ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.78『春・食といのちの価値を提供するマ-ケティング』

Apr 03 - 2016

■2016.4.3パンセ通信No.78『春・食といのちの価値を提供するマ-ケティング』

皆 様 へ 

3月31日の素晴らしい好天の日に、春のやさしい陽射しと和らいだ空気に誘われて、幡ヶ谷の町内にある6ヶ所の小さなお花見スポットと幡ヶ谷不動尊(荘厳寺)の境内の散策を行いました。普段見慣れた自分の街を、改めてゆっくりと、時間も日常も忘れて歩いてみると、今まで気づかなかった沢山の兆しに心が見開かれるものです。そしてこんな都会の街中にも、いのちの気がそこかしこに満ち溢れていて、自ずとそのいのちの気と、自分の中のいのち感性とが呼応していくのが感じられます。街の景色の一隅の小さな変化が、自分の中のいのちを感受する力を研ぎ澄まし、また自分自身のいのちの力も養われていくのが、実感されてくるのです。住み慣れた何の変哲もない街であっても、ただ時間も仕事も忘れてゆっくりと歩いて、その時の心の動きのままに自分を委ねるだけで、まるで南フランスにあるティク・ナット・ハンのプラム・ヴィレッジで歩き瞑想をしているかのように、安らぎと慈しみに満たされた贅沢なひと時を体験することが出来るので驚きです。殊に春の桜の季節は、まさしくそんな自然のいのち実相の一瞬の現れと、“今ここで”相見えることのできる絶好の機会を、私たちに提供してくれるので心が嬉しくなってきます。

こうして春の息吹といのちの胎動を、視覚や聴覚、そして臭覚や聴覚で感じ、さらには意識の深層で大地の気をも感じ取って、1時間半ほどの散策を堪能した後は、軽やかに疲労した身体を休めて、おいしい和菓子とお茶で、今度は味覚を通じてもいのちの養いを行いました。和菓子はまちの六号通りという商店街にある『梅むら』さんの手作りです。無添加で厳選した国内産だけの素材を使い、毎朝5時からその日可能な分だけを、店主さんが思いを込めてつくられます。だからただおいしいだけではなく、この店主さんの気遣いが伝わって、食べる者の“いのち”をもが養われるのが分かります。もしこの店主さんのお客様への“思い”と配慮が無ければ、どんなに高級でおいしそうに仕立てられた御菓子であっても、それはもはや「食べ物」ではなく、単なる「味付き物質」にしかすぎなくなってしまうことでしょう。

そもそも食べ物とは、私たちの身と心の両方を養うものです。食事を通じて私たちは、カロリ-と栄養を体内に取り込むことで、身体を養い肉体にエネルギ-を補給するだけでなく、いのちの力をも養ってきたのです。それはどのようにして成されてきたのでしょうか。身体を養うのは食材によってですが、いのちを養うのは、調理(料理)と作法によってです。その作法の最も単純なものが、食事の前の『いただきます』と食事の後の『ごちそうさま』の感謝の言葉でした。

今年の2月1日に、青森県岩木山の麓で「森のイスキア」を営まれてきた佐藤初女さんが、94歳で天に召されました。カトリックの信仰を持つ佐藤さんは、当初は弘前市の自宅を開放し、やがて多くの浄財で建設された「森のイスキア」おいて、苦しみ悩みを抱える多数の人たちを受け入れ、そのいのちに寄り添って来られました。「イスキア」とは、生きる意欲を失った青年が、自然の中で自分を取り戻したと伝えられるイタリア南部の島の名前から由来しています。そのように絶望し、生きる事に疲れ果て、時に自らのいのちを絶とうとさえもした多くの人たちが佐藤さんの元を訪れ、そこに滞在し、生きる力を取り戻していかれたのです。そこでいったいどんな奇跡の業が施されたのでしょうか。実は佐藤さんがされたのは、たった二つのことにしか過ぎませんでした。丹精込めて宿泊に来る人たちのために料理を作り、一緒に食べること。そして話したくなった人の傍らで、じっとその人の話に耳を傾けること。この二つのことだけです。しかしその料理には不思議な力があって、それを食べた時に病んだ人の心は、なぜか次第に開かれていったのです。佐藤さんは調理する時、まずその食材のいのちの1つ1つに感謝されます。なぜならその食材のいのちが身代わりとなって、私たちのいのちの糧となるからです。そしてその後にじんでも大根でも、その食材のいのちの力が少しも損なわれることなく最大限に生かされるように、丹念に下ごしらえして調理されていかれるのです。まさにいのちの力に溢れた料理を、苦悩に弱った人たちの身と心にお届けしようとされたのです。

