何よりも不安でしょう。まじめに考えれば社会も経済も明るい展望は見えず、不安材料ばかりです。そうした状況にあって、自分はまだかろうじて弱者ではないとしても、いつ弱者になるかわかりません。雇用の不安ばかりでなく、ガンなどの病気や事故等による障害、そして老後の生活等で弱者に陥る可能性は山ほどころがっています。だとするなら弱者になっても生きられる社会を望みたい。いや単に生きるだけではなく、人間らしく生きられる社会にしたい。弱者であっても自分の可能性と自分らしい能力を発揮して、人や社会に役立って生きられるようにしていきたい。しかしそんな社会は経済効率が悪く、成り立たないのではないかという疑念も生じてくるでしょう。でも果たしてそうでしょうか。弱者でも能力が発揮出来る社会というのは、非常に多様性のある柔構造の社会であって、すべての人のニーズに対応するが故に多様な需要が創出し、あらゆる能力の発揮できるむしろ創造性豊かな強靭な社会ではないのでしょうか。
恐らく今私たちが求めているのは、強者の立場よりも弱者の立場に共感し、そこから社会を組み立て直したいという思いで、さらにその方が多様で誰もが生き易く、むしろ強靭な社会をつくれるのではないかというビジョンでしょう。経済学や社会学の法則からすれば、そんな論理は成り立たないと一蹴されるかもしれませんが、ここで大切なことは何が科学的で真実なのかということではなく、何が私たちの求めなのかということです。歴史をつくってきたのは不変の真理などではなく、やはり多数の人間の求めだったからです。そうだとするなら、企業がつぶれたら生活はどうなるとか、国の安全保障の充実が優先とかいう議論に左右されないで、ストレ-トに今の私たちの求めから、その可能性を実現していく方法論を検討していけば良いのでしょう。
さてこうした私たちの求めの可能性を検討するにあたって、参考として浮上してくるのが自然の生態系や身体(生命体)のシステムです。私たちの自然観は、現代において再び大きく変質してきています。近代において一時自然は、人間が支配し資源として利用するものへと貶められました。しかし今私たちは再び、自然の生態系や身体が人間の知識や知恵をはるかに凌駕した精緻な仕組みであり、いろんな異物や脅威にも柔軟に対応し、異物も弱者も取り込んで多様な生命が共生できる秩序を自己再生していくことの出来るシステムであることに気づいています。それは生命体(身体)についても同じで、病原体と思われるものさえもじつは何らかの共生のメカニズムの機能を担い、一部のウィルスなどは私たちの遺伝子の中に取り込まれ、それが生命進化に重要な働きを果たしてきたことも知られるに至っています。このように自然は、今や再び私たちが畏怖しその巧みさを学び続ける対象として、私たちの前に浮上してきているのです。そしてこの自然の多様な生命秩序の自己形成の仕組みを、私たちが生きる社会・経済にも応用できないかと、今無意識のうちにも求めているのです。こうして私たちの多くは、今の私たちの求めにも自然の秩序にも共通に働く力を、いのちの力として取り出して、これをこれまでの社会規範に対抗する新しい価値規範に練り上げたいと求めていると想定することも許されるのではないでしょうか。本日の安保法案反対の国会前10万人集会、全国100万人集会には、少なくとも国会前には10万人をはるかに上回る人々が集まったようです。しかし安保法制反対や安部内閣打倒だけが目標ではないはずです。この多数の人々の新しい求めに、なんとか形を与える取り組みを進めていきたいと思います。次回のパンセの集いは、9月1日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。