■2016.5.1パンセ通信No.82『自分自身と関わる力を高める-瞑想と祈りと呼吸法1/2」
皆 様 へ
政府が『1億総活躍プラン』の原案を固めたようです。その具体的な実現策として、まず成長に向けた新3本の矢を「希望を生み出す強い経済」「夢を紡ぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」のように定め、それと連動して「国内総生産(GDP)600兆円」「希望出生率1.8」「介護離職ゼロ」をそれぞれの達成目標としました。しかしここに、私たちの国が抱えている2つの目の大きな課題が現れているように思います。1つ目の課題は、以前より申し上げてきたこの国の優秀な官僚による、パタ-ナリズム的な官主導の統治です。それにより、民間からの多様なイニシアチブとイノベ-ションを育むことが疎外され、危機の時代にこの国が生き残れなくなるような脆弱性を生み出しています。2つ目とは、目標設定は良いのですが、本気でそれをやり切る意図と覚悟があるのかという問題です。このプランの達成目標を見れば、誰が見ても本当に出来るの?という疑問が起こってきます。しかしこれは何も安倍政権に限った問題ではありません。もともと私たちの国には、政治家の唱える施策などいい加減な口約として、その実施を当てにしない風土がありました。それは私たちの人生においても同じで、元旦に立てる1年の目標など達成された例(ためし)がありません。ところが危機の時には、そうはいかないのです。気休めのお題目を並べていたのでは、本当に破滅してしまいます。耳に聞こえの良いスローガンにだけこだわるパフォーマンスでは済まされず、現実に実施されるかどうかが問われてきます。“保育園落ちた、日本死ね!!!”のブログは、現実に保育園問題が解消されないことに対する怒りの表明でしょう。
ところがこの国の抱える課題はさらにあってそれだけではありません。1億総活躍プラン実現のための具体的な実施策として、「同一労働同一賃金」、「長時間労働の撲滅」などが掲げられていますが、いったい誰のために、何を目的としてこれらの施策を実施しようとしているのでしょうか。それがこの国で私たちの直面する3番目の課題です。安倍政権は、日本を世界で一番(グローバル)企業が活動しやすい(儲け易い)国にすることを標榜し、法人税減税や規制緩和などに取り組んでいます。しかしその目的からすれば、「同一労働同一賃金」とは、同一職種の非正規雇用者の賃金に合せた正規社員の賃金引下げであり、「長時間労働の撲滅」とは、残業代カットの口実というようなことにもなりかねません。事実2001年の小泉政権以降、耳当たりの良い政策運営のもと、非正規雇用の割合は40%に高まり、社会保障は切り下げられ、消費税増税の一方で私たちの所得は下がって、日本経済と私たちの暮らしは疲弊しました。1つ1つの政策が、そしてその実施のために用いられる私たちの税金が、本当に私たちのいのちと暮らしを生かすために使われているのかどうか。惑わされないで、そしてけっして傍観者になることなく、本当に自分にとっての利益は何か、そしてまた全体にとっての利益は何かを感じ取って判断する力が、有権者に求められています。破滅か可能性か - いよいよ私たち庶民が、政治を牽制していかなければならない危機の時代が到来しているようです。
そのように私たちが、自分自身に立ち返って本当に自分に得になることを、そしてまた全体の利益になる判断が出来る力を、自分だけでなく多くの人も気づいて培っていく方法を、パンセの集いでは引き続き検討していきたいと思います。次回のパンセの集いは、5月3日が憲法記念日の祝日に当たっており、ゴールデーウィークの最中のためにお休みとし、5月10日の火曜日と致します。時間は16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さてパンセの集いでは、どんな状況でも挫けずに自分を生かせる人間力を培う“いのちの力”、そして実生活においても良く暮らせるようになる“生きる力”を養うことを価値として提供することを目的に、様々な検討を進め、具体的な取組みにも着手しています。その最初のプロジェクトとして映画鑑賞事業について検討を進め、前回までにマーケティング戦略を取りまとめたところです。実はその後、私の住むビル(幡ヶ谷・不動通り商店街)の大家さんからも、上映会場として、スナックが廃業した後の地下の10坪余りの空スペースの提供を受けました。この試みに対する地域の関心は低くないというところでしょうか。まだ残っている上映にあたっての技術的問題を早急に詰め、まずは手渡しでプロジェクトを紹介できるチラシづくりからプロモ-ションに着手し、出来れば5月末あたりからでも定期的な上映会をスタートさせていきたいところです。
