ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.49『生きるために食べるか、食べるために生きるか』

Sep 13 - 2015

■2015.9.13パンセ通信No.49『生きるために食べるか、食べるために生きるか』

皆 様 へ

またしても大きな自然災害が発生しました。台風17号、18号の影響で、線状降水帯というものが出来、1つの河川の流域全体に1日で数百ミリもの雨が降り注いだのです。この結果、鬼怒川や宮城県の渋井川の堤防が決壊し、甚大な被害が発生しました。今回の豪雨で氾濫した河川は30にも及ぶとのことです。今後次第にその被害の全容が明らかになってくるものと思われます。今回の事態でショックだったのは、堤防が決壊したということです。一瞬、いつの時代のこと?という思いが頭をよぎりました。先進国で世界に誇る治水技術を持つこの国で、堤防が決壊するなどという危険性をすっかり忘れてしまっており、その事実が受け入れられない思いでボ~としてしまいました。まずは犠牲になられた方々のご冥福と、被災者の皆様の生活の立ち直りや地域の復興を祈るばかりです。

この想定外の豪雨の原因を、人間の愚かさがもたらした異常気象や温暖化などに求め、さらに強靭な堤防を整備するなどのことは疎かに出来ないことでしょう。でもあわせて考えさせられるのは、この日本列島という地に暮らす日本人としての、私たちの自然との関わり方です。日本人にとって自然はいつも想定外で、私たちの虚をついてきます。そして私たちの先人たちは、そのたびにその“虚”を改め、戒めとし、より安全にうまく生きられるように生活インフラを向上させてきました。また被災者の困難と悲しみを分かち合い、領主や住民が一体となって相互扶助の仕組みをも高めて、生活の再建と復興を図り、社会と生活の仕組みをも高度化させてきたのです。今年の新年のパンセ通信でも述べたことなのですが、『日本人は、荒ぶる自然に翻弄されながら生きていくしかない。しかしそれでも、私たちを癒し、新たな再生の道を踏み出させるのは、やっぱりその自然でしかない。』という自然観を思い起こすべきでしょう。鬼怒川は、かつては平時の穏やかな流れから絹川とも称されていたとのことです。荒ぶる自然と和みの自然。私たちにとって、自然はけっして制御すべきものでも、資源を得るための対象というだけの存在でもありません、自然は私たちの虚をつくことによって私たちの歪みや欠落する部分を教え、その後で必ず私たちを癒し、土木技術の面でも人と人との相互扶助の関わり方の面でも、私たちがより柔軟なシステムをつくって高度化していけるように再生する力を与えてくれます。そしてそんな私たち人間をも組み込んで、その都度より大きな生態系の調和と秩序を新たに形成していくのです。従って私たちにとって自然とは、本来畏怖の念をもって学ぶべきものであり、自然が示唆する変化や兆候を感じ取って私たちのあり方を見直し、そこに流れるいのちの力を汲み取っていくべきものであったのです。そしてそうした感覚は、阪神淡路大震災や3.11東北大震災を経て、次第に現代の私たちの心にも甦ってきているのではないでしょうか。そんな自然の生態系にやどる大きないのちの力を引き続き学び、私たちの暮らしに取り戻していければと思っております。次回のパンセの集いは、9月15日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。

