■2016.1.31パンセ通信No.69『マイナス金利の行く末と信用と信頼の経済』
皆 様 へ
日銀がマイナス金利に乗り出しました。マイナス金利というのは、銀行にお金を預けると、金利分だけ預けたお金が目減りしてしまうというとても変な制度です。今のところ銀行が日銀の当座預金に新たに余ったお金を預ける分に適用されるだけですから、私たちの家計に直接影響はありません。でも、なぜこんな変な政策が始められるのでしょうか。その理由は、銀行が、銀行の銀行である日銀に余ったお金を預ければ損をすることになるのですから、お金を預けずにそのお金を企業への融資に回すので、企業がお金を借りて事業をやりやすくなるからです。また貸し出すお金が増えることから金利が低下して、返済額が少なくて済むようになるので、企業の利益も出やすくなります。また投資先を求めて銀行のお金は海外(円を売ってドル等を買う)へと向かい、この結果円安が加速し、輸出が増加して企業の業績が改善します。それにより賃上げが行われ、また住宅ロ-ン等の金利も低下するので、家計の可処分所得も増えて消費が活発になります。こうして企業も家計も潤ってみんながお金を使うので、景気が良くなるというシナリオを描けるからです。
でも果たしてそううまくいくのでしょうか。銀行からお金が借りられないから企業は投資を出来ないでいるのか。あるいは内需がすっかり萎んでしまい投資先が無いから、企業は利益を貯め込むばかりで銀行からお金を借りないのか。そしてそのために、銀行は仕方なく余ったお金を日銀の当座預金に貯蓄してしまうのか。もし後者だとすれば、マイナス金利にしたところで日銀から引き下ろされた巨額の銀行資金は国内では行き場を失い、リスクの高い海外へと向かうことになってしまいます。そして日本は、前回紹介した17世紀のジェノバと同じ運命を辿ることになりかねません。あるいは、銀行は日銀にお金を預けることによって得ていた安定的な金利収入を失うことになり、銀行の経営が苦しくなり、逆に中小企業やベンチャ-などにお金が貸せなくなって、却って景気が悪くなってしまう恐れも出てきます。
ではなぜそんな危険性を犯してまでも、日銀はマイナス金利を導入するのでしょうか。2013年に黒田東彦さんが日銀の第31代総裁に就任して以来、日銀は異次元緩和と称される世界的にも注目される金融緩和を実施しています。まず量的緩和として日銀が国債を買い入れることにより、年間80兆円もの資金を市場に供給して、企業や庶民がそのお金を使って景気が良くなるように仕向けています。また質的緩和として上場投資信託(ETFやJ-REIT)などのリスク資産も買い入れ、投資家が投資しやすい環境もつくってきました。さらに今回、金利をマイナスにまでしてお金を使わなくなっている(それがデフレです)企業や庶民を強制的に刺激して、なんとかしてお金を使わせて景気を浮揚させようとしているのです。必死のあがきですね。でもなぜそこまでの必死のあがきを行わなければならないのでしょうか。
20世紀の終わり以降、10年ごとの周期で世界は大きな金融経済危機に直面してきました。まずは1998年のアジアから始まりロシア、ブラジルへと飛び火する通貨危機です。しかしこの遠因には日本のバブル崩壊があります。そしてさらにその背景には、1981年より始まるレーガノミクスによってバブル基調となったアメリカが、そのバブルを日本へと転嫁したことがあったのです。1985年のプラザ合意で、1ドル240円から120円と円高が一挙に進み、日本は輸出企業がダメ-ジを受けます。このために日本は、公共投資と公定歩合の引き下げによる大規模な金融緩和を行い、これが日本にバブル経済をもたらすことになりました。この間日本が世界の経済を牽引することになるのですが、このバブルも1990年の不動産向け融資の総量規制を機に崩壊することになります。この日本のバブルにより一息ついたアメリカの経済は、その後順調に回復したために再びドル高基調となっていきます。このドル高が、当時ドルに対して固定相場制をとり、先進国からの製造企業が進出して輸出産業で成長していたタイを始めとした東南アジアにダメ-ジを与え、さらにヘッジファンドの暗躍もあって、アジア各国の通貨の価値が暴落して、世界的な金融経済危機を引き起こすことになったのです。