■2015.11.29パンセ通信No.60『慰めと再生のセレモニー - 葬儀を考える1/2』
皆 様 へ
最初にご連絡ですが、12月から皆さんのご要望により、月に1回程度のペ-スで故 相澤 徹 さんの製作された映画作品を鑑賞する会を、パンセの集いの中で設けていきたいと思います。そこで早速ですが、次回12月1日(火)のパンセの集いから、映画鑑賞の会を開始することと致します。第1回は、いじめ問題を取り扱った『かかしの旅』という映画の上映を予定しております。単なるいじめの告発映画ではなく、現代にも通じる普遍的価値を持っているのが相澤作品の特徴で、往年の日本映画の良質な伝統を受け継いでいます。また制作スタッフにも日本映画を支えたベテラン陣を配して、堅実な映像に仕上げられているので、ご鑑賞をお楽しみ頂けるのではないかと思います。映画会の開始は16時からで、その後に今回からのテ-マである葬儀の持つ意味と価値について考えていければと思っております。
さて本題に入りますが、人の死は予測することが出来ません。事故などによる突然の死もあれば、長きにわたる闘病生活の果ての死もあります。しかしいずれにしても死の瞬間は、誰にも予測することが出来ないものです。このために死者を弔う葬儀も、十分な準備の暇などなく、葬儀屋さんの手慣れた段取りによって何がなんだかわからないうちに終わっていくのが常となっています。昨今では少子高齢化や人間関係の希薄化、そして高額な費用の問題もあって、葬儀を行わず火葬のみを行う直葬が増え、都市部においては葬儀全体の1/5にまで及んでいると言われています。確かに合理的に考えてみれば、特に高齢になって友人知人もいなくなり、ましてや会社関係などの取引先への配慮も必要のない状況ともなれば、葬儀など行っても無駄だと思えなくもありません。しかしその一方で、葬儀を行わないことに言いようの無い空しさと恐れを覚えてしまうのも、私たちの偽らざる気持ちでしょう。それでは果たして葬儀とは何で、それは本当に行わなければならないものなのでしょうか。いずれにせよ今後は、高齢化の進展とあいまって死者の数も増大し、葬儀のような人の死を司る何らかの対応の機会が増えていくのは確かでしょう。また葬儀が営まれるとしても、出来るだけ多くの人に弔ってもらうのではなく、家族葬や本葬を伴わない密葬などの形で簡素化され、費用も節減されて明朗化していくことは間違いの無いことのように思われます。今回はそんな昨今の葬儀の動向も勘案しながら、私たちが生きるにあたっての葬儀の持つ意味を、生者と死者の両方の観点から考えていってみたいと思います。今週のパンセの集いは、11月24日火曜日の16時からです。場所はいつものように表参道のフィルムクレッセントで行います。
ところで葬儀というのは、通夜から始まり、葬式、告別式、出棺、葬送(野辺送り)、火葬(埋葬)、までの一連の弔いのプロセスのことを指し、その後に初七日、そして四十九日までの忌明け、一周忌、三回忌などの年忌法要が続きます。それでは私たちは、何故葬儀を行うようになったのでしょうか。愛する家族や共に苦楽を共にして生きてきた人間が亡くなった時、私たちは深い悲しみや喪失感に襲われます。それは可能性に生きる存在である私たちが、もう二度とその人と一緒に泣いたり笑ったりすることが無く、新しい可能性を共につくって行くことが出来なくなるという絶望感があるからです。亡くなった人が親しければ親しいほど、その人と紡げたはずの自分自身の可能性までも摘み取られ、これからどうやって生きていけば良いかのかさえ判らくなってしまいます。しかし人が生きていくためには、この悲しみを乗り越えていかなければなりません。そのためには悲しみが受け止められ、癒され、そして共に生きた人の喪失を埋める新たな関係を編み直して、再び歩み出していけるようにならなければなりません。葬送のための一連の儀式は、根底的にはこの残された者の悲しみを癒し、死を通じて生を深く見つめ直し、新たな歩みの契機と力を与えていくためのものであることを、まずしっかりと押さえておかなければならないでしょう。
そこでまず順を追って見ていきたいのですが、悲しみが癒されるための最初は、誰かに悲しみがしっかりと受け止められることが必要です。人間は一人では悲しみを乗り越えられないものだからです。本当に深い悲しみにある時は、人は思いっきり涙を流して、心の底から嘆かなければなりません。しかしそれが出来るためには、その悲しみを受け止めてくれる人が必要となるのです。自分の悲しみを受け止めてくれる人が誰もいない時、人はそんなつれない世を恨むか、悲しみや憂いから脱することが出来ないままに虚しさ中に沈み込んで、枯れた涙の上に冷たくひきつった笑いを浮かべることしか出来なくなってしまいます。だからこそ縁のある者が集まって、悲しみを受け止め、悲しみを分かち合う時と場を設けなければならないのです。これが葬儀を行うようになった第1の理由でしょう。
