ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.73『商品の効用からいのちの効用へ-利潤の実践モデル』

Feb 28 - 2016

■2016.2.28パンセ通信No.73『商品の効用からいのちの効用へ-利潤の実践モデル』 

皆 様 へ

2014年に1バレルあたり100ドルもしていた原油価格が、今年1月は30ドルまで下落しました。この原油値下がりによって昨年日本にもたらされた経済効果は、10兆円に及ぶと試算されています。GDPの2%にも及ぶ金額で、減税効果に例えてみるなら、国民一人あたり10万円ものお金が戻ってくる計算です。でも私たちの家計にちっともそんな実感はないし、経済への浮揚効果も見ることが出来ません。原子力発電が止まって、石油や天然ガスを燃料とする火力発電に依存しているはずの電気料金も、ほとんど安くなっていません。3.11東北大震災以降、火力発電に切り替えざるを得なくなった時には、さっさと大幅な値上げをしたにも関わらずです(因みに2011年3月の原油価格は、1バレル103ドルでした)。その一方で、東京電力福島第1原発事故処理のための、原子力賠償支援機構を通じて支払われた除染や廃炉や賠償のための費用は、2013年末までだけで10兆円に達し、その後もどんどん増加しているとのことです。じつはこの費用は東電が負担するのではなくて、税金や電気料金への加算で、私たち国民が負担しているのです。原油価格の値下がりで得られるはずの10兆円の経済効果が、原発の事故処理に消えてしまっている? この事実1つをとっても、私たちの国の経済が悲しくなるようなごまかしの構造で覆われ、抜本的な改善の手が施されること無く、破滅へと向けて地すべりを続けていることがよく解ります。だからといってアメリカの大統領候補のトランプ氏のように、問題の原因を移民や他国に押しつけても、またサンダ-ス候補のように1%の富裕層のせいにしても、ポピュリスト的な人気は博せたところで、本質的な問題の解決にはなりません。もちろんヒラリ-・クリントンでは、所詮建て前にすぎないので、既存勢力の後押しは受け易いとしても、問題を先送りするだけのことでしょう。こうして見てくると世界のリ-ダ-たるアメリカも同じように欺瞞に満ちていて、けっして新しい期待の持てる状況にはないことがよく解ります。そこで私たちは、拙いながらも私たちの五感で得られる確かな実感をベースとしてそこから始めて、本当に私たちの生き方と暮らしを良くしていくための経済のあり方を、根本から考えて組み立て直してみようと取組んでおります。次回のパンセの集いは3月1日火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

さて前回は、経済循環の基本構造として財貨・サービスの生産、市場による交換・需給調整、流通、富の分配、消費および貯蓄(負債)を取り出して、まずこの経済活動の出発点であるニ-ズ(私たちの求め)の内容について考えてみました。産業革命と市場経済の発達以降、私たちのニ-ズの中心は主としてモノの豊かさや利便性・効率性などの機能性の高さでした。モノが豊かになり生活が便利になれば、私たちは人間性豊かに生きられるようになると考えたのです。このニ-ズを満たすために生み出された経済循環の仕組みが資本主義で、物質的な財貨や機能的なサ-ビスの富を、貨幣という量的に量れる記号によって媒介して明確化し、それを資本として蓄積していくシステムのことです。そしてその資本を再投資して、財貨やサービスを増やしてその富を拡大生産していくのです。そのプロセスをモチベ-ションとして支えるのが、物質的・機能的豊かさ、利益(富)の増大、そしてその利潤(数量的に把握できる明確な富)を求める自由競争というゲ-ム的な欲望の刺激構造です。ところが今、この資本主義の経済構造がうまく機能しなくなってきているのです。その第1の原因は、モノが豊かになり生活が便利になっても、私たちは人間性豊かに生きることが出来ないことに気づき、そのためには私たちが別の条件を満たしていかなければならないことを自覚し始めたからでしょう。もう1つの原因は、資本主義というものが、数量的な富としての利潤の拡大と資本の蓄積を“自律的”に追及していく仕組みであることから生じてくる問題です。もちろんこの仕組みが自律的に機能したからこそ、これまで先進国は物資的な豊かさと生活の利便性を増大させることが出来ました。ところが今は逆に、それが自律的に動いてしまうからこそ、利潤と資本蓄積ばかりを求めて、他に悪い影響が出ても止まることが出来なくなってしまっているのです。そのために現状では却って、格差の拡大による貧困の増大や、労働過程における自己(人間性)喪失、あるいは環境破壊などの問題面の方が顕在化するようになってきています。これが資本主義がうまくいかなくなってきている第2の理由です。そのために物資的豊かさ、利潤、競争という資本主義的な欲望刺激構造についても、もはや私たちを駆り立てる力を失い、却って私たちの意欲は萎えてニ-ズも衰えて、希望が持てなくなってきてしまっているのです。