次いでその10年後の2008年に生じるのがリ-マンショックです。アメリカの低所得者向けの住宅ロ-ン、サブブライムロ-ンによるバブルが崩壊して生じた世界的な金融経済危機です。しかしこの危機も、中国を中心とする新興国がアメリカ&先進国のバブルを肩代わりする形で債務を積み上げ、世界経済を牽引することによって小休止します。この間、アメリカの経済はしっかりと立ち直り、現在はアメリカ経済だけが世界の中で独り勝ちという状況に至っているのですが、バブルを押し付けられた中国の経済が、かつての日本のように、いよいよバブル崩壊の瀬戸際に立ち至っているのが現在の状況です。
じつは1998年の危機の時も2008年の危機の時も、その前兆は2年前から現れていました。このように10年周期で大規模な世界金融経済危機が生じるとしたら、次の危機の到来は2018年です。奇しくもその2年前にあたる今年2016年は、中国経済の変調、それに伴う資源価格の暴落、そして株式市場の下落と乱高下という世界経済への危険信号によって幕が開いています。こうしてアメリカのバブルを、日本、アジア諸国、アメリカ国内の低所得層、そして中国へと押し付けて、何とか延命してきたグローバル資本主義は、とうとう中国を最後に、もはやその矛盾を押し付けて延命することの出来るだけの十分な規模の先がない状況にまで立ち至っているのです。この危機の認識が、黒田さんをしてなりふり構わぬ異次元の金融緩和政策に駆り立てている理由なのです。
このように整理して見てくると、すでに1970年代から始まった先進国の不況を、1980年代以降何度もバブルを引き起こすことによって、グローバル企業の利益を確保してきた現代の資本主義の枠組みが、いよいよ行き詰ってきたことがよく分かります。すでにマイナス金利は、日本だけでなく欧州中銀等でも導入されています。日本も欧州も、必死でお金をバラ撒いているのですが、もはやバブルすら引き起こすことが出来ないまでに至っているのです。昨年後半ぐらいから中国経済の変調が明らかになってきて、世界第2位のGDPを誇る中国経済のバブル崩壊が明確になってきました。この影響は、これから2年ほどの期間をおいて次第に大きなものとなっていくことでしょう。
しかしまたいつの時代においても、危機は同時に新たな展開への飛躍のチャンスでもあります。前回は近世イタリアの商業都市の歴史から、最小コストで最大利益を求めるという経済合理性を追求するあまりに却って内需を喪失し、経済を衰退させた事例を見てきました。それに対して日本の江戸時代が、富の分配と、その富の循環過程で多くの付加価値を生み出し、しっかりとした内需をつくり出して安定的に経済と庶民生活を持続させていった状況をも見てきました。江戸時代の特徴の1つは、経済合理性とあわせてもう1つの価値観、『信頼』や『信用』が重視され、利益だけでなく商いが長続きして持続することが重視された点です。次回2月2日火曜日のパンセの集いは、この『信頼』や『信用』に焦点を当てて、また銀座の老舗で全国の百貨店にも出店していた日乃出寿司の経営にあたっておられた今里明弘さんのお話をも伺いながら、掘り下げて考え、これからの私たちの生業(なりわい)と経済のあり方について指針を見出す一助にしていってみたいと思います。16時から初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さてそれでは、“信頼”とか“信用”というのはいったいどういうものなのでしょうか。まず“信用”というものから考えてみると、それは嘘や偽りが無く、従って騙される心配が無いことから、安心して信じることが出来るということでしょう。そして“信頼”というのは、そうした信用関係の上に立って、相手に委ねて存分にまかせることができる、頼りにすることが出来るという思いでしょう。ではどうすればそうした“信用”や“信頼”の念は生まれてくるのでしょうか。昔から良く人間関係には、利害関係と信頼関係があると言われます。利害関係というのは、それぞれの人間が自分の利害損得だけを前提に、他の人間と交渉を持つ関係のことです。