ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.83『力及ばぬ切なる願いの実現-祈りから瞑想そして祈りへ』

May 08 - 2016

■2016.5.8パンセ通信No.83『力及ばぬ切なる願いの実現-祈りから瞑想そして祈りへ』

皆 様 へ

連休中に大阪の実家に帰省致しました。母親の今後の介護方針について、ケアマネさんと相談するためですが、真田幸村で大賑わいの和歌山県の九度山にも足を延ばしました。慈尊院のゴンちゃん(高野山の案内犬)の石像に会い、また安念ご住職に、フィルム・クレッセントの相澤徹さんが昨年天に召されたことを報告するためです。都会では無いので自動車による移動でないと不便なのですが、昨年6月のゴンちゃんの法要コンサ-ト(パンセ通信No.35で紹介)以来すっかり親しくなった信木さんご夫妻が車で駅まで迎えに来て下さり、信木さんの運転でドライブ致しました。この時期の高野山の麓の橋本や九度山やかつらぎの地域の緑は本当に素晴らしく、山裾から立ち上る“いのちの気”は強烈なほどに心地良く、頭のてっぺんから爪先まで清々しく浄化され、半年分ほどのいのちの力が養われた気が致しました。また安念ご住職からは、お大師様(弘法大師)ゆかりの献上酒を2本も頂き、信木さんご夫妻からは、かつらぎ町の県道沿いにあるフランス人シェフが経営する小さなフランス料理のお店で、おいしいランチをご馳走になりました。本当にこの上のない感謝で、皆さんの御好意が身に染みました。

大阪では一人だけ、クリスチャンの知人に会いました。本当は他にもお会いしたい方々がいらっしゃったのですが、また次回に機会が持てればと思っております。クリスチャンの知人は、新聞配達をしてお金を貯めて学校に通い、鍼灸師の国家資格を取った人物で、今回会うとすでに野田阪神の駅近くでしっかりと自分の店を構えて、経営も軌道に乗せていました。その生きる力の逞しさには学ばされるところが多く、尊敬の念を抱いております。久しぶりに会って話題になったのは、鍼灸やマッサージ・トレーニングなどを通じて、お客様に身体の機能改善をサービスとしてお届けするだけでなく、いかに“いのちの力”を高めることも価値として提供することが出来るかということでした。この価値をお客様と施術者が共に分かち持って高めることを目指すためにはどうすれば良いか。そのためには目に見えない“いのちの価値”への思いを、何かシンボル的に視覚化して、それに向かって店内の環境を整えてはどうかということに話が進みました。そうして浮かんできたのが“花”でした。いのちの象徴としての花を飾って、毎日手入れする。そのことによって、店を訪れてくる人たちに対する施術者側のいのちへの配慮が現され、またお客様側のいのちへの思いも引き出されて、その両者の思いが折り重なって、自ずといのちの価値を育むことのへの気持ちが醸し出されてくるのではないか。そんな話をしていると、江戸時代の人たちが、丹精込めてつくった一輪の朝顔に対して、その価値を売り手側も買い手側も分かって、相応の値段で大切に商いをした思いが偲ばれるような気が致しました。

皆さんの初夏の連休はいかがだったでしょうか。休めても休めなかったとしても、英気を養えても養えなかったとしても、また今日1日から始めて、“いのちの力”を育む取り組みを進めていってみたいと思います。次回のパンセの集いは5月10日の火曜日、時間は16時からです。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

パンセ通信では、前回から“いのちの力”を育む具体的な取り組みとして、まず自分自身との関わり方から検討を始めることに致しました。なぜなら自分自身の深い求めと自分らしさを知って、他の誰のものでもない確かな自分の人生を生きていくためには、自分を見つめ、すぐにいじけたり挫けたりする自分を御して正してしていかなければならないからです。それも出来れば無理に自分を御するのではなく、自然に無理なく自分自身に生きるうちに、次第に幸せが増していくようになる。そんな自分自身との関わり方が出来るようになっていくためには、いったいどうすれば良いのでしょうか。そこでそのための実践的な方法として、実はすでに私たちの先人たちが“瞑想と祈り”というメソッドを開発していることを紹介致しました。今回からは、この“瞑想と祈り”の手法を改めてよく学んでいきながら、物分りが悪い私たちであっても、誰もが気軽に実践して自分と自分の運命とを変えていくことが出来るように、またさらに私たちの身丈に合うように具体的な方法について検討を加えていってみたいと思います。

