■2015.10.25パンセ通信No.55『終活-死の準備から始まるいのちの事業』
皆 様 へ
終活という言葉が普及してきました。自分の人生の終わりのために準備し、死に備えるというものです。これもまた成熟社会に向けての時代の変化を兆すもので、人々の求めるものが変化してきたことを示す良い事例でしょう。これまでの産業社会においては、商品生産の価値ばかりに目を奪われていたものですから、生産活動に貢献できない老いや死は活動的な生を妨げるものとして忌み嫌われ、その価値を剥奪されてきました。ですから人々が自分の人生の最期と死に目を向けるということは、産業社会から成熟社会に向けての移行にあたって、この一事だけでも産業社会の価値観をひっくり返すほどの意味を持っていることなのですけれど、残念ながら現状においてはまだまだコマ-シャリズムを脱するものではなく、十分なものとはなっていません。そこで今回は、終活の内容をよく見直してみることによって、コマ-シャリズの中にどういのちの価値を組み込んで、成熟社会に足りうる終活という事業モデルをつくっていくことが出来るのかについて、考えていってみたいと思います。今週のパンセの集いは、10月27日火曜日の16時から行います。場所はいつものように、表参道のフィルムクレッセントです。
さて終活には、厳密にいうと2つの内容が含まれています。1つは生前のうちに自分の手で自分の人生のけじめをつけておくように整理する作業で、もう1つは死に向き合うための準備をする作業です。現状の終活は生前整理に属する作業がほとんどで、エンディングノ-トを作成し、財産の処分や葬儀および墓所の準備を行い、家族への遺言やメッセ-ジを残します。また企業や団体で活動する人の場合には、自分亡き後の体制を整えておくことなども含まれてきます。このことは、自分の人生のけじめを自分でつけて、残された者に負担をかけないようにするためには、確かに重要なことです。しかしその一方で、死の恐怖や孤独を越えてどう死を穏やかに受け入れられるものとしていくか、また尊厳をもってけっして無駄にはならない死を迎えられるようにしていくのかという、死と向き合うための準備については、ほとんど顧みられない状況となっています。いやむしろ、そのことの重要性はよくわかっているのだけれども、意図的に考慮の対象から外して触れないようにしているようです。でも正気に戻って考えてみれば、死の準備というからには、生前整理なんかよりも死の恐怖や苦悩とどう向き合うかということの方が、よほど肝心なことがわかります。これでは死という戦場に向かう戦士が、故郷を後にする準備は入念に行うものの、肝心の戦場には剣も盾も持たず鎧もつけず、戦術さえも無しに出ていくようなもので、まことに滑稽きわまりません。どうしてこんな信じがたい事態が生じてしまっているのでしょうか。
このことは、これまでパンセ通信で考えてきた現代の死生観と関わるところが大きいでしょう。科学と合理主義、そして私的所有権と市場経済を常識とする現代社会においては、死は無であって、いのちは自分の所有物で1回限りという死生観が支配的です。従って自分のものである人生を、その終わりの時に自分でけじめをつけるのは当然のことで、さらにこの世での自分の意志を、本来自分が無となってしまっているはずの死後にまで押し延べようとする思いが出てきます。かくして終活によって、自分好みの墓所や仏壇がファッション感覚で選択され、葬儀に至っては最後の自分主役の自己顕示の場としての演出が企画されるに至ります。そのさまは、他人から見ればなんとも浅ましく嫌悪感を覚えるほどです。さらに財産や権力を持つ者は、それらの行使を残された者に指図して、死して後にまで自分の意志の実現を図ろうとします。昔流に言えば、こうした人は自己実現のための執着をこの世に強く残すのですから、成仏することなど出来なくなってしまいます。ですから考えようによっては、とんでもない終活を奨励する事態になってしまっているのです。しかし反面違和感無くこうした内容で終活が準備されていくのは、私たちが死でもって終わる現実経験の領域にしか意識を向けていないからであり、またマーケットが及んで金銭に換算できるサ-ビスを提供できるのが、生前整理の領域までであるからなのでしょう。死そのものを受け入れる準備は、本来は宗教がその役割を果たす領域でありました。しかし私たちの欲望が、科学と経済によって生み出される物質的な富の豊かさに魅入られている限りにおいては、人間が育んできもう1つの死生観である“生死を超えたいのちのあり様”など顧みられる余地もなく、宗教は実証性に乏しい世迷言としてすっかり退けられてしまっているです。
