ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.81『いのちの力を価値として提供する映画鑑賞事業』

Apr 24 - 2016

■2016.4.24パンセ通信No.81『いのちの力を価値として提供する映画鑑賞事業』

皆 様 へ

熊本大震災(政府はなぜか熊本地震と、“大”を名称につけたくないようですが)の被災者の救済とインフラの復旧、そして生活物質の搬送・供給の体制は徐々に整いつつあるようです。しかしこれから被災地で必要となるニーズはどんどん変化していき、その段階に応じたサポートを迅速的確に行っていけるかどうか、そして地域と個々人の復興を着実に成し遂げていけるかどうかは、政府と私たち国民に問われてくるところです。政府は「プッシュ型」支援ということで、必要な物資を国が予測し、自治体を通さずに直接避難所に送付することで迅速な対応を図っております。これは現地の自治体自体が被災して、その機能を低下させている状況下では、効果の期待できる対応と言えるでしょう。ただし現地では、届いた物資と各避難所ごとでのニーズとのミスマッチが生じて混乱し、また指定された避難所以外に避難されている方々や、自宅や親戚・知人の家に残る方々、そして余震を恐れ自家用車に寝泊まりされている方々、さらには高齢者や障害者などを抱えて物資の配給を受け取りに行くことさえままならない方々など、避難の状況は本当に様々です。そのすべての方々に漏らさず救援物資を行き渡らせることは、きわめて困難なことでしょう。これはもう今の支援体制のもとで、その精度を上げるようなことで対応できる事態ではなく、発想の転換が求められる問題です。つまり官主導で、いくら優れた統制のもとに“上”から物資を行き渡らせようとしても、限界があるということです。被災者自らが自分たちのニーズを取りまとめ、その情報を発信して過不足なく物資を取り寄せ、連携して届いた支援物資を被災地域のすべての人たちに分配する。つまり“下”からの民主導の対応が官主導の対応と噛みあって、相互に補完し合うのでなければ、十分な支援は行えないということです。また災害の初期には、看護師や介護師や技術者等専門能力を持ったスタッフが不足するのですから、こうしたスタッフを民間(企業)ベ-スや個人ベースで派遣することを公的にサポートすることも必要になってくるでしょう。前回も申し上げたとおり、この国の官主導のシステムは極めて優れたものがあるのですから、いよいよ“民”のイニシアチブが発揮できるような仕組みもつくって、それを行政が支援していくような体制も考えていかなければなりません。度重なる自然災害は、私たちが官主導の統治の限界を認識して、この国がさらに一歩先に進んでいくための構造転換を私たちに迫っているようです。

それにしても自然災害が続いております。1995年の阪神淡路大震災以来震度7以上を記録した地震は、2004年の中越地震、2011年の東北(東日本)大震災、そして今回の熊本大震災と4回も起こっています。加えて火山の噴火や相次ぐ水害も生じて、記憶に焼きついているところです。また福島の原発事故は、未だ終息の糸口すらつかめておりません。それに加えてテロ事件や難民問題が発生し、世界の政治・経済の情勢においてはそれこそ暗い想定外の事件が相次ぎ、いつ奈落の底に突き堕とされるのかという不安や恐怖に満ちています。1年ほど前のパンセ通信No.31で、私たち人間は“習慣”とか“惰性”とかいった素晴らしい知恵を編みだし、実際は毎日違った出来事が様々に起こっているのに、それを気にも留めずに平凡で代わり映え無く日常を暮らす術を身につけていると申しました。こうして日常に埋没することで、私たちは普段はエネルギ-を節約してボ~っと生きることが出来ているのです。しかし今回の自然災害のように、私たちの人生においては、その惰性を打ち破り日常生活の安寧を突き崩す事態が襲い掛かってくる時があります。その時こそ私たちは節約していたエネルギ-を全開して、必死で考えて対応しいかなければならないのですが、これほどまでに危機感を呼び起こす衝撃的な事態が続くということは、やはり世界は大きな転換の時期を迎えているということの証なのでしょうか。 

私たちの人生や人間の歴史を左右するのは、この危機の時の対応に拠ります。今までの日常が崩れ、根本から組み立て直さねばならない事態に直面した時には、本当に自分のいのちを生かし、また人のいのちをも生かす原点から、自分の人生と社会を再構築していくことが出来るかどうかが問われます。そんな危機を招いた自分の愚かさを反省して、新たな未来をつくっていくための糧としていくことが出来るかどうか。私たちは容易に滅びに向かって流されていってしまうのですが、それに抗してどんな状況にあってもいのちを生かす方向に歩めるような力を養っていくことが出来るのかどうか。その方法を引き続き考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは、4月26日の火曜日の16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