従ってもし利害関係だけのつきあいであるならば、自分の利益にそぐわなくなれば相手を裏切ることは合理的ですし、また相手の利益に自分がそぐわなくなれば、自分が裏切られることもあり得ることになります。まさに利用し合うだけの関係です。これに対して信頼関係というのは、お互いが相手の利害を配慮しあって、相手の利益になるように、また損害をかけないように行動しあう関係のことです。利害関係に勝って信頼関係が築かれる理由があるとすれば、それはお互いの利益になる関係をつくることによって関係が長続きし、結果として利益の総量が大きくなるからでしょう。また利益になる関係が深まって事業が広がることでみんなが儲かり、結果的に自分の利益の取り分も多くなるという合理性があってのことでしょう。目先の利益のことを考えれば、利害関係に分がありますが、時間的・空間的な規模の広がりの中で全体の利益と共に自分の利益が最大限になるためには、信頼関係の方が合理性があるということになるのです。また利害関係と信頼関係とでは、前者が利害の一致した時点で他に先駆けて利益にするために、速さと効率性が求められ、また結果を量(お金)で量ることが出来るという特徴がありますが、信頼関係については、時間と忍耐をかけなければ形成できるものではなく、また信頼関係そのものは量で量ることが出来ない(もちろん結果として様々な益となって後から現れ出てくるのですが)という特徴の相違があります。
ところで実際の生身の人間関係においては、利害関係と信頼関係を厳密に区分して、利害関係だけの人間関係を考えることは、やくざ映画の取引場面を想定するような場合以外、かなり限られたケースに留まるように思われます。ところがこれが国際的な資本の展開の場面になると、かつてのイタリアの商業金融資本や現代のグローバル企業のように、自己の利潤の増大のために他者を食いつくし、結果的に利益を強奪する先が無くなって自分自身をも食い尽くしてしまうということが、容易に起こってしまうのです。ある程度の時間をかけ、しかもあまりに大きなスケールでこうした事態が生じるために、私たちの日常感覚では気づけなくなってしまうのです。それが資本が、利潤極大化のためにとる非人間的な展開の恐ろしいところです。
一方江戸時代においては、実際の商業取引や経済活動の利害関係の場面で、この信頼関係が抜け落ちないようにするために、例えばこの時代を代表する近江商人などでは、売り手良し、買い手良し、世間良しの三方良しを家訓として商売を営むなど、単なる利害関係だけに堕することを戒め、信頼関係を醸成する倫理を重視する社会の運営を行ってきました。それでは倫理規範さえしっかりと立てて、皆がそれを守るように教え込んでいけば、利害関係と信頼関係はうまくバランスされていくものなのでしょうか。それによって私たちの社会と経済は、利害関係で自滅することなく、信頼関係のもとに相互の利益を計って、安心して持続的に運営していくことが出来るようになるのでしょうか。もし倫理だけでうまくいくものであるなら、西欧においてもイタリアの商業都市の繁栄と同時代に始まった宗教改革において、しっかりとしたプロテスタント倫理が打ち立てられていました。実際この倫理のもとに、買ったら後日必ず支払う、借りたら必ず返すという信用取引が確立したのですから、江戸時代のような内需中心の持続経済が成立していても良かったはずです。
最小コストによる最大利益という経済合理性によって、単なる利潤関係に堕する愚を避けて、信頼関係によって相互利益を持続させ、暮らしも社会もさらに豊かな果実を享受していくという一段次元の高い合理性に私たちが生きられるようになるためには、どうやら倫理だけではダメで、さらにその倫理を裏打ちする何らかの価値観と仕組みが必要になってくるようです。この“信頼”と“信用”をさらに深いところで支える価値とそれを持続し強化する仕組みについて、江戸時代を例にとって引き続き考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは2月2日の火曜日16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は白鳥までご連絡下さい。)
