■2016.1.3パンセ通信No.65『1年の計は元旦にあり-願いを叶える2つの方法』
皆 様 へ
新年おめでとうございます。今年の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
などと定型的な新年のご挨拶から始めさせて頂きましたが、さて、この願いを本当に実現していくためには、いったいどうすれば良いのでしょうか。1つには、今年様々に生じるであろう出来事を予測して、計画をしっかり立てていくということです。これが合理化された現代の私たちの、通常の意識の働き方でしょう。でも果たして将来を予測して、思い通りに物事を進められるように計画を立てるなどということが、本当に出来るものなのでしょうか。実際に事あるごとに計画を立ててみるのですが、それがどれほど実現しているかは疑問です。ほとんどの場合、計画を立てることには立てるのですけど、途中でどうもうやむやになって結果の評価までには至らず、毎年同じような1年の計を立てるというようなことになってはいないでしょうか。確かに企業における事業活動の現場では、PDCA(Plan計画→Do実行→Check評価→Act改善)サイクルを確実に実行し、生産管理や品質管理のクオリティ-を上げていくことが厳しく求められます。しかし一面でそれは、宗教における教条的な信条(Credo)のようにもなっていて、すべてのことを汲々として無理矢理この型に当てはめて解釈しようとしているだけかもしれません。実はそこから解き放たれてよく見てみると、それとは全く違った無意識のレベルで行われる別の方法で、自由な問題への気づきと柔軟な対応が行われているということがあるのかもしれません。
それでは、そのもう1つの別の方法とは何でしょうか。現実に私たちが日常生活を暮らしていく際、事前にシュミレ-ションして計画したことを、そのプログラム通りに生きているというよりは、むしろ次々にやってくる予測出来ない出来事に、何とかその場その場で対応して生きているということの方が、はるかに実感としては多いのではないでしょうか。一瞬先の株価や有馬記念のレ-ス展開が予測出来ないように、現実は非常に複雑かつ多様で、スーパーコンピュータをもってしても人間の予測を許すものではありません。実際に計画が立てられたといっても、微細な逐一の行動までも計画できるものなどではなく、せいぜい大筋をプラン出来るのが関の山です。そうだとすると、プランを立てることもさながら、想定を超えて日々襲い掛かってくる不可知の出来事に、どうその都度対応していくかということの方が、むしろ重要であることが分かってきます。まさに頭でどうこう考える以前の、瞬時における無意識のレベルでの決断が、私たちの次の人生の行く末を決めていってしまうのです。それでは、この瞬間ごとに無数に迫りくる出来事に対して、どう受け止めてどう対応していけば、私たちの人生を幸せな方向へと好転させていくことが出来るのでしょうか。
剣術の極意に「無眼」とか「心眼」という言葉があります。生死をかけた究極の状況で相手に対する時、次の瞬間に相手がどう打ち掛かってくるのかについて、目で見て観察し頭の中でシュミレ-ションしていたのでは、とても間に合うものではありません。実際に丸太をも切り裂く真剣の切っ先を、人間の目で追うことは不可能でしょう。相手の気を深く察して、相手のいのちと一体となって、我がことのように相手の意識の動きが見えてくるのでなければ、とても無意識のうちに身体が反応して渾身の一撃をかわし、一瞬の隙を衝いて相手に打ちかかることなど出来るものではありません。生死を分けるぎりぎりの緊張の中で、これまで目で見ていた世界の様相は一変し、否が応にも五感を越えて感性が研ぎ澄まされ、自分自身の生きんとする決死のいのちの動きが、心眼によって見えてきます。それと同じくして相手の生きんとする決死のいのちの動きも見えてきて、2つのいのちが共鳴していくのです。そしてこの瞬時において、殺すか殺されるか、生かすか生かされるかの境が定まり、殺人剣となるか活人剣となるかが決まってくるのです。真の達人というのは、まさにこの生死を分かつ一瞬において、反射的に活人剣を選び取れる人物であり、それはまた人生の達人ともなる人物であるのです。このように剣術あるいは武術においては、身体の鍛錬は「無眼」あるいは「心眼」の鍛錬と一体となっており、むしろ身体や技(わざ)の鍛錬は、「無眼」や「心眼」を養成していくための手段であるとされるのです。
