■2016.1.24パンセ通信No.68『イタリアと江戸-2つの社会から考える生き方と経済』
皆 様 へ
今回もまたEテレの新春スペシャル番組からですが、『100分de名著』が1時間40分(100分)の枠で、平和論を取り上げました。その中で経済学者の水野和夫さんがブロ-デルの『地中海』を解説され、江戸学者の田中優子さんが井原西鶴の『日本永代蔵』を紹介されました。『地中海』は、ベネチアやジェノバなどのイタリアの都市国家が、何故に繁栄し衰退していったかを語る歴史学の大著です。資本主義というのは、利潤による資本の蓄積とその自己増殖の経済システムですが、その最初は商業資本主義から始まります。出来るだけ安く仕入れて、出来るだけ高く売って多くの儲けを得るのです。その雄として登場するのがベネチアです。地中海貿易を独占し、小アジアやシリアから香辛料や絹織物を仕入れ、ヨーロッパの各地に売りさばいて莫大な利益を上げました。しかし15世紀になるとオスマントルコ帝国の台頭でこの東方貿易は衰退するのですが、こうしてベネチア等に蓄えられた富が、更なる利潤を求めて産業分野に投資されます。当時ミラノやフィレンツェで勃興してきた毛織物にも投資されるのですが、主に投資資金が向かったのは、利益率の高いワイン産業、そしてブドウ栽培でした。また貨幣経済の発展と共に為替手形や船舶保険などの金融技術が発展し、現金による商品取引の何倍もの信用創造が図られて、更なる投資へと向かうことになります。こうして発展した金融資本主義の雄となったのがジェノバです。こうした信用創造もあってさらに蓄積された莫大な資金は、やがて投機資金と化してブドウ栽培のための土地開発に向かい、何度も農地開発のバブルとその崩壊を招きます。そんなバブルを繰り返しつつ、ついにイタリア全土の土地を開発し尽くして、もはやブドウ栽培に適する土地は無くなるという状況にまで至りました。(今の日本で言えば、道路とコンクリ-トと新幹線と工場を張り巡らし終えて、もはや公共投資も民間投資も投資先が無くなるといった状況に比肩できるでしょうか。)
こうして金融資本が投資先を失って金余り状態となったジェノバでは、1611年から1621年にかけて11年間にわたって、4~5年物の国庫貸付金の金利が1%台という歴史的な超低金利時代を迎えることになります。(因みに日本の直近の10年物新発国債の金利は0.225%で、5年物国際の金利が1%台に落ち込むのは平成7年からですから、20年以上に渡ってジェノバを超える歴史的超低金利を続け、その記録を更新し続けていることになります。)こうして十分な利益の見込める投資先を失ったジェノバの金融資本は、その投資先を当時の覇権国家であったスペインに向けることになります。スペインはこの巨額の資金をもとに、南米の植民地の争奪とその経営を行い、そこから巨万の銀を収奪し、その富をスペインとジェノバにもたらしました。またそのために、スペインは各地で戦争を繰り返すことになるのです。(今の日本で言えば、かつて産業と貿易でまじめに稼いだ資金の大半を、アメリカ国債を買ってアメリカに投資し、アメリカを支えているという状況でしょうか。)
この間1つ注目しておかなければならないことは、この当時のイタリア北部の商業都市でも、少子化が進行したということです。少子化そのものはけっして悪いことではなく、子育てにかかる費用が貯蓄や消費に回るので、内需の拡大と中産階級を育成します。実際に現代の中国の例に見られるように、少子化は途上国が先進国へとテイクオフするための1つの必要条件とも言えます。しかし当時のイタリアでは、こうしてせっかく育ってきた中産階級が、やがて格差の拡大で一握りの富裕層と貧困層に分裂していきます。利潤の極大化もとめる商業資本や金融資本が、スペインを通じた植民地からの収奪によって海外からの利潤を拡大するのみならず、国内の中産層・労働者層からも収奪して自分たちの利潤の増大を図っていったのです。生活状態が悪化する者の増えた北イタリアでは、経済的問題もあって、生涯独身者の比率は40%にまで及んだとも言われています。