さてパンセの集いでは、いのちの力、生きる力を養う取り組みの一環として、(株)フィルム・クレッセントから継承した資産も活用して、映画鑑賞を最初のプロジェクトとして事業化することについて検討を進めております。“いのちの力”とは、どんな状況にあっても本当に自分自身を良く生かして生きていこうとする内的な力のことです。私たちの人生も社会も、絶えず変化して定まるところを知りません。この無常の世界にあって、富める時も貧しい時も、幸せな時も苦難に襲われた時にも、自分自身を省みて、けっして自分を傷つけること無くそのいのちを生かして生きていこうとする力のことです。一方この内的な能力である“いのちの力”に対して、私たちが現実にも良く生きていけるように、外的に働きかけて、自分が望むように環境をつくり変えていく力があります。仕事をしてお金を稼いだり、稼いだお金を蓄えたり、安心して暮らせるように家族や集団をマネージメントしていく力です。この“外的な実践力”と“いのちの力”が合わさって、現実的な私たちの“生きる力”が形成されてきます。まさに“いのち”を生かすものとして“生活”をつくり、そんな“生活”の連続として“人生”をつくっていくことの出来る力のことです(英語のLifeは、いのち、生活、人生の3つの意味があり、この3つを統一的に捉えます)。また“生きる力”には、私たちのいのちを育むように社会や自然環境をつくっていく力も含まれます。

“外的な実践力”というのは、自分の目的のために外界に働きかけて、その目的を実現して現実を自分の思い通りに動かそうとする力のことなので、“自己実現力”と言い換えることも出来るでしょう。この“自己実現力”を高めるために私たち人間は、法則を発見し、特に近代以降は自然科学やテクノロジ-、そして社会科学や人間科学を急速に発展させてきました。今私たちは、その成果を十分に活用することが出来ます。一方いのちの力というのは、私たちが滅びずに良く生きていけるように、どう外界に働きかければ良いかについての指針を自分自身に与える力と言い換えることも出来るでしょう。過たない目標を見出すための認識力と、その目標をぶれずに求め続ける力のことです。近代以降の人間の目標は、財貨の富を拡大すること(お金持ちになること)とその実現のために欲望を注ぎ込むことに向けられてきました。そのことが現在に至って、個々の人間の生きづらさと社会全体の行き詰まりを招いている原因ともなっています。もちろん富を得る競争に狂奔したからこそ、経済が成長して物質的に豊かになったのですが、今はその反動で格差が拡大し、環境を破壊し、未来を描けない時代へと立ち至っています。つまり時代の転換点を迎えているということなのです。“いのちの力”というのは、このような社会全体と個人の人生の危機の時に、人間と生命の歴史が培ってきた根源的な叡知から、過たずに新たな可能性を拓いていく力とも言えるものなのです。

ところで私たちの中にある“いのちの力”を見出し、それを育んでいくためには、4つの要因があることを前回見てきました。自分自身との関わり方、他者との関わり方、様々な出来事との関わり方、そしてモノや制度との関わり方です。まず私たちが自分と関わって自分自身を深く見つめる時、私たちの中に2つの求めのあることに気づいてきます。自分自身の自由を実現して思いのままに生きたいという求めと、他の誰かのために役立って、自分の存在が認められたり感謝されたりして、生きる意味と価値を実感したいと願う思いです。つまり自分を生かすことと他者を生かすこと。しかしこの2つは矛盾する求めであって、同時にこの2つの求めを実現して生きることはきわめて困難です。しかしまさにその困難に生きる力こそが、“いのち力”と言うことも出来るでしょう。さらに厳密に言うならば、こうした“いのちの力”に生きた過去の人々の働きと叡知に学んで感謝し、今度は自分自身も将来の世代のいのちのために生きようとすることも、“いのちの力”に含まれてきます。このように“いのちの力”とは、自分自身を生かし他者を生かし、過去の先人の働きと智慧に感謝し、さらには後の世代の幸せのために生きようとすることで、自分自身が大きな意欲と創造力を得て、現実を実際に自分にとっても皆にとっても良い方向に変えていくことの出来るような、内的な力のことなのです。(この“いのちの力”、また私たちが幸せになるための必要条件と十分条件については、パンセ通信のNo.36~No.44で詳しく考えてみました。)