少し極端な例をお話し申し上げましたが、この剣術の極意から、私たちが予測できない日常の種々の出来事に対して正しく反応いくための“極意”について、3点ほど読み取れることがあるように思います。1つは剣術の場合、身体や技(わざ)の計画的なトレ-ニングとあわせて、千変万化に変化する相手の動きに呼応するために、「心眼」の鍛錬も意識的に行うということです。同様に私たちも、当たり前のことですが、千々に変化して迫りくる日常の出来事に瞬時にうまく対応して生きていきたいのなら、やはり何らかの鍛錬が必要であり、それを意識的に行わなければならないということでしょう。私たちは現状を分析し、将来を予測し、自己実現が達成出来るように計画を立てることについては目的意識的に行い、近年のマネ-ジメント論の発達によって、その方法論についてもいろいろと研究されてきています。しかし次々と生じてくる事態への柔軟な対応という面では、何か非合理的な東洋の老荘思想の残滓でもあるかのように思い、真面目には取り上げていません。ところが大昔のユダヤ教や初期のキリスト教の世界でも、時間は過去から未来に進むという観念だけではなく、未来から現在に向けて流れて過去をつくっていくという観念もあって、そちらの方がむしろリアルに受け止められていたのです。実際に先に申し上げたとおり、過去につくった計画を現在に実践し未来をつくっていくというよりは、降り注いでくる数々の出来事に対応して人生が積み上がっていくという感覚の方が、私たちにおいてもよほど現実的な生活実感があるように思えます。このように私たちが良く生きていくためには、計画を立てることと同等に、日々の出来事に対処していく方法論と鍛錬も、目的意識的に行っていくことが求められてくるのです。
それでは具体的にどうすれば変化に柔軟に対応できる力が養えるのでしょうか。それが剣術の極意から学ぶ2つ目のポイントです。剣術の場合、互いのいのちを分かりあっていくために、まず相手の気持ちを察すること、感じていくことから意識的に訓練していきます。意識上での合理的な論理や推論の力だけではなく、むしろ意識下の心眼のレベルで、互いのいのちの求めを察していくことを鍛錬していくのです。自分の攻めたい思いだけで撃ちかかったのでは、たちまちの内にこちらの思いが読まれて、打ち負かされてしまいます。私たちも自分の思いには忠実で、むしろその思いだけがすべてであるかのように囚われて、その思いからくる求めを実現していこうとします。そして自分の求めを実現しくことこそが人生の目的であるかのよう思い、計画を立てて狂奔していくのです。しかしこれも当たり前のことなのでけど、他の人も自分の思いと求めを持っており、その両者の思いが1つになっていかない限りは、自分の求めも実現していくことは出来ません。従って自分の思いを論理的に整理して情報発信することとあわせて、相手の思いや求めを察していく力を養うということも、一方ではきわめて重要となってくるのです。しかしこれもまた、あまり意識的には捉えられていません。それどころか自分自身の求めというのも、実は富や権力や名声といった現在の社会の価値観で成功と見なされるものへの欲望にすぎず、逆にその欲望に自分が奴隷のように引き摺り回されているに過ぎないということも、しばしば生じてくることなのです。従って他者の求めのみならず、自分のいのちからの求めというものも、心眼で察していく必要が出てきます。こうして感じ取った本当の自分のいのちの求めというものから、もう1度日々の生活を見直し、そこに確かな自分の生きる意味と目的を見出し、そしてその実現に生きることこそが使命あるいは天職と確信できるまでにならなければ、私たちの立てる計画などいい加減な願望に過ぎず、やがてどこかに立ち消え去っていってしまうものなのです。いずれにせよ私たちが良く生きていくためには、自分の思いを実現する合理的な計画を立て実践する力と共に、いのちの求めや動きを察する力、感じる力をも磨いていかなければなりません。そのために私たちの先祖は、瞑想や修行という手段によって自分と向き合う方法を編み出してきたのですが、他者に対してそれこそいのち懸けで真剣に向き合うという状況をつくることも、剣術の極意は私たちに重要な方法として教えてくれるのです。
