ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.67『人工知能と生物の違いから考える老いと退職期』

Jan 17 - 2016

■2016.1.17パンセ通信No.67『人工知能と生物の違いから考える老いと退職期』

皆 様 へ

元日にEテレで放送された番組、新世代が解く!日本のジレンマ『“競争”と“共生”のジレンマ』の最後の部分で、人工知能が話題に取り上げられました。競争と共生は、人間が意欲を高めて能力を発揮しつつ、支え合って生きていくためには重要な原理なのですが、両立の難しいものでもあります。そこで若い世代の論客たちが、感情と利害の絡む人間よりは、人口知能が政治・社会について意志決定する方が、競争と共生という矛盾する原理を調整するには、うまくいくのではないかという議論が出されていました。なるほど論理的にはそうかもしれません。さらにビデオインタビュ-でドワンゴを創業した川上量生さんが登場して、古文や漢文を勉強してもメシは食えない。自分はニートなど社会に適応できない人たちを本当に救いたい。そのために教えなければならない基礎能力はプログラミングだ、というような話をされていました。これも否定は出来ない論点です。そして話はベ-シックインカム(最低所得保障制度。政府がすべての国民に対して、最低限生活するに必要な金額を支給)制度にまで及び、ロボットと人工知能の発達によって、私たちが働かずに暮らしていける可能性についても触れられていきました。かつて古代ギリシアの都市国家やロ-マ帝国において、奴隷労働に支えられた市民が労働から解放され、自由を享受して生活していたように。しかしそれは時期尚早という結論でまとまったようでした。社会福祉による支援のニ-ズは多様で、ベ-シックインカムで尽くせるものではないという指摘と財政負担の問題、また最低生活が保障されて働かなくなった人間は遊民化するだけではないかという不安が、その背景にあっての批判のようでした。どれもいちいちもっともな議論だったのですけど、1つ気になったのは、人工知能(AI)と生命・いのちを同列に扱って良いのかという問題です。言い方を変えると、人口知能と生命とはどこがどう違うのか、その違いをまずわきまえようとする考え方をしないと、議論は腑に落ちる答えを出せないままに漂流してしまうのではないかと感じました。チェスや将棋でコンピュ-ターが人間を上回るように、やがて人工知能は人間の能力のすべてを凌駕するようになる。でもそれで良いのか。その時人間と人工知能との関係はどうなるのか。私たちの暮らしや人生はどうなるのか、といった具合に何か薄気味悪い疑問が、AIと生命との違いをはっきりさせておかないと次々と浮かび上がってきます。

次回のパンセの集いでは、機械工学や人工知能のような情報処理テクノロジ-と比較して、生命やいのちを持つ生物はどこがどう異なるのか。そのことを手掛かりとしつつ、人生最後の老いから遡って、各世代における私たちの生き方について、いのちの原点に立ち戻って考え直す取り組みを行っていってみたいと思います。日時は1月19日火曜日の16時から、初台・幡ヶ谷の地域で行います。

それではまずモノ(物)と生物の違いから考えていってみたいと思います。当たり前の話ですが、モノにはいのちが無いけれど生物にはいのちがあります。それでは、いのちがあるというのはいったいどういうことなのでしょうか。まずモノから考えてみましょう。モノは私たちの必要にあわせ、最小の素粒子から宇宙の銀河に至るまで様々な単位で捉えられ、その単位の物質間で働く反応や力や運動は、法則という概念で数式に置き換えて捉えられます。そしてその法則は、原則として原因・結果の一義的な因果性の秩序として把握されるのです。つまりモノは、全宇宙を貫く自然法則によって必然的に存在し、モノとモノとの関係や反応や運動も、その間に働く力によって、因果的に一義的な法則によって決まってくるものと理解されるのです。このモノの存在やモノとモノとの間に働く力の法則を考える領域の学問が物理学で、このモノの世界の法則を利用して、モノやエネルギ-を人間生活に利用するのがテクノロジ-です。