この状況を解決していくためには、私たちの本来の目的である人間としての生き方の豊さの十分条件(物質的な豊かさや生活の利便性は必要条件)を明らかにし、それを満たしていくための新たな富(価値)の概念やその把握と蓄積の方法、投資と循環の仕組み等を考え、また主観的にその仕組みを追及するためのモチベ-ションとなる欲望循環の構造をも求めていかなければならなくなるでしょう。しかしその前に、物質的な豊かさや生活の利便性の富も、本来の目的である生き方の豊さを実現するための重要な必要条件を構成する以上、この富(価値)を生み出す現在の経済循環の仕組みも軽視するわけにはいきません。そこでまず、もう1度現在の経済の仕組みの原点に戻って、私たちの欲望の対象となる貨幣的な富の産まれる仕組みを明らかにし、その富と新しく私たちが求め始めている生き方の豊さを可能にする“いのちの富”との関わりとその富の創出・蓄積・投資・循環との関わりについて考えていってみたいと思います。もしそのことが可能になれば、物資的・機能的富をも含み込んだ“いのちの富”の経済循環構造のイメ-ジも描けることになり、いのちの富を資本とする“いのちの資本主義”をも構想することが出来るようになるかもしれないからです。それによってマルクスの言葉ではありませんが、本来は手段でしかない物資的豊かさと利潤を目的としてきた人類の前史から、いよいよ本来の生き方の豊さを高めていくことを目的とする人類の本史、いや全ての生命と環境を調和させてあらゆるいのちの価値を高めていく、“いのちの本史”をスタ-トさせていくためのビジョンもまた垣間見えてくるかもしれません。

そこでまず、現代の経済の出発点でもあって私たちのニーズの対象であり、また生産の目的物でもある“商品”について、その価値の内容から利潤の生まれてくる構造を考えていってみたいと思います。商品というのは、前々回のパンセ通信でも説明したとおり、使用価値と交換価値という2つの価値を持った有用物です。使用価値というのは、私たちの必要を充たしたり満足を高める効用を持った価値のことであり、その機能や形状や材質は商品によって様々です。一方交換価値というのは、様々に異なる商品が、同じ基準によって市場で交換される価値のことです。この交換価値の内容を研究して、それはその商品を生産するためにその商品に込められた社会的必要労働の量であると規定したのが、ウィリアム・ペティ、アダム・スミス、リカ-ド、マルクスに至る17世紀から19世紀にかけて進展した古典派経済学です。この成果によって、機能も形状も異なる様々な商品が、同じ尺度で市場で交換される仕組みが説明できるようになり、また公正な交換の指針をも得ることが出来るようになりました。これを労働価値説と言って、生産者がその企業活動の目的である利潤を生みだす仕組みについても、きわめてシンプルに説明することが出来るようになったのです。すなわち
原材料費+製造費(人件費+製造諸費用)+流通・輸送費用<売価(値段)- ①
この不等式の右辺である値段が、左辺であるコストより大きくなればなるほど利潤は大きくなり、経済活動を行ってそれを循環させるモチベ-ションが高まるのです。

