■2016.2.7パンセ通信No.70『信用と信頼の内実-財貨の効用といのちへの配慮』
皆 様 へ
前回のパンセ集いは、信用と信頼について、銀座の老舗日乃出寿司(大阪寿司・箱寿司)を経営されてきた今里明彦さんから、お話を伺いました。まずはお話の前に“信用”と“信頼”が実感できるように、今里さんは虎屋の羊羹をわざわざ買ってきて、参加者に振る舞って下さいました。あの頑丈な袋と箱に入った羊羹です。見た瞬間、名前を聞いた瞬間に、単なるおいしい羊羹という以上に、この商品を受け取った私たち自身の価値が敬われているような、買い主の配慮とそれへの感謝の念が立ち上がってきます。そしてこの具体的な老舗の高級商品からまごうことなく伝わる“商品”以上の価値に対する実感を手掛かりに、今里さんが老舗店で経験されてきた“信用”と“信頼”についてのお話しをして下さいました。次回のパンセの集いは、この今里さんのお話から、“信用”と“信頼”のさらにその背後にあるものについて探っていき、激変する経済状況の中でも漂流して破綻することのないように、これからの私たちの仕事と生活のあり方について考えていってみたいと思います。2月9日火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
今里さんは解りやすく、3つのエピソ-ドをお話しして下さいました。1つは子供の頃店の調理場で、味見をするためにお惣菜を頂こうとした時、誤って手から落とした時のことです。すぐに調理人さんが飛んできて、それを拾って食べたとのことです。そこには、床まで洗い清めているので汚くはないという自負と、自分が調理した食べ物に対する限りない愛着が感じられます。2つ目は同じく子供の頃、友達と花火大会に行くので、出来あいの巻寿司しを2~3本包んで持って行こうとした時のことです。やはり調理人さんがそれを許さず、日乃出寿司ののれんに恥じないしっかりとしたお弁当のセットを作って持たせてくれたそうです。そのお弁当を広げた時に周囲の人が驚き、あまりの見事さに日乃出寿司の宣伝になったという余談もありますが、それ以上に、自分たちの商品に対する妥協を許さぬ誇りと、一瞬たりとも気を抜くことなく品質を保とうとする気概が窺い知れます。そして3つ目のエピソ-ドは、80歳にもなろうとする高齢の煮物担当の職人さんが、日乃出寿司の伝統の味を守るために、百貨店への出店などで調理の量が増えても、安易に人に任せる事無く1人で煮物をつくり続けられたというお話です。
これらのエピソ-ドを通じて今里さんは、老舗が守る伝統というものは、何よりもその商品に携わる1人1人の人間の真摯な誠意の表れであり、その誠意が信用を生み、その信用が信頼につながることを実体験から話して下さいました。また虎屋の赤坂本店休業に伴う17代当主の挨拶文のことも話題に上り、利益よりも売上よりも成長よりも何よりも、一人一人のお客様との出会いと心尽くしを主眼に置いて、商売を営まれてきた虎屋の姿勢に心を打たれました。
さて前回は、人間関係には利害関係と信頼関係があるというお話しをして、その主な相違を利益に対する合理性の相違から説明を致しました。利害関係に働く合理性は、目先の自分の利益を最大限にするための合理性です。それに対して信頼関係は、長期的に自分の利益を最大限にするために、互いに利益になる関係を長く続け、全体の利益の総量を増やして自分の取り分も増やす合理性だという説明を致しました。しかし今里さんのお話や虎屋の事例を見る限り、信用と信頼を重んずる老舗の事業やそこで働く職人さんたちは、商品に対する愛着や品質に対する誇り、そして一人一人のお客様の喜びそのものに価値を置いているようで、けっして利益を直接の目的としては意識していないことに気づかされます。そのせいか老舗で働く人たちの労働が、単なる生活の手段ではなく、自分自身の働き甲斐や生き甲斐とも重なっていて、けっして労働と自分自身の存在価値が分離していないことも感じ取ることが出来ます。もちろん今里さんは、一方で部門別の損益管理の重要性も強調されていましたが、それは裏を返せば、老舗においては信用と信頼を重視するあまり、損益管理が疎かにさえなる状況を戒めてのことなのかもしれません。