これに対して生物はどうでしょうか。誰でも気づく生物の特徴は、モノと違って単に必然的な因果の自然法則に従うのではなく、何らかの欲望や意志を持っているということです。そして生命体という1つの有機的に秩序だった統合体として個体を形成し、この統合体の内と外で代謝を行って自己を維持し、また増殖したり子孫を残していくという特徴を持っています。植物の欲望や求めは、自己の生命を維持し、子孫を残すということが中心でしょう。動物にあっては、さらにエサを取りたいという求めや、危険を避け安全な場所に移動したいなどという個々の時点での欲望がはっきりしてきます。さらに私たち人間に至っては、意識や意志が明確なものとなってきます。意識の中で外界を認識し、様々な感情が呼び起こされ、判断し意志決定していくのです。その外界の認識の仕方というのは、カメラのように単純に外界を反映して写し取るようなものではありません。自分の欲望に従って、自分にとって必要なものとそうでないものとをより分けて捉えていくのです。机の片隅に辞書があっても、必要の無い時には目に入らず、存在しないのと同じです。何かの意味を調べたいという必要が生じて初めて、辞書は意識されて自分にとっての存在を現すのです。そして自分の欲望にとって必要なものは“意味”のあるものとして意識され、その欲望をよりうまく満たすものは価値のあるものとして了解されるのです。

このようにモノは因果関係の必然の法則に従って存在するのに対し、生物は欲望相関的に世界を意味と価値あるものに分節して、個々に自分や種族や子孫がよく生きられるように、意志と目的を持って生きているという違いが浮かび上がってきます。さらに生物にはいのちがあって、太古の昔から未来に向かって、環境変化に適応したりより良く生き残っていくために、形質や本能を変化させたり、多様性を確保してリスク分散したり、知恵を発現させて危機に対応する仕組みを遺伝子に組み込んで先の世代へと受け渡していきます。このいのちの継承そのものもある方向性をもって、言い換えれば大きな目的をもって流れているのかもしれません。

さて以上のようにモノと生物あるいは生命・いのちとの相違を整理した上で、次に情報処理について考えてみます。私たち人間を例にとって考えてみると、情報処理というのは、外界から入ってくる情報をまず欲望相関的に取捨選択し、自分たちが生きるために都合の良いように加工して、より便利なものに変えて活用していくというプロセスです。先ほどの生物の特徴から言えば、情報を自分にとって意味と価値あるものに変えていくという作業になります。例えば生活費を節約したくて、近所にある食品スーパーごとの値引きの時間帯を調べ、一覧表に整理して活用するといったようなことです。一方コンピュ-タは、計算・検索・分類などの情報処理を、人間をはるかに凌駕する量と速度でこなします。しかし処理するデ-タのインプットと、それを何の目的でどう処理するかの手順は、人間がプログラミングでコンピュ-タに指示を与えなければなりません。人工知能というのは、この情報処理したデータからコンピュータ自らが推論し判断を下します。さらには自ら学習し、プログラミングを変え、より良い対応が行っていけるようにする能力を持っているのです。その意味で人工知能は、自らが生物と同じように状況を判断し、目標を設定して、最も可能性の高い選択を行って対応していくことが出来るものなのです。それでは人間と人工知能とでは、いったいどこがどう異なるのでしょうか。

ここでもう1度、モノと生物との違いを整理することから人間と人工知能の相違点を明らかにし、現代の課題を考えていってみたいと思います。モノの存在や関係性(事物連関)は、一義的な因果性の秩序や法則によって把握されます。その法則に基づくモノの運動や反応は再現が可能で、この性質を用いて人間は科学やテクノロジ-を発達させました。その恩恵は本当に絶大です。またモノには意志がないので、いちいち気を遣って言うこと聞かせるなどの面倒な対応も必要ありません。情報処理・人工知能においては、基本的にはこのモノの世界を律する必然的な原因結果の論理に基づいて情報処理が行われ、推論し、判断がなされていきます。一方生物というのは、欲望相関的に世界を自分にとっての意味と価値に応じて分節し、それ故に常に自分にとっての意味と価値を生みだして生きていく存在です。その判断は、客観デ-タの分析による推論ではなく、快・不快や好き・嫌いなどの気分によって一瞬にしてやってきます。外部からの情報も、感情によって感じること共にやってきます。そしてこの感情の葛藤の中で意志が形づくられていくのです。こうして1つ1つの個体が意志を持つが故に、その意志を互いに感じあって調整していくという意識作用も必要になってきます。さらには、本能や遺伝子に組み込まれた生命誕生以来の記憶情報もがあわさって、目的の設定とそこに向けた判断が瞬時に行われていくのです。つまりモノの世界とそれに基づく情報処理としての人工知能の仕組みと、生物の意志作用としての情報処理の仕組みとでは、質的に大きく異なる仕組みのものなのです。