残念ながら現代においては、“外的な実践力”(外界に働きかけて自己実現する力)については、それを支える科学の知恵などが大いに発展しているのですが、“いのちの力”を発揮させたり養ったりする智慧については、あまり顧慮されておりません。そこで私たちは伝統宗教の智慧をもう1度よく学び直すことで、自己配慮、他者配慮、過去配慮、未来配慮という“いのちの力”の内実を知って、これを自己実現のための外的な力と結びあわせることで“生きる力”にしていこうとしております。この“いのちの力、生きる力”を育むことによって、これからの成熟社会を生きる指針とその礎をつくっていこうとするのが、パンセの集いの取り組みなのです。

パンセの集いではこのように、“いのちの力”と“生きる力”の内容について考え、またこれからの成熟社会のイメ-ジ(経済社会のあり方と、そこでの生き方・働き方)についても検討してきました。そしてこの“いのちの力”と“生きる力”を養う実際のプロジェクトとして、最初に映画鑑賞事業に取り組むこととしたのです。映画は私たちに、人生の疑似体験を与えます。それ故に映画は、私たちが“いのちの力”と“生きる力”を養うための貴重な素材を提供してくれるものとなるのです。

このプロジェクトの事業化にあたり、パンセ通信No.76とNo.77において、まず映画を観る顧客にとっての効用について考えてみました。そうすると最初に、私たちが劇場等で映画を観る時点で受ける感動や興奮といった、感情の“消費的な効用”というものがあることが分かってきます。現在の映画興行は、この効用をお金に換えてお客様から頂くことでビジネスとしています。しかし映画を観た時に得る効用というのはそれだけではありません。映画を観終わった後に私たちの心に残る効用というものもあります。深く考えさせられたり、思い起こす度に心が熱くなったり、登場人物の生き様や死に様から学ばされたりする効用です。映画は、映画の作り手たちが深く心を動かされた人生の真理を、ドラマとして印象深く私たちに伝える作品です。従って私たちはこの“真理”を受け取って、自分自身の現実の体験と突き合わせて批判的に受け取り直す(自分なりに確かに納得する)ことで、まず自分自身の“真理”ともなる体験価値を得ることが出来ます。次いで私たちは、その自分のものとなった“真理”が他の人にも役立つと感じるなら、それを他の人にも伝えて、その感動を分かち合いたいと思うようになるものです。こうして自分自身が感じた感動や真理を、他の人にも伝わるように語り直そうとする時、私たちは新たな芸術作品を生み出す時のような、創造の価値も体感することが出来るのです。さらに感動や“真理”が他の人に伝わって共有できた時、私たちは共感や共生の価値も享受することが出来ます。このように映画の効用というのは、映画を観賞する時点での“消費的効用”に留まらず、映画を観た後に残る効用から、体験価値、創造価値、共生価値なども取り出して “いのちの効用”として提供することによって、鑑賞者の“いのちの力”と“生きる力”を高めていくことも出来るようになるのです。

この映画鑑賞において提供することの出来る“いのち効用”については、現在の映画興行においてはビジネスの対象とはされておりません。そこで新たに映画鑑賞を企画・運営して事業としようとする私たちにおいては、映画の鑑賞時点で得る消費的効用のみならず、この“いのちの効用”をも価値として提供することで、事業としていくことが検討されます。このようにお客様に、“いのちの効用”をも価値として提供できるようになれば、それはもはや単にお金を稼ぐためだけのビジネスとは異なり、事業を運営する側のスタッフにとっても“いのちの力”を育む事業となってくることでしょう。こうした“いのちの効用”を与える映画鑑賞事業について、パンセ通信No.78とNo.79においては、マーケティングの手法を用いることによって、そのビジネスのあり方(戦略)ついて検討してみました。その内容については、以下のように整理することが出来るでしょう。