ところで“いのちの効用”を提供する映画鑑賞事業は、これを皮切りに今後様々な波及効果が期待できると思われるのですけど、私たちはパフォーマンス重視と目標すり替えに労を費やす安倍政権と異なって、本気で私たちの“いのち力、生きる力”を向上させるという課題を実現していかなければなりません。政府のみならず、混迷する野党を考慮している暇(いとま)もないでしょう。北海道5区の衆院補欠選挙は、勝てる選挙を落としてしまいました。せっかく「社会保障」と「子育て」という有権者ニーズに応える政治課題を争点にしながら、有権者の求めよりも自分たちの連立(永田町論理)工作に目がいってしまって盛り上げを欠くこととなり、投票率が伸びずに敗北してしまいました。このように現在の日本の政治の状況は、残念ながらかなり愚かしいものとなってしまっています(投票率が伸びなかったのは、熊本大震災の衝撃に人々の気が取られてしまったこともありますが)。しかし私たちが、自分の人生においても生じるこうした愚かさに気づいて、立ち直っていくことの出来る力が“いのちの力”なのです。映画鑑賞事業は、鑑賞後の感想会や批評サークル等の取り組みと併せて、“いのち力、生きる力”を包括的に養っていくことを目的としますが、本当に“いのち力、生きる力”を私たちが身につけて強めていくためには、その内容をさらにブレークダウンして要素を洗い出し、その要素ごとに誰もが納得して容易に取り組めて、しかも段階を追って“いのちの力、生きる力”が高めていけるような、実践的で具体的な手順を示していく必要があります。
そこでまず“いのちの力”について取り上げ、その内容をブレークダウンして、最初に取り組む対象を洗い出していってみたいと思います。“いのちの力”は、私たちが生きていく際に自分の主観に捉えられるあらゆる関係領域において、自分を生かすことの出来る力です。それではその関係領域には、いったいどんなものがあるのでしょうか。それについてはパンセ通信No.80で述べたとおり、自分自身(自分の心身)との関わり方、他者との関わり方、様々に生じてくる出来事との関わり方、そして(お金を含む)モノや文化や社会の制度との関わり方という、とりあえずは4つの領域が考えられるのではないかと思われます。この4つの領域のいずれにおいても、自分を傷つけずに生かしていく関係を築くことの出来る力が、“いのちの力”なのです。ところでこの4つの領域は、あくまでも自分の主観に現れて捉えられる関係ですから、“客観的”にではなく、常に自分を起点として他の対象を意識することで、その関係の有り様が把握されます。そうすると4つの関係領域の最初に挙げた“自分自身との関わり方”というと、少々奇異に感じられるかもしれません。なぜなら意識する起点となるその自分自身を対象として、関わり方を考えるということになるからです。つまり自分に対する自分自身の関係です。この“自分”というもの、つまりいつも無批判にそこから出発して他のものへと意識が向かう“自分”というものが、実はいかに自分でもよく分かっていないものであるかということについては、例えばダイエットに失敗したり、怒りや悲しみが抑えられなかったり等、自分の身と心が、どうにも自分の意のままにならぬやっかいなものであることを承知している人には、比較的容易に腑に落ちることではないでしょうか。そして特に現代においては、私たちの意識は自分の欲望を充たそうといつも自分の外の世界ばかりに向かって働いているものですから、何かよほど大きな失敗でもしない限り、意図的に時間を割いて自分自身を振り返ってみようとは思わないものなのです。しかし世界を判断する主体となる自分自身の判断が正しくなければ、自分と他のものとのあらゆる関わり方の基礎が揺らいでしまいます。間違った判断の基準で他者や事象を判断しても、間違った答えしか得られずに、間違った関わり方しか出来ないからです。だから私たちは、最初に自分の判断の正しさを問うのでなければ、他のものとの関係の拙さが、自分に由来するものなのか相手に由来するものなのかが分からなくなってしまいます。“自分自身との関わり方”というのは、自分自身を過たずに捉えて自分を御していくということであり、その意味で“いのちの力”を考える上で、どうしても最初に明らかにしておかなければならない対象なのです。逆に言えば“自分”さえしっかり把握することが出来れば、他の領域においても自分を生かす関わり方の指針がはっきりしてきて、誰もが“いのちの力”を強めていくことが出来るようになるための、実践的な手順の手掛かりが得られてくるのです。
