■2015.10.18パンセ通信No.54『いのちの価値と成熟社会における死生観2/2』
皆 様 へ
TPP交渉が大筋合意に至りました。といっても、単なる外交交渉によってある方向性に合意を得たというだけのことで、それをこれから参加各国に持ち帰って議会で議論しなくてはなりません。それなのにすでに内容が決定したかのように報道され、政府は秋の臨時国会も開催せずに議会軽視でこの協定を進めていこうとしているのですから、相変わらず困ったものですね。安保法制の強行採決で自信を得た安倍政権は、原発稼働や辺野古埋め立てを含めていよいよ異なる意見や庶民の生活感情、さらには市場の冷めた反応にも耳を貸さず、自身の国家主義的理想を強行していくつもりのようです。とにかく自分の思うところを強力に推し進めていけば、戦前のように世論はつき従ってくるものと考えているようです。それならば私たちは、大地と暮らしに根づきながらいのちの価値に即した政策を描き、将来の世代によってより普遍的な視野から評価されるように、こつこつと現実づくりを進めていくだけのことでしょう。
以前にも紹介した軍兵六農園の小橋さんが、ブログを更新して成果を上げ始めてきた炭素循環農法について紹介しておられます。炭素循環農法というのは、自然がいのちを生かす仕組みに則った農法で、大地の活力を守り生態系の機能を強化していくものです。具体的には植物と微生物の共生に働きかけて、キノコ菌と同じ種である糸状菌を育てて、植物に最適な栄養分と水分を供給していく農法です。小橋さんは農園通信の中で、「慣行農法(農薬と化学肥料を投与する通常農法)や有機農法では、“野菜を育てる”という意識だが、炭素循環農法では、“微生物にエサやりをする”という意識の違いがある。」と述べておられます。微生物の多様性を引き出して畑と野菜を健康にし、その野菜が食べる人の体内に取り入れられることによって、今度はその人の身体と心にも大地の健康を移植し、いのちの力を共鳴させていく。こうして自然と人とのいのちの循環を円滑にして、多様性と調和によるいのちの力を高めていく農法なのです。
皆 様 へ
TPP交渉が大筋合意に至りました。といっても、単なる外交交渉によってある方向性に合意を得たというだけのことで、それをこれから参加各国に持ち帰って議会で議論しなくてはなりません。それなのにすでに内容が決定したかのように報道され、政府は秋の臨時国会も開催せずに議会軽視でこの協定を進めていこうとしているのですから、相変わらず困ったものですね。安保法制の強行採決で自信を得た安倍政権は、原発稼働や辺野古埋め立てを含めていよいよ異なる意見や庶民の生活感情、さらには市場の冷めた反応にも耳を貸さず、自身の国家主義的理想を強行していくつもりのようです。とにかく自分の思うところを強力に推し進めていけば、戦前のように世論はつき従ってくるものと考えているようです。それならば私たちは、大地と暮らしに根づきながらいのちの価値に即した政策を描き、将来の世代によってより普遍的な視野から評価されるように、こつこつと現実づくりを進めていくだけのことでしょう。
以前にも紹介した軍兵六農園の小橋さんが、ブログを更新して成果を上げ始めてきた炭素循環農法について紹介しておられます。炭素循環農法というのは、自然がいのちを生かす仕組みに則った農法で、大地の活力を守り生態系の機能を強化していくものです。具体的には植物と微生物の共生に働きかけて、キノコ菌と同じ種である糸状菌を育てて、植物に最適な栄養分と水分を供給していく農法です。小橋さんは農園通信の中で、「慣行農法(農薬と化学肥料を投与する通常農法)や有機農法では、“野菜を育てる”という意識だが、炭素循環農法では、“微生物にエサやりをする”という意識の違いがある。」と述べておられます。微生物の多様性を引き出して畑と野菜を健康にし、その野菜が食べる人の体内に取り入れられることによって、今度はその人の身体と心にも大地の健康を移植し、いのちの力を共鳴させていく。こうして自然と人とのいのちの循環を円滑にして、多様性と調和によるいのちの力を高めていく農法なのです。
小橋さんのプログは、http://blog.goo.ne.jp/gunbeiroku(9/8アップ文章)参照