それでは察する力、感じる力を養ってどうするのでしょうか。それが剣術の極意から学ぶ3つ目のことで、他者の求めと自分のいのちの求めとが、深いところで一体となって感じ取られていくということがポイントになってきます。いのちを殺(あや)めるのではなく本当に存分に生かしたいという思いは、すべての生き物に共通した求めでしょう。そしてその求めに生きることが出来た時、生ける物は何であれ、心底喜んで生きることが出来るのです。従ってこの喜びの思いにまで至った時には、活人剣を求める心はきわめて自然に形造られ、逆にこの思いの段階でなお殺人剣を意図することは、尋常な人間の神経では成し得ることではありません。殺す殺されるとしても、それも相手を活かすために行う。しかし殺して生かすなどという器用なことが出来ないからこそ、必死で共に生きられる道を求めていくのです。その共に生きられる道を、いのちの力の本来の働きに委ねて、瞬時の変化に対応して見出していけるように鍛錬していくのです。
もう1つポイントを付け加えるなら、自分の求めばかりが先に立ってしまう私たちが、相手の思いを察し、自分自身の深いいのちの求めにも気づいていくためには、やはり自分の思いから自分自身を引き離し、客観的な視点から自分と他者との置かれた状況を見ていく視点が必要となってきます。しかもその視点は、自分も他者もいのちを生かしたいという求めが、1つに合わさってくるような方向からの視線でなくてはなりません。そこで私たちの先人たちは、“神の目”や“ご先祖様の目”から恥じること無く自分を捉える方法を編み出していったのです。
こうして私たちが、他者の思いや自分のいのちの求めを察する力を養い、毎日の生活の中で降りかかってくる様々な出来事に対して、共に生かし合おうとするいのちの求めに従って自然に対応していける様にまでなる時、私たちの積み上げる人生の方向は、少しずつ柔和で慈しみに満ちた方向へと変えられるようになっていくのです。
さてまたしてもごたごたと屁理屈を述べ連ねてしまいましたが、要は今年1年を良くしていくためには、計画を立てると同時に、変化に対応する力を養うことも目的とされてはいかがですかということです。変化に対応するといっても、今までの惰性で身に着いた習慣から対応していたのでは、人生は変わりません。人生が良くなるような対応を積み重ねるためには、知性や論理だけでなく、人の気持ちを察する力、感じる力をも養っていくことが大切になってきます。そして他の人のいのちの求めを察することができ、自分のいのちの求めとあわせて実現しようとして変化にいつも対応していく時、私たちの人生の方向は確実に変わり始めてくるのです。聖書の中に『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい』という言葉があり、黄金律と呼ばれています。私たちが人のいのちの求めを察し、その求めを満たすことが自分の求めとなって自然に出来るようになるとき、私たちの“縁”も変わって、毎日に遭遇する人や出来事も変化していきます。日々生じる予測できない様々な出来事も、じつは私たちの“縁”が引き寄せているという面も多分にあるからです。こうして日々やってくる出来事の内容も、いのちを育む思いがけないチャンスが多くなるにように変化していきます。そして私たちの相互が、瞬間瞬間の小さな出来事に対して、黄金律のごとくに互いのいのちを生かしあう対応を積み重ねていく時、自分の人生のみならず、世界の運命も変わっていくのです。
1月5日の火曜日は、新年のためにパンセの集いはお休み致します。その次の12日の火曜日からは再開し、老いの意味と価値、“終活”のあり方について考えていってみたいと思います。それでは皆様、良いお正月をお過ごし下さい。
