ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.61『いのちを育む死者との応答 - 葬儀を考える2/2』

Dec 06 - 2015

■2015.12.6パンセ通信No.61『いのちを育む死者との応答 - 葬儀を考える2/2』

皆 様 へ

11月30日に「ゲゲゲ鬼太郎」の水木しげる先生が他界されました。ニュ-ギニアでの悲惨な戦闘で、左腕を失いながらただ一人生き残られた水木さん。その時無残に死んでいった仲間の無念が、水木さんの目を見えないいのちの世界へと開いていったのかもしれません。異界に住む異形の妖怪たち。しかしその怪異の者たちは私たちの恐れや偏見とは裏腹に、学校も試験もない自由に生き、悪さはしても心優しく、個性豊かに共存しています。水木さんはそんなおおらかないのちの世界へと私たちを誘(いざな)い、そんないのちのあり様に私たちは励まされ、異質な他者をも親しく見る目を私たちに養って下さいました。そして水木さんはこう語られます。見えないいのちに思いを致すことが出来るのは、平和な時だけであって、争いと憎しみに心奪われる時、妖怪への思いなどは吹き飛んでしまうのだと。逆に言えば、見えないいのちへのやさしい眼差しを失わない限り、私たちはけっして愚かな敵対心に道を踏み外すことは無いということです。そんないのちへの豊な感性を養い続けることによって、私たちは過つことのない未来を築いていくことが出来るのでしょう。今週のパンセの集いは、12月8日火曜日の16時からです。場所はいつものように表参道のフィルムクレッセントで行います。

さて前回は、死者を送る生者にとっての葬儀の意味について考えてみました。共に生きた者が失われるということは、大きな喪失の悲しみが訪れ、また死者に対して十分なことが出来なかったという点で、申し訳のなさにも苛まれるものです。そしてもう二度とその人が存在した時のような生き方は出来ないということで、私たちは生き方の再設定を迫られます。また自身もいつか死する存在であることを思い起こさせ、私たちに存在に対する不安を惹き起こします。葬儀というのは、こうした死の出来事に伴う私たちの存在の危機を乗り越えるために必然的に生み出されてきた仕掛けであり、悲しみを癒し、死者への至らなさを償い、また生者が自分の存在を見つめ直して新たな生き方を歩み始める契機となる機能が仕組まれています。しかしこの一連のいのちの再生の過程が、より円滑にそしてより深く豊かに進展して、生ける者に確かな生きる意欲と力を与えていくためには、生者の側ばかりでなく、死者の側からもこの再生のプロセスを支え助ける葬儀の物語が求められ、その死者からの支えが感じられる時、生者の再生はより力強く担われるものとなっていくのです。

もちろん死者そのものが何を願い、何を考えているかを知る術(すべ)はありません。しかし自分が死んだとしたら何を望むかについては、誰であっても考えてみることの出来る問題です。科学と合理を信奉する生粋の唯物論者を除いて、現代においても私たちは、なんらかの死後の世界を想定したいのではないでしょうか。そこがお浄土か地獄かは別として、苦難に彩られて起伏の激しかったこの世での人生の後には、もう煩い悩む必要のない深い安息と平安の世界に入りたいし、また残された家族や愛する者を見守り、出来ればその生を導いて生きる力の支えになりたいとも願うのではないでしょうか。そしてさらに、もう死に区切られることのない永遠のいのちに生きたいとも願う。しかし自身の魂の平安と、死して後も他のいのちの救済に役立てるという希望がなければ、永遠の魂を得てもその存在に意味はありません。このような私たちの潜在的な死後への願いが満たされる物語を描くことの出来た時、私たちの生は死後の不安から解放されて安定し、生死を貫くしっかりとしたいのちの筋道の上を歩んでいくことが出来るようになるのです。