さてそれでは、“瞑想”とか“祈り”というのはいったいどういうものなのでしょうか。それを知るためには、まずそれぞれの成り立ちから考えていってみるのが良い方法かと思われます。何を目指して、なぜ始まったのかを知れば、その目的を充たすために採られた方法の意味が理解出来るからです。そしてその効果を自分の実体験で試してみることによって、さらに自分に合った方法へと改良を加え、現代の私たちにとっても納得が出来て効果の高い手法を見つけていくことができると思われるからです。そこでまず“祈り”の起源とその発展から考えていってみたいと思います。なぜならその成立の過程は、“祈り”の方が“瞑想”よりも古いと考えられるからです。

ある意味で“祈り”という営みは、人間ならではの意識作用と言えるかもしれません。誰でも危機に陥った時には、無意識のうちにも「神様、助けて!」と救いを求めるものでしょう。また受験や就職活動に際しては、「神様、どうか合格させて下さい!」と願うものです。それが人間にとっては自然な心の働きで、そんな時にも祈らないというのは、よほど心を頑なにしてしまったニヒリストであると言えます。このように祈りというのは、個人や集団の能力を越えて、災厄を避けたり願いが叶うことを求める切なる人間の営みです。ところで人間の意識を、類人猿も含めた他の生物の意識活動と分ける特徴があるとしたら、その一番大きなものは時間の観念があるということでしょう。他の生き物たちが“今、ここ”に全力を注いで生きているのに対し、私たち人間だけが、過去の記憶と未来の希望や不安のもとに“今、ここ”を生きています。その結果私たちには、自分の経験と仲間や先人たちの経験から判断してとても出来そうにないことに対しても、その実現を願い求める意識が働いてしまうのです。占いとオカルト好きの現代人の心性に即して言えば、超自然の力を操って、自分の思いどおりに事(こと)を実現させたいと妄想する意識作用とでも言いましょうか。このように“祈り”というのは、人間という存在に固有の意識作用であり、恐らく人間が類人猿から分化した時以来持ち続けて発展させてきた心性ではないかと思われます。

この祈りの心性を持つ一方で、人間は自然に働くいのちの営みを観察して、やがて自分たちの経験に照らし合わせて納得の出来る範囲で、世界の構造とそれを司る力についても説明を行おうとしてきました。そしてそこから得られた理解を、部族等の一定の人間集団の中での共通了解として分かち持つようになっていったのです。こうして成立したのが“神話”です。神話を生み出す意識作用も、過去の経験から世界の成り立ちや力の法則を知って、“今、ここ”から将来を良くしていこうとする人間本来の心性がなせる業(わざ)と言えるでしょう。この“神話”と“祈り”が結びついて、古代宗教が成立していきます。神話的観察から得た大地自然に働く“大いなる力”を味方につけ、その機嫌を損ねないようにして災厄を避け、自分たちには手に負えない願いを叶えてもらおうとしたのです。そしてどうすれば効果を高めて“大いなる力=神・祖霊”を味方につけて、願いを叶えていくことが出来るのかと考え、様々な試行錯誤を経て、祭祀儀礼や神殿の様式、犠牲(いけにえ)や供え物の内容を整えていったのです。この古代宗教の成立は、今から5,000年ほど前のことと考えられています。エジプト、中東・メソポタミア、インド、中国と世界の文明が発祥した各地で、この時期に同時に宗教が成立していったと思われます。そして日本でも、縄文人の自然観や生命観をベースにして成立した古神道の起源は、やはり5,000年前まで遡ると言われています。こうした古代宗教の祭祀儀礼を中心とした営みを、私たちは非理性的と笑うことは出来ません。自分たちの力及ばぬ望みをなんとか実現したいという切なる願いは、時間を越えて人類に共通のものだからです。願いを叶えるために自分たちがそれまでに積み重ねてきた経験から検証して、効果の高い儀礼方法や法則を見出して用いようとする態度は、じつは科学にも通じる合理的な精神の態度でもあると言えるのです。実際に近代になって、宗教から分離してくる形で、事物の世界を対象にして科学が成立してくることになるのです。

