■2015.9.27パンセ通信No.51『死はいのちの鉱脈、新しい死の神話を求めて1/2』
皆 様 へ
いのちの力、そしていのちの価値について考えてきておりますが、その対極にあるのが死です。従って死について考え、それとの向き合い方を検討することは、逆にいのちを明らかにし、これからの時代をいのち価値にも配慮して生きるにあたって、何らかの示唆を与えるものと思われます。それでは死とはいったい何でしょうか。死は赤色の赤と同じように、もはや言葉や概念では定義できず、実例をもって直示的にしか示せないものです。ところが実例をもってと言っても、他人の死は経験できるのですが、自分の死は決して経験できないという厄介な性質を持っています。従って死をどのように感じ、どう受留めるかということは出来ても、死後の世界を経験的・科学的に実証することは出来ません。なぜ科学的に出来ないかというと、科学というのは人間の経験を検証し、その中である法則をもって再現するものだけを事実として共通了解する学問であるからです。従って、死の直前までは経験として検証できるので科学の対象となりますが、死後は経験できないことから、科学の対象とはならないのです。それならば死後を含めた死について考えられないのかというと、そんなことはありません。私たちは物理的には空間と時間の4次元の時空に生きているので、科学はその制約を受けますが、人間の意識はそれを超えていくことが出来るからです。
それでは、死についてどのように考えていけば良いのでしょうか。科学的に実証できず、真実はないのですから、論理的な形式を突き詰めて考えて解を得たところで、その解は意味を持ちません。なぜなら論理はいかようにも組み立てられるからです。仮に死は無だという結論を得たとしても、別の論理を組み立てれば、別の結論を得ることが出来るだけで、その真偽の検証のしようがありません。それならば、私たちが生きて生活しているという確かな地点に戻って、あくまでもその地点からどんな死の物語を描けば、私たちが安心して良く生きて行くことが出来るかと考えることの方が、私たちの生にとってはよほど意味のあることになってきます。こうした理由から、近代以降の合理主義と科学万能の世界にとっても、死だけは手出しの出来ない領域として残り、いわば宗教に残された最後の拠り所ということにもなっているのです。科学でも論理でもない物語、いわば神話の知で、死がどのように私たちの生を励まし、平穏にさせ、生きる指針を与えてくれることが出来るのか。またその神話が現在の私たちの求めをうまく言い表しており、たくさんの人たちに共有されることが可能となれば、個人の生き方ばかりでなく、社会全体のあり方についても、再考を促す契機ともなってきます。そんな視点から、死の問題を考えていってみたいと思います。
死んだらすべては無に帰する。物質文明における財貨の価値と科学の知にもとづいて生きる現代の私たちにとっては、死に対するこうした感性が優勢となっています。科学が、確かな再現性をもって物質現象の法則性を実証していくものですから、魂は不変で死んだら天国やお浄土に行く、あるいは地獄に行ったり輪廻転生するなどという思いは、証明する術の無い妄想として、私たちの心からその確信の基盤が崩れ落ちていってしまいました。本音では来世の存在に心が惹かれても、私たちの理性がもはやそんな迷妄を許容しないのです。
この結果どんなことが生じているのでしょうか。死が1つの終わりを画するということ自体は、大切な
観念です。生があれば必ず死があるという厳然たる事実は、逃れようがありません。だから私たちは、1度きりしかない人生を精一杯生きようとし、生が意味あるものとなっていきます。そして逆に、死があるからこそ生があるということも言えるようになるのです。歴史をつくった偉人たちも、ただいのちを永らえるというよりも、それをいかに使い切るかということを重視して濃密な人生を生きることを目指しました。とはいえ人生80年、ずっと精一杯生きているわけにも行かないのが私たち凡人です。その結果死の直前や死ぬような目に遭う時以外は、死を忘れていつまでも現在の状況が続くかのごとくに、能天気に怠惰で惰性的な日常を生きてしまうのです。そしてこの惰性の中から、やがて虚無感や刹那的な思いが頭をもたげてきます。死んだらすべては無に帰するのだから、どんなに一生懸命に生きた所で、ただ空しいだけ。人生そのものが無意味ではないか。あるいは、どうせ死んでお終いなのだから、せいぜいこの世を享楽的に精一杯楽しもうと刹那的になってしまったりするのです。