同時に残された者は、死者に対して言いようのない至らなさや申し訳なさを覚えるものです。もっとこうしてあげていれば良かったのに、あの時は悪いことをしてしまった、これから一緒に良くしていこうと考えていた矢先だったのになどと思っても、今となってはもうどうしようもありません。そんな思いの丈の数々を、最後に精一杯のことをしてあげることでなんとか整理したい、償いたいという思いが湧き起ってきます。これが弔いの心というものです。亡くなった人に対する悔悟の思いを何とか処理し、哀悼の思いを表すのでなければどうにも気が済まない、前に進めない。これが葬儀を行うことの第2の理由でしょう。こうした弔いの機会を持つことも、残された者が悲しみや悔みを癒して慰められるためには、やはり必要なことなのです。通夜というのは、このために故人と現世での最後の夜を共にして、せめてのもの心尽くしを行う時です。葬儀の時に故人の遺品を飾ったり、柩の中に故人の愛用品を納めたりするのも、同じ心の現れでしょう。
さて悲しみが受け止められて分かちあわれ、死者への悔悟の念を整理した後には、いよいよはっきりと愛する者の死の事実を受け入れなければなりません。それが僧侶や聖職者によって執り行われる葬式です。死の事実を受け入れるためには、死者にとっても残された生者にとっても、納得のいく死の世界の物語が語られ、故人がそこへと旅立つ手続きが施されなければなりません。それが葬式の意味するところです。次いで遺族自らが参列者の前で個人に別れを告げる。それが告別式です。このように残された者が故人の死の事実を受け入れ、別れを告げることも生死の区切りを明確につけるためには非常に大切なことで、これが葬儀を行う第3の理由となってきます。
こうして葬儀は、遺族の慰めの段階から死の受け入れ、そして新たな歩み出しへと向けて進んでいくのですが、告別式の次に行うのが出棺と葬送です。葬送はかつて葬儀の中でもっとも重要な意味を持ち、力が注がれたイベントでした。今でも海外では、泣き女や楽隊なども繰り出して葬送のパレ-ドが盛大に繰り広げられる地域は少なくありません。僧侶による葬式の執行が一般化する以前の日本の庶民の暮らしにおいても、葬儀といえば野辺送り(葬送)のことを意味していたほどでした。今では道路交通の事情もあり、出棺の際に縁者が故人の柩を持ち運ぶことによって、この機能は置き換えられています。故人を生者の世界から死者の世界へと旅出せるために墓での埋葬へと送り出す葬列は、葬式の形式的な儀礼などよりもよほど現実的な肉感をもって、生ける者に故人の死を実感させたことでしょう。そしてそれに次ぐ埋葬や火葬は、死者がもうどんなことをしてもこの世には戻ってこないということ、つまり死者との永遠の別れをこの上なく明確なものとします。この故人を死出の旅立ちへと送り出し、もう戻らないことを明確にすることが、葬儀を行う第4の理由です。
ところで現代では葬送の後に火葬が行われ、納骨は四十九日の法要の時に行われるのが一般的です。しかしこの間も、初七日、二七日(ふたなぬか)、三七日(みなぬか)と七日ごとに七七日(なななぬか=四十九日)まで追善供養(遺族の祈りによって故人の善行を足していくこと)を施していきます。悲しみが癒えるためにはある一定の時間が必要だからです。故人を失った遺族の悲しみが次第に癒えていくためには、このような手続きによって時間の経過を意識していくことが必要だということでしょう。こうして残された生者は、時の経過とともに悲しみを癒し、故人の喪失を埋めて新しい関係を紡ぎ直す力を得て、生きなおしを始めていくのです。そしてこのことこそが、一連の葬儀のプロセスを行う最も重要な理由で、残された者の癒しと再生、そして新たな歩み出しを演出することが葬儀の持つ第5の意味となってくるのです。
以上葬儀を行う生ける者にとっての理由を見てきましたが、じつはこれは葬儀の持つ意味のほんの一面でしかありません。死による故人の喪失を通じて、生ける者に豊かないのちの力を与える葬儀の持つ意味の全体を理解するためには、今度は死者の立場からみた葬儀の意味、生者と死者との応答、そしてこの応答を通じて生者のいのちも死者のいのちも確かに励まされる死の物語を見ていかなければなりません。それについては、来週のパンセ通信で考えていってみたいと思います。今週のパンセの集いは、冒頭でも申し上げたように、故 相澤 徹 さんが制作された映画『かかしの旅』の上映会と、生きる者にとっての葬儀の意味を検討していきたいと思います。開催日は11月24日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。