このように見てくると、信頼関係というのは、全体の利益の増大の中で自分の長期利益の安定を目指すからこそ生まれてくるものなのか、あるいは逆に信用を重んじる価値観が先にあるから、その結果として信頼関係を合理とする精神が生まれて、長期の利益の安定が可能になるのか解らなくなってきます。ところで経済学にはコモンズ(共有財)の悲劇という理論があります。例えばある湖で魚が豊富に獲れるとします。そこで皆が自分の利益しか考えずに我先にと魚を獲れば、やがて豊富だった漁業資源は枯渇し、湖の環境も生態系も荒れ果てて、その結果自分たちの生活は困窮に陥ってしまいます。人類の歴史の中で、そのようにして滅び去った文明は枚挙に暇がありません。この悲劇を回避するためには、2つの方法があるとされています。1つはこの共有財に私的所有権を設定し、個人や企業の私的所有物としてしまう方法です。先ほどの例で言えば、湖全体を誰かの私有物として、魚を獲りたい者から入漁料を取るという方法です。こうすれば市場の配分メカニズムが機能して、資源全体が合理的・効率的に利用され、過剰利用が解消されるというわけです。しかし歴史的には私たちの先人たちは、このような格差や独占につながる方法はとらず、里山の入会地や沿岸部の入浜・入海の管理のように、共有資源に利害関係を持つ当事者が集まって、利用ルール(掟)や共有財維持のためのお互いの労力提供の義務を厳しく定めて、共有財の資源を枯渇させずに安定的に利用して富を分かち合う、自主管理・社会的管理の方法を採ってきました。確かに私たちの庶民感覚からすれば、共有財を誰かの私有物にするよりは、みんなで自主管理する方が心を惹かれます。昨年末にCOP21でパリ協定が採択されましたが、この共有財の社会的な協同調整・管理という手法は、地球規模での環境・エネルギ-問題の解決にも重要な方法論を提供する可能性のあることから、きわめて現代的な課題としても意識されています。実際2010年のノーベル経済学賞は、米国のエリノア・オストロム教授が、このコモンズに関する自主管理の研究により女性で初めて受賞しました。その際オストロム教授がとった主な分析手法はゲ-ム理論によるもので、破綻することなく合理的に利益を最大にしていこうとする際に、最も有効な方法が共同管理であるという論証でした。なるほど人間が、目先の自己利益のために何度も共有財を枯渇させて、破滅の危機に瀕するという手痛い体験を繰り返してくれば、共同の利益の確保のもとで共存するメリットについても、骨身にしみて気づいていくことはよくわかるところです。
このようにコモンズの悲劇を越えて共同の利益のための自主管理に至るプロセスの場合には、“利益”だけを手掛かりとしてそのプロセスをある程度説明することも可能なのかもしれません。もちろん生存の危機にまで瀕する痛恨の過ちを繰り返すという代償を伴うものではありますが。しかし老舗企業の信用と信頼や前々回のパンセ通信で見てきた江戸時代の経済運営というものは、はたして“利益”を目的とする観念からだけで説明しきれるものなのでしょうか。信用や信頼というものは、それ自身の中に何か目的とするに足る価値があるのではなく、あくまでも利益を最適で最大にするための合理性の結果あるいは手段にしか過ぎないものなのでしょうか。
そこでまず信用について、もう少し深く考えてみることにしたいと思います。前回信用というのは、嘘や偽りが無く、騙される心配の無いことから、安心して信じることが出来ることだと申しました。そしてこのようにお互いを信用することから、迷惑をかけずに相互に利益になるように配慮し合う信頼関係が生まれると説明致しました。しかし真の信頼関係というのは、単に財貨についての利害のみを配慮しあうことに限定されるものではありません。もっと広くお互いの人間性全般についての配慮への確かさというものにまで及んでくるので無くては、深い信頼にはならないでしょう。そうした信頼があるからこそ、逆に財貨についてもお互いの利益になろうとする動機が生まれてくるのですし、もし信頼関係が財貨の利益に限定されたものであるならば、どこかで私たちの本能は、そこに偽善の匂いを嗅ぎ取るものではないでしょうか。それでは“お互いの人間性全般についての配慮の確かさ”とはいったい何なのでしょうか。それを明らかにするために、先ほど信用について述べた際に用いた“安心”ということについてもう少し厳密に考えてみたいと思います。