1度きりしかない人生を精一杯生き切ろうという姿勢自体にも、その生き方の目的によっては問題が生じてきます。これまで繰り返し申し上げてきましたが、近代以降の私有財産制にもとづく市場社会における人間の欲望の対象は、お金に象徴される財貨の富や、地位や名誉などの価値に向けられます。そして1度しかない人生を、この欲望に狂奔して“自己実現”を図ろうとする人たちが出てくるのです。現在終活と称して商業主義的に営まれる死の準備にあたっては、自分が“所有”する財産の相続対策と、葬儀までをも自分らしく自己顕示欲を示す場として営もうとすることに、努力が集中されます。しかし実際その様子をはたで見ていると、思わずその浅ましさに嫌悪を感じてしまいます。それでいて本来の終活になっているかというと、ちっともそんなことはありません。そんな準備をしていても、いよいよ死が迫ってきた折には、死の恐怖、孤独、無力感、自己喪失感などをぬぐうことが出来ず、財産を持つ人ほど死の直前まで財産分与の争いを心配し、煩いのうちに死んでいく人も少なくありません。
死の恐怖も克服できないし、生き方も空しかったり、刹那的だったり、浅ましかったり、惰性的だったりしてしまう。さていったい何が問題なのでしょうか。こうした死生観の前提になっているのが、死んだら無に帰するという観念と、そしてもう1つ、自分のいのちは自分のものという私有財産制に影響された暗黙の常識です。自分の命なのだから、どう生きようと勝手だろうということで、虚無的になったり、刹那的になったり、自己顕示的になったり、またこの世に残すのは“自分の”財産なのだから、それを煩ったりもするのです。でも果たして本当に死は無だとか、いのちは自分のものだという一見もっともらしく聞こえる考え方が、はたしてリアルな捉え方なのでしょうか。
山谷のホームレスホスピス『きぼうの家』を運営なさるカトリックの山本雅基先生、同じくカトリックの司祭で、大阪の釜ヶ崎において日雇い労働者の支援施設『ふるさとの家』を営まれる本田哲郎先生は、マザ-テレサの『死を待つ人々の家』に触発されて、行き倒れていのちを落とした家なき人たちを丁重に弔い、そのお骨を納骨堂に納める活動をされています。そうするとその墓前に、生前顔見知りだったたくさんのホ-ムレスや日雇い労働の方々やってきて、口々に『良かったな、良かったな』と涙を流して語るそうです。生前この世で住む家すら持てなかった仲間が、死んでやっと骨を納めてもらえて、安住と憩いの場を得ることが出来たという、喜びの思いからです。そしてなによりも、弔いにきた生ける人々に、この上ない大きな慰めと希望を与えるのです。もし死んだらすべてはお終いで無に帰するとするなら、死後の弔いや納骨など、何の意味があるのでしょうか。輪廻転生を本心から確信するチベット人たちにとっては、遺体は文字通り亡骸であって、もはやそれは魂の去った単なる物体でしかないために、そのしゃれこうべを平気で器や食器に使ったりします。ニヒリズムに徹してナチスは、強制収容所で没したユダヤの人々の遺骨や髪の毛などを、文字通り資材として活用しました。もし死が無なら、そうしたってなにも問題はないはずです。遺体などそのへんに転がしておくか、衛生上の理由で処理するかだけの話しです。しかし私たち日本人の心性では、そうはいかないのです。素直に自分の心を顧みる時、現代であっても死は無だと考える方が、どこかよっぽど無理があって不自然な捉え方になるのではないでしょうか。