さて、『生きるために食べるのか、食べるために生きるのか』という古来より問われてきた単純な問いがあります。しかしよく考えてみたら、この問いがそう単純ではないことがわかってきます。まず人間は動物とは異なるのだから、食べることを目的として生きるような愚かな真似はせず、生きることを目的としならなければと思うのですが、果たして野生の動物で、食べるために生きているものなどいるのでしょうか。冷静に考えれば、動物たちは生きる(いのちをつなぐ)ために食べているのがわかります。いのちをつなぎ、増やすことが第1の目的なのですから、間違いなく彼らは『生きるために食べて』いるのです。それでは食べることを目的にして生きるような愚か者は誰かというと、動物よりは進化したと自負する私たち人間以外にはないことになります。そこですぐに頭に浮かぶのは、美食家などの存在ですが、この“食べる”ということを、“貪欲や自己利益”ということに置き換えてみると、『食べるために生きる』ということがよくわかってきます。『人間は二度生まれる。一度は存在するために。二度目は生きるために』という有名なルソ-のエミ-ルという書物の中の言葉がありますが、私たちもかつては、いのちをつなぐ(存在する)ために生きていたのですが、やがて穀物生産などにより、余剰の価値を生み出せるようになってきました。これはいわば生存のための余剰価値であり財貨の富なのですが、唯一人間だけが、この富を求めて生きるようになったのです。そして往々にして、いのちよりもこの富の方が大事に思えて生きてしまうという逆転現象を引き起こしてしまうのです。それゆえこの段階では、“生きる”よりも“食べる”ことの方が目的となってしまって、人間はある面では動物以下の存在に成り下がってしまうのです。私たちがよく、自然界で懸命に生きる野生動物たちのドキュメンタリ-などを見て心が打たれるのは、この人間の愚かさの故に見失っていた本来の生きる目的を、動物たちの姿の中に見出すからでしょうか。

それでは、動物とは違う人間らしさとして私たちが追い求める『生きるために食べる』とはどういうことなのでしょうか。それはすでに18世紀にルソ-が指摘しているように、単に存在する、いのちをつなぐためにではなく、その“いのちを生かす”ために食べて生きるということでしょう。“生きる”という言葉に二重の意味があって、単に“いのちをつなぐ”という意味だけでなく、そこから「食べるために生きる」という目的と手段のねじれの過程を経て、“いのちを生かす”という意味をも持つようになってくるのです。聖書の中では、人間は神様から自然界を管理することを委ねられるという特別の役割に任じられるわけですが、“いのちを生かす”ために生きるという段階に至って、ようやく私たちは、この役割を担える存在になったということが言えるのではないしょうか。もちろん動物や植物たちだっていのちに生きる以上、単にいのちをつなぐためばかりでなく、このいのちを生かす価値を理解する心は持っています。それが生き物たちと私たちが、心を通うわせることのできる理由の1つなのでしょう。この“いのちを生かす”価値を、パンセの集いではいのちの価値として取り出して、これからの成熟社会の生き方理想を担う核として考えを深めているのです。

このいのちの価値やその価値を生み出すいのちの力について、前回に倣って自然の生態系にもとづいてもう1度整理してみると、以下のようになるでしょうか。
1.あらゆるものを生かし、すべてのものが多様なままに柔軟に、互いに生かしあえる調和と秩序を形成していく力
2.弱者や無価値に見えるものも、存在する以上かならず役割があり、その役割の重要性を見出して、他者や全体のために役立てていく力
3.こうしたいのちの力を知って、自分自身の役割を見つけ、この大きないのちの力を担う一翼として自分自身のいのちを生かしていく力。
4.自分自身のいのちの力を発揮して、他者や生態系や後世のいのちの励ましのために役だって、自分の生きる意味と価値を見出していく力。
そして「生存のための財貨の価値」と異なるこの「いのちの価値」の特徴として挙げられるのが、
1.財貨の価値は、自分という存在の外に銀行預金のように外的に蓄積されるが、「いのち価値」は、自分という人格の中に蓄積される。故にそれは、もし魂というものがあって来世があるなら、死後にまで携えていける財産ということになる。
2.財貨の価値は使えば無くなるが、自分のいのち価値は、他者や自分のいのちを生かすために用いれば用いるほど、大きく育つ特質がある。
といったようなことになるでしょうか。

このいのちの価値を、財貨の価値と組み合わせて見ていくとき、じつにいろいろなことがわかってきます。また株式市場や為替市場などのマ-ケットについても、自然の生態系に接する時と同じように、そこに働く力をただ素直に学び取っていこうとする時、じつにいろいろな兆候が見てとれてきます。しかしまずは、『食べるために生きる』ことに狂奔してきた私たちが、財貨を生産する視点から見た時に、価値がないと退けてきた老いや死の価値から考えを進め、成熟社会の生き方理想の転換のモデルを考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、9月15日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。