■2016.4.17パンセ通信No.80『熊本大震災、災害の苦難を乗り越える“生きる力”』
皆 様 へ
熊本を震度7.3の直下型地震が襲い、死者42名、負傷者1,000名以上、また行方不明の方も少なからずいらっしゃる模様です。さらに余震が続いて被害が拡大し、避難している方は20万人近くに及ぶと報道されております。倒壊した家屋や、熊本城を始め被害を受けた建物や施設そして住居の規模は、かなりのものになると推察され、またしても普通の庶民の平穏な暮らしと日常が奪われることになってしまいました。亡くなられた方のご冥福を祈り、負傷されまた被災された皆様方にお見舞いを申し上げますと共に、一刻も早く支援の手が差し延べられますことを願うばかりです。今のところ私たちは、こうした自然災害を避ける術を知りません。それは私たちの人生と同じで、次の瞬間にどんな困難が襲い掛かってくるか分からないからです。しかし災害を想定して備えることと、起こった悲劇に対処して、どう悲しみを乗り越えて幸となしていけるかについては、私たちに問われているところです。それではいったい、どう私たちは対処していけば良いのでしょうか。そのためには社会全体としてイニシアチブを発揮する“政治の質”と、私たち個々人が自分の困難に立ち向かう“いのち力”とが課題になってくるように思われます。そこでまず現在の日本の政治の質について少々考え、さらに私たちの“いのちの力”、つまり困難にあってもしっかりと自分を生かして“生きることの出来る力”を高める手立てについて、現在私たちが取組んでいる映画鑑賞事業の効用を新たに価値として取り出す試みと併せて、考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、4月19日の火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
ところで、日本の国の政治の特質というのはどういうところにあるのでしょうか。そこでまず国家というものの究極の役割から考えて見ると、一言で語ればそれは治安の維持と言えるでしょう。この事実は現在のシリアを始めとする中東の情勢や、アフリカの情勢を見ればよく分かることです。例え独裁国家であったにせよ、その国家が解体してその支配の力、治安を維持する力が及ばなくなれば、その地は武装勢力同士の闘争の修羅場と化し、庶民は生活の場を追われて逃げ惑うしかなくなります。それが現在の中東の情勢です。(この解体の原因は、アメリカのネオコン勢力がもたらしたものですが)。一方仮に国家という形式があっても、支配する者が国家を自分たちの利益を富ませるだけの器と考え、治安の維持によって国民の生活を安定させようという意志も政治対応も無ければ、庶民の生活は収奪されるばかりで苦悩に満ちたものになってしまいます。例えば豊かな地下資源があったとしても、支配者の地位に就く者がそれを自分の富とするばかりで、国の産業の礎として用いなければ、国家は発展するどころか衰亡していきます。それどころか国家を自分たちの利権の具にしようという者たちの間での内戦に明け暮れることになり、地域における庶民の暮らしは強者の横暴に苛まれ、ますます貧窮していくことになっていまいます。これが現在のアフリカの情勢です。当然政府は住民からの支持は得られず、徴兵もままならなくなって、自分たちの支配力の源泉である兵員も不足することになります。そこで挙句の果てには、まだ意思形成もままならない子供たちをさらってきて、少年兵・少女兵に仕立てあげるという事態まで生じてきてしまっているのです。
それに対して日本の近代化を担った明治維新の政府は、本当に立派だったと思います。その担い手が、下級武士から取り立てられた能力優秀な人材だったことに留まらず、伝統的に受け継いだ儒教道徳によって、恐らく新政府を自分の利益の具にしようなどと考えた者は一人もいなかったことと思います。こうした指導者たちが、日本を西欧列強の植民地化から守るために、本気で強くて豊かな国づくりを目指し、一命を賭けて献身的に奉仕したことは間違いの無いことでしょう。それ故に、この国は世界に冠たる国家の1つになることが出来たのです。しかしまた政府の担い手たちが、有能で献身的だったからこそ抱えることになった問題にも、私たちは注意を向けておかなければなりません。