しかし今再び、私たちの求めは物質的な富ばかりではなく、いのちの豊かさへとも向かい始めています。1つには環境資源の制約によって、私たちの物質的な欲望が無尽蔵に許容されないことが意識され始めてきたからでしょう。また価値が物質的な富に一元化された現代のような社会にあっては、富める者、成功・出世した者を勝ち組として、そうでない者を負け組とする一次元的な序列に私たちを封じ込めてしまうために、人生が平板で息苦しいものとなってしまいます。その結果、異なる価値観による評価の自由によって、重層的な生の豊かさを享受することが困難となっていることにも、私たちが気づき始めてきたからなのでしょう。貧乏でも人格の優れた人なら、お金持ち以上に評価されて良いはずです。おたくも引き籠りも評価すべき点はあるでしょう。こうして今や私たちは、近代以降500年近くにわたって続いてきた財貨の富、産業経済の成長の呪縛から、ようやくのこと解き放たれつつあるのです。
現在終活において、死の恐怖や孤独への備えが対象とされずにうやむやにされているのは、宗教を失ったがためにその対処の方法を見出せなくなっているからであり、けっして死への備えの求めそのものが無くなったからではありません。むしろその求めは人間存在の根幹に関わる不安と怯えに由来するものである以上、切実なものでもあるはずです。それが宗教の智慧のような、その答えを求めるための考え方の筋道を放棄してしまったために、この求めは行き場を失い、終活においても触れられないままに放置されてしまったのです。科学や実証ではこの求めに答えられません。ただ生死を越えるいのちの物語だけが、死の不安を宥め、死に価値を与えることが出来るのです。
それでは私たちは、具体的に死の不安と恐怖にどう対処し、それにどう備えて行けば良いのでしょうか。死後のことは誰にもわかりませんが、死がなぜ不安と恐怖を私たちに与えるのかということについては、考えてみることが出来るテーマです。まず第1に死の身体的苦痛があります。病気でも怪我でも、死の直前は激しい苦痛が伴います。まして火あぶりの刑や切腹などに処せられた場合には、たまったものではありません。しかしこの領域は死の直前までのことですから、医学などの実証科学が対象とする範疇に入ってきます。そして最近の研究では、本来の老衰などによる死の場合には、身体の細胞や器官が自然にその機能を落としていき、緩慢な死の準備よる衰えの中で自然な死を迎えられることがわかってきました。また死のまさに直前では、脳内でセロトニンやオキシトシン、さらにはエンドルフィンといった物質が分泌され、激痛の中にあってもその痛みが和らげられ、平安のうちに死を迎えられることもわかってきたようです。これも人間の求めが変わってきて、苦痛ではなく安らぎのうちに死を迎えたいという切なるニ-ズが、こうした人間の身体にビルトインされていた死に際しての機能を、実証的に明らかにしてきているのでしょう。さて死に際しての第2の不安は、一人未知の世界に旅立つ孤独の恐怖です。そして第3、第4は、生きている者との関係が永久に断たれ、もう何もしてあげたりしてもらったりすることの出来ない悲しさと、もはや自分の存在が無くなり、いかなる可能性にも生きることが出来なくなるという無力感・喪失感の苦しみです。この第2から第4までの死に際しての不安と苦痛の原因は、第1の死の身体的苦痛に対して、精神的苦痛あるいは魂の苦痛と言うことが出来るのかもしれません。
こうした死の精神的苦痛に対応していくためには、ここ何回かのパンセ通信で述べてきた“生死を越えたいのちのあり方がある”という死生観にもとづくのでなければ、なかなか有効な解答を見出すことが出来ません。生者との応答の中で、私たちは死んでも生者を導き、永遠にいのちを励ます力となっていくことが出来る。この時死は、もはや無意味で無力な虚無の存在ではなく、私たちは死において安らかに眠りつつも、生者を励ますいのちの力となり、死はいのちの価値を育む意味と価値を持つものとなっていくのです。
さてこのように私たちは、死の不安と恐怖に備えるための端緒となる考え方を整理してきました。現在終活で行われている生前整理はきわめて有効なものであり、時を経るにつれてそのサービスの質を高めてきてはいます。ですからそれに加えて終活に、現時点では対応しきれていない死の備えを増し加えて完璧なものとしていけば、その市場性はきわめて高いものとなってくるはずです。死の備えへの本源的ニ-ズがあるのですから、当然のことでしょう。しかもこの時終活は、単に財貨の価値を供与するサ-ビス商品に留まるのみならず、死への備えを通じていのちの価値をも供与し、いのちの力を高めるサービス商品ともなっていくことでしょう。そうした財貨の価値といのち価値の両方を内包した商品のあり方こそが、成熟社会における商品の進化であり、新たな市場と経済を拓いていくものとなっていくはずです。終活がそんな市場性といのちの価値を兼ね備えたサービスとなっていけるように、更に葬儀や墓(年忌法要については前回少し触れました)のあり方、そして老いの意味と機能をもいのちの価値の原点から捉え直し、その市場価値をさらに高めていけるように検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは、10月27日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