そこで最初に、 “いのちの力”を強める実践的手順を解明するための検討対象として、“自分自身との関わり方”を取り上げ、その内容をさらにブレークダウンして考えていってみたいと思います。まずは現状における私たちの、自分以外の対象への通常の意識の働き方から理解していってみたいと思います。私たちが他者や社会と関わる時、仲良くなりたいとか自分が有利になりたいとか、通常は自分を起点として、自分にとってメリットがあるような目的をもって接するものでしょう。そして私たちの意識は、その目的に対する成果の度合いを測ることに向かい、喜んだり、がっかりしたりを繰り返します。それが通常の私たちの意識の働き方です。しかしもしその目的自体に問題があって、自分自身を生かすつもりが、じつは自分を害する目的に向かって突き進んでいたとしたらどうでしょうか。幸せになるために、高価な婚約指輪をプレゼントして彼女を喜ばせようと寸暇を惜しんで働いている間に、彼女の心が離れてしまうなどといったことは、私たちの人生にはよく起こることです。特に時代の分かれ目にさしかかる危機の時には、私たちが直感的に正しいと思って抱く目的や、その背後で押し止めようなく生じてくる感情や求め(時に高揚して熱狂的になる場合も)には注意を要します。ナチスドイツも大日本帝国も、こうして戦争の破滅へと突き進んでいったからです。
それ故に私たちは、自分が抱く目的や無意識のうちに抱く求め(欲求)について、それが本当に自分を傷つけず生かすものなのかどうかを、十分に省みて吟味する必要があるのです。ところが目的も求めも、いつも衝動的に自分の心に起こってきて、私たちが理性的に吟味してみようと思う間もなく、すでにこうしようという思いが先に立ってしまっていて、それが間違いなく後悔しない自分の求めなのかどうかと疑ってみる気持ちも起こらないままに、判断して行動してしまうのが私たちの通常の状況でしょう。従ってもし私たちが、本当に自分を損なわずに生かしていきたいと思うなら、私たちが他者と関わったり災害のような危機的事態に対処したりするその時点で、すでにもう自分を生かすような求めが生じてくるのでなければ、私たちの過たない判断や選択は難しくなってしまいます。あるいは感情的には怒りや恨みやいらだちなどの気分に覆われて、一旦はマイナスの判断を下しそうになったとしても、少なくともそんな自分に気がついて自分を立て直そうと出来ることが、“いのちの力”の働きと言えるのです。
それではこうした自分を間違わずに生かす求めや気づきは、どうすれば自分自身の身につくようになるのでしょうか。そのためには、通常は自分から外界の対象に向かう意識の働きを、逆に自分自身の方向に向け変えるという、ちょっと特殊な作業を行わなければなりません。言わば意識の方向転換です。これによって私たちは、外界の世界を科学の法則によって知ることが出来るように、自分自身を知って、自分の中にある深い求めに気づけるようになってくるのです。現代においては、確かにこれは特殊な作業となってしまいました。情報が氾濫し、様々な誘惑が私たちの欲望を刺激するために、私たちの意識は外界らの情報を得るのに必死で、自分自身を省みる余裕が無くなってしまっているからです。中には私たちを洗脳しようと付け狙ってくる価値観もあって、私たちはその価値観に自分を合わせようとして、自分で自分を誤魔化すという事態さえ生じてきます。例えばブラック企業に代表されるように、夢ややりがいを建前に私たちの全人格を仕事へと収奪してしまうことも生じ、私たちは自分を見失い、何が本当に自分にとって大切でまた大切でないかがわからなくなってしまうことも起こるのです。しかし縄文時代に象徴されるような昔の人たちは、けっしてそんな状況に陥ることはありませんでした。いつ胡桃の実が生(な)り、どこに行けば鹿や猪などの獲物が現れ、どうすればその獲物を獲れるかを、誰のものでもない自分自身が身につけた知識として知っていました。そして確かな自分の求めから判断し、自分を生かしていのちをつなぐことが当たり前に出来ていました。自分を自然に“当てにする”ことが出来たのです。しかし現代においてはそうはいきません。自分自身を見失い、自分の求めも自分の判断も、時に愚かで覚束ないものとなってしまっているので、自分自身を“当てにする”ことが出来ないのです。従って自然な状態では自分が分からず、どうしても意識的な取り組みによって自分自身を観察し、自分を取り戻す作業が必要になってくるのです。