あまりに優秀で高潔で、時には自己犠牲的でもある人材によって導かれたこの国の庶民である私たちは、確かに幸せだったと言えるでしょう。それは現在のアフリカの国々や、19世紀後半の中国や植民地化されたアジアの国々の状況や人々の暮らしと比べてみれば、よく分かることです。しかしその一方で、この国の指導者たちと行政を担う官僚たちは、必然的にパターナリズム的な特質を強めることになってしまいました。つまり国と民のことを思い献身的に尽くすからこそ、未熟な民が過たないように、自分たちこそが道を示して導いていかねばならないと思うようになったのです。こうしてこの国においては、行政・官僚主導、中央主導の政治形態が培われ、また庶民においては“お上意識”が息づくようになっていったのです。
今回の熊本大震災においても、恐らく阪神淡路大震災以来培ってきた政府・行政の危機対応能力と、庶民の行政への信頼に基づく高いモラル、そして各地からの物資と人材によるボランティア支援によって、全体としては迅速な救援と復興が進められていくものと思われます。しかし神戸の街のハードは復興しても、個々人として見れば、なりわいと人生が大きく打ちひしがれたままに時を過ごさねばならなかった人たちが、けっして少なくありませんでした。東北においても、今なお仮設住宅に取り残され、また福島から避難したままに顧みられなくなっている人たちが少なくないのは何故でしょうか。全体が復興することと、1人1人が悲しみを乗り越えて新たな希望に生き始めること、つまり“個人の復興”とは異なることなのです。そして中央からの官主導では、全体としての復興はうまく行えても、“個々人におけるいのちの復興”にはどうしてもうまく対処することができないのです。そのためには、1人1人の生きる力を高めていくことと、それを支援するような今までとは異なる政治の理念と行政の仕組みが必要になってきます。それが今この国において問われている重要な課題であり、しかし安倍政権が現在進めようとしている政策とは、真っ向から対立するポイントなのです。
幸いにして安保法制反対と立憲政治の擁護をベースにして、どうにかこうにか野党協力が進み始めました。しかしそれ以上に注目しなければならないのは、シングルマザーと子供の貧困や、保育園問題を始めとした仕事と子育ての両立の困難から、“女性の怒り”が表出し始めていることです。これは株価や企業業績やGDPなどを国家の政治運営の良し悪しの指標とするのとは異なり、個々人の生活の幸不幸から政治の良し悪しを判断していこうとする動きの現れでもあります。もはや有能で慈悲深い“お上”のご配慮にまかせていたのでは、自分の将来もこの国の未来も立ち行かなくなるという思いが高まっているのです。そのために、自分たちの手で自分たちのための社会と政治の仕組みをつくっていくのでなければ、次の世代の幸せをも拓いていくことは出来ないという、この国のこれまでのお上主導の政治構造を180°転換していく事態が始まっていると見ることも出来るのです。安保法制反対だけではなく、もし“女性の怒り”や格差是正、社会保障による個々人の幸せを起点とする需要サイドからのリベラルな経済政策までをも構想し、そこまで踏み込んだ野党共闘が成立していけば、間近に迫った北海道5区の衆議院選挙の補選、7月の参議院選挙(あるいは衆参同日選挙)の結果は、この国に“民”主導の新しい社会改革の芽を拓いていく契機となっていくかもしれません。
残念ながら新しく出来た民進党を始め、この国の政党の能力というのは驚くほどお粗末なものです。混迷を深める世界がこれから歩むべき方向を見据えて、この国の針路を描くなどとても期待できたものではありません。またかつてはこの国を主導した官僚機構も、国家の方向が大きく転換する時期を迎えているにも関わらず、旧態依然たる中央主導の縦割り行政や経済政策から脱皮できず、もはや思考停止とも思える状態に堕して、弊害をさえ及ぼす存在になっております。しかしこの状況は悲劇であると同時に、また私たち自身が自分の生活の幸せのために、様々な創意工夫を凝らして自由にイノベーションを起こしていくことが出来るような、“民”主導で多元分散型の社会をつくっていくにあたっての絶好のチャンスの到来ということも出来るでしょう。そのためには私たち一人一人が、自分の幸せを社会の仕組みとしてもつくりだしていけるような、力を養っていくのでなければなりません。そうした力を、映画を観た後に残る効用からも汲みだして、価値として提供していける仕組みを考えていければと思っております。