炭素循環農法については、http://freett.com/tenuki/etc/home.htmlをご参照下さい。
さてあらゆるものにはメリットとデメリットがあるものであって、それはTPPについても同じでしょう。TPPがGATTやWTOの延長線上にあって、その行き詰まりを打開しようとするものであることは間違いありません。先進国が自国に有利な自由貿易を押しつけることによって、新興国と対立して破綻したWTOに対し、TPPはグロ-バル企業がリスクなく自由に企業活動ができるように、とりあえず抵抗の少ない国々を集めて、ブロック経済化しようという試みです。庶民の生活よりもグロ-バル企業の利益のための仕組みなのですからとんでもない協定なのですが、交易の自由度が高まること自体は私たちの生活にとって悪いことではありません。ただそのためには、すでに19世紀の始めにリカ-ドが明らかにしているように、各国それぞれの内部で比較優位な部門を持たねばなりません。それを交易することで高品質な財やサ-ビスの分かち合いが可能となり、各国が互いに生活水準を上げていくことが出来るようになるのです。小橋さんが炭素循環農法で行っているように、私たちも自分の身近なところからいのちの価値にもとづいて比較優位な事業を生み出していくことは可能でしょう。それがTPPを、域内の人たちの生活を豊かなものにしていく協定に変えていく道ともなっていくはずです。そんな仕事づくりを進めていける方策についても一緒に検討していくことが出来ればと思っております。次回のパンセの集いは、10月20日火曜日の16時からです。いつものように、表参道のフィルムクレッセントで行います。
さて前回、死は無であるという死の捉え方と、生死を越えたいのちと死があるという死生観のあることをお話ししました。後者は、生死を越えて私たちを励まし生かそうとするいのちのあり方と、生きていていても惰性と滅びの死の状態に暮らしてしまう生き方があるというものです。通常私たちは、現実におこる事象の観察から、私のものとして人生は1回限りで、死ねば生命は終わって無に帰すると考えています。それは全くそのとおりなのですが、そうした現実事象の次元での捉え方とは別に、私たちには意味と価値を求めて生きるという次元もあって、そのことは人間のいのちにとっては非常に重要な役割を持っています。ただ生きて死ぬというのではなく、せっかくこの世に生まれてきたのだから、意味のある人生を送りたい、そして尊厳をもって無駄ではない死を迎えたいと思うのです。そして確かに意味と価値ある人生をもって私たちがこの世の生を終えた時、その生き様はけっして無駄にはならず、次の世代の記憶に残り、人々のいのちを導き励まし続けるものとなっていくのです。こうして死は無に帰していくことなく、私たちは生死を越えたいのちへと旅立っていくことが出来るようになるのです。
ところが、生きて死ぬという避けられない確かな事実とは違って、意味と価値ある人生を誰もが送れるようになるかというと、必ずしもその保証はありません。むしろ惰性と過ちの繰り返しで一生を終えていくのが、大部分の私たちの人生です。生きている時から死んだような生き方をしていれば、当然その死にも意味と価値は見出せないでしょう。ところが、生者と死者の心豊かな応答によって、そんな私たちの死をも救済いのちへと立ち帰らせていくのが、前回紹介した日本仏教のすごいところです。
まず人が亡くなると、私たちは通夜を行います。通夜の目的は知人縁者が集い、酒食の力を借りながら故人の生前の姿を語り合うことです。いろいろな人たちのまだ生々しい記憶の中から、故人の様々な側面が浮かび上がってきます。そして葬儀は、死者にとっては得度し菩薩行を始める契機となり、生者にとっては告別と葬送(野辺送り)によって形式的にも死者がもう戻らないことを受け入れる時となります。そして四十九日を迎えることになるのですが、仏教ではこの間を中有または中陰と言い、死者が次の歩みを始めるまでの(転生して次の生を受けるまでの)生でも無く死でも無い期間と捉えます。生者にとってはこの期間は、愛する者を無くした悲しみを癒し、実質的に死を受け入れる時となるのです。悲しみと喪失感が癒えるためには、一定の時間がかかるということですね。従ってこの中陰の期間には、さらに7日毎に法要を行い、死者の往生を導くと共に生者の悲しみを次第に癒していく措置をとっていきます。その中陰法要の最初の七日目に行うのが初七日法要で、死者が三途の川に達した時とされています。