しかしそのための理論と方法を、私たちは何も一から考え始める必要はありません。なぜなら同じような問題に直面した私たちの先人たちが、すでにその優れたノウハウを残してくれているからです。1つは中世から近代へと大きく時代が転換するにあたって、本当に一から新しい人間の生き方と社会のあり方を、原理的に考え直してみなければならなくなった時に、ヨーロッパの偉人たちが残してくれた成果です。それはデカルトに始まり、カント、ヘーゲルと体系化された近代観念論の哲学です。この取り組みは、その後ニーチェを経てフッサール現象学に受け継がれ、現在では日本の竹田青嗣先生や西研先生によって、私たちの確かな求めから出発して、世界を再構成していくための理論的な解明が進められています。もう1つは今から2,500年ほど前に、人間の救いは神々に供物を献げることによっては得られないと気がついた、インド・中央アジアの人々が残してくれたノウハウです。それが仏教によって体系化された“瞑想”なのです(いや正しくは、お釈迦様を介して、瞑想によって仏教が生まれたと言った方が良いでしょう)。近代観念論哲学が、“理論”によって自分の観念を探り、世界を認識してその存在の根拠を明らかにしていったことに対し、瞑想は、視線を自分自身の意識へと向け変えてその働きを観察するという、その気になれば誰にでも出来る実践的な方法を編み出していきました。これによって私たちに、自分自身に気づき、自分自身の深い求めを知って、誰のものでもない自分の求めから判断が行えるようになる道が開かれたのです。しかしここで1つ疑問が生じてきます。確かな自分の求めによる判断といっても、あくまでもそれは自分に基づく判断なのだから、1人よがりの判断となってしまわないかという疑問です。そのために自分の求めを、普遍的な価値(仏教では法=ダルマ、キリスト教では神)と突き合わせて検証し、自分の判断を自分にとっても全体にとっても良いものへと高めていく作業が必要になってきます。加えて現実に自分が良く生きていけるようになるために、普遍化された自分の求めを、具体的な自分の日常生活の中で実現していけるように、何からどう手をつけていけば良いかの実践的な手順までも明らかにしていかなければなりません。この個人の求めと普遍的な価値を行き来して自分の目的を確かなものとし、それを実現する実践プランまでをも明らかにしていくのが“祈り”のプロセスであり、主にキリスト教においてその方法論が整備されてきました。もちろん現実はどんどん変化していきますから、“瞑想と祈り”は1回やれば済むというものではなく、都度“瞑想と祈り”によって自分自身を振り返り、過たずに自分を生かせるように“気づき”の感度を深化させ、目的実現の手順をどんどん具体化させていかなければなりません。
さてこのように私たちは、日常生活においても仕事や企業活動においも、自分の確かな求めから様々な可能性に気づいて、自分も全体も生かせるような創造力を発揮することの出来る“いのちの力”について考えるにあたり、まずは“自分自身との関わり方”から検討を始めることにしました。そして“自分自身との関わり”をうまく行って、“いのちの力”を高めていけるようになる理論と方法の手掛かりとして、近代観念論哲学の理論の系譜と“瞑想と祈り”の実践が、先人たちの成果として残されていることを見てきました。こうした成果を踏まえて、次回以降は“自分自身との関わり方”の詳細について見ていき、さらには現代の私たちが“瞑想と祈り”について、カルチャースクールや企業セミナーに通うような気軽さで、誰もが納得して無理なく実践出来るようになる方法についても検討を進めていければと思っています。そしてこの取り組みを、パンセの集いにおける第2のプロジェクトとしてスタートさせられればと考えています。次回のパンセの集いは5月10日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)