現在はテクノロジ-とITが全盛の時代で、2045年位にはコンピュ-タの処理能力が18ヶ月で2倍になるというムーアの法則に基づいて、1台の人工知能が全人類の能力を越えると予測されています。しかしそのためには、モノの世界と生物の世界の質的相違をも越えていく必要があるでしょう。現状では、人工知能に出来るのは、限られた期間の過去のデータとその傾向に基づく予測と判断にしか過ぎません。従って新商品を開発しても、売れ筋商品の情報の寄せ集めといったものに過ぎなくなり、次第にマンネリ化したものになっていく恐れがあります。こうしたモノの世界の仕組みで人間や社会も考えようとするのですから、私たちの生活も無生物化していき、平板な味気ないものになっていくのも仕方がないことかもしれません。一方生物である人間の場合には、意識の中で人工知能よりもはるかに膨大な情報処理が質的な異なった方法で瞬時に行われるために、人工知能の合理的手順では導き出せない飛躍したアイデアが、インスピレーションとしてやってきます。しかもわくわくドキドキ興奮する高揚感と共にやってくるのです。

今後人工知能はますます分析・推論・判断・学習能力を高めていくことでしょう。しかしその一番の問題点は、目標の設定かもしれません。一体何を指針にAIは目標を導き出すのでしょうか。自然科学の最先端の領域、素粒子論や宇宙物理学の分野では、科学者は必死に自然から学び、その神秘を解き明かそうとしています。しかしテクノロジ-やITの分野では違います。人間の便利や都合のために、テクノロジ-やITを応用することが目的となるからです。人工知能(AI)がこの延長戦上にあるとしたら、誰かの都合や人工知能そのものの目的のために目標を設定し、判断を下すということにもなりかねません。人間がモノとの豊かな関係に生きていくのではなく、モノの目的のために人間が生きていくという、ちょっとおぞましい状況にもなりかねません。反面人間は愚かですが、どこかで地球という生態系が滅びないで、自分も他の生き物も一緒に楽しく生きていくのが嬉しいという感性も、素直な部分であわせ持っています。地球上に生命が誕生して以来40億年近くにわたって、生命が滅びずに受け継がれて今も繁栄している叡知が、私たちのいのちの奥底には流れているのかもしれません。このいのちの叡知がいざという時にはセーフガードとして発動して、私たちが滅びずに、生き物として自由に欲望して意味と価値に生きていける目標を、無意識にも選び取っていく本能があるのかもしれません。

いずれにせよモノの法則を解明する物理学やそれを応用するテクノロジ-に比べて、生命やいのちは未解明な部分が膨大に残されています。人間の欲望が、まずはモノの富の豊かさに向かって、いのちの富の豊かさの解明は後回しになっていたからです。いのちはまだまだ謎に満ち、私たちは最先端の自然科学者のように、その仕組みを畏敬しながら謙虚に学びとっていかなければなりません。テクノロジ-を手に入れて世界を思い通りに出来ると思った瞬間、人間は滅びの淵に立たされますが、謙虚に反省し学び続ける限り、私たちには生き延びる可能性が広まってくるのです。

前回人間の人生の区分で四住期という捉え方をご説明いたしました。壮年期である家住期においては、物質的な生活を支えねばなりませんから、ITを含めたテクノロジ-と向き合い、物質的な富を生み出すことが中心となってきます。しかし退職する林棲期、遊行期においては、生命やいのちと向き合い、その意味と価値を明らかにして伝えていくことが課題となってきます。こうしたシニアから老いに至る世代が、人生の意味を見出していのちの価値を伝える営みは、産業革命以降すっかりないがしろにされてきましたが、今2それを復権することが大事になってきているのかもしれません。そのいのちの価値を学生期(青年期)や家住期(壮年期)の若い世代に伝えることによって、テクノロジ-革命、IT革命に次ぐいのちの豊かさの革命をもたらすことが、現代において可能となってきているのかもしれません。そうなればベ-シックインカム制度のもとでも、人間の遊民化を心配する必要は無くなることでしょう。そしてそのいのちの感性を養うツールとして、古文や漢文、文学や映画などのリベラルアーツが、プログラミング同様重要な素材として認識されるようになってくるのです。次回のパンセの集いは1月19日火曜日の16時からです。林棲期や遊行期の生き方、死に様への備え方についてさらに掘り下げて考えていきたいと思います。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、参加ご希望の方は白鳥までご連絡下さい。)