ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.53『いのちの価値と成熟社会における死生観1/2』

Oct 13 - 2015

■2015.10.13パンセ通信No.53『いのちの価値と成熟社会における死生観1/2』

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『1人の死は悲劇でも、100万人の死は統計である』これは2,000万人もの自国民を、飢餓や粛清で死に追いやった旧ソ連邦の指導者スタ-リンの言葉です。なぜこの言葉を思い出したかというと、安倍内閣が安保法制で失った支持率挽回のために、新しい経済政策を打ち出したからです。それはアベノミクスの第2段階として、1億総活躍社会を目標とし、GDP600兆円、出生率1.8、介護離職0を政策手段として実現するというものです。いちいち安倍首相の批判をしていても仕方がないのですが、それでも問題点を3つほど指摘しておかなければならないでしょう。第1には、デフレ脱却を目標とした今までのアベノミクス3本の矢の政策(金融政策、財政政策、成長戦略)との関連がどうなっているのか不明で、またこれまでの3本の矢政策をどう総括したのかわからないということです。その評価がなければ、じつは第2段階に進みようが無いはずです。そして2つ目に、新しい3本の矢政策においては、GDP600兆円も、出生率1.8も、介護離職0も、これは目標であって政策手段ではないということです。目標でもって1億総活躍社会という目標を実現しようというのですから、いよいよ安倍政権の政治目標が現実性を失って妄想の度を深め、政策運営が劣化し、もはや妄想を掲げて悦にいって実際の目標実現はどうでもよいといった状況に入ってきているようです。本当に戦前の大東亜共栄圏や八紘一宇など、精神論ばかり掲げて現実的な実現手法が顧みられない状況が、彷彿とさせられますね。

これだけでも日本の将来は危ういのですが、致命傷なのは、安倍政権がスタ-リンのように国家全体とその統計からしか政治目標を立てる発想を持ち合わせていないということです。どうして生身の個人の生活実態から、政策を立案するという発想が持てないのでしょうか。例えばシングルマザ-でも困らぬように、最低年収300万円を実現する仕事や働き方の保証をするとか、誰もが子供を二人以上育てられて、老後保証の心配のいらない社会制度を設計するといったような、個人の暮らしを成り立たせる視点からの発想による政治経済政策です。老舗羊羹「とらや」の17代当主による赤坂本店一時休業の挨拶が話題を呼んでおりますが、その内容は、具体的な一人一人のお客様のご愛顧への感謝です。

https://www.toraya-group.co.jp/toraya/news/detail/?nid=76

この一人一人の人間に寄り添って事業を設計し運営することから、老舗といわれる強固な事業基盤が形成されているのが見て取れます。実際GDPのうち民間消費支出は6割以上を占め、またこの消費支出によって設備投資も影響されてくるのですから、全体の経済成長にとっていかに一人一人の消費の拡大が重要かは明らかなことです。もちろん本当のところどういう政策が私たちの暮らしと人生を良くするのかは、誰にもわかりません。しかし国家全体の統計から政策を考える方法が、これまでうまく成果を収めることが出来ていないのであれば、また強制力を強めて国家目標を実現しようとすれば、スタ-リニズムやナチズムや戦前の日本のように、国家のために個人の人生と生活が蹂躙される危険性もあるのであれば、その対極の個人の生活を成り立たせる視点から経済の仕組みを考え、その政策を立案して実際に試してみるのも1つの方法なのではないでしょうか。そんな一人一人のいのちと暮らしを成り立たせる視点から、ビジネスと政治経済政策を立案することについても、今後論点を整理し共に考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、10月13日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。

さて前回は、現代を生きる私たちに2つの死生観のあることを見てきました。1つは、いのちは私のもの(所有物)であってまた1回限りで、死んだらすべては無に帰するという死と生の観方です。これは科学と実証主義の支配する現代においては、最も自然な死と生に対する態度ということが出来るでしょう。この態度からは、1度きりしかない自分の人生なのだから精一杯生きようという姿勢も生まれてくるのですが、どうせ死んだら無なのだからと、虚無的になったり刹那的に人生を享楽しようという生き方にもつながっていきます。また自分の人生で得た経験の継承という点でも、自分だけで終わりの人生なのですから、意識的に目的化されてこない難点が出てきます。そこで昔は、この世で善を行えば天国(極楽)に行き、悪を行えば地獄に行くという戒めをつくり、その戒めの継承を図ったのですが、もはやそんなことを信じる基盤もすっかり失われてしまいました。その結果人生を律するものが無くなり、普段はすっかり死を忘れて惰性的に日常を繰り返すということが、反省する余地なく当たり前のこととしておこってきます。かつては、天国地獄の審判者でありうそをついたら舌を抜く怖い存在であった閻魔様がいて、日常生活でもその閻魔様を意識する緊張感があったのですが、その閻魔様は、今はいったいどこへ行かれてしまったのでしょうか。

