■2015.9.20パンセ通信No.50『安保法制 - 2つの戦争の捉え方と今後の課題』
皆 様 へ
安保法案が、混乱のうちに成立しました。安倍政権と反対する国民の間に大きな亀裂を残して。ここでこの国のおかれた危機の状況と、大きくはない可能性について、一度よく考えてみることは大切なことかと思われます。安保法制が投げかけた究極の問いは、“戦争”への態度です。戦争には2つの捉え方があります。1つには、実際に個人や肉親や恋人や友人が、生身の体験として経験する戦争です。財産が破壊され、穏やかな日常生活が消失し、いのちさえも奪われる悲惨な戦争です。そして時に自分が加害者とさえなって、人道に対する罪を犯さざるを得なくなります。個人の体験としての戦争、一人称または二人称で語られる戦争は、ただ恐ろしく狂気と苦悩に満ちたもので、肯定的に捉えられる要素は何もありません。この個人の体験としての戦争の悲劇は、日本人は先の大戦の経験から、世界の中でも最もよく語り得る民族の1つでしょう。例え実際の戦争体験者のうちで生存されている方の数が少なくなったとしても、民族の記憶として一人称または二人称として語られる戦争の悲惨は、私たちの記憶に焼きついているのです。
もう1つの“戦争”の捉え方は、国家の安全保障としての戦争です。私たちの平和な暮らしを守るためにも、国の防衛力は必要であり、戦いも止むを得ないという考え方です。これも当然なことであり、必要な安全保障上の備えはとるべきでしょう。ただしこの場合の戦争は、個人の実体験としての戦争ではありません。抽象的概念的な戦争で、いわば三人称としての戦争です。従ってここでは、生身の体験としての戦争の悲惨は呼びおこってきません。しかしここで注意しなくてはいけないのは、個人の実体験としての戦争の記憶も、国家の安全保障としての戦争も、戦争の捉え方としては両方が必要なのであって、ただこの2つは次元の異なる捉え方をしているということです。それなのに今回の戦争法案の審議と国民の反対運動においては、この両者があたかも同じ次元にあって対立するかのような構図となってしまい、二者択一を迫る様相となってしまいました。国民の大多数は、個人が被る悲惨な戦争体験を予感して、これはたまらないということで反対運動に立ち上がり、政権側は国家の安全保障を大義名分に振りかざすことで、両者は対立してしまったのです。このことは、今後のこの国の運営をめぐって、大きな禍根を残したように思われます。また一方で、この国が克服せずに先延ばしにしてきた課題が、明瞭になってきたとも言えるでしょう。
さて、どうして個人の戦争体験の悲惨と国家の安全保障が、二律背反してしまうことになったのでしょうか。その原因は言うまでもなく、安倍政権の体質と安倍晋三という個人の資質に由来することは明らかでしょう。きわめて私的で感情的・情緒的な個人生活と、国益という全体の価値とを、橋渡しして調整し両方の利益を実現していくのが政治の役割です。そしてこの一見相反する利害を両立させる困難と緊張の中から、リアルな政策が生まれてくるのです。個と普遍の価値との往還は、以前にも申し上げたとおり宗教の根源的な生き方の態度であり、人間が良く生きていくための基本です。そして特にリ-ダ-シップを担う者にとっては、欠くことの出来ない資質となるものです。ところが安倍晋三という人物は、国益という概念はあっても、生身の人間の生活感情に対するリアルな共感や配慮が欠落しているのです。従って、国家の安全保障が大事とわかっても、個人の平穏な生活が掻き乱されるのはいやだという、庶民の生活実感に心底共感する感性は持ち合わせないのです。従って“国民のいのちと生活を守る”ための安全保障であるのに、それを理解せず生活実感ばかり優先する国民は、身勝手で愚かと映り、ただ説得してわからせねばならぬ対象としか映らないのです。国益の観点からすれば、そのとおりでしょう。しかし個人が被る戦争の悲惨の観点からすれば、身勝手と言われようが、恥知らずと言われようが、それこそ国家の安全がどうなろうが、私は戦争は嫌だと自由に堂々と主張して良いし、主張すべきなのです。