私たちが本当に安心できる時というのは、いったいどういう関係にある時なのでしょうか。現代では平気で育児放棄や虐待が起こるので参考にならないかもしれませんが、本来幼児が親の庇護の下にある時、子供は一抹の不安もなく安心感に浸ることが出来るものです。それは親が、単にあらゆる危害から子供を守ろうするだけでなく、子供が本当にその持てるいのちの力を発揮して、自分のためにも人のためにも良く生きて幸せになってもらいたいという願いだけに純粋になって、子供に接するからでしょう。このように私たちは、危害を加えようという意図が寸分も感じられず、さらに自分のいのち育もう、その価値を高めようという切なる意図を相手に感じて、自分の存在をその相手に委ねられる時に始めて、根源的な安心が感じられるものではないでしょうか。そしてこのように、単に利益のみならずお互いがいのちを配慮し、その価値を高めあおうする時に始めて、私たちは本当にお互いを信じて信用しあうことが出来るようになるものと思われます。こうして深く信用しあえるからこそ、相手を自分自身の分身のように頼りにして、信頼しあえることも出来るようになるのです。従ってよく企業のカリスマ経営者などが、何でも自分の思いどおりに動いて成果を上げる部下に対して、「あいつは信用できる」などと言ったとしても、それは本来の信用関係などではなく、実のところは自分の意図に都合良く、相手を手段として用いる関係にしか過ぎないものなのです。
ここで“いのちの力を育む”とか“いのちの価値を高める”ということについては、すでにこのパンセ通信で何度も考えてきたことなのですが、要約すれば、自分自身を生かして他のいのちをも生かして、共に生かし合って生きることの価値に気づく力のことと言っても良いでしょう。この共に生きる価値に気づき、それが出来る力を養う時に、私たちは多くの人に支えられて人間として良く生きる可能性が広がっていきます。つまり“生きる力”が高まっていくのです。このように考えてみる時に、老舗企業の事業や職人さんたちが本当に大事にするものが何であるのかが、少し解ってくるような気がします。1つの商品を作る時に、そこにただおいしさや便利さや丈夫さや安さなど、機能や効用が優れていることだけを求めて品物作っているだけではないのです。無意識の深いところで、あるいは伝統として継承されてきた心の構えやものづくりの姿勢の中で、どうかこの商品を使う人がこの商品を通じて、自分のいのちの価値に気づきますように、そしてそのいのちの力が育まれますようにという祈りを込めて、またそのような機能と価値を込めて、商品を丹念に仕上げていくのです。そこには財貨としての効用の価値だけではなく、使う人のいのち力が高まるようにと、いのち価値をもがあわせてつくり込まれているのです。だからこそ老舗の職人さんたちは自分たちのつくる商品を誇り、品質に妥協を許さず、その商品を手にする1人1人のお客様の喜びと幸せにまで思いが至っていくのです。そしてその商品を流通させる過程においても、その担い手たちによってさらにいのちへの配慮が増し加えられ、商品に込められたいのちの価値は一層高められていくのです。それは何も商品に限ることばかりではありません。サ-ビスにおいても同じです。一流旅館やレストランにおける心からの“おもてなし”も、それは単に贅沢なサ-ビスが提供されることではなく、1人1人のお客様のいのちに対するきめ細かな配慮と敬いが込められているのです。私たちはこのようにもてなされる時、あるいはいのちの思いの籠った商品を手にする時、確かに自分の価値が大切に扱われて育まれることを感じ取り、作り手やもてなしの相手に対する深い感謝の念が込み上げてくるのです。そして今度は私たち自身のいのちの目も開かれていのちの価値に気づき、自分自身が他者のいのちを配慮する主体となっていくことも出来るようになっていくのです。
