ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.52『死はいのちの鉱脈、新しい死の神話を求めて2/2』

Oct 04 - 2015

■2015.10.4パンセ通信No.52『死はいのちの鉱脈、新しい死の神話を求めて2/2』

皆 様 へ

菅官房長官が、福山雅治さんと吹石一恵さんの結婚報道を機に、ママさんたちが子供産んで国家に貢献してくれればといったことを話し、また安倍首相は、新3本の矢の政策によって1億総活躍社会の実現などということを述べております。そこには国家への求心力と統制力を高めることによって、国と経済が強くなるというイデオロギ-が見て取れます。しかし果たしてそうでしょうか。現実にインドネシアでの新幹線受注では中国に敗れ、経済指標においても株価以外は悲惨な状態です。株価上昇も、アメリカの量的緩和によるバブルマネ-と年金や日銀、郵貯などの公的資金投入に依存するものにすぎません。恐ろしいことは、この劣化している現状をリアルに認識する目を失い、実体経済の数値や庶民の生活実感からの警告を無視して、アベノミクスは第2段階に入ったという妄想にうそぶき続けていることです。観念においては愛国なのですが、実体としては亡国、結果としての反日(日本の国益に反する)に至る典型的なパタ-ンです。

どうしてこんな状況に陥ってしまうのでしょうか。1つには、国家への求心力と統制を高めれば国と経済が強くなるというイデオロギ-に問題があって、その実効性を疑ってみる必要があるということです。その対極にあるのは、子供産むのも活躍するのも個人の自由という感性です。そしてその自由な感性こそが活力を養い、創造と革新を生むという実感です。実際に今先進国で唯一経済成長を遂げ、その需要で世界の経済を牽引するアメリカの原動力となっているのは、そうした価値観です。そしてその感覚は、今の私たち日本人のゆる~い感性にもフィットしているところがあるように思えます。それでは国家への求心力が無くて良いのかというと、もちろんそんなことはありません。こんなゆる~い感性を持った私たちでも、愛国心は持ち合わせています。ただ国粋主義者の使う“愛国心”とは中身が違います。自分の国、故郷を愛する気持ちを持つことは当然であって、民族が違っても、私たちと同様自分の国を愛する思いはみんな同じです。しかし、国粋主義者は違います。他国を排除することで、自国への求心力を高めようとこの言葉を用います。その意味では、長らく彼らに独占されてきた“愛国心”という言葉を、国粋主義から取り戻さねばならないでしょう。アメリカも多様な移民国家である性格上、愛国心を強調する国ですが、国粋主義ではありません。アメリカ人にとっては、アメリカに移り住む前の自分の先祖への誇りや愛情もあって、愛国心が複眼化されているからでしょう。ここに多様な民族の者が、多様な才能を自由に発揮して、いのちと暮らしを豊かに実現していく枠組みとしての国家と、そうした国家を誇り守る精神としての愛国心が形成されてきます。私たち日本人も、もう70年もアメリカに支配されてきたのですから、そろそろこの多元的な価値観も、遺伝子の中に組み込まれてきた頃ではないでしょうか。安直な国家主義の限界を打ち破って、異なる民族、異なる才能、思想、身体や知性の特性を持つお互い同士を尊重する“愛国心”の多元性・多様性から、国を強くし経済を発展させる道も考えてみられるのではないでしょうか。そんな視点をもって、私たちの人生と暮らし、そして日本を取り戻すための自由な価値観と社会経済の仕組みをも探っていってみたい思っております。しばらくお休みしておりましたが、パンセの集いを再開致します。次回のパンセの集いは、10月6日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。

さて、いのちの力を検討しつつ、財貨の価値といのちの価値との関わりを明らかにしようとしているパンセの集いの取り組みは、この多様性からの価値創造という課題にも、応えていけるものと思っております。前回からは、死の問題に向き合うことでいのちの価値を明らかにし、いのちの価値と財貨の価値の両立できる仕組みの糸口をつかもうと試みております。また前回にも申し述べたとおり、経験による検証不能な死の問題は、科学や合理の対象とならず、従ってどのような死の神話を描けば、私たちが死をただ恐れるばかりでなく意味あるものとし、また私たちの生をも励ますものとなるのかということを課題として取り上げてきております。現代の私たちは、目に見える現象面での事物連関の事実からだけで合理的に判断して、死は無、そしていのちは私が生きている限りという神話を描いております。しかしその神話が、けっして私たちの生も死も意味ある豊かなものにしないことは、前回見てきたとおりです。では現代以前の私たちの先人たちは、どのような死の神話を描いていたのでしょうか。それを伝統宗教の死生観から少し見ていければと思っております。