ところで、私たちが生きていくにあたってどうしても必要なものや力とはいったい何でしょうか。まず第1にお金でしょう。でもお金は使ってしまえばお終いです。熊本のような大地震に遭遇して、家が壊れて修理すれば、不意な出費でお金は無くなってしまいます。またいくらお金を貯めても、ハイパ-インフレ等が来れば瞬く間にお金の価値は無くなってしまいます。そうするとお金以上に、お金を稼ぐ力が必要になってくることがわかります。自分で商売をしてお金を稼げなくとも、安定的に仕事をして、生活できるだけの収入を得る能力も、お金そのもの以上に大切でしょう。さてそれでは、お金やお金を稼ぐ力の次に大切なものとは何でしょうか。それはリスクに対応する力でしょう。地震や事故や病気や失業などの、不意の困難な事態に備える力です。また逆に、リスクに挑む力というものも考えられます。ビジネスを起業したり、転職したり、ローンを組んで家を建てるなど、大きく飛躍するためにここぞという時にリスクを取る力のことです。こうしたリスクに対応するためには、保険をかけたり、耐震補強工事をしたり等個別の方法的な対応も考えられますが、突き詰めて考えれば、結局はリスクに備えまたリスクを取ることの出来る、余剰のお金を持っているということに尽きてくるでしょう。そして余剰のお金を持てるかどうかということは、能力の側面から言えば、お金を貯める力があるかどうか、あるいは必要なお金を借りて、それを着実に返す能力があるかどうかということに関わってくるのです。
さて私たちが生きていくためには、お金を稼ぐ力と、お金を貯めたりお金を借りて返す力が必要なことは分かりました。しかしここで問題になってくるのは、私たち凡人にはそれが分かっていてもなかなか出来ないということです。本屋さんに行けば、お金の儲け方や貯め方のハウ・ツ-本は山のように積んであるのですから、本来ならばそれを読んだ人が皆、仕事がうまくいってお金持ちになっていて不思議はないはずです。しかし実際のところは、ここ何年か日本の実質所得の伸び悩みが問題とされるように、けっしてそうはなっていないのが実情です。また仕事をまじめに勤めて、コツコツお金を貯める能力があっても、阪神淡路大震災や東北大震災のような予期せぬ災難に遭遇して打ちのめされれば、立ち直れないままになる人も少なくありません。そうしたことを考え合わせる時、私たちが生きていくためには、もう1つ別の力が必要になってくることに気がついてきます。それは例え困難に直面しても、嫌なことが続いても、気を取り直してしっかりと生きていけるような力のことです。どんなことがあっても立ち直って、自分のいのちを活かしていくことの出来る力、それをいのちの力とでも申しましょうか。このいのちの力を養って身につけることの出来た時に始めて、私たちはお金儲けや人の目を引くチャレンジで有名になること自体が目的となるのではなく、本当に自分のいのちを活かすために、自分の置かれた環境を変え、また稼ぐ力やリスクに対応する能力も発揮して、状況を良くしていくことが出来るようになるのではないでしょうか。もう少し詳しく言えば、稼ぐ力と、リスクに対応する力と、いのち力は相関していて、この3つの力が相まって相互にその能力を高めていくことで、私たちはどんな状況にあっても良く生きていく(自分を良く生かしていく)ことが出来るようになっていくのです。
それでは、この3番目のいのちの力とはいったいどういうものなのでしょうか。私たちが生きていく上で、どうしても関わりを持っていかなければならないものとして、次の4つのことがあります。自分の心(自分自身)、他者、事象(ことがら、出来事)、そしてモノ(物)です。いのちの力というのは、この4つの対象のそれぞれと関わる時に、自分を傷つけずに生かせるように関わって、自分が良く生きていけるようになる力のことです。そこでまず第1の自分自身と関わる力から考えてみます。自分の心がいかに御し難いものであるかは、誰もが深く思い至るところです。怒ったり妬んだり、恨みに思ったりする心の動きは、どうしようもなく自分自身を苛みます。