皆 様 へ
日銀がマイナス金利に乗り出しました。マイナス金利というのは、銀行にお金を預けると、金利分だけ預けたお金が目減りしてしまうというとても変な制度です。今のところ銀行が日銀の当座預金に新たに余ったお金を預ける分に適用されるだけですから、私たちの家計に直接影響はありません。でも、なぜこんな変な政策が始められるのでしょうか。その理由は、銀行が、銀行の銀行である日銀に余ったお金を預ければ損をすることになるのですから、お金を預けずにそのお金を企業への融資に回すので、企業がお金を借りて事業をやりやすくなるからです。また貸し出すお金が増えることから金利が低下して、返済額が少なくて済むようになるので、企業の利益も出やすくなります。また投資先を求めて銀行のお金は海外(円を売ってドル等を買う)へと向かい、この結果円安が加速し、輸出が増加して企業の業績が改善します。それにより賃上げが行われ、また住宅ロ-ン等の金利も低下するので、家計の可処分所得も増えて消費が活発になります。こうして企業も家計も潤ってみんながお金を使うので、景気が良くなるというシナリオを描けるからです。
でも果たしてそううまくいくのでしょうか。銀行からお金が借りられないから企業は投資を出来ないでいるのか。あるいは内需がすっかり萎んでしまい投資先が無いから、企業は利益を貯め込むばかりで銀行からお金を借りないのか。そしてそのために、銀行は仕方なく余ったお金を日銀の当座預金に貯蓄してしまうのか。もし後者だとすれば、マイナス金利にしたところで日銀から引き下ろされた巨額の銀行資金は国内では行き場を失い、リスクの高い海外へと向かうことになってしまいます。そして日本は、前回紹介した17世紀のジェノバと同じ運命を辿ることになりかねません。あるいは、銀行は日銀にお金を預けることによって得ていた安定的な金利収入を失うことになり、銀行の経営が苦しくなり、逆に中小企業やベンチャ-などにお金が貸せなくなって、却って景気が悪くなってしまう恐れも出てきます。
ではなぜそんな危険性を犯してまでも、日銀はマイナス金利を導入するのでしょうか。2013年に黒田東彦さんが日銀の第31代総裁に就任して以来、日銀は異次元緩和と称される世界的にも注目される金融緩和を実施しています。まず量的緩和として日銀が国債を買い入れることにより、年間80兆円もの資金を市場に供給して、企業や庶民がそのお金を使って景気が良くなるように仕向けています。また質的緩和として上場投資信託(ETFやJ-REIT)などのリスク資産も買い入れ、投資家が投資しやすい環境もつくってきました。さらに今回、金利をマイナスにまでしてお金を使わなくなっている(それがデフレです)企業や庶民を強制的に刺激して、なんとかしてお金を使わせて景気を浮揚させようとしているのです。必死のあがきですね。でもなぜそこまでの必死のあがきを行わなければならないのでしょうか。
20世紀の終わり以降、10年ごとの周期で世界は大きな金融経済危機に直面してきました。まずは1998年のアジアから始まりロシア、ブラジルへと飛び火する通貨危機です。しかしこの遠因には日本のバブル崩壊があります。そしてさらにその背景には、1981年より始まるレーガノミクスによってバブル基調となったアメリカが、そのバブルを日本へと転嫁したことがあったのです。1985年のプラザ合意で、1ドル240円から120円と円高が一挙に進み、日本は輸出企業がダメ-ジを受けます。このために日本は、公共投資と公定歩合の引き下げによる大規模な金融緩和を行い、これが日本にバブル経済をもたらすことになりました。この間日本が世界の経済を牽引することになるのですが、このバブルも1990年の不動産向け融資の総量規制を機に崩壊することになります。この日本のバブルにより一息ついたアメリカの経済は、その後順調に回復したために再びドル高基調となっていきます。このドル高が、当時ドルに対して固定相場制をとり、先進国からの製造企業が進出して輸出産業で成長していたタイを始めとした東南アジアにダメ-ジを与え、さらにヘッジファンドの暗躍もあって、アジア各国の通貨の価値が暴落して、世界的な金融経済危機を引き起こすことになったのです。