佐藤さんは、「私たちが頂いた食材たちのいのちは、そのどれ1つもが消化されて無くなってしまうということはなく、ずっと私たちの中に生き続けて、私たちを支え続ける。」とおっしゃいます。そしていつか私たち自身のいのちも、その終わりを迎えた後、今度は私たちのいのちが、私たちを支えた無数のいのちたちと共に、他のいのちをその内面から支えていくようになるとおっしゃるのです。世界中からその死を悼まれた佐藤初女さんも、今は天に召されて、今度は時代の制約も空間の制約も越えて、私たちのいのちをいつまでも励ます存在となっていかれるのだと思われます。実は佐藤さんが森のイスキアで行われたもう1つのことがありました。それは滞在を終えて、生きる勇気と力とを少し取り戻して、再び自分の日常と現実に立ち戻っていこうと帰路に就かれる方々の後ろ姿に向けて、その姿が見えなくなるまで、海外の教会から寄贈された鐘を打ち鳴らし続けられたことです。祈りと祝福を込めて、1人1人の背中を後押しするかのように、鐘を打ち鳴らし続けられたのです。今その鐘の音が、今度は天上から、直接には接することのなかった私たちの上にまでも向けて、佐藤さんが打ち鳴らされているのが聞こえてくるような気が致します。

さて、佐藤さんの御料理のエピソードを通じて、食事が私たちの身体だけではなく“いのちを養う”ということのイメ-ジが、多少なりともお解り頂けたでしょうか。日本料理の真髄であり、茶道の枢要でもある『おもてなし』とは、一期一会の今この時において、何よりもお客様の“いのち”をおもてなしするという意味なのです。残念ながら私たちの国でも、いつからか大量生産と効率性・機能性によるコストダウンの重視から、コンビニや量販店で販売される食品のほとんどについては、単なる“食用物質”としてしか生産されなくなったように思われます。ですからそこに佐藤初女さんの料理のような、いのちを養う力が籠められていることはもはや期待することが出来ません。それが現代の悲しさであり、行き詰まり状況の現れでしょう。結局そんな食用商品のほとんどは、価格の安さと量の多少としてしか評価されなくなり、ただ安全基準をクリアした腹を満たすだけの“エサ”という存在になっていってしまいます。ところがそんな食用物質にしか過ぎないものであっても、今度は食する側の食べ方の努力によって、そこから私たちは自分たちのいのちの力を養う力を取り出すことが可能になっていきます。なぜなら無機質な食用物質であっても、それが肉とか野菜とか穀物とかである限り、そこには他のいのちが献げられているからです。その自分のいのちの糧となる他のいのちの犠牲を深く思い、『いただきます』と食事を始めるに際して唱えることが出来るかどうかが、大事になってくるのです。この『いただきます』に込められた憐みと感謝の念が、私たちのいのちの力を養っていくのです。そして食事の最中には、今度は自分自身のいのちを思いやり、ゆっくりとよく噛んで、そのいのちをねぎらい、慈しむように致します。そして食事を終えた後には、その食材を育て、採取し、加工し、調理し、パッケ-ジし、そして流通させて私たちの手元にまで届けて下さった無数の人たちの労力と配慮に感謝して、『ごちそうさま』を唱えるのです。この無数のプロセスと多くの人の労力を思い浮かべることが、私たちのいのちの力を育み、生きる力を強めるのです。1つ1つへの細かな感謝は、いのちへの感受性を高め、やがて人と自分のいのちの求めの機微が分かるようになってくるのです。そしていのちの求めの機微がわかるようになってくると、今度はいのちを慈しみ合い、励まし合い、高めあって生きようとする求めが無意識に形成され、その求めがやがて自分の中に、その求めを実現する力を蓄積していくのです。こうして『いただきます』と『ごちそうさま』の繰り返しは、私たちの中にいのちの力を高める効果を次第に積み重ねていくのです。

