ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.63『映画はいのちの疑似体験 - 映画の観方を考える』

Dec 20 - 2015

■2015.12.20パンセ通信No.63『映画はいのちの疑似体験 - 映画の観方を考える』

皆 様 へ

次回のパンセの集いは年内最後となり、また表参道のフィルムクレッセントでの開催の最後ともなります。そこでもう1度相澤映画の作品鑑賞を行い、来年につなげていければと思います。上映は『育子からの手紙』という作品を予定しております。小児がんを患った少女が、病室でベットが隣り合わせた主婦との手紙のやりとりを通して、自分自身の死と向き合い、また周囲の人たちに対してもいのちの糧となる思い出を残していった物語です。日時は12月22日火曜日の16時からです。

ところで来年からは、私たちが“いのちの働き”を垣間見、“いのちの力”を養う取り組みの一環として、映画プロデュ-サ-の相澤徹さんが残して下さった映画作品の数々、また同じくフイルムクレッセントの一員だった故山口巧監督が収集された20世紀初頭以来の1千タイトルを越える名作の数々について、しっかりした体制で鑑賞できる仕組みをつくっていきたいと思っております。特に力を入れたいのは、映画鑑賞を通じて私たちがどう生きる力を養っていくかということです。生きる力というのは、いのちへの信頼を失わず、生きることを無条件に肯定し、自分も含めてあらゆるいのちを活かそう、あるいは生かし合おうとする力のことです。それはまた、無数の出来事に遭遇する人生の一コマ一コマにおいて、いのちの価値の所在を見出し、いのちの可能性を拡げていくことの出来る選択を行える力のことでもあります。もしくはたとえ誤った選択を行い、また選択の余地なく非情な困難が身に振りかかったとしても、けっして挫けることなく、いのちの価値を貫いて生き続けようとする力のことでもあります。

それではこうした“生きる力”というものは、いったいどのようにすれば養うことが出来るのでしょうか。以前人間は可能性に生きる動物であるというお話を致しましたが、その前に人間は感情の動物であり、また何度感動したかによって人生の豊かさと厚みが増し加わってくる存在でもあります。つまり可能性について考える前に、こんなところにも可能性があったんだという気づきの感覚と意欲が、先にやってくる存在だとも言えるのです。それ故に私たちが“生きる力”を養うためには、何よりもまず感じる力を育まなければなりません。次いで些細であっても日常の出来事の1つ1つに、いのちを害することなのか励ますことなのかを鋭敏に感じ取って、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりする感情の起伏のうちに、いのちへの接し方に応じた気分がやってくるように心を養わねばなりません。いのちがぞんざいに扱われる時には気分が悪く、いのちが慈しまれたり再生されたりする時には気分が嬉しく高揚して、感動が起こってくるようでなければならないのです。日々の煩いの中にあっても、現実のちょっとした裂け目からいのちの働きと可能性が垣間見えた瞬間、私たちは本来的に感動し意欲が沸き起こってくるものなのですが、芸術とは、このいのちの煌めきの一瞬を捉えて、私たちにしっかりと垣間見せてくれる営みです。それ故に芸術は、その作品を通して私たちをいのちの力と出会わせ、“生きる力”を養うにあたって重要な役割を果たすのです。

このように考えてくると、映画の持つ機能というものが次第にお解りになってくるかと思います。映画は映像の力を用いて、人生を疑似体験させる芸術です。映像体験を通じて、私たちは人生のたくさんの営みに遭遇し、たくさんのことを感じ、豊富に感動を与えられます。しかもそれは、映画製作者たちが選び取ったいのちの輝きの一瞬の集成です。それ故に私たちは映画鑑賞を通じて、いのちの価値への感受性が養われ、いのちの力に動かされる心がつくられて、いのちの可能性に生きていく意欲が生み出されるようになってくるのです。そのような映画の観方を模索し、皆様に提案し、与えられた大徳院という場を用いて、生きる力を養う鑑賞の実践を行っていくことが出来ればと思っております。幸いにして相澤さんが、長年にわたるフィルム・クレッセントでの映画製作を通じて培った一流の映画製作者の皆さんとの人脈も、財産として残されております。こうした方々の知見とも結びつけて、生きる力を養う様々な映画の観方を模索していってみたいと思います。 

今回は本当は、老いの持ついのちの可能性について、前回に引き続いて考えてみるはずでしたが、時間の制約もあってここから始めるには中途半端となってしまいます。そこでその作業は、また来週に回したいと思います。しかし死者や老いに引き続いて、いのちの力を養う素材として映画も与えられたことは、まことに幸いなことだと思います。死者との対話や、老いた時に振り返る記憶との応答が、生死を越えたいのちの力を養うように、映画で培った感じる力や人生の疑似体験の蓄積は、私たちの心の中に深い余韻として残ります。その余韻を大切にして相対して反芻し、映画の伝える意味を自分なりに深く味わい尽くしてみる時、生きる力の所在が明らかになってきて、やがてその力が私たちの現実の生活の中にも立ち現れてくるようになってくるのです。そんないのちの糧になる映画の観方が、出来るようになっていければと思います。

時あたかもクリスマスのシーズンです。クリスマスというのは、すべてを活かすいのちの力が、みどり子イエスという形をとってこの世に生まれ、人類の歴史の中に、そして私たち一人一人の人生の中に、決定的に入り込んできた日です。私たちはもはや、何事も愚かな自分の判断から企図する必要はありません。そして何も無理する必要すらありません。私たちの中に入り込んだいのちの力を感じ、その力に素直に身をまかせて働くままにさせる時、私たちの目は開かれ、意欲と力が起こされ、新たにいのちの可能性に生き始めることが出来るようになってくるのです。そうした感受性が養えるような映画の鑑賞が出来るなら、それはまた“祈り”あるいは“読経”というものに通じると言うことが出来るのかもしれません。生きることの素晴らしさ見つけて、生きることが心から愛おしくて嬉しくなってくるような、そんな祈りや読経にも似た映画鑑賞のあり方を求めていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、12月22日火曜日の16時からです。お時間許す方はご参加下さい。