次いでその10年後の2008年に生じるのがリ-マンショックです。アメリカの低所得者向けの住宅ロ-ン、サブブライムロ-ンによるバブルが崩壊して生じた世界的な金融経済危機です。しかしこの危機も、中国を中心とする新興国がアメリカ&先進国のバブルを肩代わりする形で債務を積み上げ、世界経済を牽引することによって小休止します。この間、アメリカの経済はしっかりと立ち直り、現在はアメリカ経済だけが世界の中で独り勝ちという状況に至っているのですが、バブルを押し付けられた中国の経済が、かつての日本のように、いよいよバブル崩壊の瀬戸際に立ち至っているのが現在の状況です。
じつは1998年の危機の時も2008年の危機の時も、その前兆は2年前から現れていました。このように10年周期で大規模な世界金融経済危機が生じるとしたら、次の危機の到来は2018年です。奇しくもその2年前にあたる今年2016年は、中国経済の変調、それに伴う資源価格の暴落、そして株式市場の下落と乱高下という世界経済への危険信号によって幕が開いています。こうしてアメリカのバブルを、日本、アジア諸国、アメリカ国内の低所得層、そして中国へと押し付けて、何とか延命してきたグローバル資本主義は、とうとう中国を最後に、もはやその矛盾を押し付けて延命することの出来るだけの十分な規模の先がない状況にまで立ち至っているのです。この危機の認識が、黒田さんをしてなりふり構わぬ異次元の金融緩和政策に駆り立てている理由なのです。
このように整理して見てくると、すでに1970年代から始まった先進国の不況を、1980年代以降何度もバブルを引き起こすことによって、グローバル企業の利益を確保してきた現代の資本主義の枠組みが、いよいよ行き詰ってきたことがよく分かります。すでにマイナス金利は、日本だけでなく欧州中銀等でも導入されています。日本も欧州も、必死でお金をバラ撒いているのですが、もはやバブルすら引き起こすことが出来ないまでに至っているのです。昨年後半ぐらいから中国経済の変調が明らかになってきて、世界第2位のGDPを誇る中国経済のバブル崩壊が明確になってきました。この影響は、これから2年ほどの期間をおいて次第に大きなものとなっていくことでしょう。
しかしまたいつの時代においても、危機は同時に新たな展開への飛躍のチャンスでもあります。前回は近世イタリアの商業都市の歴史から、最小コストで最大利益を求めるという経済合理性を追求するあまりに却って内需を喪失し、経済を衰退させた事例を見てきました。それに対して日本の江戸時代が、富の分配と、その富の循環過程で多くの付加価値を生み出し、しっかりとした内需をつくり出して安定的に経済と庶民生活を持続させていった状況をも見てきました。江戸時代の特徴の1つは、経済合理性とあわせてもう1つの価値観、『信頼』や『信用』が重視され、利益だけでなく商いが長続きして持続することが重視された点です。次回2月2日火曜日のパンセの集いは、この『信頼』や『信用』に焦点を当てて、また銀座の老舗で全国の百貨店にも出店していた日乃出寿司の経営にあたっておられた今里明弘さんのお話をも伺いながら、掘り下げて考え、これからの私たちの生業(なりわい)と経済のあり方について指針を見出す一助にしていってみたいと思います。16時から初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さてそれでは、“信頼”とか“信用”というのはいったいどういうものなのでしょうか。まず“信用”というものから考えてみると、それは嘘や偽りが無く、従って騙される心配が無いことから、安心して信じることが出来るということでしょう。そして“信頼”というのは、そうした信用関係の上に立って、相手に委ねて存分にまかせることができる、頼りにすることが出来るという思いでしょう。ではどうすればそうした“信用”や“信頼”の念は生まれてくるのでしょうか。昔から良く人間関係には、利害関係と信頼関係があると言われます。利害関係というのは、それぞれの人間が自分の利害損得だけを前提に、他の人間と交渉を持つ関係のことです。