ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.71『行き詰る金融システムと原点から見直す経済』

Feb 14 - 2016

■2016.2.14パンセ通信No.71『行き詰る金融システムと原点から見直す経済』

皆 様 へ

1月29日の日銀のマイナス金利導入の決定以来、世界の金融市場が大荒れとなっています。日本でも2月9日に新発10年物国債の利回り(つまり長期金利)がマイナスになり、11日には円が急騰して1ドル110円台をつけ、その結果12日には日経平均の株価が15,000円を割ってしまいました。マイナス金利導入で円安株高になるはずが、円はマイナス金利決定直後の1ドル121円から急騰し、また株価は18,000円から急落しています。この原因を景気の減速する中国経済やドイツ銀行など欧州金融機関の信用不安など、日本以外の世界経済不安に求める論調が主流のようですが、果たしてそうでしょうか。じつは黒田日銀の決定が、現代の経済危機の本質を露わにするとんでもない引き金を引いたのかもしれないという点に、注意を留めておく必要があるかもしれません。

確かに昨年8月の段階での株価の下落は、原油価格の低迷が原因であり、今年年初からの株価の低迷は、中国経済に対するバブル崩壊の懸念が主因であったかもしれません。しかしその背後には、2008年のリ-マンショックによる金融バブル崩壊以降の、世界的な金融システムの危機的状況が今なお続いていることを見落としてはならないのです。そもそも先進国においては、経済の低成長による資金需要の減退から、金融機関は本来の融資業務による収益は見込めなくなり、トレーディングやレバレッジと組み合わせたデリバティブなどのリスクの高いマネ-ゲ-ムに乗り出し、バブル形成を主導するようになって、自分たちの利益を確保してきました。こうしたバブルマネ-が不動産や株価、資源などに流れ込み、資産価格は上昇して景気は良くなったように見えたのですが、実体経済は成長しておらず(つまり私たちの生活は良くならず)、やがてバブルは崩壊して金融機関が破綻することになります。これがリ-マンショックの時におこった事態です。これ以降先進諸国の金融当局は、金融機関が利益追求のために無謀なマネ-ゲ-ムに走って自滅することの無いように、規制を強化します。その一方で各国の政府と中央銀行は、公共投資などの財政出動と金融緩和を実施することによって、需要の創出と資金供給を行って経済の底上げを図ろうとしました。つまり政府が国債を発行して財政資金を調達して公共投資等を行い、中央銀行がその発行された国債を買って市場に資金を供給していったのです。リ-マンショックで死に体となった金融機関は、この政府と中央銀行間での国債の売買のループの中に入って(政府発行の国債を買ってそれを中央銀行に売って)その差益を得ることで、命脈を保ちました。産業界に資金を供給するという本来の金融業務ではなく、言わば政府と中央銀行の間での利益の保証された国債の利ざや取りで、政府に食わせてもらっているような状態ですね。しかしバブル崩壊で傷ついた金融機関の体力を癒し、金融システムの信用秩序をかろうじて維持していくためには、仕方のなかった措置であったのかもしれません。

ところがです。欧州ではすでに一昨年からデフレ対策のためにマイナス金利が導入されました。これによって欧州の金融機関は、もはや国債の売買での安定した収益を得られなくなっていたのです。それで資金が、低くてもプラス金利で利益を確保することのできる日本国債へと向かっていったのです。このように融資でも、マネ-ゲ-ムでも収益確保の場を失った金融機関にとっては、国債売買は頼みの収益源だったのです。それを今回マイナス金利政策によって、黒田総裁が断ち切ってしまいました。それによる金融機関の信用危機が、まずは相対的に弱体化していた欧州の金融機関から今回表面化してしまったのです。すでに1997年にバブル経済崩壊によって金融危機に見舞われ、20年近くかけて損失処理を積み重ねてきた日本の金融機関とは異なり、欧州の金融機関は、直近のリ-マンショックやギリシア危機のダメ-ジから立ち直れていませんでした。そこに日銀のマイナス金利導入に引き続いて10日のアメリカの事実上の利上げ見送りが、金融機関の信用不安に拍車をかけることになってしまったのです。アメリカの長期金利が低下し、金融機関はアメリカ国債での収益も落ち込まざるを得ない事態となってしまったからです。