皆 様 へ
政府が『1億総活躍プラン』の原案を固めたようです。その具体的な実現策として、まず成長に向けた新3本の矢を「希望を生み出す強い経済」「夢を紡ぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」のように定め、それと連動して「国内総生産(GDP)600兆円」「希望出生率1.8」「介護離職ゼロ」をそれぞれの達成目標としました。しかしここに、私たちの国が抱えている2つの目の大きな課題が現れているように思います。1つ目の課題は、以前より申し上げてきたこの国の優秀な官僚による、パタ-ナリズム的な官主導の統治です。それにより、民間からの多様なイニシアチブとイノベ-ションを育むことが疎外され、危機の時代にこの国が生き残れなくなるような脆弱性を生み出しています。2つ目とは、目標設定は良いのですが、本気でそれをやり切る意図と覚悟があるのかという問題です。このプランの達成目標を見れば、誰が見ても本当に出来るの?という疑問が起こってきます。しかしこれは何も安倍政権に限った問題ではありません。もともと私たちの国には、政治家の唱える施策などいい加減な口約として、その実施を当てにしない風土がありました。それは私たちの人生においても同じで、元旦に立てる1年の目標など達成された例(ためし)がありません。ところが危機の時には、そうはいかないのです。気休めのお題目を並べていたのでは、本当に破滅してしまいます。耳に聞こえの良いスローガンにだけこだわるパフォーマンスでは済まされず、現実に実施されるかどうかが問われてきます。“保育園落ちた、日本死ね!!!”のブログは、現実に保育園問題が解消されないことに対する怒りの表明でしょう。
ところがこの国の抱える課題はさらにあってそれだけではありません。1億総活躍プラン実現のための具体的な実施策として、「同一労働同一賃金」、「長時間労働の撲滅」などが掲げられていますが、いったい誰のために、何を目的としてこれらの施策を実施しようとしているのでしょうか。それがこの国で私たちの直面する3番目の課題です。安倍政権は、日本を世界で一番(グローバル)企業が活動しやすい(儲け易い)国にすることを標榜し、法人税減税や規制緩和などに取り組んでいます。しかしその目的からすれば、「同一労働同一賃金」とは、同一職種の非正規雇用者の賃金に合せた正規社員の賃金引下げであり、「長時間労働の撲滅」とは、残業代カットの口実というようなことにもなりかねません。事実2001年の小泉政権以降、耳当たりの良い政策運営のもと、非正規雇用の割合は40%に高まり、社会保障は切り下げられ、消費税増税の一方で私たちの所得は下がって、日本経済と私たちの暮らしは疲弊しました。1つ1つの政策が、そしてその実施のために用いられる私たちの税金が、本当に私たちのいのちと暮らしを生かすために使われているのかどうか。惑わされないで、そしてけっして傍観者になることなく、本当に自分にとっての利益は何か、そしてまた全体にとっての利益は何かを感じ取って判断する力が、有権者に求められています。破滅か可能性か - いよいよ私たち庶民が、政治を牽制していかなければならない危機の時代が到来しているようです。
そのように私たちが、自分自身に立ち返って本当に自分に得になることを、そしてまた全体の利益になる判断が出来る力を、自分だけでなく多くの人も気づいて培っていく方法を、パンセの集いでは引き続き検討していきたいと思います。次回のパンセの集いは、5月3日が憲法記念日の祝日に当たっており、ゴールデーウィークの最中のためにお休みとし、5月10日の火曜日と致します。時間は16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。
さてパンセの集いでは、どんな状況でも挫けずに自分を生かせる人間力を培う“いのちの力”、そして実生活においても良く暮らせるようになる“生きる力”を養うことを価値として提供することを目的に、様々な検討を進め、具体的な取組みにも着手しています。その最初のプロジェクトとして映画鑑賞事業について検討を進め、前回までにマーケティング戦略を取りまとめたところです。実はその後、私の住むビル(幡ヶ谷・不動通り商店街)の大家さんからも、上映会場として、スナックが廃業した後の地下の10坪余りの空スペースの提供を受けました。この試みに対する地域の関心は低くないというところでしょうか。まだ残っている上映にあたっての技術的問題を早急に詰め、まずは手渡しでプロジェクトを紹介できるチラシづくりからプロモ-ションに着手し、出来れば5月末あたりからでも定期的な上映会をスタートさせていきたいところです。