これまでの自民党の政治家は、自身の戦争体験もあったせいか、どこかにこの庶民の反戦感情に対する共感がありました。ところが安倍晋三なる人間には、この一人称または二人称としての生活実感に対する配慮が希薄で、三人称としての抽象的な国益しか念頭にないのです。従って、“国民のいのちと生活を守る”といっても、それは生身の個別の個人の生活の貧しさや苦しさへの配慮ではなく、抽象的なお題目にしかすぎないのであって、国益とこのお題目の前には、生身の個人の身勝手で恥知らずな生活感情は、押し潰されていくことになる可能性があるのです。広範な国民が反対運動に立ち上がったのは、特に女性や高齢者そして人生を謳歌したい若者たちが立ち上がったのは、この危険性を察知してのことなのでしょう。
安倍氏がそのような人格になったのは、庶民生活を知らないエリ-ト育ちだからというよりも、生来のサイコパス的性格によると言った方が良いでしょう。安倍氏にとってのリ-ダ-シップとは、個人の生活感情やリアルな生活の悲喜劇を容赦なく切り捨て、国益や全体の価値のために、大胆に強力に政策を推し進めることです。しかしリ-ダ-の中には、企業の創業者を含めてこうした資質を持った人はけっして少なくなく、逆に普通の人には出来ない大胆な切り捨てや利益追求、他者への共感性と配慮の欠如があるからこそ、トップに立てるという側面もあるのです。大阪維新の橋下徹氏もそうした人物の1人でしょう。しかしこうしたリ-ダ-がやがて独裁者となり、私たちがもはや身勝手で恥知らずな個人ではおれないようなファッショ的体制を築いていくのは、歴史が教えるところです。そして今の自民党の体制が、それをよく証明していることでしょう。これに対するリ-ダ-の典型が、戦前の政界の要職を務めた高橋是清でしょう。非常に大胆で独創的な財政・金融・経済政策で金融恐慌下の日本経済を立て直したものの、軍部との対立から2.26事件の凶弾に倒れてしまいます。彼には常に、一人一人の国民の悲惨と生身の生活実感への共感と配慮がありました。それ故に、世界にも比類なく誇れる独創的な経済政策を採ることが出来たのです。同じように優れて痛みを共感し、自分のことのように心を砕けるのは、今上天皇かもしれません。さて私たちはどちらのタイプのリ-ダ-を選ぶのでしょうか。またどのような人物をリ-ダ-として見極め、育てていくのでしょうか。それこそは、私たちの最大の課題と言って良いでしょう。
さてここまで安保法制をめぐって生じてきた混乱と対立の構造を見てきたのですが、逆にこの混乱が、この国の抱える危機をあぶり出してきたようにも思います。まずその第1は、対話と議論によって現実認識を深め、より現実的な政策を生み出していく道を喪失してしまったことです。これも契機は安倍内閣の体質にあるのですが、国益しか眼中になく、抽象的なお題目としてしか国民のいのちと生活を捉えられない安部政権にとっては、始めから個人的感情的な戦争実感の悲惨を考慮する回路は持ち合わせていません。従って、抽象的な安保論議は成立しても、個人の感情的な戦争反対の訴えは、“国民のいのちと暮らしを守る安保法制”の前では、議論の対象とはならなかったのです。そのため個人の生活感情などに聞く耳を持てず、国民は説得してわからせる対象でしかなくなったのです。また反対する野党の議論も、反対のための反対としてしか映らなくなり、これ以上議論しても時間の無駄ということで、議論を圧殺して粛々と強行採決を進めることが正当化されたのです。
次に2つ目の危機は、民主党を始めとする野党の問題です。国民のリアルな生活実感に基づく広範な反対運動の圧力に押されて、民主党が反安保法案で一元化し、維新が分裂し、野党共闘が成立したのは良かったのですが、まともな安保法制に対する政策対案が示せず、与党案の矛盾を突くか、国民と同じレベルでの個人の生活感情からの戦争反対、安保法制反対論に留まってしまったことです。幸いにして大多数の憲法学者や司法関係者から、集団的自衛権に対する違憲論が出て来たおかげで、かろうじて与党に対して論陣を張れたものの、野党としての独自の政策を生み出すことは出来ませんでした。何らかの政策があったとしても、安倍政権と同じく抽象的なレベルでの概念論にすぎませんでした。この一人一人の国民の生活実感に根ざし共感する、リアルな政策立案能力の欠如がこの国の悲しい課題でしょう。間違えてはいけませんが、世界が未だ国家に分裂して国家間の競合や利害対立のある限り、やはり国民のいのちと暮らしを守るための安全保障は必要なのであって、オレは戦争が嫌だと言うだけではすまされないのです。本当に現実的な対応力のある安保政策を提示することが出来なければ、せっかく盛り上がった国民の大衆運動も、国家の安全保障論の圧力の前にやがて雲散霧消していくことになるでしょう。
