ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.77『新しいゲームづくりと映画鑑賞に観るいのちの効用』

Mar 27 - 2016

■2016.3.27パンセ通信No.77『新しいゲームづくりと映画鑑賞に観るいのちの効用』

皆 様 へ 

アメリカの大統領の予備選挙を戦うトランプ氏が、外交政策に触れています。日本などへの米軍の駐留を見直し、もし駐留を継続する場合は、日本に応分の経費の負担増を求めるとのことです。その理由は「米国は力強い国だったが、今は貧しい。債務超過国だ」からとのことです。トランプ氏の思慮も配慮も足りない暴言は、しかし床屋談義的な庶民の無責任な本音を代弁しているとも言えます。かつてヒトラ-が、ドイツの第一次世界大戦の賠償放棄を訴えて1933年のナチス政権を誕生させたように、「それを言ったらお終いよ(賠償放棄は戦後の和平秩序を崩壊させることにつながる)」というある種理性的に抑圧していた庶民の本音を、トランプ氏は憚ることなく吐露させたとも言えるでしょう。つまりここに、2つのアメリカが明確に姿を現し始めたのです。1つはグロ-バル企業や富裕層、ウォール街の金融業界にとっての世界の富を牛耳る豊かなアメリカ。そしてもう1つはアメリカの庶民にとっての、貧しい債務超過のアメリカです。そして今、貧しい債務超過のアメリカが、世界の富を牛耳る豊かなアメリカに対して反旗を翻し始めたのです。

しかしこれはある面から考えると、日本にとっては降って湧いたような幸いとも言えるでしょう。なぜなら私たちが本気で、この日本の社会を、政治経済的にも精神文化的にもシステム転換しようとする時、そこには国内の敵対勢力(小泉元総理風に言えば)ばかりでなく、さらにその背後にアメリカというもっと強大な勢力と、二重に対峙せねばならなかったからです。ところが今、アメリカ自らの内部の社会変動によってアメリカが二極化し、その一方の極である庶民層と私たちが利害を同じくして、連携する可能性が開かれてきたのですから。庶民の所得と暮らし、そして生き方を豊かにするという近代以降の本来の社会目的に立ち返って、グロ-バル企業の利益優先に転倒してしまって行き詰まる現在の世界のシステムを、静かに解体して、新たな社会システムを構築していくための連携が、日本とアメリカで展望されてくるのです。このことによってやっと日本も、“アメリカの意向”という戦前の統帥権のような見えない圧力から解き放たれて、自由にシステム転換する条件が整ってくるのです。しかしもちろん手放しで喜んでいるわけにはいきません。庶民の雇用を生み所得を増やすには、ポピュリズムと反知性主義に基づく統制と集権によるファッショ的な方法もあって、そうした動きとも対峙していかなければならないからです。国の外と内に敵をつくって、国家統制を高めることによってシステム転換を図るファッショ的方法が、どういう結末に行きつかは、私たちが歴史からすでに経験してきていることです。これが庶民からの新たな社会システム構築に対する1つ目の脅威です。2つ目の脅威は、私たちが無感覚で無気力なままに危機の深化を傍観し、現在の新自由主義(アベノミクス)と心中していく道を辿ることです。これは前回も申し上げたとおり、ハイパ-インフレと預金封鎖・新円切替等によって、一部のゲ-ムメーカ-(グローバル企業、官僚、超富裕層)以外の資産を国家の財政赤字の補填のために移転し、今までの経済ゲ-ムを一旦リセットして、再び現在のゲ-ムメーカ-に都合の良いルールのままにゲ-ムを再開する道を辿ることに他なりません。そして3つ目の脅威は、頻発するテロの脅威です。イースタ-(キリスト教の復活祭)の前の受難週の始まった3月22日にも、再びベルギ-の首都ブリュッセルで連続テロが発生し、多数の一般市民が犠牲になりました。格差が拡大する中で、社会での成功ゲ-ム、いや生存ゲ-ムにすら参加出来ない人たちは、個人的にも可能な“テロ”によって、自分たちを排除するゲームのルールによる支配に一撃を与えようとするのです。