またちょっと調子の良いことが続くと、有頂天になって周囲の人々を配慮せずに、悪感情を抱かせたりしてしまいます。感情の動きだけに、頭では分かっていても制御できません。そんな自分自身の心と向き合い、自分自身を本当に大切に慈しんで、感情や思い込みで自分がけっして損することのないように、確かに自分の納得できる深い求めから自分自身を忍耐強くつくり変えていく。それが自分自身と関わる力と言ってよいでしょう。自分の身体の状況に配慮して、健康に留意していくことも、この力に含まれてきます。第2は他者と関わる力です。他者との関わりは、いがみ合って互いに傷つけ合う場合と、互いに認め合って協力し合っていく場合とでは、大きく異なってきます。人間は身勝手なものですから、自分の期待を相手に投影して、思い通りの反応示してくれることを望みます。一方相手も自分勝手な期待を私に求めてくるのですから、すれ違いが生じてくるのは当然です。こうして人間関係はすぐに誤解が生じ、気まずいものとなってしまう傾向があります。特に身近な人間関係の齟齬は、私たちの日常に言いようのない生きづらさをもたらしてしまいます。しかし私たちが第1の自分自身と関わる力を養うことで、自分をよく配慮出来るようになり、自分自身としっかりと向き合って自分の心の動きが分かるようになってくると、他人の心の動きや感じ方にも敏感になって、自分のことのように分かるようになってきます。こうして他者のいのちを、自分のことのように配慮出来るようになってくると、私たちは他者と分かり合って、互いに力づけあって生きていく道が拓けてきます。この時私たちの人生は、どれほど生きる希望と勇気に満たされることでしょうか。こうした他者との関係をつくっていく事の出来る力が、他者と関わる力です。第3は様々に生じてくる出来事に対処していく力のことです。生きるということは、良いことも悪いことも様々な事象が次々に生じてきて、それに対処していかなければならない連続です。また覚えておかなくてはならないのは、幸福であっても不幸であっても、必ずその状況は永続することなく、やがて変化していくということです。この様々な事象や変化にどう対処していけば良いのでしょうか。どんな状況にあっても自分と人のいのちを生かす可能性を見出し、諦めずに人と自分を励まして生きていく。それが出来事に対処して生きていくいのちの力です。この出来事に対処していく力には、社会の制度や文化の価値観を変えて、自分や他の人を今より生き易くし、もっといのちの力を発揮できるようにしていく力も含まれてきます。そして4番目がモノと関わる力です。自分のいのちの力を養っていくために、必要なモノを揃え、そのモノの使い方や関わり方をも配慮していかなければなりません。住居を始め、環境を整えることもいのちの力を養っていくことの大切な要素です。さらにモノを買ったり消費したりすることも、自分や人のいのちの力を養うこととの関連で行っていけるようになれば、いのちの富はますます大きく育まれていくことでしょう。
さて映画というのは、以前から申し上げているように、私たちに人生の疑似体験を与えるものです。映画はそれを観た時に覚える興奮や感動、楽しみやスリルを提供するだけでなく、なんらかの人生の“真実”を伝えるために製作されるものです。従って私たちが映画を観終わった後には、何か心に残る大切なものを感じることが出来、その大切なものから、私たちは自分との向き合い方や人との関わり方、また様々な出来事への対処の仕方やモノとの関わり方を学んでいくことが出来ます。特に映画を観終わった後に感想の時や批評の時を持っていけば、私たちは様々な大切なことに気づき、自分自身のいのち力を養って行くことが出来るものと思われます。こうして映画を観終わった後の効用から、いのちの力を養い、さらには稼ぐ力やリスクに対応する力をも含めた生きる力を養う要素を取り出して、それを映画を観たお客様に価値として提供していければ、それは意味があって素晴らしいことではないでしょうか。いのちの力や生きる力を養うことを価値として提供して、それに対して相応な代金を頂くことで事業として成り立たせる。そんなビジネスのモデルの最初として、映画鑑賞事業をスタートさせていくことについてさらに議論を詰めていきたいと思います。次回のパンセの集いは4月19日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