それでは私たちの祖先は、生ける者のいのちを励ますどのような死の物語を描いてきたのでしょうか。このことについては、以前パンセ通信No.53、No.54で触れましたが、もう1度整理して語ってみることに致します。「私たちが死ねば、この世での行いに応じて天国に行くか地獄に行くかの裁きを受ける。」これが古典的な宗教による死の物語です。この裁きを恐れて、私たちはこの世での自分の生のあり方を戒めることになります。本来の仏教思想では、人間は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道を輪廻し、この業(ごう)から抜け出るためには、何世代にもわたる修行と転生のうちに解脱して成仏する必要があります。キリスト教では、死者は永眠の状態にあり、やがて来る最後の審判の時を待ちます。いずれにしても生きている時の行いが、死後の世界を左右していきます。しかしこの世の行いだけで死後の行方を決められてしまったのでは、私たちにとってはたまったものではありません。なぜなら何の罪も過ちも犯さず、人を傷つけることなく生きられる人間なんているわけがないからです。高価な仏像でも寄進すれば、その徳に免じて罪が赦されるのかもしれませんが、そんなことの出来る者も限られています。そこで私たちの祖先は、日本において、長い年月をかけて本来の伝来宗教の死生観を換骨奪胎し、死んですぐに裁きを受けるのではなく、死んでからも成仏に向けて再チャレンジすることのできる物語をつくりあげていったのです。

死者はまず葬式において僧侶より髪を剃る仕草が施され、授戒した者のしるしとして戒名が与えられます。つまり得度して仏道の修道者としての道を歩むのです。四十九日で三途の川を渡るまでの間は、中陰といって生と死の間を彷徨いますが、それ以降は本格的な菩薩行に入ることになります。菩薩とは悟りを開いて如来となることを目指しつつ、人々をも救うことを目的とする存在です。自分を救う修行の中に、他者を救うという働きが組み込まれているのです。死者がこの菩薩行に入れるように、生ける縁者は四十九日までの間七日ごとに法要を営み、死者の彼岸への道行(みちゆき)を後押しします。生者の側から言えば、この間に死別当初の衝撃と悲しみを癒し、愛する者の死の事実を受け入れるということを成すのでしょう。

次に四十九日を過ぎた死者は、いよいよ菩薩行を始めることになり、そこから生者と死者の本格的な応答関係が始まります。生者の弔いが死者の菩薩行を支援し、死者は菩薩行の一環として、生ける者に救いの力を施していくのです。だから私たちが亡くなった祖父母や父母等に手をあわせて拝(おが)む時、どうか守って下さい、導いて下さいと願うものなのですけど、その願いは間違うことなく受け止められると考えて良いのです。なぜなら、死者は愛する家族の幸せを願って旅立っていくのですから、欲得にもとづく目先の利害ではなく、本当に残された者が幸せになるように道を指し示し、また生者がその道を歩めるように守り、力を与えてくれるはずだからです。この物語が事実がどうかは別として、ここで大切なことは、死者に向き合う時のこのような私たちの心の働き方です。故人はけっして裏切ることなく自分の幸せに力を与える者であることを確信し、それに向かいあうことによって、逆に自分のあり方が吟味され生き方が整えられていくのです。この心の中での応答作用に私たちのいのちは支えられ、心の豊かさが育まれていきます。そしてこの心の豊かさが、今度は死者の菩薩としての救済のパワ-をより大きなものとしていくのです。