さてこの後法要は1周忌、三回忌、七回忌等々と続けられていくのですが、この間死者は、菩薩行(如来を目指して他者に功徳を施しながら修行していく)を積んでいきながら、三回忌の頃にはその行を成就させて、完全な救済者としての如来になっていきます。一方生者は、追善供養を施し、死者の菩薩行の成就を後押ししていきます。ところでこのことは、いったいどういう意味を持っているのでしょうか。死者が亡くなった当初にはおいては、私たちはまだ生前の死者の生々しい記憶を持っています。恨みつらみも多々あったことでしょう。ところが人間の記憶というのは不思議な性質を持っていて、時の経過と共に次第に思い出を浄化していくという機能があるのです。通夜の席でのリアルな思い出から比べて、三回忌ともなれば次第に恨みつらみも消えていって、良い部分や美しい部分だけが記憶として残っていくようになります。「あんな飲んだくれのお父さんだったけど、今思えば自分のことを親身に思っていてくれたんだな」と思えるようになってくるのです。そうなってくるためには、2~3年の時間がかかるということでしょう。こうして死者は、生者を導き、守り、そのいのち励ます存在となっていきます。誰にも経験のあることでしょうけれども、亡くなった祖父母や両親に、辛い時には思わず助けて、どうか私を守って下さいと求めるものですけれど、死者はそれに応えられる存在となっていくのです。死者とのこうしたいのちの応答が出来る人ほど、心の働きが豊かでいのちが浄化されていくと言えます。そして三十三回忌を迎える頃には、死者はもうその個別の人格を失って祖霊と一体となっていくのですけど、これは生者の側から見れば、死者が亡くなってから33年目ともなれば、もはやその死者を直接知る人も少なくなり、親族であってもその記憶は薄らいでいくということでしょう。もしまだ直接知る人もいて、その人を個別の人格として祀りたいのであれば、37回忌でも50回忌でも法要を重ねていけば良いのです。しかし世代が代わって死者を知る人がいなくなってくれば、すでに人を導き救う如来の存在となっている死者は、他の如来となった死者の霊と共に、生きとし生けるすべてのものを救う大きないのちの流れと一体となっていけば良いのです。(仏教ではこの存在のありようの転換のことを、仏(ほとけ)から神になると言い表したりもします。)
この日本仏教の死者の物語が優れているところは、生者との応答関係があって、現実に生きる者の生活と生き方に良い影響を及ぼすということです。生者は日々仏壇に手をあわせ、また法要の時に自分の救済者である死者に向かい合うという機会を、その生の営みの中で持てるようになります。私たちは生きていく中で、様々な価値観や思い込みを身につけてそれに拠り頼んで暮らしていくのですが、必ずしもその思い込みが私たちを良く生かすものとは限りません。あの人が嫌いだと思うとなかなかその思いが払拭出来ず、一緒にやればうまくいくものも出来なくなったりするのです。そんな私たちが如来となった死者と向き合う時、私たちは死者から、本当に自分のいのちを大事にしているのか、他者をも生かして生きる歩みを整えているのかと問われてくるのです。そして私たちは、様々な迷いや囚われを越えて素直に自分自身の本心を省みて、いのちの価値へと立ち戻り、意味と価値ある人生を歩む契機を提供されるようになってくるのです。こうして凡庸に人生を終えた死者の存在も、生者をいのち価値へと立ち戻らせることによって、また意味と価値ある確かなものとなってくるのです。