皆 様 へ
最初にご連絡ですが、12月から皆さんのご要望により、月に1回程度のペ-スで故 相澤 徹 さんの製作された映画作品を鑑賞する会を、パンセの集いの中で設けていきたいと思います。そこで早速ですが、次回12月1日(火)のパンセの集いから、映画鑑賞の会を開始することと致します。第1回は、いじめ問題を取り扱った『かかしの旅』という映画の上映を予定しております。単なるいじめの告発映画ではなく、現代にも通じる普遍的価値を持っているのが相澤作品の特徴で、往年の日本映画の良質な伝統を受け継いでいます。また制作スタッフにも日本映画を支えたベテラン陣を配して、堅実な映像に仕上げられているので、ご鑑賞をお楽しみ頂けるのではないかと思います。映画会の開始は16時からで、その後に今回からのテ-マである葬儀の持つ意味と価値について考えていければと思っております。
さて本題に入りますが、人の死は予測することが出来ません。事故などによる突然の死もあれば、長きにわたる闘病生活の果ての死もあります。しかしいずれにしても死の瞬間は、誰にも予測することが出来ないものです。このために死者を弔う葬儀も、十分な準備の暇などなく、葬儀屋さんの手慣れた段取りによって何がなんだかわからないうちに終わっていくのが常となっています。昨今では少子高齢化や人間関係の希薄化、そして高額な費用の問題もあって、葬儀を行わず火葬のみを行う直葬が増え、都市部においては葬儀全体の1/5にまで及んでいると言われています。確かに合理的に考えてみれば、特に高齢になって友人知人もいなくなり、ましてや会社関係などの取引先への配慮も必要のない状況ともなれば、葬儀など行っても無駄だと思えなくもありません。しかしその一方で、葬儀を行わないことに言いようの無い空しさと恐れを覚えてしまうのも、私たちの偽らざる気持ちでしょう。それでは果たして葬儀とは何で、それは本当に行わなければならないものなのでしょうか。いずれにせよ今後は、高齢化の進展とあいまって死者の数も増大し、葬儀のような人の死を司る何らかの対応の機会が増えていくのは確かでしょう。また葬儀が営まれるとしても、出来るだけ多くの人に弔ってもらうのではなく、家族葬や本葬を伴わない密葬などの形で簡素化され、費用も節減されて明朗化していくことは間違いの無いことのように思われます。今回はそんな昨今の葬儀の動向も勘案しながら、私たちが生きるにあたっての葬儀の持つ意味を、生者と死者の両方の観点から考えていってみたいと思います。今週のパンセの集いは、11月24日火曜日の16時からです。場所はいつものように表参道のフィルムクレッセントで行います。
ところで葬儀というのは、通夜から始まり、葬式、告別式、出棺、葬送(野辺送り)、火葬(埋葬)、までの一連の弔いのプロセスのことを指し、その後に初七日、そして四十九日までの忌明け、一周忌、三回忌などの年忌法要が続きます。それでは私たちは、何故葬儀を行うようになったのでしょうか。愛する家族や共に苦楽を共にして生きてきた人間が亡くなった時、私たちは深い悲しみや喪失感に襲われます。それは可能性に生きる存在である私たちが、もう二度とその人と一緒に泣いたり笑ったりすることが無く、新しい可能性を共につくって行くことが出来なくなるという絶望感があるからです。亡くなった人が親しければ親しいほど、その人と紡げたはずの自分自身の可能性までも摘み取られ、これからどうやって生きていけば良いかのかさえ判らくなってしまいます。しかし人が生きていくためには、この悲しみを乗り越えていかなければなりません。そのためには悲しみが受け止められ、癒され、そして共に生きた人の喪失を埋める新たな関係を編み直して、再び歩み出していけるようにならなければなりません。葬送のための一連の儀式は、根底的にはこの残された者の悲しみを癒し、死を通じて生を深く見つめ直し、新たな歩みの契機と力を与えていくためのものであることを、まずしっかりと押さえておかなければならないでしょう。
そこでまず順を追って見ていきたいのですが、悲しみが癒されるための最初は、誰かに悲しみがしっかりと受け止められることが必要です。人間は一人では悲しみを乗り越えられないものだからです。本当に深い悲しみにある時は、人は思いっきり涙を流して、心の底から嘆かなければなりません。しかしそれが出来るためには、その悲しみを受け止めてくれる人が必要となるのです。自分の悲しみを受け止めてくれる人が誰もいない時、人はそんなつれない世を恨むか、悲しみや憂いから脱することが出来ないままに虚しさ中に沈み込んで、枯れた涙の上に冷たくひきつった笑いを浮かべることしか出来なくなってしまいます。だからこそ縁のある者が集まって、悲しみを受け止め、悲しみを分かち合う時と場を設けなければならないのです。これが葬儀を行うようになった第1の理由でしょう。
