ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.64『永遠のいのちへの備え - 老いの望み2/2』

Dec 27 - 2015

■2015.12.27パンセ通信No.64『永遠のいのちへの備え - 老いの望み2/2』

皆 様 へ

いよいよ年の瀬も押し迫り、気がついてみると今年最後のパンセ通信となりました。すでに年末年始のお休みに入られている方もいらっしゃれば、年末の最後の最後まで仕事に追われている方もいらっしゃることでしょう。でも例えお休みがとれたからといっても、暮れの大掃除やお正月の準備やらで何かと気忙しく、またテレビの番組が気になったり、読みたかった本が溜まっていたりで、やっぱり時間は慌ただしく過ぎていくものです。本来ならばこの1年をゆっくり振り返り、来年に向けての来し方行く末を考えてみるべき時なのでしょうけども、なかなかままなりません。仮に忘年会の席か何かで、今年1年の感想と来年の抱負なんかを語らされたとしても、咄嗟に取り繕った話でお茶を濁すのが関の山で、とても本心から納得のいく内省など出来たものではありません。そして結局うやむやのままで新年の生活が始まって、来年もまた今年と代わり映えのない1年が繰り返していく。

私たちが本当に過去を振り返って反省し、自分のいのちのあり様を転じて人生の可能性を拡げていくためには、やはりちょっとしたコツと方法が必要になります。でもその方法自体は至ってシンプルで、要は自分を振り返るための少しまとまった時間をとるということです。そしてコツは、その間出来る限り何もしないでボ~っとして、意識が自らを振り返るままにまかせるということ。要は瞑想(黙想)ですね。ところが私たちの意識は、年末に向けて他にやらねばならないことや、やりたいことで一杯に満たされているので、ボ~っとしている時間の意義を認めません。だから実際には、私たちが自分のいのちの求めのままに納得のいくように1年を振り返るということは、きわめて難しい作業となるのです。じつはこれを1年ではなく、これまで生きてきた全生涯を通して顧みる、それが老いの課題となってくるのです。そしてこの営みからいのちの価値を見出し、生死を越えたいのちへの望みを深め、後の世代にその価値を受け渡していく。12月29日のパンセの集いは年末のためにお休みですが、今週はこの老いの可能性について、私たちが年末に1年を振り返ることの効用と重ねあわせて考えていってみたいと思います。

ある禅宗のお坊さんが、交通事故で1ヶ月ほど入院された時のお話しです。そのお坊さんは、それなりに一生懸命に禅の修行に打ち込んで、一応瞑想のなんたるかを掴んだような境地に達しておられました。しかし事故で、1ヶ月にわたって身体が動かせない状態で入院して、初めて自分なりに腑に落ちて瞑想というものがよくわかったそうです。なにせ他に何も出来ないしすることも無いので、自分自身と向き合う他はありません。退屈のその先に、自ずと見えてきたものがあったのです。老いというのは、生命の自然な営みのうちに身体機能が衰えて、余分な意欲も削ぎ落とされて、入院した禅宗のお坊さんと同じような意識の状態に陥っていくのです。それでは、その時意識の中では、実際にどのような作用が行われているのでしょうか。

私が以前勤めていた老人介護施設は、キリスト教系の団体が運営する施設であったものですから、長い信仰生活を経て、人生の終わりの時をその施設で迎えようとする方々がいらっしゃいました。なかなかに温和で素敵なご老人たちで、まさに翁(おきな)そして嫗(おみな)と称するにふさわしい人たちでした。この方たちの特徴は、自分自身のこれまでの人生を、神様の祝福と感謝のうちに振り返るということでした。けっして良い経験ばかりがあったわけではありません。死にたくなるほどのとんでもない過ちや、顔から火が出るほどの恥ずかしい体験、そして人に騙されて恨んだ思い出や、けっして他言できないような人を傷つけてしまった後悔など、その記憶の大半は、普通の人と同じように苦い思い出の連続です。そしてその時点から長らく、なんで自分はあの時あんな選択をしてしまったのだろう、なんと愚かだったのだろうと悔悟の念に苛まれてきた想い出です。しかしそんな想い出の1つ1つについて、自分自身の人生に対して働かれた神様の御働きの観点からの問い直しを始められるのです。その心の動きのポイントは2つです。1つは、神様の御心からすれば本来どうあるべきだったのかということです。そしてもう1つは、その御心に反して愚かな行いをしてしまったのに、それでもそこに神様の守りがあって、今もこうして生かされてある自分を感謝するということです。恋愛が成就せず傷心の思いを抱いたが、その後ご主人と出会えて、人生を共に添い遂げることが出来た。あの時事業に失敗したが、そのおかげで人の悲しみや痛み、そして暖かい心遣いがよく解るようになった等々です。逆に大きな組織で出世して、自分は成功したと誇りに思ってきたものの、今思えばその陰で、多くの人を蹴落としたり家族に負担をかけてきたなどと、悔い改めの念に導かれたりもします。

つまりこの方たちは、神様の恵みの視座から、自分自身の人生の読み替えを行っていらっしゃったのです。これは前々回のパンセ通信でも申し上げたことですが、私たちは過去の事実を変えることは出来ませんが、その意味を変えることは出来ます。そして世間的な価値観からの損得勘定ではなく、本当に大切ないのち価値から、自分の人生について何が大切であったかという見直しの作業を行われたのです。何が自分のいのちを生かし、人のいのちを生かすものであったのか。そのことに次第に気づいていかれたのです。

