ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.72『利潤から生き方の豊さへ-資本主義的欲望循環の転換』

Feb 21 - 2016

■2016.2.21パンセ通信No.72『利潤から生き方の豊さへ-資本主義的欲望循環の転換』

皆 様 へ

前回のパンセの集いでは、映画『戦艦ポチョムキン』の試写を行いました。フィルム・クレッセントで、長年相澤徹さんのもとで映画製作に携わってこられた菅拓哉さんのご尽力もあり、映像再生装置、プロジェクタ-、スクリ-ン等の機材が整ったことから、その性能を確認するための試写でもありました。幸い機材に問題はなく、ちょっとしたミニシアタ-気分で名作を鑑賞することが出来ました。そしてまた現在私たちが取り組んでいる、老舗企業の品物やおもてなしのような、商品を単なる機能として消費してしまうのではなく、人のいのちを育むような商品やサービスのあり方について、映画という“商品”を手掛かりとして考えてみようということも目的の1つとしてありました。幸いこの『戦艦ポチョムキン』という映画は、1925年という映画の黎明期に製作された無声映画ではありますが、映画というものが私たちの意識にも感覚に働きかけて、あるイメ-ジを魂の奥底に刻み込むという意味での表現技法を確立した映画史に残る名作です。この映画の感想を分かちあうことを通じて、これからの時代の“商品”のあり方についても考えていければと思っております。

さて本日の本題に入っていきますが、日銀によるマイナス金利の導入決定を機に、いよいよ世界の金融市場の構造的な危機が顕になってきたように思えます。パンセ通信ではここ3~4回はこうした状況をも踏まえて、もう1度経済の仕組みを1から考え直す取り組みを進めております。経済というのは、人間生活に必要な財貨やサ-ビス(価値)を生産し、そこから生まれる富を分配し、また生産した財貨やサービスを流通させて各人に届け、消費する活動およびその社会的な仕組みのことを言います。経済成長というのは、この経済活動の流れの循環が拡大していくことです。まず私たちが欲し求めるものが十分に満たされていないために必要が高まり、それを満たす財貨やサ-ビスの生産が拡大し、流通する量も増えていきます。そうするとそこから生まれる富も大きくなって、各人への富の分配も増えるので、消費の量が増大していきます。その結果必要がさらに高まり、財貨やサ-ビスの生産が拡大循環するというプロセスを辿っていくことになるのです。現代の社会は、この経済が成長して循環していくプロセスに適したように出来上がっているものですから、経済が拡大しないと景気も低迷して企業の業績が悪化し、賃金も下がって失業者が増えるなど、私たちの生活に深刻な影響を及ぼすようになってきます。この経済が成長しない状況がすでに日本では長く続いていて、かつて1980年代には4~5%の成長を誇っていた日本経済も、バブル崩壊後の1992年以降の20年間(失われた20年)の平均成長率はわずか0.7%程度に落ち込み、GDPも500兆円前後を行き来する状況が続いています。第2次安倍政権になってアベノミクスで経済が浮揚したかのように言われていますが、総理就任後の平成12年10~12月期以降の四半期ごとの成長率を見ていくと、これまでの13四半期のうちの約半分の6四半期がマイナス成長です。つまり実質的に0成長が続いている状態なのです。それどころか私たちが生活のために使うお金である民間最終消費支出だけを取り出して調べてみると、安倍内閣発足時の平成13年に313.2兆円だったものが、昨年平成15年には306.5兆円と、6.7兆円も減ってしまっています。これは民主党政権下で低迷した野田内閣の時よりも下回る数値です。(平成12年は308.0兆円。この安倍内閣のもとでの消費支出減少の最も大きな理由は、2014年の消費税増税の影響でしょう。この数字を見る限りにおいて、安倍内閣における実体的な経済政策は、現状では全く成功していないと言えるでしょう)

ではいったい日本の経済、いや日本だけでなく世界の先進国と呼ばれる国々の経済は、何故成長しなくなったのでしょうか。また0成長やマイナス成長というのは何故問題で、本当のところそれは良くないことなのでしょうか。その原因と問題の所在を少しずつ考えていきながら、私たち1人1人の生活と人生を良くしていく方法と、そのために私たちが今ここから出来る具体的な対応の一手について考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、2月23日火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