ところで“いのちの効用”を提供する映画鑑賞事業は、これを皮切りに今後様々な波及効果が期待できると思われるのですけど、私たちはパフォーマンス重視と目標すり替えに労を費やす安倍政権と異なって、本気で私たちの“いのち力、生きる力”を向上させるという課題を実現していかなければなりません。政府のみならず、混迷する野党を考慮している暇(いとま)もないでしょう。北海道5区の衆院補欠選挙は、勝てる選挙を落としてしまいました。せっかく「社会保障」と「子育て」という有権者ニーズに応える政治課題を争点にしながら、有権者の求めよりも自分たちの連立(永田町論理)工作に目がいってしまって盛り上げを欠くこととなり、投票率が伸びずに敗北してしまいました。このように現在の日本の政治の状況は、残念ながらかなり愚かしいものとなってしまっています(投票率が伸びなかったのは、熊本大震災の衝撃に人々の気が取られてしまったこともありますが)。しかし私たちが、自分の人生においても生じるこうした愚かさに気づいて、立ち直っていくことの出来る力が“いのちの力”なのです。映画鑑賞事業は、鑑賞後の感想会や批評サークル等の取り組みと併せて、“いのち力、生きる力”を包括的に養っていくことを目的としますが、本当に“いのち力、生きる力”を私たちが身につけて強めていくためには、その内容をさらにブレークダウンして要素を洗い出し、その要素ごとに誰もが納得して容易に取り組めて、しかも段階を追って“いのちの力、生きる力”が高めていけるような、実践的で具体的な手順を示していく必要があります。
そこでまず“いのちの力”について取り上げ、その内容をブレークダウンして、最初に取り組む対象を洗い出していってみたいと思います。“いのちの力”は、私たちが生きていく際に自分の主観に捉えられるあらゆる関係領域において、自分を生かすことの出来る力です。それではその関係領域には、いったいどんなものがあるのでしょうか。それについてはパンセ通信No.80で述べたとおり、自分自身(自分の心身)との関わり方、他者との関わり方、様々に生じてくる出来事との関わり方、そして(お金を含む)モノや文化や社会の制度との関わり方という、とりあえずは4つの領域が考えられるのではないかと思われます。この4つの領域のいずれにおいても、自分を傷つけずに生かしていく関係を築くことの出来る力が、“いのちの力”なのです。ところでこの4つの領域は、あくまでも自分の主観に現れて捉えられる関係ですから、“客観的”にではなく、常に自分を起点として他の対象を意識することで、その関係の有り様が把握されます。そうすると4つの関係領域の最初に挙げた“自分自身との関わり方”というと、少々奇異に感じられるかもしれません。なぜなら意識する起点となるその自分自身を対象として、関わり方を考えるということになるからです。つまり自分に対する自分自身の関係です。この“自分”というもの、つまりいつも無批判にそこから出発して他のものへと意識が向かう“自分”というものが、実はいかに自分でもよく分かっていないものであるかということについては、例えばダイエットに失敗したり、怒りや悲しみが抑えられなかったり等、自分の身と心が、どうにも自分の意のままにならぬやっかいなものであることを承知している人には、比較的容易に腑に落ちることではないでしょうか。そして特に現代においては、私たちの意識は自分の欲望を充たそうといつも自分の外の世界ばかりに向かって働いているものですから、何かよほど大きな失敗でもしない限り、意図的に時間を割いて自分自身を振り返ってみようとは思わないものなのです。しかし世界を判断する主体となる自分自身の判断が正しくなければ、自分と他のものとのあらゆる関わり方の基礎が揺らいでしまいます。間違った判断の基準で他者や事象を判断しても、間違った答えしか得られずに、間違った関わり方しか出来ないからです。だから私たちは、最初に自分の判断の正しさを問うのでなければ、他のものとの関係の拙さが、自分に由来するものなのか相手に由来するものなのかが分からなくなってしまいます。“自分自身との関わり方”というのは、自分自身を過たずに捉えて自分を御していくということであり、その意味で“いのちの力”を考える上で、どうしても最初に明らかにしておかなければならない対象なのです。逆に言えば“自分”さえしっかり把握することが出来れば、他の領域においても自分を生かす関わり方の指針がはっきりしてきて、誰もが“いのちの力”を強めていくことが出来るようになるための、実践的な手順の手掛かりが得られてくるのです。