3つ目の危機は、安倍政権が国民一人一人のリアルな貧しさや苦しさへの共感と配慮を持たないため、現実のリアルな変化を見る視野を失い、政策がどんどん抽象化し妄想化していることです。これが一番悲劇的なことでしょう。例えば戦前の世界秩序は、とっくに帝国主義的領土拡張競争から、経済強化とマーケットの獲得競争に移行していたのに、その現実を見ることが出来ず、軍備拡大と領土拡張が国力と妄想した日本帝国は、愚かな戦争の末に滅びていきました。今の世界も、新しい国際秩序と経済システムを求めて、各国が必死の模索している段階です。それなのに中国を仮想敵国として、アメリカとの集団的自衛権で対処しようなどというのは、過ぎ去った冷戦構造の妄想にしかすぎません。本気で中国と軍拡競争をするのでしょうか?アメリカは自分が犠牲を出しても日本を助けくれるのでしょうか?そんな妄想につきあっている暇はありません。また経済についても、とっくにIT技術による精緻な市場分析とグロ-バルな製造拠点との結びつきによるイノベ-ションの時代に入っているのに、いまだにこの国は、モノづくりと技術開発のレベルから脱しようとしていません。なぜ今世界で唯一アメリカが経済成長を遂げているのか。アメリカに追従しているのに、ちっともアメリカのリアルから学ぼうとしていません。アジア外交だってとっくに行き詰まり、孤立を深めています。安倍政権は、リアルを失して妄想に走るこの国の悲劇の象徴で、とても韓国や他の国の困難を笑っている場合などではないのです。
でもだからいって、可能性が無いわけではありません。その可能性の最大のものは、国民が生身の生活感情から、声を上げ始めたことでしょう。国家がどうなろうと、身勝手・恥知らずと言われようと、個人生活にとって戦争は悲惨しかもたらなさいという実感から、反対運動に立ち上がったことです。じつは個人の身勝手な生活実感に立脚することこそが、国民主権の第1歩なのです。そしてここから始めることこそが、リアルな世界認識と現実的な政策立案の前提となってくるのです。戦争についてもそうで、国民にとって戦争の代償は償いきれないものです。しかし現在おいては、国家においても同じです。戦争の代償は、もはや経済的に割があわないのです。ましてや核兵器による世界の滅亡の脅威もあります。だから世界はもはや国家間での戦争はしなくなったのです。このように国民の生活実感には、リアルな真実があるのです。一部の妄想癖のある人間と戦争商人を除いて、誰もが戦争は割にあわないと知っているのです。このわがままな国民感情から、本当に効果ある安全保障政策・抑止力を考えていかなければなりません。経済も同じです。個別の身勝手な生活実感を反映するからこそ、国民の声の届いた政策を生み出すことができ、経済循環に結びつけていくことが出来るのです。そうした現実的な政策を私たちが示唆し、野党につくらせていくことができるように、私たちの検討も進めていければと思っています。こうして私たちは国民主権の第2段階へと進んで行くことができ、日本全体も、新しい世界の秩序に対してリアルな対応をとっていくことが出来るようになるのです。
次回のパンセの集いは、9月22日(火)が祝日のためにお休み致します。その次の9月29日の火曜日も、私が手術で欠席するためにフィルムクレッセントの事務所が使えず、2回連続でお休みとなります。しかし私たちが生身の生活実感からものを考え、変貌する世界の秩序の中でのこの国あり方を政策として提示していくことが出来るように、考え方の枠組みを整理していきたいと思います。よろしくお願い致します。