かつて江戸の昔禅僧の良寛さんは、老僧となった時、何も語らずとも良寛さんが居るだけで、その場が暖かい和みの空気に包まれたと伝えられます。お大師様(弘法大師空海)は、嵯峨天皇と各宗派の高僧の前で座禅を組まれた時、その身体が金色に光り輝き、皆が驚いてその姿を拝んだとあります。禅定(ぜんじょう)によって三昧(さんまい)の境地に入られて、すべてを生かす慈しみのいのちそのものを現されたのです。そしてその場の一人一人の方々のいのちがどうか豊かに生かされますようにという祈りと一体となられたために、その垣間見せられたいのちの顕れの尊さに、その座の人々が身分や立場を越えて心打たれたからです。

良寛さんやお大師様と同じように、自分自身の人生の意味の問い直しから、いのちの価値に気づかれた信仰のご老人たち。そして生かし合う和みのいのちの視点から、自分自身の人生の物語を新しく紡ぎ直されたご老人たちの周囲には、その側に近寄るだけで安らぎと癒しの雰囲気が醸し出されるようになってきます。なぜなら、人を害したり利用したりというような悪意のかけらが一切無く、いのちを慈しもう、いのちを生かそうという思いだけの存在になっていらっしゃるからです。私たちはよくこうした方々のことを、天国の香りのするお爺ちゃん、お婆ちゃんと呼んでいました。当然若い介護職員は、そうしたご老人のもとに足が向かいます。時に相談事などにも乗ってもらっていたようです。自分自身の人生の問い直しから、どうしたらいのちが生かされるのかを知っていらっしゃるからです。そして柔和なやさしさの内に癒しと慰めを与え、一番大切ないのちの価値からのアドバイスを与えて下さるからです。

それではこうした老いにおける人生の問い直しは、信仰者の老人のように、神様の恵みの視座から行わなければ、うまくいかないものなのでしょうか。いやそんなことはありません。そこでもう1度信仰の老人の例を参考に、老いにおける人生を振り返る意識の作用を整理してみることにします。そうすると、次の3つ要点が浮かび上がってくるように思われます。1つ目の要点は、自分自身の人生の受け入れです。老いによる自然な身体の機能の低下は、否が応にも自分自身の人生の記憶と向き合わせます。神様の視点とは、様々な思いや感情の連なりから解き放たれて、自分自身の人生を少し離れた視点から観るということです。そしてその人生の事実を逃げずに受け入れるということです。人生のやり直しの効かない老いは残酷ですが、その一方で、過去をうやむやしにして将来の可能性にのみ意識を向ける道は閉ざされます。2つ目の要点は、受け入れた人生の肯定です。人生を受け入れるというのは、けっして受動的な諦めの境地の作業ではありません。その中に肯定の要素が見出せない限り、人はけっして過去の事実と責任を引き受けられるものではないからです。だから自然な意識の働きとして、認めたくはない自分自身の人生であったとしても、それに向きあい、そこに肯定の要素を見出していこうとするのです。この肯定の要素を見出すことが、信仰者の場合には神の恵みという形で意識されることになるのです。そして3つ目の要点は、いのちの価値への気づきです。自分自身の人生の問い直しから、生かされてある自分と、何が一番大切なことであったのかに気づいていくのです。何があっても、今日この瞬間まで自分の愚かさを償って生かし続けてくれたいのちの力の存在。ここに信仰者の場合には、神様への感謝の念が生じてきます。そしてどうすれば自分のいのちと人のいのちを、もっと良く生かしていくことが出来たのかに思い至っていきます。こうしてこれまで曖昧なままに放置してきた自分の人生への思いに、決着をつけていくのです。信仰者にとっての神様とは、このすべてを生かすいちの力そのものに他なりません。

老いにおける人生の振り返りによる、これまでの人生の受け入れ、肯定、いのちの価値への気づきというプロセスは、何も信仰者のみが成し得るものではありません。ただ信仰者は、その過程をうまく進めるための方法論を身につけているだけです。しかしこの意識の作用は、じつは老いの過程そのものにビルトインされているものです。だから自分自身の中に働くいのちの力の働きに、抗わずに委ねていけば良いのです。宗教は、そのプロセスを円滑に進めるための方法の智慧を与えるだけです。もっとも老いのこの期に及んでも、いのちの素直な働きに抗って、様々な煩いや執着に心が奪われてしまうのが、業の深い私たちの在り様なのですけれども。

いずれにせよこの様に、老い本来の機能に従って、私たちは老いにおいていのちの価値に気づき、いのちを生かすことを願う存在そのものとなっていきます。こうして死の準備が整えられていくのです。たとえこの世での生を終えたとしても、生死を越えていのちを生かす願いは留まり、永遠に救済者の一員として存在していくための意味と価値が与えられていくのです。

そしてまた老いが見出すいのちの価値は、次の世代にいのちの意味を気づかせ、この世界にいのちの力と働きを供給していくことにもなっていくのです。私たちが、この恵みに満ちた老いにおける人生の振り返りの何分の一かでもの意識の作用で、この1年を顧みてみることが出来たなら、そこにいのちの働きを見出し、自ずといのち価値をもって来るべき年に遭遇する数々の出来事に対処しようとすることでしょう。そして私たちのこれまでの代わり映えのしない毎年の人生の繰り返しから、新たな展開の芽が開け、自分のいのちのあり様を変えていくことが出来るようになるかもしれません。来年もまた、私たちの安易な予測や思い描きをあざ笑うかのごとく、数々の想定出来ない事態が降りかかってくることでしょう。しかしそんな事態の1つ1つに、自分のいのちを生かし、人のいのちを生かす観点からの、いのちに生きる対応が行っていければと思います。次回はここまで考えてきた老いの課題を踏まえて、総合的に老いをどう生きていけば良いか、つまり終活の本来のあり方について考えていってみたいと思います。あわせて、私たちがいのちの価値に生き、自分を変え周囲を変えて人生を生き直していく具体論についても、新年の課題として考えていってみたいと思います。それでは皆さん、良い新年をお迎えください。