このように食事は、私たちの身体と共にいのちの力を養います。しかしじつはこのことは食事に限らず、私たちの用いるどんな商品の消費にも、日常の活動にも現れてくる2面性なのです。物質的・機能的(便利さ)恩恵といのちの恩恵と。ただ現代という社会が、あまりにモノとそれを司る科学に幻惑されて、生きる意欲と力を強めるいのちの効用を忘却する傾向に陥ってしまっているために、いのちの価値の養いが、すっかり見えなくなってしまっているのです。そのいのちの価値の育みを、もう1度しっかりと意識しなおさねばなりません。そのためにここしばらくテーマとしている映画鑑賞ビジネスを例に、さらにいのちの効用を深める方法を探っていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、新年度に入って4月5日の火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

映画鑑賞の効用につきましては、これまで映画を観賞する人のサイドからの効用について分析してきました。その効用にはまず、映画館で実際に映画を観賞する際に得られる消費的効用があり、エンタ-テイメントやスペクタクル、感動や非日常体験の提供に対して、私たちはお金を払ってきました。またデートでの利用や、政治的プロパガンダとしての映画利用といった手段的効用も存在します。しかし前回検討した効用は、消費的効用から更に進んで、映画を観終わった後に心に残るような効用についてです。深く考えさせられたり、心が豊かになったり、学ばされたりするような、人生の糧となる“いのちの効用”について考えてみました。そしてこのいのち効用には、3つの種類の体験価値と創造価値、そして存在価値があることを見てきました。私たちにとっては、もちろん今までどおり映画館や家庭でDVDを観て、消費的効用を楽しみ、満足させることは重要です。しかし映画を観終わった後にせっかく心に残ったものを、もやもやしたままに放置して、やがて忘れ去っていってしまうことは、何かとても勿体ない気がしてこないでしょうか。この心に残るもやもやを、多少なりともはっきりとし、すっきりとさせて自分の腑に落ちるようにしていければ、やがてそれは自分の心の中に積み重ねられていって、自分のいのちの力を養う糧ともなっていくはずだからです。今回はこのいのちの効用をも価値として取り出し、その価値を実現して、消費的満足だけでなく実際に鑑賞者の生きる意欲と力をも高める効果を発揮させるような、映画鑑賞の提供について考えていってみたいと思います。

さてこのいのちの効用を価値として実現したいということは、私たちが人として良く生きていきたいという求めを持つ以上、誰もが共通して持つ本源的なニ-ズであるということが言えるでしょう。しかも先にも見たように、現代的な課題でもあります。しかしそのニーズを、映画観賞者(お客様)が自ら自然に満たすことが出来るかというと、そういうわけにはなかなかいきません。それ故に、もやもやしたままにいつまでも放置されてしまうのでしょう。そこでそのニーズを価値として鑑賞者(お客様)の心に定着させ、その価値をいのちを高める価値としてお客様の心の中に養うのは、映画上映の企画者・運営者側の役割ということになってきます。こうして映画の消費的効用に付加されて、いのちの効用として新しい価値を実現するからこそ、それをお金に換えてお客様から頂くことが出来るようになると言えるのです。しかしそこには、映画の消費的効用を充たすという価値提供のマ-ケティングから、いのちの効用を充たすという新しい価値提供を行う方向へと、マ-ケティングの手法を大きく転換させなければなりません。その具体的なプロセスについて、これから順を追って検討していってみたいと思います。