まず最初に明らかにしなくてはならないのは、お客様に対して提供する価値は、いったい何なのかということです。もちろん映画鑑賞事業なのですから、映画上映というサービスをお客様に提供することには間違い無いのですが、それによってどんな良いものをお客様にお届けすることが出来るのか、またそれに対してお客様が意義を認めて、喜んでお金を払って下さる価値は何なのかということです。それについては今まで進めてきた効用の分析に基づくと、『いのちの力、生きる力を養うことを価値として提供する』ということにまとめられるのではないかと思います。価値がはっきりしてきたところで、次にこの事業を差別化できる強みについて考えてみなければなりません。それは現在の映画興行が、映画を観た時点での感情の“消費的効用”を価値として提供することに対して、私たちの事業が、映画を観終わった後に残る“いのちの力、生きる力を育む効用”を価値として提供することにその違いを求めることが出来るでしょう。つまり提供する効用が従来とは異なることに、差別化のポイントがあるのです。さらにこの“いのちの効用”は、現代のような危機と生きづらさの時代にあっては誰もが潜在的に強く求めるものであるし、またこの効用は、財貨の豊かさと並んで次の時代を構成するキーファクタ-ともなるものだけに、強みを発揮するものと思われます。さてその次に明らかにしなければならないポイントは、マ-ケティングの用語で言えばセグメンテーションとターゲテイングです。分かりやすく言えば、お客様は誰かということです。この“いのちの効用”を提供する事業に対して、その価値を高く評価し、賛同し、応援してくれるお客様を特定することです。もちろん映画鑑賞事業なのですから、まず第1に考えられるは“映画好き”の人たちでしょう。しかしそれ以上にこの事業の場合には、“いのちの力・生きる力”を高めることに意義(メリット)を感じる人たち、また自分自身の“いのち力・生きる力”を養いたいと思っている人たちが、お客様になってくれるものと思われます。

このようにこの事業が提供する価値、強み、お客様を特定することが出来てきたところで、次はいよいよ実際の商品の内容についてです。そうした価値を体現し、強みを発揮し、対象とするお客様に喜ばれてその効果をお届けすることの出来る商品とは、いったいどのようなものかということです。それについてはすでにパンセ通信No.79で検討したとおり、恐らく単に映画作品を上映するということだけに留まらず、感想会、批評と学びの会、そして自分の掴んだものを定着させるための感想や意見の掲載等をパッケ-ジとしたものを商品として提供することが考えられます。あるいはそうした要素を折り込んだ「ホームシアターサークル」といったサークル活動形式での商品提供ということも考えられるでしょう。それでは次に、その商品をどういう販路でお客様にお届けするのが良いのでしょうか。それについては対象とするお客様を、“いのちの効用”を価値としてわかる人、求める人と定めた以上、そうしたお客様にアクセスしやすい流通経路を選ぶことが一番でしょう。そうしたお客様がいらっしゃる手近なところで言えば、パンセの集いであり、幡ヶ谷の地域においてはそうした関心を持つ人が顧客として集まる「スナック遊」であり、両国の大徳院の法話会ということになるでしょう。「スナック遊」ではすでに1度上映会を実施しており、飲み物とママさんの本当においしい手料理を頂きながら、映画を鑑賞して感想会に興じる催しを実施しております。こうした地域の商店とタイアップした取り組みは、地域の商店自体における新しい価値提供と顧客開発に結びついてくることになるかもしれません。また両国の大徳院に集まる方々は、高齢の方が多いことから、同じく“いのち価値”を提供する事業として検討している『老いと死の備え(終活)』のためのプロジェクトと結びつけて実施することが出来るかもしれません。いずれにせよ限られた顧客を対象とした小さな事業としてのスタ-トとなりますが、ブランド育成の手法を応用しつつ、入念にマーケティングフローを検証しながら事業を育てていければと思います。

さて商品の内容と販路が決まれば、次は価格を考えなければなりません。ここでは厳密な事業の原価計算は割愛しますが、原価に適正な利益を上乗せして考えるよりは、むしろ“いのちの力、生きる力を養う効用”を提供する商品の価値を、お金に換算するといくらになるかという考え方をすることの方が大事でしょう。とりあえずは設備や環境が整い、最新作を上映する映画館における現在の鑑賞料金との対比で言えば、1,000円程度(生活上の事情のある方は別途料金検討)ということになるでしょうか(あるいはホームシアターサークルの会員料金として月額1,000円程度)。ただし、“いのちの力、生きる力を養う効用”というのは、本当にそんな力が養えれば生半可な金銭には換えられない価値となることは間違いありません。今後そうした価値を効果的に提供できるように、引き続き商品の新たな開発に工夫を凝らしていかなければなりません。さてそれでは、いよいよマーケティングフローの最後となるプロモーション(広告・販促)についてです。今までになかった新しい価値を提供する商品ですから、その価値の訴求は、この事業の最も重要な活動ポイントとなるでしょう。とりあえずWebサイトやSNSの活用、チラシ・ポスタ-の作成などが考えられますが、その内容については、今まで述べた事業のマーケティングフローの全体の評価と併せて考えていってみたいと思います。次回のパンセの集いは4月26日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)