一方メディチ家を中心に同じく金融資本を発達させたフィレンツェでは、戦争を繰り返し財政破綻のリスクも高いスペインへの投資から、資金を新たに勃興してきたオランダやイギリスの東インド会社等へと振り向けていきます。(今日の日本で言えば、内需を失った企業が、高い利潤率を求めて成長する海外市場に投資するといったところでしょうか。)こうしてメディチ家所有の大量のスペインとジェノバの国債が売られ、ジェノバの歴史的低金利も、1620年代入ると6%まで急騰することになりました。このイタリアからの資金移動によって、新興勢力であるオランダ・イギリスはスペインとの植民地争奪戦に勝利し、またもはや地中海を経由しない大航海時代を切り拓いて、インド・東アジアとの交易も支配下に治め、世界の覇権はスペインからオランダ・イギリスへと移っていったのです。その結果、スペインと共に金融覇権を誇ったジェノバも没落してイタリアの富は失われ、さらに残された富も、もはや中産層や国内産業も無く内需を失ったイタリアを離れて、海外へと散逸していってしまったのです。こうして中世から近代への扉を開き、経済覇権国家として繁栄を欲しいままにしたイタリアの商業都市は、歴史の表舞台から消え去っていってしまったのです。
1月26日火曜日のパンセの集いは、中世から近代に移行するにあたってのこうしたイタリアの資本主義経済の動向と、江戸時代が選択した経済システムを比較し、現在における私たちの生き方を考えていく手掛かりにしていってみたいと思います。16時から初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さて、イタリアに対して日本の江戸時代の場合はどうだったのでしょうか。イタリアの場合には、ひたすら利潤を増大させるために、海外では植民地を形成して富を収奪するために戦争に加担し、また国内では中産階級や労働者・農民を収奪してそのためには強権も辞さずに格差を拡大させて、富を一部の富裕な資本家層に集中させていきました。その結果内需を喪失し、富はスペインからの覇権の移動に伴う破綻や海外への移転で消失し、結局イタリアの商業都市国家は没落していってしまったのです。それでは日本の江戸時代の場合はどうだったのでしょうか。Eテレの番組では、江戸文化学者で法政大学の総長でもある田中優子さんが、井原西鶴が『日本永代蔵』で紹介する商人や庶民の商いの知恵、生活の心得を通じて解説していって下さいました。
江戸時代の特徴は、じつはこの西鶴の書名に象徴的に表されているのです。“蔵”というのは財貨の富を保管する場所のことですが、その保管した富が“永代”に続くことを目的としたというのです。つまり、富をいたずらに拡大させるために狂奔することよりも、持続させることに大切な価値を置いたということなのです。江戸時代に至る以前の戦国、そして織田信長や豊臣秀吉の安土・桃山の時代は、経済的には拡大循環(現在で言えば高度成長時代の大量生産、大量消費と言えましょうか)の時代で、戦に明け暮れ、城を造り、そのために山の木や資源を消費し、豊富に産出する銀を元手に南蛮貿易等で必要なものはどんどん購入して消費しました。それに対して江戸時代は、戦乱を収め泰平の世を実現するために、富を拡大させることよりも平和を持続させることに主眼を置いて社会と経済の仕組みをつくり、その運営を行ったのです。まず当時の支配階層である大名に富が集中して蓄積されることが無いように、参勤交代の制度を設け、また様々な普請を課して、年貢等で大名に集約された財貨を分配していく仕組みをつくりました。大名が富を蓄えて力をつけると、戦の火種になりかねないからです。この参勤交代の仕組みによって、大名は国元でも江戸でも家臣やその家族を養うためにお金を使い、また参勤交代の道中の街道でもお金を使うことになるので、富が分配され、また大名に戦を起こす経済的余裕を残さないことになります。