しかしこれはあくまでも生産者側にとっての利益から見た話であって、消費者にとっては、欲しくもないものを買わされたり不当に高い値段で売りつけられたりしたのなら、たまったものではありません。そこで商品を使う消費者の側からの価値を考える経済学が発展してくることになります。つまり商品の価値を労働量などのコストの面から考えるのではなく、消費者にとっての効用、すなわちその商品を消費した時に得られる満足度(使用価値)から捉えようとするのです。これが効用価値説といって、19世紀の終わりにイギリスのジェボンズ、オ-ストリアのメンガ-、スイスのワルラスによって始まった新古典派経済学(近代経済学)です。この新古典派経済学の特徴は、18世紀以来の啓蒙思想(人間の理性で自然と社会のすべての法則が発見できる)の影響がピ-クに達した時点でのものの考え方で、本来商品を使った時の満足という主観的で人によってその効果の度合いの異なるものを、限界効用という概念で強引に指標化し、その価値の大きさを量ろうとしたことです。言い換えれば捉えどころのない抽象的な人間の欲望というものを、それを充たす効用について数量化することによって商品の価値を測定し、そこから生まれる数量モデルで、各商品の需要と生産の市場における均衡までをも数学的に説明しようとしたのです。

限界効用というのは、財貨やサ-ビスが1単位あたり増えた時の人間の効用(満足)の増加分のことです。そしてこの限界効用は、労働価値のように生産に要した労働時間というような一定量で把握されるのではなく、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分から生まれる効用は次第に小さくなる(限界効用逓減の法則)と考えるのです。例えば1杯目のビールはうまいが、2杯目、3杯目になるに従って1杯目ほどのうまさは得られなくなり、ビールから得られる効用は次第に小さくなっていくような事例です。このある商品の効用(y)と消費量(x)の関係をxyの座標軸でグラフに現すと、上に凸の右肩上がり(上昇が次第に鈍化する)の曲線として描けます。つまり商品から得られる満足度の価値(使用価値)というのは、消費量によって都度変化するものの、この曲線上での微分係数として消費量との相関で把握できるとしたのです。つまり数学的に計算できるようにしたのですね。人間の主観的な満足度を無理やりにでも様々な限定づけを行って、数字に置き換えて計算できるようにしようとしたのですから、この時代の人間の合理性への執念には凄まじいものがあったことがわかります。ところで現実の生活において私たちは、1個の商品を消費して満足するのではなく、複数の商品から自分のニ-ズに合うものを選択して生活していきます。この時にも私たちは、一定の予算の中で自分の効用(満足度)が最も大きくなるように商品の組合せを選択すると仮定します。例えば今リンゴとバナナがあって、自分にとってはリンゴの効用の方がバナナの効用より大きいとします。そこで1,000円のお金(予算)があったとする時に、全部リンゴを買ったとすると自分の効用が最大になるかというと、そんなことはありません。なぜなら先ほどの限界効用逓減の法則が働くとするなら、2つ目に買うリンゴの効用は1つ目のリンゴの効用よりも小さくなるので、1つ目に買うバナナの方が自分にとっての効用は大きくなることがあるからです。その場合には、2個目に買うのはバナナにした方が全体としての自分の効用は大きくなります。このように2つ目以降リンゴ、バナナのそれぞれについて、次第に低下する効用のうちのその時点での大きい方を選択することを繰り返していくと、やがて次に買う品物がリンゴでもバナナでも、どちらでも効用は同じになるという地点に到達します。つまりこういう買い方をしていけば、全体としての自分の効用は最大にすることが出来るのです(限界効用均等の法則)。この一定予算で複数の商品の効用が最大になる点は、それぞれの商品を組み合わせた時の効用が同じになる点をつないで描いたグラフ(原点に対して凸の曲線)を、偏微分することによって求めることが出来ます。そしてさらにその次は、異なる人間の間での異なる商品の交換の場合についてもモデルをつくっていきます。例えばAさんの住む地域ではリンゴは生産できるが、バナナは生産出来ないとします。逆にBさんの住む地域では、バナナは生産できるがリンゴは生産出来ないと仮定します。そうするとAさんにとってはバナナの効用が高く、Bさんにとってはリンゴの効用が高いことになります。そうするとバナナとリンゴの交換は、Aさんの効用もBさんの効用(満足)も増やすことになります。このように異なる商品の交換も効用を増やしますが、その効用もやがてもはや増えない地点に到達し、そこで交換は止められると考えるのです。そしてこの均衡点における交換比率を、交換価値として考えていくのです。こうして個々の商品の交換のモデルが考えられた最後には、多数の商品の需給が決まる市場のモデルまで検討していくことになります。それについても、消費者は効用を最大化させ、企業は利潤を極大化させるように行動すると仮定して、価格と生産量は需要曲線と供給曲線の交点で均衡するとして説明していくのです。こうして個々の人間の効用から始まって、市場の均衡までをも数学的モデルで説明していける道をつくっていったのです。