こうした脅威に対処していくためには、アメリカの社会の中ですでに芽生えつつある庶民層の動きの可能性と連携しつつ、私たちがこの日本において、多様で自由で、誰もが創造性を発揮して経営参加できる分散型の経済社会を生むゲ-ムのルールを模索していく以外にありません。そしてそのゲ-ムが機能する条件を明らかにし、それを充たしていくことが必要となってくるのです。そのためのヒントは、実は既に現代の脅威であるテロの問題の中にも隠されているように思われます。テロを防ぐための対処法を考えることは、専門家の知恵をもってしても困難ですが、実は原因ははっきりしています。格差(貧困)と差別と絶望です。シリアの難民問題も、原因ははっきりしています。シリアの内戦です。しかし今世界の現状を見渡してみると、本気でその原因を解決するために対処しているようには見えません。同じように問題の本質に対処しないために生じる困難の構造は、私たちの身近にも至る所に現れています。例えば介護の問題です。財源の制約があるから、本当に介護する人もされる人もその尊厳が守られるような、理想的な介護は難しいと言われます。しかしこれはそもそも、発想の方向が間違っているように思われます。財源等の制約要件から考えるから、ニーズを汲み取ることが出来なくなり、どんどん発想も対処方法も委縮して袋小路に陥ってしまうのです。そうではなく、あくまでも人間の尊厳の守られる理想の介護を実現するために、そのための仕組みと効率的な方法と財源を考えていくべきなのでしょう。そうした方向からのアプロ-チを行う時に始めて、人間の創造性は発揮されイノベ-ションが生じ、新たな財源が見つかるだけではなく、価値創造による仕事(雇用)と市場も生み出していくことが出来るようになるのです。現状では未だに、もはや制度疲労を起こしている現在のゲ-ムのルールにしがみついてしか発想が出来ないために、私たちは自らを隘路に追い込むこととなってしまっています。この制約を脱して、私たちが自分のいのちを活かせるように、ゲ-ムのルールを組み変えていく展望が見えてくる時、そして誰もが自分を生かすためにゲームのルールの修正に与れる可能性が開かれる時、ファシズムの魅力も減退し、もはや私たちは危機の進化を傍観していることも出来なくなって、私たちみんなを生かすルールをつくるために、いのちを燃やすことになってくるでしょう。そのための新たなゲ-ムのビジョンの一端を、現在私たちが取組む“映画鑑賞ビジネス”を通して、具体的な行動指針としてイメ-ジアップしていければと思います。“いのちの効用”を事業化(お金に換える)して、なりわい(生産のための労働ではなく、いのちと暮らしを賄うための仕事)を創出していくという事業モデルを検討し、新たな社会経済のゲームづくりの端緒を考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、3月29日の火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

さて前回は、映画鑑賞のビジネスモデルを検討するにあたって、観賞者が得る効用について考えてみました。現在お客様からお金に換えて頂くことが出来ているのは、映画鑑賞の消費的効用です。エンタ-テイメントやスペクタクルの提供、また感動や非日常の祝祭空間の提供などによって、お客様が映画鑑賞から得る効用です。加えてデ-トの場としての利用や社会問題の啓発等、映画観賞を何かの目的のための手段的に利用する効用といったものもあります。手段的効用そのものだけをお金に換えて頂くことはしていませんが、映画観賞という商品の販売促進を考える上では、重要な効用となります。しかしそれに加えて、単に映画館等で映画を観ている時にだけ得て終わるような効用の他にも、映画を見終った後にも心に残る効用といったものがあります。深く考えさせられたり、思い起こす度に心が豊かになったり、登場人物の生き様からを様々なことを学ばされたりと、何か人生の糧となるような効用があるものです。今回はこの効用に焦点を当てて、その内容を“いのちの効用”と名付けて取り出してみたいと思います。そしてその効用を充たすサービスを提供することで、鑑賞者(お客様)のいのちの効用を高めると共に、それを新たにお客様からお金に換えて頂く方法を考え、“なりわい”として事業化できる道筋を検討していってみたいと思います。