こうした富が集中せずに分配される経済構造のもとで、西鶴が庶民や商人の中でまず美徳として示した資質は、倹約して始末するという精神です。始末というのは、ただ身を縮ませて倹約するのではなく、始めと終わりをきっちりするということです。大名・武士から得た貨幣(武士は札差を通じて年貢米をお金に換えました)で購入して使い始めた商品を、自分が使い終わると廃棄するのではなく、お金を介在させてそれを修理したり他の人に売ったりしてリサイクルし、循環させていくのです。こうして細かくお金とモノとを循環させて、需要と付加価値(富)を国内につくり出していったのです。国内に需要と富を生み出す循環があって持続していくのですから、海外に進出する必要はありません。それでも必要なものがあれば、鎖国という名称のもと長崎出島においてオランダ東インド会社と管理貿易を行い、中国・琉球・朝鮮半島とも交易して調達し、最新の情報も入手出来たので、海外進出をせずとも特段不自由することは無かったのです。
次いで西鶴が推奨したのは、始末によって商品の循環過程が細かく分節され、修理やリサイクル等によって多くの付加価値をつくるチャンスが生みだされるので、創意工夫を凝らして人の気づかない商売を見つけて行い、倹約して勤勉に働いて財をなすことでした。番組では、差米検査でこぼれ落ちた米をほうきで掃き集め、また捨てられた米俵の藁蓋で銭差しをつくることから始めて、大店となった母子の話しが紹介されます。こうして江戸時代の街では、虫売りや朝顔売り等の棒手振り(ぼてふり、天秤棒をかついた行商)からあらゆる種類の修理・職人業、さらには下肥問屋までおよそ考えつく限りの職業が生みだされていくのです。そしてその生業も決して貧困なものではなく、当時の大工の日当が飯米料を含めて540文(1文=30円、約16,200円)と言われますから、現代の給与水準と遜色の無いものであったことが分かります。従って西鶴は「すぎはひは草ばふきの種なるべし」と語り、生きる方法は草の種ほどいろいろあるものだから、行き詰ってしまってもどこかに仕事は見つけられるものだと、当時の人々を励ましたのです。
こうした江戸時代の職業状況を、現代のITネトワ-クを活用して極限まで効率化を推し進めようとするニュ-エコノミ-等と比較してみると、後者は結局一部の中枢社員が、IT技術を駆使して使い捨て(非正規、派遣)の単純労働者を低賃金で雇用することによって、二極分解と格差拡大による富の偏在をもたらし、イタリアの商業都市国家と同じ状況をもたらしているにすぎないことがわかります。私たちは資本主義の理念として合理性や効率性を刷り込まれているものですから、最小のコストで最大の利潤を得るために、問屋を介さないで中抜きして消費者に直接販売して、価格を押し下げ利潤を拡大する道を推し進めてきたのですが、これによって結局中枢と末端しか残らなくなり、中間過程での付加価値の創造と分配の芽は摘み取られることになってしまいました。小泉構造改革において竹中平蔵氏以来推し進めてきた新自由主義的改革がまさにこれで、この結果下請け中小企業は淘汰され、正社員は非正規社員に置き換わり、日本の内需は大打撃を受けて成長の潜在力を喪失し、庶民の生活は貧困化してしまいました。これに対して江戸時代は、正反対の道を選んだのです。象徴的に言えば、便利で効率性の高いコンビニをつくるのではなく、それを解体して何百種類もの職業を生みだして、豊かな内需と生活をつくり出したとも言えます。こうした現代と江戸との状況の相違に鑑みて、水野和夫さんは、最小コストによる最大利潤という経済合理性は重要だが、現代においてはかえってそれが害になってきている。現在の経済状況においては“合理性”の概念を変えていかなければならないとおっしゃっていました。
さて井原西鶴がその上でさらに語るのは、商売を行うにあたってやってはいけない戒めで、それは不正です。西鶴は不正や偽装に対してきわめて厳しく「いくら生きるためといっても、そういう人でなしになるなら、たまたま生を受けてこの世に生きても意味はない」とまで言っています。江戸時代においては、仕事は大事でお金は必要だが、お金を稼ぐことだけが至上の価値観ではないという観念があったのです。それでは何を大事にしたのか。「信用」とか「信頼」です。信用とか信頼があるから商いが長続きして持続するのです。そしてこうした信頼関係にある社会をつくることが、また平和を持続させることにもなるのです。