終活という言葉が普及してきました。自分の人生の終わりのために準備し、死に備えるというものです。これもまた成熟社会に向けての時代の変化を兆すもので、人々の求めるものが変化してきたことを示す良い事例でしょう。これまでの産業社会においては、商品生産の価値ばかりに目を奪われていたものですから、生産活動に貢献できない老いや死は活動的な生を妨げるものとして忌み嫌われ、その価値を剥奪されてきました。ですから人々が自分の人生の最期と死に目を向けるということは、産業社会から成熟社会に向けての移行にあたって、この一事だけでも産業社会の価値観をひっくり返すほどの意味を持っていることなのですけれど、残念ながら現状においてはまだまだコマ-シャリズムを脱するものではなく、十分なものとはなっていません。そこで今回は、終活の内容をよく見直してみることによって、コマ-シャリズの中にどういのちの価値を組み込んで、成熟社会に足りうる終活という事業モデルをつくっていくことが出来るのかについて、考えていってみたいと思います。今週のパンセの集いは、10月27日火曜日の16時から行います。場所はいつものように、表参道のフィルムクレッセントです。
さて終活には、厳密にいうと2つの内容が含まれています。1つは生前のうちに自分の手で自分の人生のけじめをつけておくように整理する作業で、もう1つは死に向き合うための準備をする作業です。現状の終活は生前整理に属する作業がほとんどで、エンディングノ-トを作成し、財産の処分や葬儀および墓所の準備を行い、家族への遺言やメッセ-ジを残します。また企業や団体で活動する人の場合には、自分亡き後の体制を整えておくことなども含まれてきます。このことは、自分の人生のけじめを自分でつけて、残された者に負担をかけないようにするためには、確かに重要なことです。しかしその一方で、死の恐怖や孤独を越えてどう死を穏やかに受け入れられるものとしていくか、また尊厳をもってけっして無駄にはならない死を迎えられるようにしていくのかという、死と向き合うための準備については、ほとんど顧みられない状況となっています。いやむしろ、そのことの重要性はよくわかっているのだけれども、意図的に考慮の対象から外して触れないようにしているようです。でも正気に戻って考えてみれば、死の準備というからには、生前整理なんかよりも死の恐怖や苦悩とどう向き合うかということの方が、よほど肝心なことがわかります。これでは死という戦場に向かう戦士が、故郷を後にする準備は入念に行うものの、肝心の戦場には剣も盾も持たず鎧もつけず、戦術さえも無しに出ていくようなもので、まことに滑稽きわまりません。どうしてこんな信じがたい事態が生じてしまっているのでしょうか。
このことは、これまでパンセ通信で考えてきた現代の死生観と関わるところが大きいでしょう。科学と合理主義、そして私的所有権と市場経済を常識とする現代社会においては、死は無であって、いのちは自分の所有物で1回限りという死生観が支配的です。従って自分のものである人生を、その終わりの時に自分でけじめをつけるのは当然のことで、さらにこの世での自分の意志を、本来自分が無となってしまっているはずの死後にまで押し延べようとする思いが出てきます。かくして終活によって、自分好みの墓所や仏壇がファッション感覚で選択され、葬儀に至っては最後の自分主役の自己顕示の場としての演出が企画されるに至ります。そのさまは、他人から見ればなんとも浅ましく嫌悪感を覚えるほどです。さらに財産や権力を持つ者は、それらの行使を残された者に指図して、死して後にまで自分の意志の実現を図ろうとします。昔流に言えば、こうした人は自己実現のための執着をこの世に強く残すのですから、成仏することなど出来なくなってしまいます。ですから考えようによっては、とんでもない終活を奨励する事態になってしまっているのです。しかし反面違和感無くこうした内容で終活が準備されていくのは、私たちが死でもって終わる現実経験の領域にしか意識を向けていないからであり、またマーケットが及んで金銭に換算できるサ-ビスを提供できるのが、生前整理の領域までであるからなのでしょう。死そのものを受け入れる準備は、本来は宗教がその役割を果たす領域でありました。しかし私たちの欲望が、科学と経済によって生み出される物質的な富の豊かさに魅入られている限りにおいては、人間が育んできもう1つの死生観である“生死を超えたいのちのあり様”など顧みられる余地もなく、宗教は実証性に乏しい世迷言としてすっかり退けられてしまっているです。
