ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.79『映画鑑賞事業の運営者側が提供する価値の内容』

Apr 10 - 2016

■2016.4.10パンセ通信No.79『映画鑑賞事業の運営者側が提供する価値の内容』

皆 様 へ 

ここ10日ほど体調を崩してしまいました。花粉症による鼻づまりから扁桃腺を痛め、風邪をこじらせてしまったようです。まだ肺のあたりに鈍い焼けるような痛みがあって、鼻の奥から頭にかけて熱っぽくて頭痛が取れず、気力と意欲と食欲が奪われております。しかし考えてみると、病気で寝込んだのは何年かぶりのことです。そして病気もまた、私たちが生きていく上で避けがたく遭遇せねばならない苦しみの1つです。その苦しみとどう向き合うか。それもまた私たちが“自分のいのち”を養う上で、重要な課題となってきます。もっとも、本当に癒える見込みのない大病に苦しむ時には、そんな悠長なことなど言っていられないのでしょうけれども。

私のような者でも、最近は少しは自然体で生きられるようになったのかな、などと思っていたのですが、やはり愚かな意志に振り回されて生きてしまうのが人間の常です。病気はそんな暴走する意志によって酷使される身体や意識からの、深層からの異議申し立てと言って良い現象でしょう。自分では気づくことの出来ない心身のバランスの崩れが、強制的にリセットされる有難い自律調整の機会でもあるのです。だから早く治らねばとあせる心を宥めて、身体の求めるままに眠り、休み、食べられなければ食べずに、自然の治癒力に委ねていくことが大事です。そしてまた病気の時は、自分の身体や内面の求めに、深く聞き耳を立てることの出来る時でもあるのです。身体が怠(だる)さや苦痛で思うにまかせないのですから、意識を内面に向けるしかありません。そのことがそれまでに気づくことの出来なかった、自分の自然な求めや、意識が妨げて見ること出来なかった人の思いやり、そして枕辺の小さな自然の変化に至るまで、様々な気づきをもたらしてくれます。またそうした細やかなサインを省みることなく、自分の意図ばかりにかまけて傲慢であった健康な時の自分に、反省の目を向ける時でもあるのでしょう。病気はこのように、苦痛の時ではあるのですが、またいのちのリセットと新たな気づきの時でもあります。人生は思うにまかせない日々の連続なのですが、そんな困難の1つ1つに対しも、病気に向き合う時のように自分のいのちを養う機会とし、また自らの病気に向き合う姿勢によって、周囲の人たちのいのちを励ます機会とも受け止めて、柔和にありながらもしかし強く生きる事の出来る力を、養っていければと思います。次回のパンセの集いは、4月12日の火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

ところでNHKの朝ドラで、「とと姉ちゃん」が始まりました。西嶋秀俊さんが演じるとても素敵なお父さんが登場します。家族に敬語を使い、3人の子供たちの小さな営みの中に現れる成長の芽を育み、日常の平凡な1つ1つの出来事を愛おしんで、家族の時間を大切に過ごしていきます。残念ながらこのお父さんは、頼りげない奥さんと3人の幼い姉妹を残して結核で早逝してしまいます。昭和の初めの時代ですから、残された女手だけの家族の家計や、これから体験せなばならない戦争の惨禍をどう潜り抜けていくのかを思えば、心が痛みます。しかしこの平凡なお父さんは、お金の資産は大して残すことは出来なかったでしょうけれども、お父さんを軸として家族で育んだ掛け替えの無い思い出の上に、どんな困難にも人間としてしっかり生き抜く力という、はるかに優れた財産を娘たちに残していったことが伺い知れます。そんないのちの力を、私たちも今取り組む映画鑑賞の事業から育み、また少しでも多くの人たちに、その資産を受け渡していくことが出来ればと思います。

さて、映画館やDVDで映画を観ている時に私たちが得るのは、エンタ-テイメントやスペクタクルなどの消費的な効用で、現在はこの効用をお金に換えてお客様から頂くことで事業が成り立っています。しかし映画を観終わった後にも心に残る効用というものがあって、それをもやもやしたままに放置しないでうまく意識化すれば、人生の機微への感性が高まったり、深く考えさせられたりして、人生をより良く生きる糧とも成し得る可能性が出てきます。そのような映画鑑賞の効用を、“いのちの効用”と名付けて、この効用を価値に変えて事業化する方法を、映画鑑賞の企画・運営者側からマーケティング的な手法を用いて考えていってみることにしたいと思います。