現代の経済学においては、経済人(ホモエコノミクス)というものを前提に理論が組み立てられています。経済人というのは、自己の利益を極大化させるように経済合理性に基づき行動する人のことです。しかしみんなが経済合理性を求めて行動すれば、そこに生まれる人間は、みんな同じキャクラタ-になってしまいます。しかし西鶴の紹介する江戸時代の人々は、じつにみんな生き生きとして個性豊かな独特のキャクタ-に生きています。そして利益の極大化のみならず、「お天道様に申し訳なく無いように」とか「ご先祖様に恥ずかしく無いように」というモラルをみんなが持っていて、それがしっかりと“経済人”という価値観に接続されて、信頼に結ばれた持続可能な社会経済を生み出していたのです。そしてその社会においては、特別の社会保障制度がなくとも、「まともな仕事をしてこそ人間である。夢のような50年やそこらの人生、何をして暮らしたところで、生きられないことはないはずだ」という安心と信頼に生きる事が出来たのです。
次回のパンセの集いでは、「資本主義はあるところまでは人と社会の幸せに寄与するが、ある一線超えると、逆に人も社会も不幸にする」という現在私たちが直面している現状から出発して、ここまで見てきたイタリアと江戸との社会の相違から、内需を生み出す経済について考え、そのために必要な持続と安定をもたらす信頼や信用といった価値観についても検討していってみたいと思います。さらにそうした経済合理性とは異なる価値観を、林棲期や遊行期のシニア・老年期の生き方理想から取り出し、それを家住期(壮年期)の経済合理性にもとづく生産活動に励む人たちに接ぎ木し、これからの時代の生き方と仕事のあり方についても考えていってみたいと思います。1月26日の火曜日16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、参加ご希望の方は白鳥までご連絡下さい。)
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今回もまたEテレの新春スペシャル番組からですが、『100分de名著』が1時間40分(100分)の枠で、平和論を取り上げました。その中で経済学者の水野和夫さんがブロ-デルの『地中海』を解説され、江戸学者の田中優子さんが井原西鶴の『日本永代蔵』を紹介されました。『地中海』は、ベネチアやジェノバなどのイタリアの都市国家が、何故に繁栄し衰退していったかを語る歴史学の大著です。資本主義というのは、利潤による資本の蓄積とその自己増殖の経済システムですが、その最初は商業資本主義から始まります。出来るだけ安く仕入れて、出来るだけ高く売って多くの儲けを得るのです。その雄として登場するのがベネチアです。地中海貿易を独占し、小アジアやシリアから香辛料や絹織物を仕入れ、ヨーロッパの各地に売りさばいて莫大な利益を上げました。しかし15世紀になるとオスマントルコ帝国の台頭でこの東方貿易は衰退するのですが、こうしてベネチア等に蓄えられた富が、更なる利潤を求めて産業分野に投資されます。当時ミラノやフィレンツェで勃興してきた毛織物にも投資されるのですが、主に投資資金が向かったのは、利益率の高いワイン産業、そしてブドウ栽培でした。また貨幣経済の発展と共に為替手形や船舶保険などの金融技術が発展し、現金による商品取引の何倍もの信用創造が図られて、更なる投資へと向かうことになります。こうして発展した金融資本主義の雄となったのがジェノバです。こうした信用創造もあってさらに蓄積された莫大な資金は、やがて投機資金と化してブドウ栽培のための土地開発に向かい、何度も農地開発のバブルとその崩壊を招きます。そんなバブルを繰り返しつつ、ついにイタリア全土の土地を開発し尽くして、もはやブドウ栽培に適する土地は無くなるという状況にまで至りました。(今の日本で言えば、道路とコンクリ-トと新幹線と工場を張り巡らし終えて、もはや公共投資も民間投資も投資先が無くなるといった状況に比肩できるでしょうか。)