皆 様 へ
安保法案が、混乱のうちに成立しました。安倍政権と反対する国民の間に大きな亀裂を残して。ここでこの国のおかれた危機の状況と、大きくはない可能性について、一度よく考えてみることは大切なことかと思われます。安保法制が投げかけた究極の問いは、“戦争”への態度です。戦争には2つの捉え方があります。1つには、実際に個人や肉親や恋人や友人が、生身の体験として経験する戦争です。財産が破壊され、穏やかな日常生活が消失し、いのちさえも奪われる悲惨な戦争です。そして時に自分が加害者とさえなって、人道に対する罪を犯さざるを得なくなります。個人の体験としての戦争、一人称または二人称で語られる戦争は、ただ恐ろしく狂気と苦悩に満ちたもので、肯定的に捉えられる要素は何もありません。この個人の体験としての戦争の悲劇は、日本人は先の大戦の経験から、世界の中でも最もよく語り得る民族の1つでしょう。例え実際の戦争体験者のうちで生存されている方の数が少なくなったとしても、民族の記憶として一人称または二人称として語られる戦争の悲惨は、私たちの記憶に焼きついているのです。
もう1つの“戦争”の捉え方は、国家の安全保障としての戦争です。私たちの平和な暮らしを守るためにも、国の防衛力は必要であり、戦いも止むを得ないという考え方です。これも当然なことであり、必要な安全保障上の備えはとるべきでしょう。ただしこの場合の戦争は、個人の実体験としての戦争ではありません。抽象的概念的な戦争で、いわば三人称としての戦争です。従ってここでは、生身の体験としての戦争の悲惨は呼びおこってきません。しかしここで注意しなくてはいけないのは、個人の実体験としての戦争の記憶も、国家の安全保障としての戦争も、戦争の捉え方としては両方が必要なのであって、ただこの2つは次元の異なる捉え方をしているということです。それなのに今回の戦争法案の審議と国民の反対運動においては、この両者があたかも同じ次元にあって対立するかのような構図となってしまい、二者択一を迫る様相となってしまいました。国民の大多数は、個人が被る悲惨な戦争体験を予感して、これはたまらないということで反対運動に立ち上がり、政権側は国家の安全保障を大義名分に振りかざすことで、両者は対立してしまったのです。このことは、今後のこの国の運営をめぐって、大きな禍根を残したように思われます。また一方で、この国が克服せずに先延ばしにしてきた課題が、明瞭になってきたとも言えるでしょう。
さて、どうして個人の戦争体験の悲惨と国家の安全保障が、二律背反してしまうことになったのでしょうか。その原因は言うまでもなく、安倍政権の体質と安倍晋三という個人の資質に由来することは明らかでしょう。きわめて私的で感情的・情緒的な個人生活と、国益という全体の価値とを、橋渡しして調整し両方の利益を実現していくのが政治の役割です。そしてこの一見相反する利害を両立させる困難と緊張の中から、リアルな政策が生まれてくるのです。個と普遍の価値との往還は、以前にも申し上げたとおり宗教の根源的な生き方の態度であり、人間が良く生きていくための基本です。そして特にリ-ダ-シップを担う者にとっては、欠くことの出来ない資質となるものです。ところが安倍晋三という人物は、国益という概念はあっても、生身の人間の生活感情に対するリアルな共感や配慮が欠落しているのです。従って、国家の安全保障が大事とわかっても、個人の平穏な生活が掻き乱されるのはいやだという、庶民の生活実感に心底共感する感性は持ち合わせないのです。従って“国民のいのちと生活を守る”ための安全保障であるのに、それを理解せず生活実感ばかり優先する国民は、身勝手で愚かと映り、ただ説得してわからせねばならぬ対象としか映らないのです。国益の観点からすれば、そのとおりでしょう。しかし個人が被る戦争の悲惨の観点からすれば、身勝手と言われようが、恥知らずと言われようが、それこそ国家の安全がどうなろうが、私は戦争は嫌だと自由に堂々と主張して良いし、主張すべきなのです。これまでの自民党の政治家は、自身の戦争体験もあったせいか、どこかにこの庶民の反戦感情に対する共感がありました。