まず経済が成長出来なくなった原因を、経済循環の過程を構成する基本的な活動の要素から考えていってみたいと思います。その基本的な活動とは、財貨の生産、市場による交換・需給調整、流通、富の分配、消費および貯蓄(負債)などの活動のことです。この中で従来から取り上げられているのは、市場の機能の不全や富の分配の問題です。市場の独占が進んだり、生産者である企業と消費者である個人の間では情報の量が異なるので、個人が不利な取引を強いられたり、さらには公害などで企業が環境コストを負担しないで不利益を生活者に押し付けるなどして、効率的な需給調整や富の分配が行えなくなってしまう問題です。このために富が、一部の企業や富裕層に独占され、消費者が手にする富の量は少なくなってしまいます。結果として消費者は欲しいものがあっても十分な資力が無いので買えずに節約することとなり、消費が落ち込みます。消費が落ち込むので、生産も伸びずに経済が拡大成長することが出来なくなってしまうのです。因みにこの問題を解決するために、富の分配を市場だけに委ねずに権力でもって強制的に格差を是正し、公平に分配しようという方法が社会主義です。そしてその権力を握るのが、自分自身の労働力以外何ものも所有しない無産者階級である労働者(プロレタリア-ト)であれば、私的な利権に溺れることなく公平な権力行使が出来ると理論づけられたのです。しかし権力はやっぱり魔物で、どんなに公平な人物・階級でも一度権力を手にしてしまうと特権的な支配階層を生み出して、ひどく不効率で自由の無い統制社会を生み出してしまいます。それが1917年のロシア革命以来続いた社会主義の実験だったのです。

今ここでは社会主義の評価はさておくとして、市場がいかに効率的に機能して富の分配を公正に行うかということについては、現代の経済学の中心的課題で、これまでに多くの研究がなされてきております。しかし私たちの取り組みでは、経済循環のプロセスのうちで財貨の生産と消費・貯蓄という最初と最後の活動に焦点を当てて、そもそも経済活動の出発点である私たちの求め(ニ-ズ)の内容を明らかにするといった、少し原理的な問題から考えを進めていってみたいと思います。

さてこの文章の冒頭で、経済という営みの出発点は人間生活に必要な財貨やサ-ビスの価値の生産だと申しました。人間はより機能に優れた財貨や利便性・効率性に優れたサービスを求めるためにこれらを生産し、利潤を得て、その富でもってさらに多くの財貨とサ-ビスを欲して生産を拡大させていきます。このように物質的機能や利便性に富んだ財貨に満たされた生活を求め、それらを購入できるための利益を手にし、またその利益を求める競争に勝利する執念が三つ巴になって私たちの欲望は刺激され、経済が拡大循環して成長していくのです。しかしよくよく考えてみると、価値というのは、本来人間が欲し求めるものの総体のことで、何も財貨やサ-ビス、利益に限定されたものではありません。それ故にある程度の物質的な生活インフラと消費生活水準を達成した段階の現代の私たちが、今最も切実に欲し求めるものが、もはや物資的な機能や利便性をもたらすサ-ビスとしての“商品”ではなく、もっと違ったものにシフトしているということもあり得ることで、もしそうだとするなら、経済循環の出発点である財貨やサ-ビスとしての“商品”は、もはや私たちの欲望を強く刺激するものとはならなくなっている可能性が出てくるのです。従ってそれに対する大きな需要も起こらなくなり、当然生産が拡大する必然性も無くなってしまうことが起こり得るのです。前回のパンセ通信で考えたのはこうした状況のことで、現代の私たちが欲し求めるものの中心が、財貨の機能としての“商品”から、自分らしい役割を担って生きることのできる“人間として意味と価値ある人生”といった、生き方の豊さそのものの方へとシフトしてきているのではないかということでした。