ところでパンセ通信No.76でも触れたのですが、日本では映画の製作、配給、映画館での上映(興業)という事業が、経営としてはバラバラに運営されて発展してきたこともあり、映画に関する事業においては、マ-ケティングがうまく適用されてきたようには思えない節があります。いやほとんど適用されてこなかったと言っても過言ではないでしょう。実際に生じてきたことは、映画製作者は、自分たちが価値があると思う映画を製作することに集中するだけで、配給や興業は真剣には考えません。そのため製作のための資金は、助成金を活用したり、映画好きのスポンサ-からの出資を得たりして準備されることになります。そうして製作された映画を自主上映する場合には、その製作費を回収し、あわよくば次の映画製作資金を生み出すことだけが目的となって、上映会(興業)が行われることになります。お客様の求めの集約や、お客様への価値提供は二の次になってしまうのです。次に配給会社は、売れると思う映画を製作者(会社)から購入し、その購入した個別の映画の価値だけを明らかにしてPRし、上映館に卸します。そして上映館では、配給会社から紹介される映画の中から、自分の館での集客が見込め、また興行条件の良い(儲けの配分が大きい)映画を選んで購入し、集客PRを行って実際に料金を来館者から徴収して上映を行います。このように説明してくると、現在の映画上映の仕組みに慣れた私たちの目から見ると、至極当然のことが説明されているように思われます。しかしここには、お客様にとっての利益を価値として具体化(作品化)し、その価値を最も効果的な方法でお客様にお届けし、お客様の効用として実現する(お金を頂く)という、マーケティング的な発想のかけらもその具体化の試みの片鱗も見当たらないことに気づきます。これはちょっと驚くべきことで、その結果が、日本の映画産業が2000年代を契機に、「シネコン」と製作リスクを分散する「製作委員会」方式の普及で多少持ち直したとはいえ、興行収入が年間でわずか2,000億円と、豆腐の市場規模にもはるかに及ばないことにも現れてきているように思われます。ソフト・コンテンツ事業は、21世紀の産業の柱とならなければならないのに、こんなレベルの状況です。

それでは、現状の映画鑑賞の消費的効用をお金に換えるビジネスの場合に、それをマ-ケティング的な視点から事業化を見直すとすれば、どのようになるのでしょうか。まず最初に考えなくてはならないのは、映画の製作でも配給でも興業上の都合でもなく、お客様が求めている効用(満足や利益)は何かということです。それは映画鑑賞時に消費的に求められる期待で、先にも述べたとおり、エンタ-テイメント性やスリルやホラ-、また感動や涙や異次元の感情体験などといったものでしょう。こうした効用のうちで、何をお客様は最も強く求めているのかを察知して、提供していく価値を明確にしていくことが、第1に着手しなくてはならないことです。その上で次に、その価値が他の映像作品やゲ-ムなどのソフトコンテンツよりも、より優れて提供できるポイントを明確にするか、つくり込むことが必要になってきます。こうして優位点がはっきりしたら、今度はその価値を評価してくれるお客様を選び、明確にターゲットを絞り込むことが課題になってきます。そして最後に、その絞り込んだお客様の層に対して、具体的に価値を体現する作品(商品)を選び、上映料を決め、広告などの販促を行い、上映の場所や見せ方を決めて、お客様に提供しようと定めた価値が、お客様の効用として具体的に実現できるようにそのプロセスを現実化していきます。これがマ-ケティグ的なアプローチによる事業の運営ですが、こうした対応が出来ないと、日本の映画産業が、ハリウッドどころから韓国に匹敵するレベルに到達することも、難しいままで終わっていってしまうことになるのではないでしょうか。

ところで今私たちが考えているのは、映画鑑賞の消費的効用から、さらに1歩先に進んで、いのちの効用までをも事業の対象にしようとすることです。現状のマ-ケティングでは、お客様を映画館まで連れてきて、お金に換えて作品を観賞させるところまでで終わってしまいます。それをさらに、鑑賞後に心に残る効用までをも価値としてお客様に提供するとしたら、具体的にどのようなプロセスがマーケティングの手法を用いて導き出せることになってくるでしょうか。その詳細について、パンセの集いではさらに具体的に検討していってみたいと思います。次回のパンセの集いは4月5日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)