皆 様 へ
熊本を震度7.3の直下型地震が襲い、死者42名、負傷者1,000名以上、また行方不明の方も少なからずいらっしゃる模様です。さらに余震が続いて被害が拡大し、避難している方は20万人近くに及ぶと報道されております。倒壊した家屋や、熊本城を始め被害を受けた建物や施設そして住居の規模は、かなりのものになると推察され、またしても普通の庶民の平穏な暮らしと日常が奪われることになってしまいました。亡くなられた方のご冥福を祈り、負傷されまた被災された皆様方にお見舞いを申し上げますと共に、一刻も早く支援の手が差し延べられますことを願うばかりです。今のところ私たちは、こうした自然災害を避ける術を知りません。それは私たちの人生と同じで、次の瞬間にどんな困難が襲い掛かってくるか分からないからです。しかし災害を想定して備えることと、起こった悲劇に対処して、どう悲しみを乗り越えて幸となしていけるかについては、私たちに問われているところです。それではいったい、どう私たちは対処していけば良いのでしょうか。そのためには社会全体としてイニシアチブを発揮する“政治の質”と、私たち個々人が自分の困難に立ち向かう“いのち力”とが課題になってくるように思われます。そこでまず現在の日本の政治の質について少々考え、さらに私たちの“いのちの力”、つまり困難にあってもしっかりと自分を生かして“生きることの出来る力”を高める手立てについて、現在私たちが取組んでいる映画鑑賞事業の効用を新たに価値として取り出す試みと併せて、考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、4月19日の火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
ところで、日本の国の政治の特質というのはどういうところにあるのでしょうか。そこでまず国家というものの究極の役割から考えて見ると、一言で語ればそれは治安の維持と言えるでしょう。この事実は現在のシリアを始めとする中東の情勢や、アフリカの情勢を見ればよく分かることです。例え独裁国家であったにせよ、その国家が解体してその支配の力、治安を維持する力が及ばなくなれば、その地は武装勢力同士の闘争の修羅場と化し、庶民は生活の場を追われて逃げ惑うしかなくなります。それが現在の中東の情勢です。(この解体の原因は、アメリカのネオコン勢力がもたらしたものですが)。一方仮に国家という形式があっても、支配する者が国家を自分たちの利益を富ませるだけの器と考え、治安の維持によって国民の生活を安定させようという意志も政治対応も無ければ、庶民の生活は収奪されるばかりで苦悩に満ちたものになってしまいます。例えば豊かな地下資源があったとしても、支配者の地位に就く者がそれを自分の富とするばかりで、国の産業の礎として用いなければ、国家は発展するどころか衰亡していきます。それどころか国家を自分たちの利権の具にしようという者たちの間での内戦に明け暮れることになり、地域における庶民の暮らしは強者の横暴に苛まれ、ますます貧窮していくことになっていまいます。これが現在のアフリカの情勢です。当然政府は住民からの支持は得られず、徴兵もままならなくなって、自分たちの支配力の源泉である兵員も不足することになります。そこで挙句の果てには、まだ意思形成もままならない子供たちをさらってきて、少年兵・少女兵に仕立てあげるという事態まで生じてきてしまっているのです。
それに対して日本の近代化を担った明治維新の政府は、本当に立派だったと思います。その担い手が、下級武士から取り立てられた能力優秀な人材だったことに留まらず、伝統的に受け継いだ儒教道徳によって、恐らく新政府を自分の利益の具にしようなどと考えた者は一人もいなかったことと思います。こうした指導者たちが、日本を西欧列強の植民地化から守るために、本気で強くて豊かな国づくりを目指し、一命を賭けて献身的に奉仕したことは間違いの無いことでしょう。それ故に、この国は世界に冠たる国家の1つになることが出来たのです。しかしまた政府の担い手たちが、有能で献身的だったからこそ抱えることになった問題にも、私たちは注意を向けておかなければなりません。