従ってもし利害関係だけのつきあいであるならば、自分の利益にそぐわなくなれば相手を裏切ることは合理的ですし、また相手の利益に自分がそぐわなくなれば、自分が裏切られることもあり得ることになります。まさに利用し合うだけの関係です。これに対して信頼関係というのは、お互いが相手の利害を配慮しあって、相手の利益になるように、また損害をかけないように行動しあう関係のことです。利害関係に勝って信頼関係が築かれる理由があるとすれば、それはお互いの利益になる関係をつくることによって関係が長続きし、結果として利益の総量が大きくなるからでしょう。また利益になる関係が深まって事業が広がることでみんなが儲かり、結果的に自分の利益の取り分も多くなるという合理性があってのことでしょう。目先の利益のことを考えれば、利害関係に分がありますが、時間的・空間的な規模の広がりの中で全体の利益と共に自分の利益が最大限になるためには、信頼関係の方が合理性があるということになるのです。また利害関係と信頼関係とでは、前者が利害の一致した時点で他に先駆けて利益にするために、速さと効率性が求められ、また結果を量(お金)で量ることが出来るという特徴がありますが、信頼関係については、時間と忍耐をかけなければ形成できるものではなく、また信頼関係そのものは量で量ることが出来ない(もちろん結果として様々な益となって後から現れ出てくるのですが)という特徴の相違があります。
ところで実際の生身の人間関係においては、利害関係と信頼関係を厳密に区分して、利害関係だけの人間関係を考えることは、やくざ映画の取引場面を想定するような場合以外、かなり限られたケースに留まるように思われます。ところがこれが国際的な資本の展開の場面になると、かつてのイタリアの商業金融資本や現代のグローバル企業のように、自己の利潤の増大のために他者を食いつくし、結果的に利益を強奪する先が無くなって自分自身をも食い尽くしてしまうということが、容易に起こってしまうのです。ある程度の時間をかけ、しかもあまりに大きなスケールでこうした事態が生じるために、私たちの日常感覚では気づけなくなってしまうのです。それが資本が、利潤極大化のためにとる非人間的な展開の恐ろしいところです。
一方江戸時代においては、実際の商業取引や経済活動の利害関係の場面で、この信頼関係が抜け落ちないようにするために、例えばこの時代を代表する近江商人などでは、売り手良し、買い手良し、世間良しの三方良しを家訓として商売を営むなど、単なる利害関係だけに堕することを戒め、信頼関係を醸成する倫理を重視する社会の運営を行ってきました。それでは倫理規範さえしっかりと立てて、皆がそれを守るように教え込んでいけば、利害関係と信頼関係はうまくバランスされていくものなのでしょうか。それによって私たちの社会と経済は、利害関係で自滅することなく、信頼関係のもとに相互の利益を計って、安心して持続的に運営していくことが出来るようになるのでしょうか。もし倫理だけでうまくいくものであるなら、西欧においてもイタリアの商業都市の繁栄と同時代に始まった宗教改革において、しっかりとしたプロテスタント倫理が打ち立てられていました。実際この倫理のもとに、買ったら後日必ず支払う、借りたら必ず返すという信用取引が確立したのですから、江戸時代のような内需中心の持続経済が成立していても良かったはずです。
最小コストによる最大利益という経済合理性によって、単なる利潤関係に堕する愚を避けて、信頼関係によって相互利益を持続させ、暮らしも社会もさらに豊かな果実を享受していくという一段次元の高い合理性に私たちが生きられるようになるためには、どうやら倫理だけではダメで、さらにその倫理を裏打ちする何らかの価値観と仕組みが必要になってくるようです。この“信頼”と“信用”をさらに深いところで支える価値とそれを持続し強化する仕組みについて、江戸時代を例にとって引き続き考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは2月2日の火曜日16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は白鳥までご連絡下さい。)