このように理解してくる時に、ようやく私たちは江戸時代の経済の一端が垣間見えてくるような気がしてきます。なぜ金魚売りや朝顔売りなどが、それだけで商売になったのか。江戸の行商人たちは、単に財貨としての機能や効用を価値としてを売ったのではないのです。それだけなら生活を支える収入などにもならず、また廉売競争なども起こって、さらに利益をすり減らしていくだけのことになったかもしれません。そうではなく1匹の金魚、一輪の朝顔を通じて、行商人たちは買う人のいのちが瑞々しく潤うこと、そしてその風流を通じて手にした人が様々ないのちの価値に気づき、自分自身のいのちを高めていくような価値をお客様にお届けしたのです。それ故に購入する人も、財貨の効用だけではなく、このいのちの価値への配慮と気づかいに対しても代金を支払ったのです。そしてこのいのちを分かち合う価値が、財貨の富と共に誰もが求める富として江戸時代には認知されていたからこそ、そのいのちの富を増やそうと、コモンズの悲劇や目先の利益を越えて、全体の富を増やして長期に富を分かちあうことも可能となっていったのです。
それではその“いのち価値”というものは、具体的な商品やサ-ビスに対して、どのように財貨の価値と共に込められていくものなのでしょうか。そしてまたその価値の大きさは、どのように評価されていくものなのでしょうか。そして現代の私たちが、そのいのち価値に気づき、それを富として認めていけるようになるためには、いったいどのようにしていけば良いのでしょうか。さらにそのいのちの富を、江戸時代のようにゆるぎない価値として社会の再生産の中に組み込んでいくためには、どんな仕組みを考えていけば良いのでしょうか。“いのちの価値”の更なる詳細な内容と共に、1歩1歩考えを進めていってみたいと思います。次回のパンセの集いは2月9日の火曜日16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
皆 様 へ
前回のパンセ集いは、信用と信頼について、銀座の老舗日乃出寿司(大阪寿司・箱寿司)を経営されてきた今里明彦さんから、お話を伺いました。まずはお話の前に“信用”と“信頼”が実感できるように、今里さんは虎屋の羊羹をわざわざ買ってきて、参加者に振る舞って下さいました。あの頑丈な袋と箱に入った羊羹です。見た瞬間、名前を聞いた瞬間に、単なるおいしい羊羹という以上に、この商品を受け取った私たち自身の価値が敬われているような、買い主の配慮とそれへの感謝の念が立ち上がってきます。そしてこの具体的な老舗の高級商品からまごうことなく伝わる“商品”以上の価値に対する実感を手掛かりに、今里さんが老舗店で経験されてきた“信用”と“信頼”についてのお話しをして下さいました。次回のパンセの集いは、この今里さんのお話から、“信用”と“信頼”のさらにその背後にあるものについて探っていき、激変する経済状況の中でも漂流して破綻することのないように、これからの私たちの仕事と生活のあり方について考えていってみたいと思います。2月9日火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
今里さんは解りやすく、3つのエピソ-ドをお話しして下さいました。1つは子供の頃店の調理場で、味見をするためにお惣菜を頂こうとした時、誤って手から落とした時のことです。すぐに調理人さんが飛んできて、それを拾って食べたとのことです。そこには、床まで洗い清めているので汚くはないという自負と、自分が調理した食べ物に対する限りない愛着が感じられます。2つ目は同じく子供の頃、友達と花火大会に行くので、出来あいの巻寿司しを2~3本包んで持って行こうとした時のことです。やはり調理人さんがそれを許さず、日乃出寿司ののれんに恥じないしっかりとしたお弁当のセットを作って持たせてくれたそうです。そのお弁当を広げた時に周囲の人が驚き、あまりの見事さに日乃出寿司の宣伝になったという余談もありますが、それ以上に、自分たちの商品に対する妥協を許さぬ誇りと、一瞬たりとも気を抜くことなく品質を保とうとする気概が窺い知れます。そして3つ目のエピソ-ドは、80歳にもなろうとする高齢の煮物担当の職人さんが、日乃出寿司の伝統の味を守るために、百貨店への出店などで調理の量が増えても、安易に人に任せる事無く1人で煮物をつくり続けられたというお話です。