それでは、鑑賞者にいのちの効用を与えるような、映画を観るということを通じて得られる体験価値というのには、どのようなものがあるのでしょうか。まず第1に映画を観て、なにかに“気づく”ということがあります。映画を観て強く感動したり、衝撃を受けて心が激しく揺さぶられたりする時には、それまでの自分の観念や価値観が崩されて、異なる視点や事実が体感されているものです。この体感された“気づき”が、深められたり明瞭に言語化されることによって、自分のこれからの生きる糧として昇華されることの意味と価値があるはずなのですけど、これまでの映画観賞ビジネスは、この“気づき”があいまいな感覚のままに打ち捨てられてきました。

映画鑑賞の体験価値として挙げられる第2の効用は、映画から学び、人間観や自分自身の人生観を養うといったことが挙げられます。そもそも映画というのは、人間に最も大きな印象を残す表現手段の1つです。なぜなら何百万年も森や野で、野獣に追われ、獲物を追い、自然の微妙な変化を見極めて生きてきた私たち人間は、静止したものよりも動く事象に対して注意が働き、記憶出来るように進化してきているからです。ですから、Motion Pictureと呼ばれる映画から、私たちが絵画よりも文学よりも、もっと強いインパクトを受けるのは当然のことなのです。さてこのことから映画の鑑賞は、さらに細かい次元で次の3つの体験価値を、私たちの心により印象強く残すこととなります。1つは映画を通じて私たちは、深いリアリティをもって人生の疑似体験を行えるということです。主人公や登場人物と一体となって、感情移入して、現実の自分の人生では経験できない体験を積み重ねることができます。経験は、人生を良く生きていくための母(必要条件)と言えるでしょう。この疑似体験を通して私たちは、感動し、考え、思い知らされ、反省して生きる術(すべ)を増し加え、人生の機微を感受できる人間性の豊かさを養っていくことが出来るのです。2つ目は、映画は制作者のつくる作品であるということです。制作者が何かに心を強く動かされ、それをどうしても取り出して他の人たちに見せたい、伝えたいというテーマがあるのです。その作者が垣間見たいのちの“真実”を伝えるために、その“真実”が際立って伝えられるように映画はドラマと演出され、作品として構成されるのです。その意味では映画は、現実の経験よりもはるかに鮮烈に“体験”を私たちに刻み付け、人生からの学びを私たちに与えることが出来るものなのです。そして映画は、制作者が日常の現実の裂け目から心動かされる一瞬の“真実”を切り取り、それを印象深く効果的に私たちに知らしめよう構成するからこそ、芸術作品であるということが出来るのです。3つ目は、こうして制作者が私たちに何とか効果的に伝えようとするテーマを受け取って、私たち自身が、制作者が体感したいのちの真実を体得していくことが出来るということです。物語の中に現れるたくさんの成功と失敗から、私たちは人の生き様と死に様を知り、人が豊かに生きていくための人間観や人生観、そして社会観を身につけていくことが出来るのです。

映画から学ぶことの出来る映画の体験価値の第3の効用は、制作者から受け取ったいのちの真実を、今度は私たちが自分のものとして、自分自身のいのちの力を育み、生きる力を強めていくことが出来るということでしょう。先に見たようにもし私たちが、映画を通じて人間観や人生観を豊かに養うことが出来たとしたなら、私たちが現実の世界で生きるにあたっても、私たちのいのちへの感性は研ぎ澄まされるようになります。そして様々な人生の機微や人の繊細な心の動き、自然や社会の中に起こる微細な変化をも感じ取れるようになってくるはずです。そしてこの人生を感受するいのちへの感性が養われれば、当然自分自身のいのちに対する感性も高まってきます。自分自身の営みの醜さ、愚かしさ、また素晴らしさをも感じとって、自分自身が多面的に見出せるようになってくるでしょう。そしてこの“自分自身の現実”と、映画の制作者たちが垣間見せてくれる“人生の真実”とを突き合わせて批判的に受け取る時に、私たちは映画が伝えるテ-マを自分のものとし血肉化し、自分らしく自分を生かして生きる勇気と希望と、そして力とを養うことが出来、人生への肯定と生きることへの信頼を自分の確信としていくことが出来るのです。