もう1つの死を通じた生の観方は、生死を越えて生ける者を導く永遠のいのちがあってそのいのちに入っていくという意識と、生死に関わらず滅びに至るものとしての死があるという捉え方です。これは伝統宗教が教える死生観で、自然的な事実からは捉えにくい考え方であるものですから、今も昔もあまりよく意識されているものではありません。しかしその言わんとすることはけっして難しいものではなく、意識すれば誰にでも自分の中にあることに気づくことの出来るものなのです。例えば現代の視点から見れば、ナチスのユダヤ人迫害や、サイパンや沖縄において民間人までをも玉砕に追いやったかつての軍国日本の価値観は、誤りであったと言えるでしょう。このように時代の経過を経た上で始めて、何が誤りで何が本当に正しいことであったのかということの共通認識が、次第に得られてくるものがあります。また東芝やフォルクスワ-ゲンの粉飾決算や不正に見られるように、その企業の内部では正当化される論理であっても、もっと広い世間の視点から見れば、不正と見なされる価値観もあります。そうした歴史の経過を経て、またより普遍的な視野から見て、始めて正しかったあるいは真理だと認識されてくる価値観というものがあることはお解り頂けると思います。現代にまで積み重ねられてきたそうした価値観として挙げられるものには、一人一人のいのちの尊厳や自由、共生や自然の生態系との調和といったものがあるでしょう。総じて言えば、1つ1つのいのちの尊重と、全体としてのいのちの継承や繁栄などといったものが当てはまるのかもしれません。しかしこの価値は、その歴史の渦中にある時点においては、容易に見えてくるものではありません。実際に戦前の日本で、「いのち価値は大事で、お国のために死んではならない」などと唱えることは、至難の業だったことでしょう。それ故にこそその時点で、後の世になって始めて解ってくる普遍の価値に気づき、その価値に生きることの出来た者は、その後の歴史に大きな影響を及ぼし、その精神は後の世代にまで受け継がれることになるのです。お釈迦様やお大師様、イエス・キリストやガンジ-、それにキング牧師などはこうした人たちだったでしょう。この価値に生きることの出来た時、そのいのちは個人の死を超えて受け継がれ、後の世代を導き励ましていくことになるのです。そんな生死を越えた影響力を持つ、まさに意味と価値あるいのちがあるという感性を、言われてみればなんとなく自分も分かち持っていることにお気づき頂けるのではないでしょうか。もちろんこのいのちを生かす価値は、将来においてさらにその内実が鮮明になってくるものであって、歴史の各段階では常にその方向性やベクトルとしてしか表すことの出来ないものです。だからこそいつの時点でもそれは決して絶対的な完成されたものではなく、個別の肉体としての死とは別に私たちが人類として生きて繁栄していくために、そのいのちと価値を継承しさらに豊かに育んでいかなければならないものなのです。そしてこの価値のことを、これまでのパンセ通信の中では“いのち価値”という言葉で言い表してきたのです。

一方私たちがこのいのちの価値に気づくことが無く、狭い組織の価値観や時代の風潮に流されて生きて行く時に、私たちはさらなる事態の悪化を経験し、また戦前の大日本帝国のように破滅や滅びへと突き進んでいくことにもなっていくのです。これが滅びとしての死であり、生きていてもこの死の状態に暮らしていくことは往々にして生じます。残念ながら私たちの大多数は、いのちの価値に気づくこと無く生きていて、仮に気づいたとしてもその価値に生きられるための教えや戒律を守ることが出来ず、惰性的で無反省な“滅びの死”としての人生を送っていくことになるのです。このように容易には悔い改めていのち価値に生き直すことの出来ない私たちを、仏教では六道輪廻というイメ-ジで捉え、その悪循環の生の繰り返しから、永遠に解脱できない私たちの姿を垣間見せていくのです。

それではいのちの価値に生きられずに生涯を終える私たちは、ただ死の中に滅んでいくのかというと、そんなことはありません。そんな滅びの死をも救済する物語を練り上げていったのが、日本仏教のすごいところです。いのちに価値に気づくことなく、場合によっては悪徳の限りを尽くして生涯を終えた者に対しても、葬儀を行う場合には、そこで授戒を授け、戒名が与えられます。こうして死者は得度し、新しくいのちの価値に生きる者となって、生死の苦海を渡って彼岸を目指す者となります。つまり菩薩行に歩む存在となるのです。菩薩というのは、自ら修行を積みながらその修行の一環として人を教え導き、救うことを目的として歩む者で、やがて完全な救済者としての如来になることを目指します。この世に残る縁者・生者は、死者が菩薩行に精進できるように、現世から祈りをもって支えます。そのために仏壇を備え、毎日の勤行を行うのですが、それだけではなく年忌法要をも行って、追善供養をしていきます。そして3回忌が終わる頃には、菩薩行を積んでいた死者はその行を成就させて如来となり、今度は全霊をもって縁者・生者を救い導く存在となるのです。さらに33回忌を終える頃には、もはや個別の人格性をも消失させて祖霊と一体となり、生死を越えた次元で生きとし生けるあらゆるいのちを救済する大いなるいのちの力の流れとなっていくのです。

しかしこの物語は、私たち生者との応答関係の中で紡いでいくのでなければ、有効な意味を持ち得ません。この死者と生者との相関関係の中で紡がれる物語が、私たちにどのようにいのちの価値に気づかせ、その人生を豊かで意味と価値あるものにしていくかについては、引き続きパンセの集いで考えていく課題としたいと思います。次回のパンセの集いは、10月13日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。