これらのエピソ-ドを通じて今里さんは、老舗が守る伝統というものは、何よりもその商品に携わる1人1人の人間の真摯な誠意の表れであり、その誠意が信用を生み、その信用が信頼につながることを実体験から話して下さいました。また虎屋の赤坂本店休業に伴う17代当主の挨拶文のことも話題に上り、利益よりも売上よりも成長よりも何よりも、一人一人のお客様との出会いと心尽くしを主眼に置いて、商売を営まれてきた虎屋の姿勢に心を打たれました。
さて前回は、人間関係には利害関係と信頼関係があるというお話しをして、その主な相違を利益に対する合理性の相違から説明を致しました。利害関係に働く合理性は、目先の自分の利益を最大限にするための合理性です。それに対して信頼関係は、長期的に自分の利益を最大限にするために、互いに利益になる関係を長く続け、全体の利益の総量を増やして自分の取り分も増やす合理性だという説明を致しました。しかし今里さんのお話や虎屋の事例を見る限り、信用と信頼を重んずる老舗の事業やそこで働く職人さんたちは、商品に対する愛着や品質に対する誇り、そして一人一人のお客様の喜びそのものに価値を置いているようで、けっして利益を直接の目的としては意識していないことに気づかされます。そのせいか老舗で働く人たちの労働が、単なる生活の手段ではなく、自分自身の働き甲斐や生き甲斐とも重なっていて、けっして労働と自分自身の存在価値が分離していないことも感じ取ることが出来ます。もちろん今里さんは、一方で部門別の損益管理の重要性も強調されていましたが、それは裏を返せば、老舗においては信用と信頼を重視するあまり、損益管理が疎かにさえなる状況を戒めてのことなのかもしれません。
このように見てくると、信頼関係というのは、全体の利益の増大の中で自分の長期利益の安定を目指すからこそ生まれてくるものなのか、あるいは逆に信用を重んじる価値観が先にあるから、その結果として信頼関係を合理とする精神が生まれて、長期の利益の安定が可能になるのか解らなくなってきます。ところで経済学にはコモンズ(共有財)の悲劇という理論があります。例えばある湖で魚が豊富に獲れるとします。そこで皆が自分の利益しか考えずに我先にと魚を獲れば、やがて豊富だった漁業資源は枯渇し、湖の環境も生態系も荒れ果てて、その結果自分たちの生活は困窮に陥ってしまいます。人類の歴史の中で、そのようにして滅び去った文明は枚挙に暇がありません。この悲劇を回避するためには、2つの方法があるとされています。1つはこの共有財に私的所有権を設定し、個人や企業の私的所有物としてしまう方法です。先ほどの例で言えば、湖全体を誰かの私有物として、魚を獲りたい者から入漁料を取るという方法です。こうすれば市場の配分メカニズムが機能して、資源全体が合理的・効率的に利用され、過剰利用が解消されるというわけです。しかし歴史的には私たちの先人たちは、このような格差や独占につながる方法はとらず、里山の入会地や沿岸部の入浜・入海の管理のように、共有資源に利害関係を持つ当事者が集まって、利用ルール(掟)や共有財維持のためのお互いの労力提供の義務を厳しく定めて、共有財の資源を枯渇させずに安定的に利用して富を分かち合う、自主管理・社会的管理の方法を採ってきました。確かに私たちの庶民感覚からすれば、共有財を誰かの私有物にするよりは、みんなで自主管理する方が心を惹かれます。昨年末にCOP21でパリ協定が採択されましたが、この共有財の社会的な協同調整・管理という手法は、地球規模での環境・エネルギ-問題の解決にも重要な方法論を提供する可能性のあることから、きわめて現代的な課題としても意識されています。実際2010年のノーベル経済学賞は、米国のエリノア・オストロム教授が、このコモンズに関する自主管理の研究により女性で初めて受賞しました。その際オストロム教授がとった主な分析手法はゲ-ム理論によるもので、破綻することなく合理的に利益を最大にしていこうとする際に、最も有効な方法が共同管理であるという論証でした。なるほど人間が、目先の自己利益のために何度も共有財を枯渇させて、破滅の危機に瀕するという手痛い体験を繰り返してくれば、共同の利益の確保のもとで共存するメリットについても、骨身にしみて気づいていくことはよくわかるところです。