日本のメディアでは、安全資産である日本国債に世界の資金が逃避してくるために、円高と国債金利の低下を招いていると説明されていますが、とんでもありません。黒田日銀がマイナス金利と金融緩和(国債の購入)を現時点で同時に実施しているために、例え金利がマイナスになったしても価格が上昇した国債を、日銀が当面は必ず購入することになるので、行き場の失った資金が短期的に日本国債に殺到しているだけのことなのです。このように日銀のマイナス金利政策によって、いよいよ先進国の金融機関は追い込まれてしいました。そしてその一方では、アメリカと日本の財政赤字は刻一刻と臨界点に近づいています。このように少し整理して現在の世界の金融と経済の状況を考えてみると、本当に危機が深化していっている状況がよく見てとれます。しかしそれはまたいびつに歪められた経済の仕組みが、本来のあり方に戻りたがって悲鳴を上げていると見てとることも出来るのかもしれません。私たちはこの悲鳴を聞き取って、原点に立ち返って経済や金融の仕組みを考えてみる必要があるように思われます。次回のパンセの集いはそんな問題意識をもって、2月16日火曜日の16時から行います。場所は初台・幡ヶ谷の地域で開催します。

さてそれでは、経済とはいったい何なのでしょうか。今その一番の骨格のところだけを取り出して考えてみると、現代においては、人間生活に必要な財貨やサービスを生み出して(生産して)、それを分配し、消費する活動およびそのための社会の仕組みと言って間違いはないでしょう。そこでまずこの経済活動の出発点である、財貨やサ-ビスの富を生み出すということについて考えていってみたいと思います。財貨やサ-ビスというのは、近現代においては商品と言い換えても良いものです。簡単に言ってそれは、人々が欲し求めるものです。お金や他の価値あるものを代価として支払っても、手に入れたい、手に入れる必要があるもののことです。しかしそれでは私たちが欲し求めるものというのは、果たして商品だけに限られるものなのでしょうか。もちろん経済学で対象となるのは“商品”だけです。商品というのは、なんらかの欲望を充足させる有用性をもったもので、これを使用価値と言います。同時にそれは市場経済の発達してきた近現代においては、市場で交換可能なものでなくてはなりません。商品のこの側面の価値のことを交換価値と言います。つまり商品とは使用価値と交換価値をあわせもったものであると定義されるのです。しかし商品の使用価値は、機能や形状や材質などが様々です。仮に1台のスマホと1着のジャケットが同じ価値だとして、なぜそれらの価値が同じだと言えるのでしょうか。この難問については、すでに市場経済が全面化してきた18~19世紀に、アダム・スミスやマルクスによって、その商品を生産するために必要な人間の労働量が等しいので価値が等しくなるという具合に解き明かされました。これはこれで全く正しいことなのですが、この結果、本来商品が持っている何らかの欲望を充足させる有用性のうちから、量として明確に把握できる部分しか使用価値としても意識されなくなったということに、留意しておく必要があります。前回取り上げた老舗企業の信用や信頼、あるいは母親の形見として受け取ったネックレスなどには、それを身につけただけで母親に見守られている、いのちが励まされるなどといった価値があるはずなのですけれど、そうした計量できない抽象的な価値は使用価値の対象から削ぎ落とされ、結果として機能や耐久性などの品質だけが残されることとなったのです。しかしこれはこれで仕方の無いことかもしれません。そのようにいのちの価値を削ぎ落とした機能性としてだけの商品を対象としなければ、複雑な生産・分配・流通・消費の経済の仕組みを解析できなかったからです。また18~19世紀、いや20世紀の後半まで、人間の生活向上の欲望に対して物資的な財貨や機能(情報技術を含む)が不足していたことから、人間の欲望の対象がもっぱら財貨の富(商品)に向けられたとしても、それはそれでけっして間違いではなかったのです。なお近代経済学では、商品が持つ価値を労働で量るのではなく、それを消費した時に得られる主観的な満足の度合いで量る効用の価値に焦点が当てられますが、あくまでもそれも、商品としての機能を消費した時の効用でしかないので、やはり信用や信頼などの価値を対象とするものではないのです。