ところが安倍晋三なる人間には、この一人称または二人称としての生活実感に対する配慮が希薄で、三人称としての抽象的な国益しか念頭にないのです。従って、“国民のいのちと生活を守る”といっても、それは生身の個別の個人の生活の貧しさや苦しさへの配慮ではなく、抽象的なお題目にしかすぎないのであって、国益とこのお題目の前には、生身の個人の身勝手で恥知らずな生活感情は、押し潰されていくことになる可能性があるのです。広範な国民が反対運動に立ち上がったのは、特に女性や高齢者そして人生を謳歌したい若者たちが立ち上がったのは、この危険性を察知してのことなのでしょう。
安倍氏がそのような人格になったのは、庶民生活を知らないエリ-ト育ちだからというよりも、生来のサイコパス的性格によると言った方が良いでしょう。安倍氏にとってのリ-ダ-シップとは、個人の生活感情やリアルな生活の悲喜劇を容赦なく切り捨て、国益や全体の価値のために、大胆に強力に政策を推し進めることです。しかしリ-ダ-の中には、企業の創業者を含めてこうした資質を持った人はけっして少なくなく、逆に普通の人には出来ない大胆な切り捨てや利益追求、他者への共感性と配慮の欠如があるからこそ、トップに立てるという側面もあるのです。大阪維新の橋下徹氏もそうした人物の1人でしょう。しかしこうしたリ-ダ-がやがて独裁者となり、私たちがもはや身勝手で恥知らずな個人ではおれないようなファッショ的体制を築いていくのは、歴史が教えるところです。そして今の自民党の体制が、それをよく証明していることでしょう。これに対するリ-ダ-の典型が、戦前の政界の要職を務めた高橋是清でしょう。非常に大胆で独創的な財政・金融・経済政策で金融恐慌下の日本経済を立て直したものの、軍部との対立から2.26事件の凶弾に倒れてしまいます。彼には常に、一人一人の国民の悲惨と生身の生活実感への共感と配慮がありました。それ故に、世界にも比類なく誇れる独創的な経済政策を採ることが出来たのです。同じように優れて痛みを共感し、自分のことのように心を砕けるのは、今上天皇かもしれません。さて私たちはどちらのタイプのリ-ダ-を選ぶのでしょうか。またどのような人物をリ-ダ-として見極め、育てていくのでしょうか。それこそは、私たちの最大の課題と言って良いでしょう。
さてここまで安保法制をめぐって生じてきた混乱と対立の構造を見てきたのですが、逆にこの混乱が、この国の抱える危機をあぶり出してきたようにも思います。まずその第1は、対話と議論によって現実認識を深め、より現実的な政策を生み出していく道を喪失してしまったことです。これも契機は安倍内閣の体質にあるのですが、国益しか眼中になく、抽象的なお題目としてしか国民のいのちと生活を捉えられない安部政権にとっては、始めから個人的感情的な戦争実感の悲惨を考慮する回路は持ち合わせていません。従って、抽象的な安保論議は成立しても、個人の感情的な戦争反対の訴えは、“国民のいのちと暮らしを守る安保法制”の前では、議論の対象とはならなかったのです。そのため個人の生活感情などに聞く耳を持てず、国民は説得してわからせる対象でしかなくなったのです。また反対する野党の議論も、反対のための反対としてしか映らなくなり、これ以上議論しても時間の無駄ということで、議論を圧殺して粛々と強行採決を進めることが正当化されたのです。
次に2つ目の危機は、民主党を始めとする野党の問題です。国民のリアルな生活実感に基づく広範な反対運動の圧力に押されて、民主党が反安保法案で一元化し、維新が分裂し、野党共闘が成立したのは良かったのですが、まともな安保法制に対する政策対案が示せず、与党案の矛盾を突くか、国民と同じレベルでの個人の生活感情からの戦争反対、安保法制反対論に留まってしまったことです。幸いにして大多数の憲法学者や司法関係者から、集団的自衛権に対する違憲論が出て来たおかげで、かろうじて与党に対して論陣を張れたものの、野党としての独自の政策を生み出すことは出来ませんでした。何らかの政策があったとしても、安倍政権と同じく抽象的なレベルでの概念論にすぎませんでした。この一人一人の国民の生活実感に根ざし共感する、リアルな政策立案能力の欠如がこの国の悲しい課題でしょう。間違えてはいけませんが、世界が未だ国家に分裂して国家間の競合や利害対立のある限り、やはり国民のいのちと暮らしを守るための安全保障は必要なのであって、オレは戦争が嫌だと言うだけではすまされないのです。本当に現実的な対応力のある安保政策を提示することが出来なければ、せっかく盛り上がった国民の大衆運動も、国家の安全保障論の圧力の前にやがて雲散霧消していくことになるでしょう。