いのちは自分のものだという考え方についても、同じことが言えます。もしいのちが私有財産のように自分だけのもので、1代限りで無に帰してしまうものなら、そもそも人類に文化の継承はなく、文明の発展もありません。人間ばかりではありません。あらゆる生き物が必死に生きて環境に適応しようとし、遺伝子の変異で有用なものは残していくことになります。そうした本能的ないのちの継承があるからこそ、進化があるのです。いのちはけっして孤立して、1代限りで終わるものなどではありません。いのちは受け継がれていきます。イエス・キリストもお釈迦様も、吉田松陰もガンジ-も、死んで終わりではありませんでした。むしろその死によって、時間と場所の制約を越えてはるか後世に至るまで、生きている時よりもよほど大きな影響力を及ぼし続けているのです。もちろん意識主体としての私たちが現実的に捉える生死の姿は、有限のいのちと私のものであるいのちです。朽ちて大地に返っていく屍や、けっして他者が代わることの出来ない自分の人生は、如実にその感性の正しさを物語ります。でもその一方で、私たちのいのちは、自分だけのものではなく生かされてある面もあり、また死をも越えて生き続ける側面もあるのです。そう考えた方が無理なく、自然なのではないでしょうか。実際私たちは、自分一人で無からこの世に生まれてきたわけではありません。父母からいのちを頂きました。そして20代も遡れば、私のいのちを生み出すためにいのちを受け渡したご先祖様の数は、なんと100万人以上にもなるのです。また現在生きている私のいのちを養うために必要な1杯の水、1粒の米も、たくさんの人々に支えられて提供されています。この私の体でさえ、私たちが意識してコントロ-ルできる中枢神経系など一部分にすぎず、多くは自律神経系によって無意識のうちに維持され、また100兆個もの微生物との共生によって私たちのいのちは維持されているのです。この事実の側面から見れば、私たちは生かされてあることを認めた方が無難なようです。そして、科学的事実がいくら死は無であるという現象を一方で突きつけようが、先ほども述べたように生死を超えたいのちのありようもリアルな現実で、じつはそれは、心の奥底では永遠のいのちを求める私たちの願いに合致しているのです。
さて、ここまで述べてきたことをまとめてみると以下のようになるでしょうか。合理的思考と科学の発達した現代、また私有財産制にもとづく財貨の価値が主要な価値となった現代においては、死んだら無に帰する、いのちは自分のものという捉え方こそがリアルな事実と映ります。死後のいのちや生かされてある感謝のいのちなど、現実には証明できない心のまやかしにすぎず、たとえそう信じて生きようとしても結局は無理があって、やがて非常な現実の前に挫折するだけだと理性が諭します。でも果たしてほんとうにそうでしょうか。むしろそんなふうに考える方がよほど無理があって、理性と称する合理的価値観の中に自由ないのちを押し込めるだけのことではないでしょうか。心を解き放って自由に見てみれば、いくらでも生死を超えるいのちや生かされてあるいのちの事実は見出されるのです。むしろ無理して窮屈に理性に閉じこもって考えるよりは、そもそも死やいのちには2面的な捉え方があって、生死を超えるいのちや、生かされてあるいのちもあるという考え方にも、市民権を与えれば良いのです。そして生死を超えるいのちや個々人を生かすいのちがあるという事実を主体的に受け止めて、いのちの継承のために責任ある自分のいのちを生きようとする時にこそ、1回限りの人生、自分だけのいのちをしっかり生きようという観念が出てくると受け止めれば良いのではないでしょうか。そう考えた方が無理が無く、生き方にも死に方にも自由な可能性が膨らんで、心が軽く嬉しくなってくるように思います。
それではそうした論点整理を踏まえて、どんな死の物語を描いていけば、私たちの生き方や社会・経済のあり方について、いのちの価値を体現した新たな可能性を見出していけるようになるのでしょうか。次回は伝統宗教の持つ2つの死の捉え方と日本仏教が描き出した素晴らしい死の物語を手掛かりに考えていければと思います。次いで葬儀や法要、終活や老いの生き方の可能性も明らかにし、成熟社会における新たな財貨の価値といのち価値を両立させたビジネスの模索も検討していってみたいと思います。前回に引き続き、9月29日火曜日のパンセの集いも、私の左目の手術のためにお休み致します。次回はもう10月に入って6日の火曜日となりますが、楽しみにお待ちください。
P.S. 悪化のひどかった右目の白内障の手術を終えました。驚いたことに、今右目で見る世界と、左目で見る世界が全く異なるのです。改めて世界とは何かということについて深く考えさせられております。この考察につきましては、また機会があれば皆さんにご報告したいと思っております。