そもそも資本主義というのは、物資的な財貨の豊かさと、利潤の増大、そして財貨と利潤を求めての自由な競争をすることがゲーム的な刺激となって、私たちの欲望を際限なく拡大循環させていく仕組みのことです。これはこれですこぶる意味のあったことで、社会全体の物質的な財貨の不足を解消し、私たちの生活がより便利で機能的に快適なものとなるために大きな役割を果たしました。しかしそれは、あくまでも本来私たちがより人間として充実して、幸せに生きていけるようになるための手段としてのことであったはずです。確かに資本主義の欲望循環によって、私たちの物質的・機能的生活は豊かになりました。しかしそんな現在の日本の社会に暮らす私たちが、人間の本来の目的であるいのちの豊かさを享受して希望に満ちて生きているかというと、けっしてそんなことはありません。それどころか現在は、本来私たちが人間らしく生きられるための物資的な経済基盤をつくる手段であったはずの資本主義的欲望循環そのものの方が目的化してしまい(つまり利益や富は人間が幸せになるための手段であったはずなのに、利潤や富(お金)の追求そのものが自分の生きる目的となってしまう)、却って格差が拡大して貧困が増大したり、たとえ成功して勝ち組になったとしても地位を失う不安に苛まれたり、さらには環境破壊や人間性を喪失する生き方を強いられるなど、その弊害の方が目立つようになってきてしまっているのです。つまり日本や欧米の先進国においては、社会のすべての成員が一定程度の物質的・機能的な豊かさを享受できる経済基盤をすでにつくりあげたように見えるはずなのに、人間の生き方の豊さという本来の目的はいつまでたっても達成できず、却って弊害が目立つようになってきているのです。そうした現実を目の当たりにすれば、物質的豊かさ、利潤、競争で駆り立てられていた私たちの欲望も減退してしまい、その結果資本主義の欲望循環のメカニズムは機能不全となり、私たちの欲望をわくわく刺激するどころか場合によっては希望を奪って消耗させるものとさえなってしまうのです。

それではいったいどうすれば良いのでしょうか。もはや人間本来の生の豊かさを疎外するだけで、私たちの生きる意欲と力を高めることのなくなった資本主義の欲望循環とは異なる、新しい欲望循環、すなわち人間本来の生の目的である生き方の豊さを求めて、生活の基盤をより確かなものとし、人生に意味と価値を与え、生きる意欲と力を高めていくような新しい欲望循環を生み出していく必要が出てきているということでしょう。そしてその欲望循環を育むような、経済・社会の仕組みと政治あり方を検討していく必要が生じてきているのです。

さてそこで、経済活動のミクロの出発点に立ち戻って、現代における私たちの中心となる求めについてまず考えてみたいと思います。先ほど私たちの欲し求めるものの中心が、財貨の機能としての商品や利潤から、人間としての意味と価値ある人生(生き方)へとシフトしてきているのではないかと述べました。確かに現在の私たちの実感として、自分を失ってまでもあくせく働いてお金を稼いだり、豪華な生活をするよりも、そこそこの暮らしぶりで良いから、心豊かな人間らしい生活をしたいという思いの方が強まってきているのは確かでしょう。その1つの理由は、経済が拡大成長しない状況下では、金持ちになるには従来以上の労力が必要となりますし、そもそも格差も拡大しているので、上層階層にいない限りは大きな富を手にする可能性が狭まっているからということもあるでしょう。しかし経済的な成功の困難さが増しているからこそ、人間としてより本質的な求めが浮上してきて、そこに目が行き易くなっているという側面もあるのです。それでは“人間としての意味と価値ある生き方”という、人間としての本質により近い求めを経済活動の出発点(価値)とするなら、その中身をある程度しっかりと確定しておくのでないと、その求めを満たすために何を生産すれば良いのかがわからず、経済活動のプロセスをスタ-トさせて組み立てていくことが出来ません。また今ある経済活動を無視して、全く新しい経済の仕組みを考えても、それは単なる夢想にすぎなくなるので、現在の経済活動の起点となる商品と、“人間的な意味と価値”ということの関わりも明らかにしておく必要も出てきます。そのことが明確になれば、商品に人間的な意味と価値を埋め込むことによって、現在の経済循環の仕組みをそのままに利用して、私たちの暮らしの基盤を支える商品の生産とあわせて、生き方の豊さ、そしていのちの価値をも増し加える経済の仕組みも展望することが出来るようになってくると思われるからです。

次回のパンセの集いでは、“人間的な意味と価値ある生き方”という現在わたしたちが感じている中心的な求めを手掛かり、生命や生物、そしてその中での人間にとってのより本質的な欲望構造を取り出して、商品(物質的な豊かさ)、利潤、競争という資本主義的欲望循環に替わる、人間にとってより本源的な欲望循環の仕組みについて考えていってみたいと思います。そしてそのより本源的な欲望の循環プロセスを機能させる、新たな価値を持つ商品から始まる経済循環の仕組みと労働と消費のあり方についても考えていければと思っております。日時は2月23日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)