以上が私たち日本人の祖先が練り上げてきた、生死を越えていのちを励ます死の物語のイメ-ジです。この死の物語に力を得て、私たちはどう具体的に自分の人生にいのちの価値を与え、意味と価値あるものにして行けば良いのでしょうか。そのためにまず死に備える老いの生き方から考え、また生死を越えたいのちの価値を現す葬儀と法要のあり方についても考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、10月20日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 小橋さんの農園のある地域では、最近イノシシの被害が深刻なそうです。その原因の1つとして、天敵であるキツネの減少を挙げておられます。キツネというのは、日本の里山では生態系の食物連鎖の頂点に位置する動物で、それ故にこの国では、豊穣の神である稲荷神のシンボルとして祀られ、大事にされてきました。軍兵六農園の炭素循環農法が、微生物を活用することによって自然の生態系の力をより豊かに発揮させるように、私たちも昔の人たちのようにもっと自然から学び、自然のいのちの力を発揮させる智慧と技術を究めていきたいものですね。
さて前回、死は無であるという死の捉え方と、生死を越えたいのちと死があるという死生観のあることをお話ししました。後者は、生死を越えて私たちを励まし生かそうとするいのちのあり方と、生きていていても惰性と滅びの死の状態に暮らしてしまう生き方があるというものです。通常私たちは、現実におこる事象の観察から、私のものとして人生は1回限りで、死ねば生命は終わって無に帰すると考えています。それは全くそのとおりなのですが、そうした現実事象の次元での捉え方とは別に、私たちには意味と価値を求めて生きるという次元もあって、そのことは人間のいのちにとっては非常に重要な役割を持っています。ただ生きて死ぬというのではなく、せっかくこの世に生まれてきたのだから、意味のある人生を送りたい、そして尊厳をもって無駄ではない死を迎えたいと思うのです。そして確かに意味と価値ある人生をもって私たちがこの世の生を終えた時、その生き様はけっして無駄にはならず、次の世代の記憶に残り、人々のいのちを導き励まし続けるものとなっていくのです。こうして死は無に帰していくことなく、私たちは生死を越えたいのちへと旅立っていくことが出来るようになるのです。
ところが、生きて死ぬという避けられない確かな事実とは違って、意味と価値ある人生を誰もが送れるようになるかというと、必ずしもその保証はありません。むしろ惰性と過ちの繰り返しで一生を終えていくのが、大部分の私たちの人生です。生きている時から死んだような生き方をしていれば、当然その死にも意味と価値は見出せないでしょう。ところが、生者と死者の心豊かな応答によって、そんな私たちの死をも救済いのちへと立ち帰らせていくのが、前回紹介した日本仏教のすごいところです。
まず人が亡くなると、私たちは通夜を行います。通夜の目的は知人縁者が集い、酒食の力を借りながら故人の生前の姿を語り合うことです。いろいろな人たちのまだ生々しい記憶の中から、故人の様々な側面が浮かび上がってきます。そして葬儀は、死者にとっては得度し菩薩行を始める契機となり、生者にとっては告別と葬送(野辺送り)によって形式的にも死者がもう戻らないことを受け入れる時となります。そして四十九日を迎えることになるのですが、仏教ではこの間を中有または中陰と言い、死者が次の歩みを始めるまでの(転生して次の生を受けるまでの)生でも無く死でも無い期間と捉えます。生者にとってはこの期間は、愛する者を無くした悲しみを癒し、実質的に死を受け入れる時となるのです。悲しみと喪失感が癒えるためには、一定の時間がかかるということですね。従ってこの中陰の期間には、さらに7日毎に法要を行い、死者の往生を導くと共に生者の悲しみを次第に癒していく措置をとっていきます。その中陰法要の最初の七日目に行うのが初七日法要で、死者が三途の川に達した時とされています。