さて映画の鑑賞者が受け取るいのちの効用は、なにも映画を観た体験価値に留まるものではありません。例えば優れた映画を観て深く感動した時、私たちはその感動を、誰か他の人に伝えたくなるものです。自分が実感した真理を、誰かと分かち合いたくなるのではないでしょうか。その時私たちは、自分の得た感動や真理を誰かに伝えるために、それを言語化することになります。自分が得た漠とした実感や感情を、言葉にしようとする時、私たちはその内容を概念化して明確化するために、ちょっと深く考えることになるでしょう。実はこのことによって、他の人に解ってもらうばかりでなく、自分自身でも自分の掴んだものをはっきりさせて、自分自身のものとして固定していくことが出来るのです。そしてそのプロセスはまた、映画という作品を通じて自分自身が得た感動や真理を材料として、今度は自分自身の物語(ドラマ)を生み出して、その作品を他の人に伝えようとする創造的な行為でもあると言うことも出来るのです。つまり映画が鑑賞者に与えるいのちの効用は、このように鑑賞者に体験価値与えるばかりでなく、創造価値をも生みださせることになるのです。

さらにいのち効用が与える価値をうまく取り出していけば、私たちはもう1歩先へとも進んで行くことが出来ます。私たちが自分のいのちを揺り動かした感動や実感した真理を、ある種自分自身のドラマにして、なんとか解りやすく他の人に伝えたいと思うのは何故でしょうか。それは自分自身が見出し、自分自身が養われたいのちの価値を他の人に伝えれば、その人も喜んでくれて、その人のいのちの価値やいのちの力も、高めることの出来る糧となるからと思うからではないでしょうか。これがこれまでビジネスの対象となってきた消費的効用と、いのちの効用を分ける大きな相違点となります。消費的効用は映画を観たその場限りの効用ですが、いのちの効用は消費して終わるものではありません。それは自分の中で育つものであり、他者に与えれば与えるほどますます大きくその力を増して、自分の生きる力、人の生きる力、共に生きる力を高めるものとなるのです。そしてもちろん他者に自分の見出した真理を語ろうとする時、反発や意見の相違も出てくるでしょうけど、それでも互いの立場を生かし合ってより普遍性ある価値(一致点)を見出そうとする時、そこに強い共感と連帯と共生の念が芽生えてくることでしょう。そして私たちが、他の人との確かな共感と共生と支え合いの実感が得られる時、私たちはそこに確かな自分の存在の基盤を見出すことが出来てくるのです。つまりいのちの効用は、その効用をうまく育んでいけば、映画鑑賞者の体験価値、創造価値に加えて、さらに自分が生きる存在価値をも提供していくことが出来てくるのです。

さて以上のように私たちは、映画鑑賞の効用を分析して消費的効用と手段的効用に加えて、映画を見終った後にさらに残るいのちの効用があることを見てきました。そしてそのいのちの効用には、映画鑑賞者の体験価値、創造価値、存在価値があることを分析してきました。現在ビジネスとしてお客様からお金に換えて頂くことの出来る効用は、消費的効用だけで、その消費的効用をうまく充たす手段として手段的効用を活用しているにしかすぎません。それでは、私たちの生活にとってもっと意味が大きくて力と価値を与えてくれるいのちの効用を、ビジネスにしてお金に換えていく方法は無いのでしょうか。そのためには今度は、鑑賞者の効用ばかりではなく、映画上映の運営者の側の効用を分析し、運営者が自分自身の効用として鑑賞者(顧客)のいのちの効用を充たし、いのちの価値を提供していくためのマ-ケティングを検討していかなければなりません。そして私たちの身近につくることの出来る映画鑑賞のような様々な事業から、“なりわい”を生みだし、需要サイドの経済に転換していく道筋と、新しい経済社会のル-ルを明らかにしていかなければなりません。そのための検討についても、次回のパンセの集いで考えていってみたいと思います。

次回のパンセの集いは3月29日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)