しかし今再び、私たちの求めは物質的な富ばかりではなく、いのちの豊かさへとも向かい始めています。1つには環境資源の制約によって、私たちの物質的な欲望が無尽蔵に許容されないことが意識され始めてきたからでしょう。また価値が物質的な富に一元化された現代のような社会にあっては、富める者、成功・出世した者を勝ち組として、そうでない者を負け組とする一次元的な序列に私たちを封じ込めてしまうために、人生が平板で息苦しいものとなってしまいます。その結果、異なる価値観による評価の自由によって、重層的な生の豊かさを享受することが困難となっていることにも、私たちが気づき始めてきたからなのでしょう。貧乏でも人格の優れた人なら、お金持ち以上に評価されて良いはずです。おたくも引き籠りも評価すべき点はあるでしょう。こうして今や私たちは、近代以降500年近くにわたって続いてきた財貨の富、産業経済の成長の呪縛から、ようやくのこと解き放たれつつあるのです。
現在終活において、死の恐怖や孤独への備えが対象とされずにうやむやにされているのは、宗教を失ったがためにその対処の方法を見出せなくなっているからであり、けっして死への備えの求めそのものが無くなったからではありません。むしろその求めは人間存在の根幹に関わる不安と怯えに由来するものである以上、切実なものでもあるはずです。それが宗教の智慧のような、その答えを求めるための考え方の筋道を放棄してしまったために、この求めは行き場を失い、終活においても触れられないままに放置されてしまったのです。科学や実証ではこの求めに答えられません。ただ生死を越えるいのちの物語だけが、死の不安を宥め、死に価値を与えることが出来るのです。
それでは私たちは、具体的に死の不安と恐怖にどう対処し、それにどう備えて行けば良いのでしょうか。死後のことは誰にもわかりませんが、死がなぜ不安と恐怖を私たちに与えるのかということについては、考えてみることが出来るテーマです。まず第1に死の身体的苦痛があります。病気でも怪我でも、死の直前は激しい苦痛が伴います。まして火あぶりの刑や切腹などに処せられた場合には、たまったものではありません。しかしこの領域は死の直前までのことですから、医学などの実証科学が対象とする範疇に入ってきます。そして最近の研究では、本来の老衰などによる死の場合には、身体の細胞や器官が自然にその機能を落としていき、緩慢な死の準備よる衰えの中で自然な死を迎えられることがわかってきました。また死のまさに直前では、脳内でセロトニンやオキシトシン、さらにはエンドルフィンといった物質が分泌され、激痛の中にあってもその痛みが和らげられ、平安のうちに死を迎えられることもわかってきたようです。これも人間の求めが変わってきて、苦痛ではなく安らぎのうちに死を迎えたいという切なるニ-ズが、こうした人間の身体にビルトインされていた死に際しての機能を、実証的に明らかにしてきているのでしょう。さて死に際しての第2の不安は、一人未知の世界に旅立つ孤独の恐怖です。そして第3、第4は、生きている者との関係が永久に断たれ、もう何もしてあげたりしてもらったりすることの出来ない悲しさと、もはや自分の存在が無くなり、いかなる可能性にも生きることが出来なくなるという無力感・喪失感の苦しみです。この第2から第4までの死に際しての不安と苦痛の原因は、第1の死の身体的苦痛に対して、精神的苦痛あるいは魂の苦痛と言うことが出来るのかもしれません。
こうした死の精神的苦痛に対応していくためには、ここ何回かのパンセ通信で述べてきた“生死を越えたいのちのあり方がある”という死生観にもとづくのでなければ、なかなか有効な解答を見出すことが出来ません。生者との応答の中で、私たちは死んでも生者を導き、永遠にいのちを励ます力となっていくことが出来る。この時死は、もはや無意味で無力な虚無の存在ではなく、私たちは死において安らかに眠りつつも、生者を励ますいのちの力となり、死はいのちの価値を育む意味と価値を持つものとなっていくのです。
さてこのように私たちは、死の不安と恐怖に備えるための端緒となる考え方を整理してきました。現在終活で行われている生前整理はきわめて有効なものであり、時を経るにつれてそのサービスの質を高めてきてはいます。ですからそれに加えて終活に、現時点では対応しきれていない死の備えを増し加えて完璧なものとしていけば、その市場性はきわめて高いものとなってくるはずです。死の備えへの本源的ニ-ズがあるのですから、当然のことでしょう。しかもこの時終活は、単に財貨の価値を供与するサ-ビス商品に留まるのみならず、死への備えを通じていのちの価値をも供与し、いのちの力を高めるサービス商品ともなっていくことでしょう。そうした財貨の価値といのち価値の両方を内包した商品のあり方こそが、成熟社会における商品の進化であり、新たな市場と経済を拓いていくものとなっていくはずです。終活がそんな市場性といのちの価値を兼ね備えたサービスとなっていけるように、更に葬儀や墓(年忌法要については前回少し触れました)のあり方、そして老いの意味と機能をもいのちの価値の原点から捉え直し、その市場価値をさらに高めていけるように検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは、10月27日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。