こうした生者のいのちを整え、死者の救済の力を増していく生者と死者の応答のプロセスは、葬儀の後の1周忌、三回忌などの年忌法要を大きな節目として営まれていきます。最初の法要である通夜の席では、まだ生々しい感情の残る故人の思い出を語り、時に悪口や愚かな側面も紹介しあっていくのですが、そこから時間の経過に従って、故人の記憶を美しく、そして完全な救済者たる如来の姿へと変えていくのです。元来人間には、過去の思い出や死者の記憶を美しく変えていく力があるのですが、どれほど自分の支えとなる故人の優れた側面を見出して、それを大切で美しい思い出に育んでいけるかどうかは、その人の心の豊かさの程度に比例するものなのです。こうして生者の心の中で営まれる生ける者と死せる者との豊かな応答は、やがて死者の菩薩行を完成させ、完全なる救済者たる如来、つまり仏陀へと変貌させることになります。そして今度はこの如来としての救済の力によって、生ける者の歩みをより確かなものとしていくのです。さてこのようにして我国においては、生前の行いの結果の如何によらず、死者は誰であれ成仏できる道が開かれていきました。どんなに悪人であっても、死後は自分の成仏のために菩薩行を歩まねばならないのですから、生者に対して救いの手を差し延べることになり、その善行によって救われていきます。一方生者は、この菩薩あるいは如来たる死者と向かいあって自分のいのちを整えていくのですから、自ずから生者も愚かで罪深い人生を歩むわけにはいかなくなっていきます。こうして私たちの先人は、本来の伝来仏教を大きく読み変えて、生ける者のいのちも死せる者のいのちも救済されて、豊かに育まれる死の物語をつくることに成功したのです。

ところで如来となった死者は、三十三回忌を迎える頃には、もはや個別の人格を失い、祖先の霊と一体化していきます。これを弔い上げといって年忌法要の終わりとします。これは死後30年以上も経てば、もはやその故人を生前に親しく知る人もいなくなるということを意味するのでしょう。しかし如来としての救済のパワ-は残り、死者も自分の存在意義として生ける者の助け手としてあり続けたいはずですから、生前自分を知る者がこの世にいなくなったとしても、今度は救済の力そのものと化すことによって見知らぬ子孫を助け続け、こうして永遠に生き続けることが可能な者となっていくのです。祖霊というのは、こうした個々の救済の力そのものとなった霊の束なのですから、その力の強さのほどが伺い知れます。じつは祖先崇拝、つまり祖霊を敬うことによってそのいのちの力に預かりたいという信仰は、仏教伝来以前から日本人の心情に深く根付いた心性で、私たちの先人たちは仏教の枠組みを巧みに利用して、みごとにこの日本人の心性に繋ぎ木することに成功したのです。さらに私たち日本人には、縄文以来受け継ぐ古神道の深層が存在します。それは大地自然の根底に流れて、すべての生命を活かし育む大いなるいのちの恵みの力への信仰(仏教で言えば仏法)です。祖霊はさらにその根底で、この根源的ないのちの力ともつながり支えられていくのです。こうして日本人の死生観は、仏教を祖霊崇拝とつなぐだけでなく神道とも結びあわせ、死ねば誰もが無条件に仏(神)になるという物語を生み出していったのです。キリスト教は、じつは仏教や神道を持ち出さなくても、本来それ独自で日本人の死生観にあう要素を備えているのですが、それをまだうまく日本人の心性にあうように取り出して説明しきれていないようです。

こうして私たちは、死者と向き合うことによって、じつは根源のいのちへ向けての死者と生者の応答関係に入ることとなり、私たちは救済者たる死者からの呼び声によっていのちの価値から自分の生き方を吟味し、また生きる意欲と力を得て、人生をより豊かに再生していく仕組みを生み出していったのです。葬儀はこの生死を越えたいのちの応答の物語の起点となる重要なセレモニーです。この死者の側からの救済の物語と生者と死者の応答が加えられることにより、葬儀はより深く私たちの悲しみを癒し、より確かに死者への償いを保証し、死者亡き後の人生の再生を力強いものとしていくのです。今後葬儀がいかに簡素化され変容していったとしても、以上に述べてきたような私たちの生き方を正し、生死を越えたいのちの希望を育む葬儀の持つ本質的な効果を蔑(ないがしろ)にしてはいけないでしょう。

さてここ3~4回のパンセ通信で、葬儀、法要、墓がいのちの価値にとって持つ意味を見てきたのですが、次回からは老いの持つ意味についても考えていくことにし、現在行われている終活の不備を、総合的に補っていくことが出来ればと思っています。そして老いと死の価値の取戻しから、現代におけるいのちの価値の再生を図っていくことが出来ればと存じます。次回のパンセの集いは、12月8日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。