3つ目の危機は、安倍政権が国民一人一人のリアルな貧しさや苦しさへの共感と配慮を持たないため、現実のリアルな変化を見る視野を失い、政策がどんどん抽象化し妄想化していることです。これが一番悲劇的なことでしょう。例えば戦前の世界秩序は、とっくに帝国主義的領土拡張競争から、経済強化とマーケットの獲得競争に移行していたのに、その現実を見ることが出来ず、軍備拡大と領土拡張が国力と妄想した日本帝国は、愚かな戦争の末に滅びていきました。今の世界も、新しい国際秩序と経済システムを求めて、各国が必死の模索している段階です。それなのに中国を仮想敵国として、アメリカとの集団的自衛権で対処しようなどというのは、過ぎ去った冷戦構造の妄想にしかすぎません。本気で中国と軍拡競争をするのでしょうか?アメリカは自分が犠牲を出しても日本を助けくれるのでしょうか?そんな妄想につきあっている暇はありません。また経済についても、とっくにIT技術による精緻な市場分析とグロ-バルな製造拠点との結びつきによるイノベ-ションの時代に入っているのに、いまだにこの国は、モノづくりと技術開発のレベルから脱しようとしていません。なぜ今世界で唯一アメリカが経済成長を遂げているのか。アメリカに追従しているのに、ちっともアメリカのリアルから学ぼうとしていません。アジア外交だってとっくに行き詰まり、孤立を深めています。安倍政権は、リアルを失して妄想に走るこの国の悲劇の象徴で、とても韓国や他の国の困難を笑っている場合などではないのです。
でもだからいって、可能性が無いわけではありません。その可能性の最大のものは、国民が生身の生活感情から、声を上げ始めたことでしょう。国家がどうなろうと、身勝手・恥知らずと言われようと、個人生活にとって戦争は悲惨しかもたらなさいという実感から、反対運動に立ち上がったことです。じつは個人の身勝手な生活実感に立脚することこそが、国民主権の第1歩なのです。そしてここから始めることこそが、リアルな世界認識と現実的な政策立案の前提となってくるのです。戦争についてもそうで、国民にとって戦争の代償は償いきれないものです。しかし現在おいては、国家においても同じです。戦争の代償は、もはや経済的に割があわないのです。ましてや核兵器による世界の滅亡の脅威もあります。だから世界はもはや国家間での戦争はしなくなったのです。このように国民の生活実感には、リアルな真実があるのです。一部の妄想癖のある人間と戦争商人を除いて、誰もが戦争は割にあわないと知っているのです。このわがままな国民感情から、本当に効果ある安全保障政策・抑止力を考えていかなければなりません。経済も同じです。個別の身勝手な生活実感を反映するからこそ、国民の声の届いた政策を生み出すことができ、経済循環に結びつけていくことが出来るのです。そうした現実的な政策を私たちが示唆し、野党につくらせていくことができるように、私たちの検討も進めていければと思っています。こうして私たちは国民主権の第2段階へと進んで行くことができ、日本全体も、新しい世界の秩序に対してリアルな対応をとっていくことが出来るようになるのです。
次回のパンセの集いは、9月22日(火)が祝日のためにお休み致します。その次の9月29日の火曜日も、私が手術で欠席するためにフィルムクレッセントの事務所が使えず、2回連続でお休みとなります。しかし私たちが生身の生活実感からものを考え、変貌する世界の秩序の中でのこの国あり方を政策として提示していくことが出来るように、考え方の枠組みを整理していきたいと思います。よろしくお願い致します。