そこで最初に、 “いのちの力”を強める実践的手順を解明するための検討対象として、“自分自身との関わり方”を取り上げ、その内容をさらにブレークダウンして考えていってみたいと思います。まずは現状における私たちの、自分以外の対象への通常の意識の働き方から理解していってみたいと思います。私たちが他者や社会と関わる時、仲良くなりたいとか自分が有利になりたいとか、通常は自分を起点として、自分にとってメリットがあるような目的をもって接するものでしょう。そして私たちの意識は、その目的に対する成果の度合いを測ることに向かい、喜んだり、がっかりしたりを繰り返します。それが通常の私たちの意識の働き方です。しかしもしその目的自体に問題があって、自分自身を生かすつもりが、じつは自分を害する目的に向かって突き進んでいたとしたらどうでしょうか。幸せになるために、高価な婚約指輪をプレゼントして彼女を喜ばせようと寸暇を惜しんで働いている間に、彼女の心が離れてしまうなどといったことは、私たちの人生にはよく起こることです。特に時代の分かれ目にさしかかる危機の時には、私たちが直感的に正しいと思って抱く目的や、その背後で押し止めようなく生じてくる感情や求め(時に高揚して熱狂的になる場合も)には注意を要します。ナチスドイツも大日本帝国も、こうして戦争の破滅へと突き進んでいったからです。
それ故に私たちは、自分が抱く目的や無意識のうちに抱く求め(欲求)について、それが本当に自分を傷つけず生かすものなのかどうかを、十分に省みて吟味する必要があるのです。ところが目的も求めも、いつも衝動的に自分の心に起こってきて、私たちが理性的に吟味してみようと思う間もなく、すでにこうしようという思いが先に立ってしまっていて、それが間違いなく後悔しない自分の求めなのかどうかと疑ってみる気持ちも起こらないままに、判断して行動してしまうのが私たちの通常の状況でしょう。従ってもし私たちが、本当に自分を損なわずに生かしていきたいと思うなら、私たちが他者と関わったり災害のような危機的事態に対処したりするその時点で、すでにもう自分を生かすような求めが生じてくるのでなければ、私たちの過たない判断や選択は難しくなってしまいます。あるいは感情的には怒りや恨みやいらだちなどの気分に覆われて、一旦はマイナスの判断を下しそうになったとしても、少なくともそんな自分に気がついて自分を立て直そうと出来ることが、“いのちの力”の働きと言えるのです。
それではこうした自分を間違わずに生かす求めや気づきは、どうすれば自分自身の身につくようになるのでしょうか。そのためには、通常は自分から外界の対象に向かう意識の働きを、逆に自分自身の方向に向け変えるという、ちょっと特殊な作業を行わなければなりません。言わば意識の方向転換です。これによって私たちは、外界の世界を科学の法則によって知ることが出来るように、自分自身を知って、自分の中にある深い求めに気づけるようになってくるのです。現代においては、確かにこれは特殊な作業となってしまいました。情報が氾濫し、様々な誘惑が私たちの欲望を刺激するために、私たちの意識は外界らの情報を得るのに必死で、自分自身を省みる余裕が無くなってしまっているからです。中には私たちを洗脳しようと付け狙ってくる価値観もあって、私たちはその価値観に自分を合わせようとして、自分で自分を誤魔化すという事態さえ生じてきます。例えばブラック企業に代表されるように、夢ややりがいを建前に私たちの全人格を仕事へと収奪してしまうことも生じ、私たちは自分を見失い、何が本当に自分にとって大切でまた大切でないかがわからなくなってしまうことも起こるのです。しかし縄文時代に象徴されるような昔の人たちは、けっしてそんな状況に陥ることはありませんでした。いつ胡桃の実が生(な)り、どこに行けば鹿や猪などの獲物が現れ、どうすればその獲物を獲れるかを、誰のものでもない自分自身が身につけた知識として知っていました。そして確かな自分の求めから判断し、自分を生かしていのちをつなぐことが当たり前に出来ていました。自分を自然に“当てにする”ことが出来たのです。しかし現代においてはそうはいきません。自分自身を見失い、自分の求めも自分の判断も、時に愚かで覚束ないものとなってしまっているので、自分自身を“当てにする”ことが出来ないのです。従って自然な状態では自分が分からず、どうしても意識的な取り組みによって自分自身を観察し、自分を取り戻す作業が必要になってくるのです。