皆 様 へ
いのちの力、そしていのちの価値について考えてきておりますが、その対極にあるのが死です。従って死について考え、それとの向き合い方を検討することは、逆にいのちを明らかにし、これからの時代をいのち価値にも配慮して生きるにあたって、何らかの示唆を与えるものと思われます。それでは死とはいったい何でしょうか。死は赤色の赤と同じように、もはや言葉や概念では定義できず、実例をもって直示的にしか示せないものです。ところが実例をもってと言っても、他人の死は経験できるのですが、自分の死は決して経験できないという厄介な性質を持っています。従って死をどのように感じ、どう受留めるかということは出来ても、死後の世界を経験的・科学的に実証することは出来ません。なぜ科学的に出来ないかというと、科学というのは人間の経験を検証し、その中である法則をもって再現するものだけを事実として共通了解する学問であるからです。従って、死の直前までは経験として検証できるので科学の対象となりますが、死後は経験できないことから、科学の対象とはならないのです。それならば死後を含めた死について考えられないのかというと、そんなことはありません。私たちは物理的には空間と時間の4次元の時空に生きているので、科学はその制約を受けますが、人間の意識はそれを超えていくことが出来るからです。
それでは、死についてどのように考えていけば良いのでしょうか。科学的に実証できず、真実はないのですから、論理的な形式を突き詰めて考えて解を得たところで、その解は意味を持ちません。なぜなら論理はいかようにも組み立てられるからです。仮に死は無だという結論を得たとしても、別の論理を組み立てれば、別の結論を得ることが出来るだけで、その真偽の検証のしようがありません。それならば、私たちが生きて生活しているという確かな地点に戻って、あくまでもその地点からどんな死の物語を描けば、私たちが安心して良く生きて行くことが出来るかと考えることの方が、私たちの生にとってはよほど意味のあることになってきます。こうした理由から、近代以降の合理主義と科学万能の世界にとっても、死だけは手出しの出来ない領域として残り、いわば宗教に残された最後の拠り所ということにもなっているのです。科学でも論理でもない物語、いわば神話の知で、死がどのように私たちの生を励まし、平穏にさせ、生きる指針を与えてくれることが出来るのか。またその神話が現在の私たちの求めをうまく言い表しており、たくさんの人たちに共有されることが可能となれば、個人の生き方ばかりでなく、社会全体のあり方についても、再考を促す契機ともなってきます。そんな視点から、死の問題を考えていってみたいと思います。
死んだらすべては無に帰する。物質文明における財貨の価値と科学の知にもとづいて生きる現代の私たちにとっては、死に対するこうした感性が優勢となっています。科学が、確かな再現性をもって物質現象の法則性を実証していくものですから、魂は不変で死んだら天国やお浄土に行く、あるいは地獄に行ったり輪廻転生するなどという思いは、証明する術の無い妄想として、私たちの心からその確信の基盤が崩れ落ちていってしまいました。本音では来世の存在に心が惹かれても、私たちの理性がもはやそんな迷妄を許容しないのです。
この結果どんなことが生じているのでしょうか。死が1つの終わりを画するということ自体は、大切な
観念です。生があれば必ず死があるという厳然たる事実は、逃れようがありません。だから私たちは、1度きりしかない人生を精一杯生きようとし、生が意味あるものとなっていきます。そして逆に、死があるからこそ生があるということも言えるようになるのです。歴史をつくった偉人たちも、ただいのちを永らえるというよりも、それをいかに使い切るかということを重視して濃密な人生を生きることを目指しました。とはいえ人生80年、ずっと精一杯生きているわけにも行かないのが私たち凡人です。その結果死の直前や死ぬような目に遭う時以外は、死を忘れていつまでも現在の状況が続くかのごとくに、能天気に怠惰で惰性的な日常を生きてしまうのです。そしてこの惰性の中から、やがて虚無感や刹那的な思いが頭をもたげてきます。死んだらすべては無に帰するのだから、どんなに一生懸命に生きた所で、ただ空しいだけ。人生そのものが無意味ではないか。あるいは、どうせ死んでお終いなのだから、せいぜいこの世を享楽的に精一杯楽しもうと刹那的になってしまったりするのです。