これは科学的でなかなかすごい理論なのですけど、注意しなくてはならないのは、あくまでも「人間は効用を最大にするものである」とか、あるいは「限界効用は逓減する」、「限界効用は均等する」などの条件を次々と仮定して、その上で数学を当てはめることが出来るようにして、合理的に経済活動をモデル化して分析出来るようにしているという点です。そこで想定される人間も、常に利益や効用を最大にしようとして行動する合理的経済人です。しかし例えば商品が「やめられない止まらないカッパ海老せん」のような場合には、2個目の海老せんの効用は減少しないので(むしろ増大する?)、今まで述べてきたモデルは全く適用出来ないことになってしまいます。(従ってこの場合には、限界効用は逓増するという条件での新たなモデルをつくることになるのですが、それ以前にそもそもすべての人間が、いつでも自分の利益や効用を最大化させるために理性的に行動するという仮定自体が、かなり怪しい前提なのです。)

しかしそれでも、モデル化ができることのメリットは大きくて、いろいろと活用できる余地が出てきます。そこで以前に労働価値説に基づいて利潤が生まれる仕組み(①の式)を紹介したのですが、今度はこの効用価値説に基づいて商品が売れる仕組みを考えてみることにします。今1個のおいしいメロンパンがあるとして、その効用を考えてみると、空腹が満たせるという効用やおいしさによる満足感や幸福感などといった効用があることがわかります。つまり
メロンパンの価値=空腹を満たすという効用+美味しさによる幸福感
などという等式を考えることが出来るのです。この効用の程度(1個のメロンパンを食べて満足する程度、つまりパンの価値)は、胃袋が大きいとか味にうるさいなど人によって異なってくるものですが、とりあえずある人のこのメロンパンの価値をメロンパンの値段と置き換えてその効用と比べると、
メロンパンの値段<メロンパンの効用(空腹を満たす効用+美味しさによる幸福感)-②
という不等式の成立する時、購買者はその商品に対してお買い得感を覚え、得をしたと思えるようになるために、この商品の購入動機が強まることとなるのです。これを労働価値説による利益の出る仕組みと併せて考えてみると、生産者にとっては、生産コスト以上の値段で商品を売りたいし、買う人から見れば、自分にとっての効用(満足)以下の値段のお得感のある(あるいは割安の)商品が欲しいということになります。そこでもう1度ここで労働価値説により利益出る仕組みの①の式を思い起こしてみると、
原材料費+製造費(人件費+製造諸費用)+流通・輸送費用=生産コスト<売価(値段)- ①
であるのですから、これを②の式と組み合わせて考えてみると
生産コスト<値段<商品の効用 - ③
という式が成り立つ時に、その商品は生産者にとっても消費者にとっても利益となってWIN-WINの関係を導くものとなり、ヒット商品となる可能性が出てくることがわかります。

この労働価値説と効用価値説を結びつけて現した③の式は、単純ですが商品の利益の出る仕組みをよく説明することが出来ます。事業者が一番儲かるのは、値段が一定の時には生産コストを限りなく下げて、またお客さんの効用が極大になるようにした時です。またそのための方法論も、ここから見てとることが出来てきます。生産コストを下げるためには、減価の低減やコストカットの努力を行うことになりますが、お客さんの効用(満足)を高めていくためには、単なる効率化や省力化ではダメで、商品の質を高める創意工夫が求められるようになるのです。さらに効用の程度は人によって異なってくるのですから、どんなことに満足してどの程度の効用を欲するかの個人差によって、その商品のつくり込み方や販売タ-ゲット、またそのタ-ゲットに訴求する方法(つまりマ-ケティング)も異なってくることになります。

しかし③の式も、あくまでも機能としての商品を消費する場合の効用を前提としています。そこでさらにこの効用を、私たちの生き方を豊かにする効用、つまりいのちをリフレッシュしたり、生きる意欲と力を高めるような“いのちの効用”にまで広げて考えていってみた場合にはどのようなことが考えられるのか。③の式を使って、現状の商品での利益を稼ぐ仕組みをさらに詳細に検討しつつ、“いのちの効用”をも高める商品のあり方やその生産や商いの方法についても順を追って考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは3月1日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)