こうして金融資本が投資先を失って金余り状態となったジェノバでは、1611年から1621年にかけて11年間にわたって、4~5年物の国庫貸付金の金利が1%台という歴史的な超低金利時代を迎えることになります。(因みに日本の直近の10年物新発国債の金利は0.225%で、5年物国際の金利が1%台に落ち込むのは平成7年からですから、20年以上に渡ってジェノバを超える歴史的超低金利を続け、その記録を更新し続けていることになります。)こうして十分な利益の見込める投資先を失ったジェノバの金融資本は、その投資先を当時の覇権国家であったスペインに向けることになります。スペインはこの巨額の資金をもとに、南米の植民地の争奪とその経営を行い、そこから巨万の銀を収奪し、その富をスペインとジェノバにもたらしました。またそのために、スペインは各地で戦争を繰り返すことになるのです。(今の日本で言えば、かつて産業と貿易でまじめに稼いだ資金の大半を、アメリカ国債を買ってアメリカに投資し、アメリカを支えているという状況でしょうか。)
この間1つ注目しておかなければならないことは、この当時のイタリア北部の商業都市でも、少子化が進行したということです。少子化そのものはけっして悪いことではなく、子育てにかかる費用が貯蓄や消費に回るので、内需の拡大と中産階級を育成します。実際に現代の中国の例に見られるように、少子化は途上国が先進国へとテイクオフするための1つの必要条件とも言えます。しかし当時のイタリアでは、こうしてせっかく育ってきた中産階級が、やがて格差の拡大で一握りの富裕層と貧困層に分裂していきます。利潤の極大化もとめる商業資本や金融資本が、スペインを通じた植民地からの収奪によって海外からの利潤を拡大するのみならず、国内の中産層・労働者層からも収奪して自分たちの利潤の増大を図っていったのです。生活状態が悪化する者の増えた北イタリアでは、経済的問題もあって、生涯独身者の比率は40%にまで及んだとも言われています。
一方メディチ家を中心に同じく金融資本を発達させたフィレンツェでは、戦争を繰り返し財政破綻のリスクも高いスペインへの投資から、資金を新たに勃興してきたオランダやイギリスの東インド会社等へと振り向けていきます。(今日の日本で言えば、内需を失った企業が、高い利潤率を求めて成長する海外市場に投資するといったところでしょうか。)こうしてメディチ家所有の大量のスペインとジェノバの国債が売られ、ジェノバの歴史的低金利も、1620年代入ると6%まで急騰することになりました。このイタリアからの資金移動によって、新興勢力であるオランダ・イギリスはスペインとの植民地争奪戦に勝利し、またもはや地中海を経由しない大航海時代を切り拓いて、インド・東アジアとの交易も支配下に治め、世界の覇権はスペインからオランダ・イギリスへと移っていったのです。その結果、スペインと共に金融覇権を誇ったジェノバも没落してイタリアの富は失われ、さらに残された富も、もはや中産層や国内産業も無く内需を失ったイタリアを離れて、海外へと散逸していってしまったのです。こうして中世から近代への扉を開き、経済覇権国家として繁栄を欲しいままにしたイタリアの商業都市は、歴史の表舞台から消え去っていってしまったのです。
1月26日火曜日のパンセの集いは、中世から近代に移行するにあたってのこうしたイタリアの資本主義経済の動向と、江戸時代が選択した経済システムを比較し、現在における私たちの生き方を考えていく手掛かりにしていってみたいと思います。16時から初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さて、イタリアに対して日本の江戸時代の場合はどうだったのでしょうか。イタリアの場合には、ひたすら利潤を増大させるために、海外では植民地を形成して富を収奪するために戦争に加担し、また国内では中産階級や労働者・農民を収奪してそのためには強権も辞さずに格差を拡大させて、富を一部の富裕な資本家層に集中させていきました。その結果内需を喪失し、富はスペインからの覇権の移動に伴う破綻や海外への移転で消失し、結局イタリアの商業都市国家は没落していってしまったのです。それでは日本の江戸時代の場合はどうだったのでしょうか。Eテレの番組では、江戸文化学者で法政大学の総長でもある田中優子さんが、井原西鶴が『日本永代蔵』で紹介する商人や庶民の商いの知恵、生活の心得を通じて解説していって下さいました。