キリスト教も仏教も、死については2つのイメ-ジを描いています。まずキリスト教においては、滅びとしての死と永遠のいのちに至る死という2つの死を想定します。『欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す』ヤコブへの手紙1:15で聖書が語るように、キリスト教の死生観においては、死は何よりも罪の結果であり、それは永遠の滅びへと帰結していくものと捉えます。しかしその一方で、十字架によって死んだ主イエス・キリストの復活による、甦りのいのちとしての永遠のいのちが死の結果として想定されます。永遠のいのちというのは、まさに聖書が求める神の救済で、キリスト者が究極的に目的とするものです。一方仏教においても、煩悩のもとでの死による六道輪廻と、成仏または解脱に至る死との2つの死が想定されます。私たちが煩悩を脱しきれない限り、同じような過ちの人生を繰り返して苦悩し続け、それを克服(解脱)出来た時にようやく成仏あるいは涅槃(お大師様・弘法大師空海について語る言葉では入定)に至る死を迎えられるというものです。表現は違いますが、どちらも苦悩の死と救済の死という2つの死のパタ-ンを想定しています。この内容をよく吟味すると、キリスト教も仏教も、良いことをすれば天国または浄土に行け、悪いことをすれば地獄に堕ちるといったような、生死を断絶させて因果関係でとらえ、生の結果で死後が決まるというような捉え方では無いことがわかってきます。それは永遠のいのちというものが、必ずしも死後においてのみ得られるものではなく、主イエス・キリストの十字架の福音を受け入れて、罪赦されて悔い改のいのちに新たに生き始める時に、この世においても得られるものと考えるからです。同じく仏教においても、涅槃というのは、修行や瞑想によって三昧や禅定の境地に至ることによって、あるいはひたすら念仏を唱えることによって、この世においても体得することが出来るとしています。つまり生と死による断絶ではなく、生死を超えるいのちと、同じく生死を超える滅びと苦悩としての罪または煩悩という対立軸を想定しているのです。

この生死を超えるいのちと滅びという捉え方は、生における善行悪行の結果としての天国(極楽)・地獄としての死という捉え方と、いささか異なる生き方を私たちに求めさせることになります。後者においては、生はあくまでも死後天国に赴くための手段となり、脅迫的に善行を積む生き方を私たちに迫ってくることになります。しかし生涯を通じた善行など誰にも出来るものではなく、どこかで偽善とごまかしが生じることになります。またそんな手段としての生き方なんて、窮屈でまっぴらだという気もしてきます。一方前者においては、この世における今この瞬間の生き方で救いと解放が実現し、来世でなく現世で目的としてのいのちに生きることが出来る道が拓けてきます。そしてそのいのちに生きる時に、同時に私たちは生死を越えて続く永遠のいのちの中に生きることが出来、もはや死は滅びや恐れだけの対象では無くなってくるのです。逆に今この瞬間に永遠のいのちを求める生き方をしなければ、つまり求めもせず悟りもせずに今までどおりの生き方を続ける時には、私たちは自分の罪にも煩悩にも気づくことなく、永遠に愚かさを繰り返して苦悩と滅びに生き続けてゆくことになるのです。

それでは、この生死を超えるいのちとはいったい何なのでしょうか。それは主イエス・キリストやお大師様の生き方・死に方そのものに象徴的に現されてくることになります。主イエス・キリストは傷ついたり、悲しみや苦しみに生きる貧しい人々を癒し、そのいのちを立て直すために生涯を通して働き続けられました。普通私たちは、人を助けようとする時には、必ず助ける側に何らかの負担が生じてくることから、ある距離をとって、けっして負担が過重になりすぎないようにするものです。しかし主イエス・キリストは、自分のいのちに換えてまでも私たちを救おうとし、十字架の死を選び取られました。そして死して後も私たちを救い続けるために、復活して神の右に座し、時空を超えて永遠に私たちの罪をとりなしていのちへと導き続けているのです。これが永遠のいのちのイメ-ジです。またお大師様についても同じような物語が語られます。衆生の救済のためにその生涯を献げられたお大師様は、『虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん』性霊集巻第八、つまり宇宙が無くなり、人間は誰もいなくなり、悟りも無くなってしまうまで、人々のいのちの救済を求める私の願いは尽きないとのご請願を立てられて、高野山の奥の院に入定留身(にゅうじょうるしん)されたのです。入定留身というのは、身体を留めたままで禅定、つまり永遠のいのちの領域としての“死”に入られ、その永遠のいのちの世界から、あらゆる時と場所を選ばず、私たちの求めに応じて救いの手を差し伸べられるということです。

もちろんこれらのスト-リ-は、科学的な実証性も論理的な整合性も無い全くの物語ですが、1つには私たちの先人たちが、生死を超えるいのちというものをイメ-ジし、また2つ目にはその永遠のいのちというものが、私たちのいのちを救い続け励まし続ける存在であって、またそうした存在であるが故にこそ永遠であって欲しいという願いが込められていることが見てとれます。

このいのちの捉え方は、私たちがパンセの集いで求めてきたいのちの価値に通じるものがあり、またこうした永遠の救済としてのいのち捉え方を押さえておかないと、日本仏教において私たちの先人が練り上げてきた葬儀や年忌法要の豊な意味も、うまく理解できないものとなってきます。今後さらに引き続いて、葬儀や法要に込められた死の物語を尋ねつつ、私たちの生と死を豊かに育む成熟社会における生死の物語を考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、10月6日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。