このようにコモンズの悲劇を越えて共同の利益のための自主管理に至るプロセスの場合には、“利益”だけを手掛かりとしてそのプロセスをある程度説明することも可能なのかもしれません。もちろん生存の危機にまで瀕する痛恨の過ちを繰り返すという代償を伴うものではありますが。しかし老舗企業の信用と信頼や前々回のパンセ通信で見てきた江戸時代の経済運営というものは、はたして“利益”を目的とする観念からだけで説明しきれるものなのでしょうか。信用や信頼というものは、それ自身の中に何か目的とするに足る価値があるのではなく、あくまでも利益を最適で最大にするための合理性の結果あるいは手段にしか過ぎないものなのでしょうか。
そこでまず信用について、もう少し深く考えてみることにしたいと思います。前回信用というのは、嘘や偽りが無く、騙される心配の無いことから、安心して信じることが出来ることだと申しました。そしてこのようにお互いを信用することから、迷惑をかけずに相互に利益になるように配慮し合う信頼関係が生まれると説明致しました。しかし真の信頼関係というのは、単に財貨についての利害のみを配慮しあうことに限定されるものではありません。もっと広くお互いの人間性全般についての配慮への確かさというものにまで及んでくるので無くては、深い信頼にはならないでしょう。そうした信頼があるからこそ、逆に財貨についてもお互いの利益になろうとする動機が生まれてくるのですし、もし信頼関係が財貨の利益に限定されたものであるならば、どこかで私たちの本能は、そこに偽善の匂いを嗅ぎ取るものではないでしょうか。それでは“お互いの人間性全般についての配慮の確かさ”とはいったい何なのでしょうか。それを明らかにするために、先ほど信用について述べた際に用いた“安心”ということについてもう少し厳密に考えてみたいと思います。
私たちが本当に安心できる時というのは、いったいどういう関係にある時なのでしょうか。現代では平気で育児放棄や虐待が起こるので参考にならないかもしれませんが、本来幼児が親の庇護の下にある時、子供は一抹の不安もなく安心感に浸ることが出来るものです。それは親が、単にあらゆる危害から子供を守ろうするだけでなく、子供が本当にその持てるいのちの力を発揮して、自分のためにも人のためにも良く生きて幸せになってもらいたいという願いだけに純粋になって、子供に接するからでしょう。このように私たちは、危害を加えようという意図が寸分も感じられず、さらに自分のいのち育もう、その価値を高めようという切なる意図を相手に感じて、自分の存在をその相手に委ねられる時に始めて、根源的な安心が感じられるものではないでしょうか。そしてこのように、単に利益のみならずお互いがいのちを配慮し、その価値を高めあおうする時に始めて、私たちは本当にお互いを信じて信用しあうことが出来るようになるものと思われます。こうして深く信用しあえるからこそ、相手を自分自身の分身のように頼りにして、信頼しあえることも出来るようになるのです。従ってよく企業のカリスマ経営者などが、何でも自分の思いどおりに動いて成果を上げる部下に対して、「あいつは信用できる」などと言ったとしても、それは本来の信用関係などではなく、実のところは自分の意図に都合良く、相手を手段として用いる関係にしか過ぎないものなのです。