同時に残された者は、死者に対して言いようのない至らなさや申し訳なさを覚えるものです。もっとこうしてあげていれば良かったのに、あの時は悪いことをしてしまった、これから一緒に良くしていこうと考えていた矢先だったのになどと思っても、今となってはもうどうしようもありません。そんな思いの丈の数々を、最後に精一杯のことをしてあげることでなんとか整理したい、償いたいという思いが湧き起ってきます。これが弔いの心というものです。亡くなった人に対する悔悟の思いを何とか処理し、哀悼の思いを表すのでなければどうにも気が済まない、前に進めない。これが葬儀を行うことの第2の理由でしょう。こうした弔いの機会を持つことも、残された者が悲しみや悔みを癒して慰められるためには、やはり必要なことなのです。通夜というのは、このために故人と現世での最後の夜を共にして、せめてのもの心尽くしを行う時です。葬儀の時に故人の遺品を飾ったり、柩の中に故人の愛用品を納めたりするのも、同じ心の現れでしょう。
さて悲しみが受け止められて分かちあわれ、死者への悔悟の念を整理した後には、いよいよはっきりと愛する者の死の事実を受け入れなければなりません。それが僧侶や聖職者によって執り行われる葬式です。死の事実を受け入れるためには、死者にとっても残された生者にとっても、納得のいく死の世界の物語が語られ、故人がそこへと旅立つ手続きが施されなければなりません。それが葬式の意味するところです。次いで遺族自らが参列者の前で個人に別れを告げる。それが告別式です。このように残された者が故人の死の事実を受け入れ、別れを告げることも生死の区切りを明確につけるためには非常に大切なことで、これが葬儀を行う第3の理由となってきます。
こうして葬儀は、遺族の慰めの段階から死の受け入れ、そして新たな歩み出しへと向けて進んでいくのですが、告別式の次に行うのが出棺と葬送です。葬送はかつて葬儀の中でもっとも重要な意味を持ち、力が注がれたイベントでした。今でも海外では、泣き女や楽隊なども繰り出して葬送のパレ-ドが盛大に繰り広げられる地域は少なくありません。僧侶による葬式の執行が一般化する以前の日本の庶民の暮らしにおいても、葬儀といえば野辺送り(葬送)のことを意味していたほどでした。今では道路交通の事情もあり、出棺の際に縁者が故人の柩を持ち運ぶことによって、この機能は置き換えられています。故人を生者の世界から死者の世界へと旅出せるために墓での埋葬へと送り出す葬列は、葬式の形式的な儀礼などよりもよほど現実的な肉感をもって、生ける者に故人の死を実感させたことでしょう。そしてそれに次ぐ埋葬や火葬は、死者がもうどんなことをしてもこの世には戻ってこないということ、つまり死者との永遠の別れをこの上なく明確なものとします。この故人を死出の旅立ちへと送り出し、もう戻らないことを明確にすることが、葬儀を行う第4の理由です。
ところで現代では葬送の後に火葬が行われ、納骨は四十九日の法要の時に行われるのが一般的です。しかしこの間も、初七日、二七日(ふたなぬか)、三七日(みなぬか)と七日ごとに七七日(なななぬか=四十九日)まで追善供養(遺族の祈りによって故人の善行を足していくこと)を施していきます。悲しみが癒えるためにはある一定の時間が必要だからです。故人を失った遺族の悲しみが次第に癒えていくためには、このような手続きによって時間の経過を意識していくことが必要だということでしょう。こうして残された生者は、時の経過とともに悲しみを癒し、故人の喪失を埋めて新しい関係を紡ぎ直す力を得て、生きなおしを始めていくのです。そしてこのことこそが、一連の葬儀のプロセスを行う最も重要な理由で、残された者の癒しと再生、そして新たな歩み出しを演出することが葬儀の持つ第5の意味となってくるのです。
以上葬儀を行う生ける者にとっての理由を見てきましたが、じつはこれは葬儀の持つ意味のほんの一面でしかありません。死による故人の喪失を通じて、生ける者に豊かないのちの力を与える葬儀の持つ意味の全体を理解するためには、今度は死者の立場からみた葬儀の意味、生者と死者との応答、そしてこの応答を通じて生者のいのちも死者のいのちも確かに励まされる死の物語を見ていかなければなりません。それについては、来週のパンセ通信で考えていってみたいと思います。今週のパンセの集いは、冒頭でも申し上げたように、故 相澤 徹 さんが制作された映画『かかしの旅』の上映会と、生きる者にとっての葬儀の意味を検討していきたいと思います。開催日は11月24日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。