ここで原点に立ち返って考えてみなければならないのは、経済学が対象とするのは、量的に量れる品質や機能のみに削ぎ落とされた、商品という財貨としての価値の側面だけなのですけれど、果たして人間の欲し求めるものは、そのような機能としての商品や財貨だけに限定されるものなのでしょうか。パンセ通信のNo.67でも考えたとおり、生命体である人間は、事物連関に働く自然法則に従って(言い換えれば運命の法則に従って)生きるものではなく、常に自分にとっての意味と価値を生みだした世界に生きる存在です。自分が欲し求めるものは“意味”あるものであり、その意味を充足するために有用なものは“価値”あるものとして認識されます。私たちは日々の生活の一瞬一瞬において、その時の必要や求めに応じて、些細なモノや事象にまでも意味を付与し、価値づけを行い、こうして自分にとっての意味と価値のあるものだけが私たちの意識に捉えられ、認識の俎上に上ってくるのです。従って人間は、本来意味と価値に満たされた世界に生きる存在であって、自分にとって意味ある人生を送れる時に、私たちは自分の人生を価値あるものとして自覚することができ、この時に始めて人生を本当に豊かなものとして実感できるようになる生き物なのです。

それでは私たちにとってより本源的に意味あるものとは何なのでしょうか。それは“生きる”ために必要なものと考えて間違いはないでしょう。マズロ-の欲求5段階説を持ち出すまでもなく、私たちが生存の危機にある時には、いのちをつなぐ水や食料などが最も強く意味あるものと意識されます。従って私たちが安全にそして安定的に生きられるようになるまでは、物質的な不足が最も重要な課題となり、私たちの生存を保障するモノが最も意味と価値あるものとなり、その充足が人生の目的と同一視されるようになるのです。しかしある程度生存に必要な物資が満たされてくると、今度は私たちの視線は、より便利なものやより機能性や耐久性に富んだものへと向かい、さらには高価なブランド(その社会でより高い価値があると共通了解されているもの)に意味を見出すようになっていくのです。こうして私たちは、自分の生活をより効率良いものとし、他者からの承認(羨みや尊敬)によって自分の価値づけをも図って準備を整え、いよいよ人間が“生きる”ことの高次元での目的である、1回限りの自分固有の人生、自分にしか生きられない意味と価値をもった豊かな人生の生き方へと歩みを進めていくのです。じつは“商品”が大きな役割を担うのは、この準備の段階までのことなのです。

現在日本を含む先進国においては、格差の拡大により貧困に喘ぐ者もあるとはいえ、総じて人々の求めは、人が幸せに生きるための必要条件である“商品”のレベルから、“意味と価値ある人生”という生き方の豊さそのものへと移ってきています。つまり私たちの求めそのものが、商品から移っていって、商品の価値が相対的に低下してきてしまっているのです。これでは景気をいくら刺激したところで、(商品)需要が伸びて経済が拡大循環しようはずがありません。恐らくこのことが、先進国を中心とした経済が行き詰ってきている原理的な理由なのでしょう。それ故にこそ、私たちはもう1度原点に立ち戻って経済の仕組みを考え直してみなくてはなりません。すべては私たちの“求め”から始まり、私たちにとっての価値の所在からスタ-トします。近現代においては、その出発点に“商品”が立ち現れていました。しかし素直に考えてみると、人間は意味と価値を付与して生きる存在なのですから、本来“商品”というものにも、自分にとっての意味と価値が満ち満ちていたはずです。しかし市場において交換されるものとしての商品の性質を解りやすくし、モノの財貨としての商品生産の拡大循環を目的とする経済学の思考枠組みを簡明なものとするために、私たちの英明な先人たちは、商品から人間のいのちとの関わりで付与される意味と価値を削ぎ落とし、その機能性の側面にのみ着目して、価値を評価するようになっていきました。従ってこの先人たちの偉大な遺産を引き継ぎつつも、経済社会を次の段階へと推し進めていかなければならない私たちにとっては、商品をモノの機能の側面だけでに限定するのではなく、江戸時代のようにいのちを育む意味と価値にも満ち満ちたものとしての本来の総合的な姿に戻して、モノといのちの意味と価値とを共に拡大循環させていく新しい経済学を模索していくことが課題となってくるのです。

このことの詳細については、引き続き詳しく検討していきたいと思いますが、次回2月16日(火)のパンセの集いでは、映画という商品を素材に試写会を行い、いかに各人の生きる意味と価値をそれに付与して総合的な価値あるものとして編み直していけるか、そして私たちのいのちの豊かさと価値を高めるものとしていけるかについての試みを行ってみたいと思います。時間は16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)