江戸時代の特徴は、じつはこの西鶴の書名に象徴的に表されているのです。“蔵”というのは財貨の富を保管する場所のことですが、その保管した富が“永代”に続くことを目的としたというのです。つまり、富をいたずらに拡大させるために狂奔することよりも、持続させることに大切な価値を置いたということなのです。江戸時代に至る以前の戦国、そして織田信長や豊臣秀吉の安土・桃山の時代は、経済的には拡大循環(現在で言えば高度成長時代の大量生産、大量消費と言えましょうか)の時代で、戦に明け暮れ、城を造り、そのために山の木や資源を消費し、豊富に産出する銀を元手に南蛮貿易等で必要なものはどんどん購入して消費しました。それに対して江戸時代は、戦乱を収め泰平の世を実現するために、富を拡大させることよりも平和を持続させることに主眼を置いて社会と経済の仕組みをつくり、その運営を行ったのです。まず当時の支配階層である大名に富が集中して蓄積されることが無いように、参勤交代の制度を設け、また様々な普請を課して、年貢等で大名に集約された財貨を分配していく仕組みをつくりました。大名が富を蓄えて力をつけると、戦の火種になりかねないからです。この参勤交代の仕組みによって、大名は国元でも江戸でも家臣やその家族を養うためにお金を使い、また参勤交代の道中の街道でもお金を使うことになるので、富が分配され、また大名に戦を起こす経済的余裕を残さないことになります。
こうした富が集中せずに分配される経済構造のもとで、西鶴が庶民や商人の中でまず美徳として示した資質は、倹約して始末するという精神です。始末というのは、ただ身を縮ませて倹約するのではなく、始めと終わりをきっちりするということです。大名・武士から得た貨幣(武士は札差を通じて年貢米をお金に換えました)で購入して使い始めた商品を、自分が使い終わると廃棄するのではなく、お金を介在させてそれを修理したり他の人に売ったりしてリサイクルし、循環させていくのです。こうして細かくお金とモノとを循環させて、需要と付加価値(富)を国内につくり出していったのです。国内に需要と富を生み出す循環があって持続していくのですから、海外に進出する必要はありません。それでも必要なものがあれば、鎖国という名称のもと長崎出島においてオランダ東インド会社と管理貿易を行い、中国・琉球・朝鮮半島とも交易して調達し、最新の情報も入手出来たので、海外進出をせずとも特段不自由することは無かったのです。
次いで西鶴が推奨したのは、始末によって商品の循環過程が細かく分節され、修理やリサイクル等によって多くの付加価値をつくるチャンスが生みだされるので、創意工夫を凝らして人の気づかない商売を見つけて行い、倹約して勤勉に働いて財をなすことでした。番組では、差米検査でこぼれ落ちた米をほうきで掃き集め、また捨てられた米俵の藁蓋で銭差しをつくることから始めて、大店となった母子の話しが紹介されます。こうして江戸時代の街では、虫売りや朝顔売り等の棒手振り(ぼてふり、天秤棒をかついた行商)からあらゆる種類の修理・職人業、さらには下肥問屋までおよそ考えつく限りの職業が生みだされていくのです。そしてその生業も決して貧困なものではなく、当時の大工の日当が飯米料を含めて540文(1文=30円、約16,200円)と言われますから、現代の給与水準と遜色の無いものであったことが分かります。従って西鶴は「すぎはひは草ばふきの種なるべし」と語り、生きる方法は草の種ほどいろいろあるものだから、行き詰ってしまってもどこかに仕事は見つけられるものだと、当時の人々を励ましたのです。