皆 様 へ
新年おめでとうございます。今年の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
などと定型的な新年のご挨拶から始めさせて頂きましたが、さて、この願いを本当に実現していくためには、いったいどうすれば良いのでしょうか。1つには、今年様々に生じるであろう出来事を予測して、計画をしっかり立てていくということです。これが合理化された現代の私たちの、通常の意識の働き方でしょう。でも果たして将来を予測して、思い通りに物事を進められるように計画を立てるなどということが、本当に出来るものなのでしょうか。実際に事あるごとに計画を立ててみるのですが、それがどれほど実現しているかは疑問です。ほとんどの場合、計画を立てることには立てるのですけど、途中でどうもうやむやになって結果の評価までには至らず、毎年同じような1年の計を立てるというようなことになってはいないでしょうか。確かに企業における事業活動の現場では、PDCA(Plan計画→Do実行→Check評価→Act改善)サイクルを確実に実行し、生産管理や品質管理のクオリティ-を上げていくことが厳しく求められます。しかし一面でそれは、宗教における教条的な信条(Credo)のようにもなっていて、すべてのことを汲々として無理矢理この型に当てはめて解釈しようとしているだけかもしれません。実はそこから解き放たれてよく見てみると、それとは全く違った無意識のレベルで行われる別の方法で、自由な問題への気づきと柔軟な対応が行われているということがあるのかもしれません。
それでは、そのもう1つの別の方法とは何でしょうか。現実に私たちが日常生活を暮らしていく際、事前にシュミレ-ションして計画したことを、そのプログラム通りに生きているというよりは、むしろ次々にやってくる予測出来ない出来事に、何とかその場その場で対応して生きているということの方が、はるかに実感としては多いのではないでしょうか。一瞬先の株価や有馬記念のレ-ス展開が予測出来ないように、現実は非常に複雑かつ多様で、スーパーコンピュータをもってしても人間の予測を許すものではありません。実際に計画が立てられたといっても、微細な逐一の行動までも計画できるものなどではなく、せいぜい大筋をプラン出来るのが関の山です。そうだとすると、プランを立てることもさながら、想定を超えて日々襲い掛かってくる不可知の出来事に、どうその都度対応していくかということの方が、むしろ重要であることが分かってきます。まさに頭でどうこう考える以前の、瞬時における無意識のレベルでの決断が、私たちの次の人生の行く末を決めていってしまうのです。それでは、この瞬間ごとに無数に迫りくる出来事に対して、どう受け止めてどう対応していけば、私たちの人生を幸せな方向へと好転させていくことが出来るのでしょうか。
剣術の極意に「無眼」とか「心眼」という言葉があります。生死をかけた究極の状況で相手に対する時、次の瞬間に相手がどう打ち掛かってくるのかについて、目で見て観察し頭の中でシュミレ-ションしていたのでは、とても間に合うものではありません。実際に丸太をも切り裂く真剣の切っ先を、人間の目で追うことは不可能でしょう。相手の気を深く察して、相手のいのちと一体となって、我がことのように相手の意識の動きが見えてくるのでなければ、とても無意識のうちに身体が反応して渾身の一撃をかわし、一瞬の隙を衝いて相手に打ちかかることなど出来るものではありません。生死を分けるぎりぎりの緊張の中で、これまで目で見ていた世界の様相は一変し、否が応にも五感を越えて感性が研ぎ澄まされ、自分自身の生きんとする決死のいのちの動きが、心眼によって見えてきます。それと同じくして相手の生きんとする決死のいのちの動きも見えてきて、2つのいのちが共鳴していくのです。そしてこの瞬時において、殺すか殺されるか、生かすか生かされるかの境が定まり、殺人剣となるか活人剣となるかが決まってくるのです。真の達人というのは、まさにこの生死を分かつ一瞬において、反射的に活人剣を選び取れる人物であり、それはまた人生の達人ともなる人物であるのです。このように剣術あるいは武術においては、身体の鍛錬は「無眼」あるいは「心眼」の鍛錬と一体となっており、むしろ身体や技(わざ)の鍛錬は、「無眼」や「心眼」を養成していくための手段であるとされるのです。