しかしそのための理論と方法を、私たちは何も一から考え始める必要はありません。なぜなら同じような問題に直面した私たちの先人たちが、すでにその優れたノウハウを残してくれているからです。1つは中世から近代へと大きく時代が転換するにあたって、本当に一から新しい人間の生き方と社会のあり方を、原理的に考え直してみなければならなくなった時に、ヨーロッパの偉人たちが残してくれた成果です。それはデカルトに始まり、カント、ヘーゲルと体系化された近代観念論の哲学です。この取り組みは、その後ニーチェを経てフッサール現象学に受け継がれ、現在では日本の竹田青嗣先生や西研先生によって、私たちの確かな求めから出発して、世界を再構成していくための理論的な解明が進められています。もう1つは今から2,500年ほど前に、人間の救いは神々に供物を献げることによっては得られないと気がついた、インド・中央アジアの人々が残してくれたノウハウです。それが仏教によって体系化された“瞑想”なのです(いや正しくは、お釈迦様を介して、瞑想によって仏教が生まれたと言った方が良いでしょう)。近代観念論哲学が、“理論”によって自分の観念を探り、世界を認識してその存在の根拠を明らかにしていったことに対し、瞑想は、視線を自分自身の意識へと向け変えてその働きを観察するという、その気になれば誰にでも出来る実践的な方法を編み出していきました。これによって私たちに、自分自身に気づき、自分自身の深い求めを知って、誰のものでもない自分の求めから判断が行えるようになる道が開かれたのです。しかしここで1つ疑問が生じてきます。確かな自分の求めによる判断といっても、あくまでもそれは自分に基づく判断なのだから、1人よがりの判断となってしまわないかという疑問です。そのために自分の求めを、普遍的な価値(仏教では法=ダルマ、キリスト教では神)と突き合わせて検証し、自分の判断を自分にとっても全体にとっても良いものへと高めていく作業が必要になってきます。加えて現実に自分が良く生きていけるようになるために、普遍化された自分の求めを、具体的な自分の日常生活の中で実現していけるように、何からどう手をつけていけば良いかの実践的な手順までも明らかにしていかなければなりません。この個人の求めと普遍的な価値を行き来して自分の目的を確かなものとし、それを実現する実践プランまでをも明らかにしていくのが“祈り”のプロセスであり、主にキリスト教においてその方法論が整備されてきました。もちろん現実はどんどん変化していきますから、“瞑想と祈り”は1回やれば済むというものではなく、都度“瞑想と祈り”によって自分自身を振り返り、過たずに自分を生かせるように“気づき”の感度を深化させ、目的実現の手順をどんどん具体化させていかなければなりません。
さてこのように私たちは、日常生活においても仕事や企業活動においも、自分の確かな求めから様々な可能性に気づいて、自分も全体も生かせるような創造力を発揮することの出来る“いのちの力”について考えるにあたり、まずは“自分自身との関わり方”から検討を始めることにしました。そして“自分自身との関わり”をうまく行って、“いのちの力”を高めていけるようになる理論と方法の手掛かりとして、近代観念論哲学の理論の系譜と“瞑想と祈り”の実践が、先人たちの成果として残されていることを見てきました。こうした成果を踏まえて、次回以降は“自分自身との関わり方”の詳細について見ていき、さらには現代の私たちが“瞑想と祈り”について、カルチャースクールや企業セミナーに通うような気軽さで、誰もが納得して無理なく実践出来るようになる方法についても検討を進めていければと思っています。そしてこの取り組みを、パンセの集いにおける第2のプロジェクトとしてスタートさせられればと考えています。次回のパンセの集いは5月10日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)