1度きりしかない人生を精一杯生き切ろうという姿勢自体にも、その生き方の目的によっては問題が生じてきます。これまで繰り返し申し上げてきましたが、近代以降の私有財産制にもとづく市場社会における人間の欲望の対象は、お金に象徴される財貨の富や、地位や名誉などの価値に向けられます。そして1度しかない人生を、この欲望に狂奔して“自己実現”を図ろうとする人たちが出てくるのです。現在終活と称して商業主義的に営まれる死の準備にあたっては、自分が“所有”する財産の相続対策と、葬儀までをも自分らしく自己顕示欲を示す場として営もうとすることに、努力が集中されます。しかし実際その様子をはたで見ていると、思わずその浅ましさに嫌悪を感じてしまいます。それでいて本来の終活になっているかというと、ちっともそんなことはありません。そんな準備をしていても、いよいよ死が迫ってきた折には、死の恐怖、孤独、無力感、自己喪失感などをぬぐうことが出来ず、財産を持つ人ほど死の直前まで財産分与の争いを心配し、煩いのうちに死んでいく人も少なくありません。
死の恐怖も克服できないし、生き方も空しかったり、刹那的だったり、浅ましかったり、惰性的だったりしてしまう。さていったい何が問題なのでしょうか。こうした死生観の前提になっているのが、死んだら無に帰するという観念と、そしてもう1つ、自分のいのちは自分のものという私有財産制に影響された暗黙の常識です。自分の命なのだから、どう生きようと勝手だろうということで、虚無的になったり、刹那的になったり、自己顕示的になったり、またこの世に残すのは“自分の”財産なのだから、それを煩ったりもするのです。でも果たして本当に死は無だとか、いのちは自分のものだという一見もっともらしく聞こえる考え方が、はたしてリアルな捉え方なのでしょうか。
山谷のホームレスホスピス『きぼうの家』を運営なさるカトリックの山本雅基先生、同じくカトリックの司祭で、大阪の釜ヶ崎において日雇い労働者の支援施設『ふるさとの家』を営まれる本田哲郎先生は、マザ-テレサの『死を待つ人々の家』に触発されて、行き倒れていのちを落とした家なき人たちを丁重に弔い、そのお骨を納骨堂に納める活動をされています。そうするとその墓前に、生前顔見知りだったたくさんのホ-ムレスや日雇い労働の方々やってきて、口々に『良かったな、良かったな』と涙を流して語るそうです。生前この世で住む家すら持てなかった仲間が、死んでやっと骨を納めてもらえて、安住と憩いの場を得ることが出来たという、喜びの思いからです。そしてなによりも、弔いにきた生ける人々に、この上ない大きな慰めと希望を与えるのです。もし死んだらすべてはお終いで無に帰するとするなら、死後の弔いや納骨など、何の意味があるのでしょうか。輪廻転生を本心から確信するチベット人たちにとっては、遺体は文字通り亡骸であって、もはやそれは魂の去った単なる物体でしかないために、そのしゃれこうべを平気で器や食器に使ったりします。ニヒリズムに徹してナチスは、強制収容所で没したユダヤの人々の遺骨や髪の毛などを、文字通り資材として活用しました。もし死が無なら、そうしたってなにも問題はないはずです。遺体などそのへんに転がしておくか、衛生上の理由で処理するかだけの話しです。しかし私たち日本人の心性では、そうはいかないのです。素直に自分の心を顧みる時、現代であっても死は無だと考える方が、どこかよっぽど無理があって不自然な捉え方になるのではないでしょうか。