あまりに優秀で高潔で、時には自己犠牲的でもある人材によって導かれたこの国の庶民である私たちは、確かに幸せだったと言えるでしょう。それは現在のアフリカの国々や、19世紀後半の中国や植民地化されたアジアの国々の状況や人々の暮らしと比べてみれば、よく分かることです。しかしその一方で、この国の指導者たちと行政を担う官僚たちは、必然的にパターナリズム的な特質を強めることになってしまいました。つまり国と民のことを思い献身的に尽くすからこそ、未熟な民が過たないように、自分たちこそが道を示して導いていかねばならないと思うようになったのです。こうしてこの国においては、行政・官僚主導、中央主導の政治形態が培われ、また庶民においては“お上意識”が息づくようになっていったのです。
今回の熊本大震災においても、恐らく阪神淡路大震災以来培ってきた政府・行政の危機対応能力と、庶民の行政への信頼に基づく高いモラル、そして各地からの物資と人材によるボランティア支援によって、全体としては迅速な救援と復興が進められていくものと思われます。しかし神戸の街のハードは復興しても、個々人として見れば、なりわいと人生が大きく打ちひしがれたままに時を過ごさねばならなかった人たちが、けっして少なくありませんでした。東北においても、今なお仮設住宅に取り残され、また福島から避難したままに顧みられなくなっている人たちが少なくないのは何故でしょうか。全体が復興することと、1人1人が悲しみを乗り越えて新たな希望に生き始めること、つまり“個人の復興”とは異なることなのです。そして中央からの官主導では、全体としての復興はうまく行えても、“個々人におけるいのちの復興”にはどうしてもうまく対処することができないのです。そのためには、1人1人の生きる力を高めていくことと、それを支援するような今までとは異なる政治の理念と行政の仕組みが必要になってきます。それが今この国において問われている重要な課題であり、しかし安倍政権が現在進めようとしている政策とは、真っ向から対立するポイントなのです。
幸いにして安保法制反対と立憲政治の擁護をベースにして、どうにかこうにか野党協力が進み始めました。しかしそれ以上に注目しなければならないのは、シングルマザーと子供の貧困や、保育園問題を始めとした仕事と子育ての両立の困難から、“女性の怒り”が表出し始めていることです。これは株価や企業業績やGDPなどを国家の政治運営の良し悪しの指標とするのとは異なり、個々人の生活の幸不幸から政治の良し悪しを判断していこうとする動きの現れでもあります。もはや有能で慈悲深い“お上”のご配慮にまかせていたのでは、自分の将来もこの国の未来も立ち行かなくなるという思いが高まっているのです。そのために、自分たちの手で自分たちのための社会と政治の仕組みをつくっていくのでなければ、次の世代の幸せをも拓いていくことは出来ないという、この国のこれまでのお上主導の政治構造を180°転換していく事態が始まっていると見ることも出来るのです。安保法制反対だけではなく、もし“女性の怒り”や格差是正、社会保障による個々人の幸せを起点とする需要サイドからのリベラルな経済政策までをも構想し、そこまで踏み込んだ野党共闘が成立していけば、間近に迫った北海道5区の衆議院選挙の補選、7月の参議院選挙(あるいは衆参同日選挙)の結果は、この国に“民”主導の新しい社会改革の芽を拓いていく契機となっていくかもしれません。
残念ながら新しく出来た民進党を始め、この国の政党の能力というのは驚くほどお粗末なものです。混迷を深める世界がこれから歩むべき方向を見据えて、この国の針路を描くなどとても期待できたものではありません。またかつてはこの国を主導した官僚機構も、国家の方向が大きく転換する時期を迎えているにも関わらず、旧態依然たる中央主導の縦割り行政や経済政策から脱皮できず、もはや思考停止とも思える状態に堕して、弊害をさえ及ぼす存在になっております。しかしこの状況は悲劇であると同時に、また私たち自身が自分の生活の幸せのために、様々な創意工夫を凝らして自由にイノベーションを起こしていくことが出来るような、“民”主導で多元分散型の社会をつくっていくにあたっての絶好のチャンスの到来ということも出来るでしょう。そのためには私たち一人一人が、自分の幸せを社会の仕組みとしてもつくりだしていけるような、力を養っていくのでなければなりません。そうした力を、映画を観た後に残る効用からも汲みだして、価値として提供していける仕組みを考えていければと思っております。