まずこのいのちの効用について、お客様にとっての価値は何かということです。つまり映画を観ることによって、お客様が自分の生活や人生にとって得ることの出来る良きものの内容についてです。映画の最大の特徴は、動画と音声そして効果音等によって物語を構成することから、あらゆる芸術の中で最も高いリアリティ-をもって、現実では体験できない経験も含めて、人生の疑似体験を提供するということでしょう。だから映画を観終わった後に私たちは、実際の人生で何か特別な経験に遭遇した後のように、深い衝撃を受けたり、感銘が心に残ったりするものなのです。時には何か大切なことに気づいたり、自分が生きる上での大切な指針が示されたりといったようなことも起こってきます。このように映画を観終わった後に残る効用というものがあるのですが、そのうちで最初に大切なものは、この何かを感じたり何かに気づいたりする心の動きでしょう。この生(なま)の心の動きは、まだ言語化されていない分だけに誰かに影響されるようなものではなく、まごうことなく自分自身のものです。この自分のものとしての心の動きを、まず何よりも大切にしなければなりません。そのためには、この心の動きをそのままに、気兼ねすることなく自由に表出することの出来る機会を設けることが必要になってくるでしょう。次いでこの心の動きを、確かに自分のものとして言語化し、自分の生きる糧となるように血肉化させていくプロセスも必要になってきます。

そこでまず心の動きを表出させる仕組みについてですが、最も良い方法は、映画を観終わったすぐ後に、気の置けない仲間や家族などと自由に語り合うことでしょう。ビールやコーヒーなどを片手に語り合えば、効果はもっと高まるかもしれません。そのためには、知り合い同士で一緒に映画を観たり、事前に映画サークルのようなものを組織しておいたりして、観客同士がある程度顔見知りになっていることは有効でしょう。その上で語り合う場と時を設けていくのです。仮にその場に顔見知りがいなくても、飛び込みでも感想を語り合う輪に入れるような工夫も出来れば、もっと良くなるでしょう。もしその場で感想を語れないのなら、Web上の掲示板やSNS、あるいは手書きで感想を投稿するなどの環境を整えて、とにかく思ったままのことを心に閉じ込めないで、誰かに分かち合える機会をつくっていくことが大事になってきます。

このように、映画鑑賞という体験(人生の疑似体験)から得られるいのちの効用としての最初のものは、私たちが生(なま)の感情を表出させあう環境をつくることでしょう。このことは私たちに、カタルシスとしての効用を与えるばかりでなく、ともすれば平板な日常の中で、惰性化して鈍化してしまう“感じる力”を養うことにもなります。様々な小さな変化や人の心の動きから、意味あるものを感じる取ることの出来る感性の力は、私たちが生物として生きていくための基本と言えます。これがなければ変化に気づき、良いことなのか悪いことなのかを判断して対応していくことも出来ないからです。他の人の感じ方を知ることも、自分の感性の幅を広げて養うためには有効です。こうして私たちは、人生の機微を察する感性の豊かさやいのちの豊かさに生きるための最初の段階を育んでいくことが出来るのです。

さて感想を語り合えた後は、今度はただ感じたことを吐き出すレベルに留まらないで、自分たちが気づいたものを言葉にして、自分の中でより確かなものにしていくことが出来れば、私たちにとって得るものはさらに大きくなるでしょう。まさに生きる“知恵”にまで高めていければ、その効用は一層大きなものとなり、人生を豊かにしていく糧ともなっていきます。そのためには、ちょっとした映画へのアプローチの工夫が必要になってきます。それは映画が“作品”でありドラマだということを知れば、導き出せてくることです。先ほど映画は人生を疑似体験できるツールであると申し上げましたが、現実の体験よりも、映画ははるかに印象強く私たちに人生のある“真実”伝えることが出来ます。それは映画が作品だからです。作品とは、作者(制作者)が現実の人生の中で遭遇して気づいた何か重要なことをテーマとして切り取って、そのテーマを他の人に解ってもらうために、ドラマという構成に仕立てて印象深く提供するものです。だから映画は、私たちが日常に遭遇する出来事以上に強烈に、私たちにいのちの“真実”を垣間見せてくれることが出来るのです。従って映画を観た後の効用を、自分自身の生き方や暮らしの指針となる“知恵”にまで高めていくための方法論の手掛かりは、まずは映画制作者の意図とテーマを考え、脚本、演出、照明、カメラワ-ク、メイク、美術、音楽などの技法を用いて、制作者がどうテーマを際立たせようとしているのかを知ることでしょう。そして作者が体感して伝えようとした“真実”を、まずは自分も一緒になって分かち合ってみることでしょう。

このように映画のテ-マを解析し、作者がどうしても伝えたいと思った人生の真実を、用いられた映画の技法等を通じて読み解いていくためには、少し専門的な知識や映画製作にまつわる情報の提供が必要になってくるかもしれません。こうした情報や知識の提供は、映画鑑賞事業の企画・運営者側の対応事項ということになってくるでしょう。そしてさらに踏み込まなくてはならないのは、単に映画制作者のテーマや伝えたい“真実”を知っただけでは、それはまだ自分自身の生きる“知恵”にはならないということです。作者の意図を読み解いてそれを誰かに自慢したところで、自分のいのちの力を高めることにとっては何の益にもならないからです。ここで“学び”が必要になってきます。学びとは、映画の作者が垣間見せる“真実”を、自分自身の体験から得る自分自身の“ほんとう”と突き合わせて検証し、自分自身の経験からしても“確かにそのとおりだな”と納得できるかどうかということです。こうして自分として確かに納得できた時に、作者の垣間見せる真実は、自分自身の真実ともなっていきます。そして映画の登場人物たちを通じて疑似体験する様々な人の生き様、死に様から、私たちは自分が人間として豊かに生きていくための、いのちの知恵を汲み取っていくことが出来るようになるのです。