少し極端な例をお話し申し上げましたが、この剣術の極意から、私たちが予測できない日常の種々の出来事に対して正しく反応いくための“極意”について、3点ほど読み取れることがあるように思います。1つは剣術の場合、身体や技(わざ)の計画的なトレ-ニングとあわせて、千変万化に変化する相手の動きに呼応するために、「心眼」の鍛錬も意識的に行うということです。同様に私たちも、当たり前のことですが、千々に変化して迫りくる日常の出来事に瞬時にうまく対応して生きていきたいのなら、やはり何らかの鍛錬が必要であり、それを意識的に行わなければならないということでしょう。私たちは現状を分析し、将来を予測し、自己実現が達成出来るように計画を立てることについては目的意識的に行い、近年のマネ-ジメント論の発達によって、その方法論についてもいろいろと研究されてきています。しかし次々と生じてくる事態への柔軟な対応という面では、何か非合理的な東洋の老荘思想の残滓でもあるかのように思い、真面目には取り上げていません。ところが大昔のユダヤ教や初期のキリスト教の世界でも、時間は過去から未来に進むという観念だけではなく、未来から現在に向けて流れて過去をつくっていくという観念もあって、そちらの方がむしろリアルに受け止められていたのです。実際に先に申し上げたとおり、過去につくった計画を現在に実践し未来をつくっていくというよりは、降り注いでくる数々の出来事に対応して人生が積み上がっていくという感覚の方が、私たちにおいてもよほど現実的な生活実感があるように思えます。このように私たちが良く生きていくためには、計画を立てることと同等に、日々の出来事に対処していく方法論と鍛錬も、目的意識的に行っていくことが求められてくるのです。
それでは具体的にどうすれば変化に柔軟に対応できる力が養えるのでしょうか。それが剣術の極意から学ぶ2つ目のポイントです。剣術の場合、互いのいのちを分かりあっていくために、まず相手の気持ちを察すること、感じていくことから意識的に訓練していきます。意識上での合理的な論理や推論の力だけではなく、むしろ意識下の心眼のレベルで、互いのいのちの求めを察していくことを鍛錬していくのです。自分の攻めたい思いだけで撃ちかかったのでは、たちまちの内にこちらの思いが読まれて、打ち負かされてしまいます。私たちも自分の思いには忠実で、むしろその思いだけがすべてであるかのように囚われて、その思いからくる求めを実現していこうとします。そして自分の求めを実現しくことこそが人生の目的であるかのよう思い、計画を立てて狂奔していくのです。しかしこれも当たり前のことなのでけど、他の人も自分の思いと求めを持っており、その両者の思いが1つになっていかない限りは、自分の求めも実現していくことは出来ません。従って自分の思いを論理的に整理して情報発信することとあわせて、相手の思いや求めを察していく力を養うということも、一方ではきわめて重要となってくるのです。しかしこれもまた、あまり意識的には捉えられていません。それどころか自分自身の求めというのも、実は富や権力や名声といった現在の社会の価値観で成功と見なされるものへの欲望にすぎず、逆にその欲望に自分が奴隷のように引き摺り回されているに過ぎないということも、しばしば生じてくることなのです。従って他者の求めのみならず、自分のいのちからの求めというものも、心眼で察していく必要が出てきます。こうして感じ取った本当の自分のいのちの求めというものから、もう1度日々の生活を見直し、そこに確かな自分の生きる意味と目的を見出し、そしてその実現に生きることこそが使命あるいは天職と確信できるまでにならなければ、私たちの立てる計画などいい加減な願望に過ぎず、やがてどこかに立ち消え去っていってしまうものなのです。いずれにせよ私たちが良く生きていくためには、自分の思いを実現する合理的な計画を立て実践する力と共に、いのちの求めや動きを察する力、感じる力をも磨いていかなければなりません。そのために私たちの先祖は、瞑想や修行という手段によって自分と向き合う方法を編み出してきたのですが、他者に対してそれこそいのち懸けで真剣に向き合うという状況をつくることも、剣術の極意は私たちに重要な方法として教えてくれるのです。