ところで、私たちが生きていくにあたってどうしても必要なものや力とはいったい何でしょうか。まず第1にお金でしょう。でもお金は使ってしまえばお終いです。熊本のような大地震に遭遇して、家が壊れて修理すれば、不意な出費でお金は無くなってしまいます。またいくらお金を貯めても、ハイパ-インフレ等が来れば瞬く間にお金の価値は無くなってしまいます。そうするとお金以上に、お金を稼ぐ力が必要になってくることがわかります。自分で商売をしてお金を稼げなくとも、安定的に仕事をして、生活できるだけの収入を得る能力も、お金そのもの以上に大切でしょう。さてそれでは、お金やお金を稼ぐ力の次に大切なものとは何でしょうか。それはリスクに対応する力でしょう。地震や事故や病気や失業などの、不意の困難な事態に備える力です。また逆に、リスクに挑む力というものも考えられます。ビジネスを起業したり、転職したり、ローンを組んで家を建てるなど、大きく飛躍するためにここぞという時にリスクを取る力のことです。こうしたリスクに対応するためには、保険をかけたり、耐震補強工事をしたり等個別の方法的な対応も考えられますが、突き詰めて考えれば、結局はリスクに備えまたリスクを取ることの出来る、余剰のお金を持っているということに尽きてくるでしょう。そして余剰のお金を持てるかどうかということは、能力の側面から言えば、お金を貯める力があるかどうか、あるいは必要なお金を借りて、それを着実に返す能力があるかどうかということに関わってくるのです。
さて私たちが生きていくためには、お金を稼ぐ力と、お金を貯めたりお金を借りて返す力が必要なことは分かりました。しかしここで問題になってくるのは、私たち凡人にはそれが分かっていてもなかなか出来ないということです。本屋さんに行けば、お金の儲け方や貯め方のハウ・ツ-本は山のように積んであるのですから、本来ならばそれを読んだ人が皆、仕事がうまくいってお金持ちになっていて不思議はないはずです。しかし実際のところは、ここ何年か日本の実質所得の伸び悩みが問題とされるように、けっしてそうはなっていないのが実情です。また仕事をまじめに勤めて、コツコツお金を貯める能力があっても、阪神淡路大震災や東北大震災のような予期せぬ災難に遭遇して打ちのめされれば、立ち直れないままになる人も少なくありません。そうしたことを考え合わせる時、私たちが生きていくためには、もう1つ別の力が必要になってくることに気がついてきます。それは例え困難に直面しても、嫌なことが続いても、気を取り直してしっかりと生きていけるような力のことです。どんなことがあっても立ち直って、自分のいのちを活かしていくことの出来る力、それをいのちの力とでも申しましょうか。このいのちの力を養って身につけることの出来た時に始めて、私たちはお金儲けや人の目を引くチャレンジで有名になること自体が目的となるのではなく、本当に自分のいのちを活かすために、自分の置かれた環境を変え、また稼ぐ力やリスクに対応する能力も発揮して、状況を良くしていくことが出来るようになるのではないでしょうか。もう少し詳しく言えば、稼ぐ力と、リスクに対応する力と、いのち力は相関していて、この3つの力が相まって相互にその能力を高めていくことで、私たちはどんな状況にあっても良く生きていく(自分を良く生かしていく)ことが出来るようになっていくのです。
それでは、この3番目のいのちの力とはいったいどういうものなのでしょうか。私たちが生きていく上で、どうしても関わりを持っていかなければならないものとして、次の4つのことがあります。自分の心(自分自身)、他者、事象(ことがら、出来事)、そしてモノ(物)です。いのちの力というのは、この4つの対象のそれぞれと関わる時に、自分を傷つけずに生かせるように関わって、自分が良く生きていけるようになる力のことです。そこでまず第1の自分自身と関わる力から考えてみます。自分の心がいかに御し難いものであるかは、誰もが深く思い至るところです。怒ったり妬んだり、恨みに思ったりする心の動きは、どうしようもなく自分自身を苛みます。またちょっと調子の良いことが続くと、有頂天になって周囲の人々を配慮せずに、悪感情を抱かせたりしてしまいます。