ところで映画を観終わってすぐに感じたことを吐き出す効用から、その感じたものを自分自身の“いのちの知恵”にまで高めていくためには、やはり映画を観終わった後に少し時間を置いて、またその映画を観たメンバ-で“集い”を持つことは有効でしょう。そこで映画制作者が作品に籠めたテ-マを、運営者側がリードしつつも一緒に読み解き、語り合うことは意味のあることになります。しかしそこで、その映画鑑賞の方法の正解を求めるような議論の展開を行ってはいけません。1つの正解ではなく、1人1人の感性を尊重し、1人1人が作品のテ-マを参考としつつも自分の実感と突き合わせて、自分のなりの意見や自分なりに納得の出来る“真実”を見つけていくことが重要なことになります。そのように集いの場での議論をリードしていくことも、映画鑑賞事業の運営者側の力量として求められてくるところでしょう。

それでは映画を観終わった後に感想や感動を語り、さらに時間を置いて再び“集い”を持って、映画制作者の意図やテーマを批評して学び、そこから自分自身の“真実”や人生の知恵を得た後はどうなるのでしょうか。そこで映画を観終わった後の効用は終わりなのでしょうか。恐らくその後さらに私たちは、自分なりに確かな実感として掴んだ感動や“真理”を、今度は誰かに伝えたい、誰かと分かち合いたいと願うようになるのではないでしょうか。なぜなら自分のいのちの糧となる、そして自分の生きる力を高めることになった“真理”は、きっと他の人のいのちの力も高めて役立つに違いないと思うからです。そして実は私たち人間は、自分1人だけではいのちの力を高めることが出来ないものなのです。他の人の支えになって、他の人の生きる力を高めて、そして互いに力になりあうことで始めて、私たちは自分の生きる意味と価値を見出すことが出来、自分のいのちの力も養うことが出来るものなのです。そしてこのいのちの力というのは不思議な存在で、与えて減るものではなく、逆にその力を与えて誰かのいのちの力を養えば養うほど、ますます自分の中で大きく育まれていくことになるものなのです。

さてこのように私たちは、映画鑑賞から受けた感動や、自分が垣間見た“真理”を、今度は他の人にも伝えたいという衝動に突き動かされるものなのですけれども、その時に伝えたいという思いを言葉に紡ぐことは、恐らく人間にとって最も生き甲斐を感じる価値、つまり創造価値を生みだす行為というものになっていきます。なぜなら自分の得た真理を人に印象深く伝える表現行為は、まさにアートそのものだからです。そしてこの時私たちは、単に映画作者の制作意図を価値評価するレベルの批評から、自分自身の感動と発見をも加えあわせて、映画を観る人のいのちの力までをも養うことの出来る、創造的な批評をもが行えるようになってくるのです。恐らくこの創造的な批評が行える地点にまで映画観賞者を導き、その創造性を発揮させることが、映画鑑賞事業の運営者側の、いのちの効用を価値にして顧客に提供する試みの着地点ということになるでしょう。その際の文章や表現方法の巧拙は問題になりません。本当に伝わる言葉、いのちを振るわせる表現と言うのは、技巧ではなく本心からの感動と確信と、それを一途に伝えたいという思いがあれば十分だからです。こうした創造的な批評をお客様が行えて、さらにそれが他の人に伝わるためには、Web上でのサイトの運営や、また印刷物などの活用が考えられるかもしれません。また自分のいのちが深く動かされた映画について、その映画の上映会を呼びかけて、自分がその映画から掴んだ“真理”を分かち合うという試みも、意義深い取り組みになってくるでしょう。こうして映画を観た人たちを、創造的な批評が行えるレベルにまで導くことが出来たなら(それは決して困難なことではありません)、後は連鎖的に自分と他者のいのちの力を高めあっていくような映画鑑賞の動きが、広まっていくことになるのです。

さてここまで、お客様が映画を観終わった後に心に残る効用(いのちの効用)を、映画鑑賞事業の運営者側がどのように価値として整理して取り出し、何を提供するのかを見てきました。まず映画を観終わった後すぐに、感じたことを表出できる機会(感想会)を設け、お客様のいのちの感性を養います。そしてもう1度集う機会(学びと批評の会)を持って、映画制作者の意図を探り、またお客様各人が自分の実感で検証して、自分自身の知恵やいのちの糧を養う機会としていきます(体験価値)。そしてお客様自身が映画から読み取った“真理”を、他の人に伝えて自分と人のいのちの力を養う創造的批評が行っていけるように、創造価値を養う機会も提供していきます。お客様が自ら価値を伝えたいと思う映画の上映会も、いのちの力の育みには効果の高いものでしょう。このように映画鑑賞のお客様にとっての価値をはっきりさせてきたところで、次にその価値をどう具体的にお金に換えてお客様に提供していくのかが課題となってきます。それを差別化やセグメンテ-ション、マーケティングミクスの観点から整理して、具体的にいのちの効用を価値として提供する事業をスタートさせていきたいと思います。次回のパンセの集いは4月12日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)