それでは察する力、感じる力を養ってどうするのでしょうか。それが剣術の極意から学ぶ3つ目のことで、他者の求めと自分のいのちの求めとが、深いところで一体となって感じ取られていくということがポイントになってきます。いのちを殺(あや)めるのではなく本当に存分に生かしたいという思いは、すべての生き物に共通した求めでしょう。そしてその求めに生きることが出来た時、生ける物は何であれ、心底喜んで生きることが出来るのです。従ってこの喜びの思いにまで至った時には、活人剣を求める心はきわめて自然に形造られ、逆にこの思いの段階でなお殺人剣を意図することは、尋常な人間の神経では成し得ることではありません。殺す殺されるとしても、それも相手を活かすために行う。しかし殺して生かすなどという器用なことが出来ないからこそ、必死で共に生きられる道を求めていくのです。その共に生きられる道を、いのちの力の本来の働きに委ねて、瞬時の変化に対応して見出していけるように鍛錬していくのです。
もう1つポイントを付け加えるなら、自分の求めばかりが先に立ってしまう私たちが、相手の思いを察し、自分自身の深いいのちの求めにも気づいていくためには、やはり自分の思いから自分自身を引き離し、客観的な視点から自分と他者との置かれた状況を見ていく視点が必要となってきます。しかもその視点は、自分も他者もいのちを生かしたいという求めが、1つに合わさってくるような方向からの視線でなくてはなりません。そこで私たちの先人たちは、“神の目”や“ご先祖様の目”から恥じること無く自分を捉える方法を編み出していったのです。
こうして私たちが、他者の思いや自分のいのちの求めを察する力を養い、毎日の生活の中で降りかかってくる様々な出来事に対して、共に生かし合おうとするいのちの求めに従って自然に対応していける様にまでなる時、私たちの積み上げる人生の方向は、少しずつ柔和で慈しみに満ちた方向へと変えられるようになっていくのです。
さてまたしてもごたごたと屁理屈を述べ連ねてしまいましたが、要は今年1年を良くしていくためには、計画を立てると同時に、変化に対応する力を養うことも目的とされてはいかがですかということです。変化に対応するといっても、今までの惰性で身に着いた習慣から対応していたのでは、人生は変わりません。人生が良くなるような対応を積み重ねるためには、知性や論理だけでなく、人の気持ちを察する力、感じる力をも養っていくことが大切になってきます。そして他の人のいのちの求めを察することができ、自分のいのちの求めとあわせて実現しようとして変化にいつも対応していく時、私たちの人生の方向は確実に変わり始めてくるのです。聖書の中に『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい』という言葉があり、黄金律と呼ばれています。私たちが人のいのちの求めを察し、その求めを満たすことが自分の求めとなって自然に出来るようになるとき、私たちの“縁”も変わって、毎日に遭遇する人や出来事も変化していきます。日々生じる予測できない様々な出来事も、じつは私たちの“縁”が引き寄せているという面も多分にあるからです。こうして日々やってくる出来事の内容も、いのちを育む思いがけないチャンスが多くなるにように変化していきます。そして私たちの相互が、瞬間瞬間の小さな出来事に対して、黄金律のごとくに互いのいのちを生かしあう対応を積み重ねていく時、自分の人生のみならず、世界の運命も変わっていくのです。
1月5日の火曜日は、新年のためにパンセの集いはお休み致します。その次の12日の火曜日からは再開し、老いの意味と価値、“終活”のあり方について考えていってみたいと思います。それでは皆様、良いお正月をお過ごし下さい。