いのちは自分のものだという考え方についても、同じことが言えます。もしいのちが私有財産のように自分だけのもので、1代限りで無に帰してしまうものなら、そもそも人類に文化の継承はなく、文明の発展もありません。人間ばかりではありません。あらゆる生き物が必死に生きて環境に適応しようとし、遺伝子の変異で有用なものは残していくことになります。そうした本能的ないのちの継承があるからこそ、進化があるのです。いのちはけっして孤立して、1代限りで終わるものなどではありません。いのちは受け継がれていきます。イエス・キリストもお釈迦様も、吉田松陰もガンジ-も、死んで終わりではありませんでした。むしろその死によって、時間と場所の制約を越えてはるか後世に至るまで、生きている時よりもよほど大きな影響力を及ぼし続けているのです。もちろん意識主体としての私たちが現実的に捉える生死の姿は、有限のいのちと私のものであるいのちです。朽ちて大地に返っていく屍や、けっして他者が代わることの出来ない自分の人生は、如実にその感性の正しさを物語ります。でもその一方で、私たちのいのちは、自分だけのものではなく生かされてある面もあり、また死をも越えて生き続ける側面もあるのです。そう考えた方が無理なく、自然なのではないでしょうか。実際私たちは、自分一人で無からこの世に生まれてきたわけではありません。父母からいのちを頂きました。そして20代も遡れば、私のいのちを生み出すためにいのちを受け渡したご先祖様の数は、なんと100万人以上にもなるのです。また現在生きている私のいのちを養うために必要な1杯の水、1粒の米も、たくさんの人々に支えられて提供されています。この私の体でさえ、私たちが意識してコントロ-ルできる中枢神経系など一部分にすぎず、多くは自律神経系によって無意識のうちに維持され、また100兆個もの微生物との共生によって私たちのいのちは維持されているのです。この事実の側面から見れば、私たちは生かされてあることを認めた方が無難なようです。そして、科学的事実がいくら死は無であるという現象を一方で突きつけようが、先ほども述べたように生死を超えたいのちのありようもリアルな現実で、じつはそれは、心の奥底では永遠のいのちを求める私たちの願いに合致しているのです。
さて、ここまで述べてきたことをまとめてみると以下のようになるでしょうか。合理的思考と科学の発達した現代、また私有財産制にもとづく財貨の価値が主要な価値となった現代においては、死んだら無に帰する、いのちは自分のものという捉え方こそがリアルな事実と映ります。死後のいのちや生かされてある感謝のいのちなど、現実には証明できない心のまやかしにすぎず、たとえそう信じて生きようとしても結局は無理があって、やがて非常な現実の前に挫折するだけだと理性が諭します。でも果たしてほんとうにそうでしょうか。むしろそんなふうに考える方がよほど無理があって、理性と称する合理的価値観の中に自由ないのちを押し込めるだけのことではないでしょうか。心を解き放って自由に見てみれば、いくらでも生死を超えるいのちや生かされてあるいのちの事実は見出されるのです。むしろ無理して窮屈に理性に閉じこもって考えるよりは、そもそも死やいのちには2面的な捉え方があって、生死を超えるいのちや、生かされてあるいのちもあるという考え方にも、市民権を与えれば良いのです。そして生死を超えるいのちや個々人を生かすいのちがあるという事実を主体的に受け止めて、いのちの継承のために責任ある自分のいのちを生きようとする時にこそ、1回限りの人生、自分だけのいのちをしっかり生きようという観念が出てくると受け止めれば良いのではないでしょうか。そう考えた方が無理が無く、生き方にも死に方にも自由な可能性が膨らんで、心が軽く嬉しくなってくるように思います。
それではそうした論点整理を踏まえて、どんな死の物語を描いていけば、私たちの生き方や社会・経済のあり方について、いのちの価値を体現した新たな可能性を見出していけるようになるのでしょうか。次回は伝統宗教の持つ2つの死の捉え方と日本仏教が描き出した素晴らしい死の物語を手掛かりに考えていければと思います。次いで葬儀や法要、終活や老いの生き方の可能性も明らかにし、成熟社会における新たな財貨の価値といのち価値を両立させたビジネスの模索も検討していってみたいと思います。前回に引き続き、9月29日火曜日のパンセの集いも、私の左目の手術のためにお休み致します。次回はもう10月に入って6日の火曜日となりますが、楽しみにお待ちください。
P.S. 悪化のひどかった右目の白内障の手術を終えました。驚いたことに、今右目で見る世界と、左目で見る世界が全く異なるのです。改めて世界とは何かということについて深く考えさせられております。この考察につきましては、また機会があれば皆さんにご報告したいと思っております。