さてこの後法要は1周忌、三回忌、七回忌等々と続けられていくのですが、この間死者は、菩薩行(如来を目指して他者に功徳を施しながら修行していく)を積んでいきながら、三回忌の頃にはその行を成就させて、完全な救済者としての如来になっていきます。一方生者は、追善供養を施し、死者の菩薩行の成就を後押ししていきます。ところでこのことは、いったいどういう意味を持っているのでしょうか。死者が亡くなった当初にはおいては、私たちはまだ生前の死者の生々しい記憶を持っています。恨みつらみも多々あったことでしょう。ところが人間の記憶というのは不思議な性質を持っていて、時の経過と共に次第に思い出を浄化していくという機能があるのです。通夜の席でのリアルな思い出から比べて、三回忌ともなれば次第に恨みつらみも消えていって、良い部分や美しい部分だけが記憶として残っていくようになります。「あんな飲んだくれのお父さんだったけど、今思えば自分のことを親身に思っていてくれたんだな」と思えるようになってくるのです。そうなってくるためには、2~3年の時間がかかるということでしょう。こうして死者は、生者を導き、守り、そのいのち励ます存在となっていきます。誰にも経験のあることでしょうけれども、亡くなった祖父母や両親に、辛い時には思わず助けて、どうか私を守って下さいと求めるものですけれど、死者はそれに応えられる存在となっていくのです。死者とのこうしたいのちの応答が出来る人ほど、心の働きが豊かでいのちが浄化されていくと言えます。そして三十三回忌を迎える頃には、死者はもうその個別の人格を失って祖霊と一体となっていくのですけど、これは生者の側から見れば、死者が亡くなってから33年目ともなれば、もはやその死者を直接知る人も少なくなり、親族であってもその記憶は薄らいでいくということでしょう。もしまだ直接知る人もいて、その人を個別の人格として祀りたいのであれば、37回忌でも50回忌でも法要を重ねていけば良いのです。しかし世代が代わって死者を知る人がいなくなってくれば、すでに人を導き救う如来の存在となっている死者は、他の如来となった死者の霊と共に、生きとし生けるすべてのものを救う大きないのちの流れと一体となっていけば良いのです。(仏教ではこの存在のありようの転換のことを、仏(ほとけ)から神になると言い表したりもします。)
この日本仏教の死者の物語が優れているところは、生者との応答関係があって、現実に生きる者の生活と生き方に良い影響を及ぼすということです。生者は日々仏壇に手をあわせ、また法要の時に自分の救済者である死者に向かい合うという機会を、その生の営みの中で持てるようになります。私たちは生きていく中で、様々な価値観や思い込みを身につけてそれに拠り頼んで暮らしていくのですが、必ずしもその思い込みが私たちを良く生かすものとは限りません。あの人が嫌いだと思うとなかなかその思いが払拭出来ず、一緒にやればうまくいくものも出来なくなったりするのです。そんな私たちが如来となった死者と向き合う時、私たちは死者から、本当に自分のいのちを大事にしているのか、他者をも生かして生きる歩みを整えているのかと問われてくるのです。そして私たちは、様々な迷いや囚われを越えて素直に自分自身の本心を省みて、いのちの価値へと立ち戻り、意味と価値ある人生を歩む契機を提供されるようになってくるのです。こうして凡庸に人生を終えた死者の存在も、生者をいのち価値へと立ち戻らせることによって、また意味と価値ある確かなものとなってくるのです。
以上が私たち日本人の祖先が練り上げてきた、生死を越えていのちを励ます死の物語のイメ-ジです。この死の物語に力を得て、私たちはどう具体的に自分の人生にいのちの価値を与え、意味と価値あるものにして行けば良いのでしょうか。そのためにまず死に備える老いの生き方から考え、また生死を越えたいのちの価値を現す葬儀と法要のあり方についても考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、10月20日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
P.S. 小橋さんの農園のある地域では、最近イノシシの被害が深刻なそうです。その原因の1つとして、天敵であるキツネの減少を挙げておられます。キツネというのは、日本の里山では生態系の食物連鎖の頂点に位置する動物で、それ故にこの国では、豊穣の神である稲荷神のシンボルとして祀られ、大事にされてきました。軍兵六農園の炭素循環農法が、微生物を活用することによって自然の生態系の力をより豊かに発揮させるように、私たちも昔の人たちのようにもっと自然から学び、自然のいのちの力を発揮させる智慧と技術を究めていきたいものですね。