こうした江戸時代の職業状況を、現代のITネトワ-クを活用して極限まで効率化を推し進めようとするニュ-エコノミ-等と比較してみると、後者は結局一部の中枢社員が、IT技術を駆使して使い捨て(非正規、派遣)の単純労働者を低賃金で雇用することによって、二極分解と格差拡大による富の偏在をもたらし、イタリアの商業都市国家と同じ状況をもたらしているにすぎないことがわかります。私たちは資本主義の理念として合理性や効率性を刷り込まれているものですから、最小のコストで最大の利潤を得るために、問屋を介さないで中抜きして消費者に直接販売して、価格を押し下げ利潤を拡大する道を推し進めてきたのですが、これによって結局中枢と末端しか残らなくなり、中間過程での付加価値の創造と分配の芽は摘み取られることになってしまいました。小泉構造改革において竹中平蔵氏以来推し進めてきた新自由主義的改革がまさにこれで、この結果下請け中小企業は淘汰され、正社員は非正規社員に置き換わり、日本の内需は大打撃を受けて成長の潜在力を喪失し、庶民の生活は貧困化してしまいました。これに対して江戸時代は、正反対の道を選んだのです。象徴的に言えば、便利で効率性の高いコンビニをつくるのではなく、それを解体して何百種類もの職業を生みだして、豊かな内需と生活をつくり出したとも言えます。こうした現代と江戸との状況の相違に鑑みて、水野和夫さんは、最小コストによる最大利潤という経済合理性は重要だが、現代においてはかえってそれが害になってきている。現在の経済状況においては“合理性”の概念を変えていかなければならないとおっしゃっていました。
さて井原西鶴がその上でさらに語るのは、商売を行うにあたってやってはいけない戒めで、それは不正です。西鶴は不正や偽装に対してきわめて厳しく「いくら生きるためといっても、そういう人でなしになるなら、たまたま生を受けてこの世に生きても意味はない」とまで言っています。江戸時代においては、仕事は大事でお金は必要だが、お金を稼ぐことだけが至上の価値観ではないという観念があったのです。それでは何を大事にしたのか。「信用」とか「信頼」です。信用とか信頼があるから商いが長続きして持続するのです。そしてこうした信頼関係にある社会をつくることが、また平和を持続させることにもなるのです。
現代の経済学においては、経済人(ホモエコノミクス)というものを前提に理論が組み立てられています。経済人というのは、自己の利益を極大化させるように経済合理性に基づき行動する人のことです。しかしみんなが経済合理性を求めて行動すれば、そこに生まれる人間は、みんな同じキャクラタ-になってしまいます。しかし西鶴の紹介する江戸時代の人々は、じつにみんな生き生きとして個性豊かな独特のキャクタ-に生きています。そして利益の極大化のみならず、「お天道様に申し訳なく無いように」とか「ご先祖様に恥ずかしく無いように」というモラルをみんなが持っていて、それがしっかりと“経済人”という価値観に接続されて、信頼に結ばれた持続可能な社会経済を生み出していたのです。そしてその社会においては、特別の社会保障制度がなくとも、「まともな仕事をしてこそ人間である。夢のような50年やそこらの人生、何をして暮らしたところで、生きられないことはないはずだ」という安心と信頼に生きる事が出来たのです。
次回のパンセの集いでは、「資本主義はあるところまでは人と社会の幸せに寄与するが、ある一線超えると、逆に人も社会も不幸にする」という現在私たちが直面している現状から出発して、ここまで見てきたイタリアと江戸との社会の相違から、内需を生み出す経済について考え、そのために必要な持続と安定をもたらす信頼や信用といった価値観についても検討していってみたいと思います。さらにそうした経済合理性とは異なる価値観を、林棲期や遊行期のシニア・老年期の生き方理想から取り出し、それを家住期(壮年期)の経済合理性にもとづく生産活動に励む人たちに接ぎ木し、これからの時代の生き方と仕事のあり方についても考えていってみたいと思います。1月26日の火曜日16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、参加ご希望の方は白鳥までご連絡下さい。)