感情の動きだけに、頭では分かっていても制御できません。そんな自分自身の心と向き合い、自分自身を本当に大切に慈しんで、感情や思い込みで自分がけっして損することのないように、確かに自分の納得できる深い求めから自分自身を忍耐強くつくり変えていく。それが自分自身と関わる力と言ってよいでしょう。自分の身体の状況に配慮して、健康に留意していくことも、この力に含まれてきます。第2は他者と関わる力です。他者との関わりは、いがみ合って互いに傷つけ合う場合と、互いに認め合って協力し合っていく場合とでは、大きく異なってきます。人間は身勝手なものですから、自分の期待を相手に投影して、思い通りの反応示してくれることを望みます。一方相手も自分勝手な期待を私に求めてくるのですから、すれ違いが生じてくるのは当然です。こうして人間関係はすぐに誤解が生じ、気まずいものとなってしまう傾向があります。特に身近な人間関係の齟齬は、私たちの日常に言いようのない生きづらさをもたらしてしまいます。しかし私たちが第1の自分自身と関わる力を養うことで、自分をよく配慮出来るようになり、自分自身としっかりと向き合って自分の心の動きが分かるようになってくると、他人の心の動きや感じ方にも敏感になって、自分のことのように分かるようになってきます。こうして他者のいのちを、自分のことのように配慮出来るようになってくると、私たちは他者と分かり合って、互いに力づけあって生きていく道が拓けてきます。この時私たちの人生は、どれほど生きる希望と勇気に満たされることでしょうか。こうした他者との関係をつくっていく事の出来る力が、他者と関わる力です。第3は様々に生じてくる出来事に対処していく力のことです。生きるということは、良いことも悪いことも様々な事象が次々に生じてきて、それに対処していかなければならない連続です。また覚えておかなくてはならないのは、幸福であっても不幸であっても、必ずその状況は永続することなく、やがて変化していくということです。この様々な事象や変化にどう対処していけば良いのでしょうか。どんな状況にあっても自分と人のいのちを生かす可能性を見出し、諦めずに人と自分を励まして生きていく。それが出来事に対処して生きていくいのちの力です。この出来事に対処していく力には、社会の制度や文化の価値観を変えて、自分や他の人を今より生き易くし、もっといのちの力を発揮できるようにしていく力も含まれてきます。そして4番目がモノと関わる力です。自分のいのちの力を養っていくために、必要なモノを揃え、そのモノの使い方や関わり方をも配慮していかなければなりません。住居を始め、環境を整えることもいのちの力を養っていくことの大切な要素です。さらにモノを買ったり消費したりすることも、自分や人のいのちの力を養うこととの関連で行っていけるようになれば、いのちの富はますます大きく育まれていくことでしょう。
さて映画というのは、以前から申し上げているように、私たちに人生の疑似体験を与えるものです。映画はそれを観た時に覚える興奮や感動、楽しみやスリルを提供するだけでなく、なんらかの人生の“真実”を伝えるために製作されるものです。従って私たちが映画を観終わった後には、何か心に残る大切なものを感じることが出来、その大切なものから、私たちは自分との向き合い方や人との関わり方、また様々な出来事への対処の仕方やモノとの関わり方を学んでいくことが出来ます。特に映画を観終わった後に感想の時や批評の時を持っていけば、私たちは様々な大切なことに気づき、自分自身のいのち力を養って行くことが出来るものと思われます。こうして映画を観終わった後の効用から、いのちの力を養い、さらには稼ぐ力やリスクに対応する力をも含めた生きる力を養う要素を取り出して、それを映画を観たお客様に価値として提供していければ、それは意味があって素晴らしいことではないでしょうか。いのちの力や生きる力を養うことを価値として提供して、それに対して相応な代金を頂くことで事業として成り立たせる。そんなビジネスのモデルの最初として、映画鑑賞事業をスタートさせていくことについてさらに議論を詰めていきたいと思います。次回のパンセの集いは4月19日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)