ここで“いのちの力を育む”とか“いのちの価値を高める”ということについては、すでにこのパンセ通信で何度も考えてきたことなのですが、要約すれば、自分自身を生かして他のいのちをも生かして、共に生かし合って生きることの価値に気づく力のことと言っても良いでしょう。この共に生きる価値に気づき、それが出来る力を養う時に、私たちは多くの人に支えられて人間として良く生きる可能性が広がっていきます。つまり“生きる力”が高まっていくのです。このように考えてみる時に、老舗企業の事業や職人さんたちが本当に大事にするものが何であるのかが、少し解ってくるような気がします。1つの商品を作る時に、そこにただおいしさや便利さや丈夫さや安さなど、機能や効用が優れていることだけを求めて品物作っているだけではないのです。無意識の深いところで、あるいは伝統として継承されてきた心の構えやものづくりの姿勢の中で、どうかこの商品を使う人がこの商品を通じて、自分のいのちの価値に気づきますように、そしてそのいのちの力が育まれますようにという祈りを込めて、またそのような機能と価値を込めて、商品を丹念に仕上げていくのです。そこには財貨としての効用の価値だけではなく、使う人のいのち力が高まるようにと、いのち価値をもがあわせてつくり込まれているのです。だからこそ老舗の職人さんたちは自分たちのつくる商品を誇り、品質に妥協を許さず、その商品を手にする1人1人のお客様の喜びと幸せにまで思いが至っていくのです。そしてその商品を流通させる過程においても、その担い手たちによってさらにいのちへの配慮が増し加えられ、商品に込められたいのちの価値は一層高められていくのです。それは何も商品に限ることばかりではありません。サ-ビスにおいても同じです。一流旅館やレストランにおける心からの“おもてなし”も、それは単に贅沢なサ-ビスが提供されることではなく、1人1人のお客様のいのちに対するきめ細かな配慮と敬いが込められているのです。私たちはこのようにもてなされる時、あるいはいのちの思いの籠った商品を手にする時、確かに自分の価値が大切に扱われて育まれることを感じ取り、作り手やもてなしの相手に対する深い感謝の念が込み上げてくるのです。そして今度は私たち自身のいのちの目も開かれていのちの価値に気づき、自分自身が他者のいのちを配慮する主体となっていくことも出来るようになっていくのです。
このように理解してくる時に、ようやく私たちは江戸時代の経済の一端が垣間見えてくるような気がしてきます。なぜ金魚売りや朝顔売りなどが、それだけで商売になったのか。江戸の行商人たちは、単に財貨としての機能や効用を価値としてを売ったのではないのです。それだけなら生活を支える収入などにもならず、また廉売競争なども起こって、さらに利益をすり減らしていくだけのことになったかもしれません。そうではなく1匹の金魚、一輪の朝顔を通じて、行商人たちは買う人のいのちが瑞々しく潤うこと、そしてその風流を通じて手にした人が様々ないのちの価値に気づき、自分自身のいのちを高めていくような価値をお客様にお届けしたのです。それ故に購入する人も、財貨の効用だけではなく、このいのちの価値への配慮と気づかいに対しても代金を支払ったのです。そしてこのいのちを分かち合う価値が、財貨の富と共に誰もが求める富として江戸時代には認知されていたからこそ、そのいのちの富を増やそうと、コモンズの悲劇や目先の利益を越えて、全体の富を増やして長期に富を分かちあうことも可能となっていったのです。
それではその“いのち価値”というものは、具体的な商品やサ-ビスに対して、どのように財貨の価値と共に込められていくものなのでしょうか。そしてまたその価値の大きさは、どのように評価されていくものなのでしょうか。そして現代の私たちが、そのいのち価値に気づき、それを富として認めていけるようになるためには、いったいどのようにしていけば良いのでしょうか。さらにそのいのちの富を、江戸時代のようにゆるぎない価値として社会の再生産の中に組み込んでいくためには、どんな仕組みを考えていけば良いのでしょうか。“いのちの価値”の更なる詳細な内容と共に、1歩1歩考えを進めていってみたいと思います。次回のパンセの集いは2月9日の火曜日16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)