こうして各民族や古代国家ごとに、それぞれが神を味方につけて力及ばぬ願いを叶えていこうとして、精緻な体系の礼拝様式が編み出されてくることになります。そしてこの時点で“祈り”は、単に人間の意識作用であるばかりでなく、現実の行動様式ともなって結実してくることになるのです。しかしここで1つの問題が生じてきます。一旦礼拝様式が体系的に整ってしまうと、もはやそれ以上に効果の高い方法を求めようとするよりも、その礼拝体系を遵守することの方が大事にされるようになってくるのです。これも人間の心性に特有な現象で、願いをもっと良く叶えるという目的に対する合理性よりも、秩序の維持による社会全体の安定の方が重視されるようになってしまうのです。その方が意識のエネルギ-を抑制して、私たちは惰性で生きていくことが出来るからです。社会と文化が安定している時には、とりあえずもうそれ以上無駄な変化を起こさない方が軋轢がありません。私たちの日常においても、実際には毎日小さな変化が多数あるのですが、それを無視して惰性で繰り返しの人生を生きています。それは、本当に大きな変化が起こって新しい対処をしなくてはならなくなった時のために、エネルギ-をセーブしておくためです。15世紀になって大航海時代が始まり、ヨーロッパの人々が新大陸やアジア・アフリカの国々で出会った宗教が、非合理とか野蛮なものに見えたのは、その地の社会や文化がこうした“安定”の状況にあったからでしょう。しかしこのように秩序維持のために形骸化した宗教の姿に対しても、私たちは非合理的と笑うことは出来ません。現に今も官僚機構を中心に前例主義がはびこり、変化に合わせて自分たちを変えていくことについては至難の業となっているからです。

さて古代宗教がこのように礼拝体系維持のために形式化し、力及ばぬ願いの実現や災厄を避けるためにはもはや実際上の効果が無くなったとしても、社会や文化が安定している限り、そのこと自体には大きな問題はありません。しかしやがて、本当に力及ばぬ願いを実現させ災厄を避けるための営みが、必死で求められる時代がやってくるのです。それがBC500年代のことです。中国では周王朝が弱体化して動乱の春秋戦国時代となり、インド・中央アジアではマウリア朝マガタ国の統一まで小国が群雄割拠して争いを続けます。お釈迦様が王子として生まれたシャーキャー国も、滅ぼされてしまいました。そして中東では、新バビロニア帝国によってユダヤ王国が滅ぼされ、バビロン捕囚が起こります。ユダヤの知識・指導階級や技術者だけがバビロンに連れ去られ、残された民衆だけでは国が維持できず崩壊します。エルサレムの神殿を中心に、歴史上かつてないほど熱心に犠牲を献げ、信仰に生きた民が滅んでしまったのです。こうした事態に陥って始めて私たちの先人たちは、献げ物を神に備えたり精緻な宗教儀礼を行使するだけでは、災厄を避けることも願いを叶えることも出来ないことが、骨身に滲みてわかったのです。

それではいったいどうすれば良いのでしょうか。どうすれば本当に災厄を避け、自分たちの力だけでは到底及ばぬ願いを叶えることができるのでしょうか。危機に瀕し、自分たちの国や民族の存亡が懸っているだけに、先人たちは必死で考えざるを得なくなりました。こうして中国では諸子百家の思想家が生まれ、インドでは荒行をも行う多くの修行者が現れてくることになるのです。(ユダヤにおいても、この時代は捕囚状態でバビロンでの生活に組み込まれていましたが、危機の時代にはバプテスマスのヨハネに代表されるような多くの“荒野の行者”が現れました。) そして私たちの先人たちは、思いが実現しないのは神への願い方に問題があるのではなく、神に受け入れられるような願い方をしない自分たちの心の在り様の方に問題があるのではないかと、やがて気づくようになっていくのです。実際には国が亡びるような前兆はいくらでもあったはずです。そして事前に避けようと思えば、いくらでも災厄を避ける手立てはあったはずです。気がついていても、見て見ぬふりをして手をこまねいてきたのは神ではなく、自分たちであり、自分たちの生き方の姿勢の方にこそ問題があったのです。こうして古代宗教は革命的な転換を迎えることになりました。それまで神を味方にしようと自分たちの行為の方に注がれていた視線が、自分たち自身の内面へと向け変えられて、災厄(苦しみ)を避けて本当に願いが実現できるような、自分たちの生き方とそれを可能にする心の持ち様について模索するようなったのです。そして自分たち自身の中にすでにある可能性に気づいて、それを発揮させることによって、願いが叶う自分を実現していこうとしたのです。心が変われば感じ方変わり、感じ方(感情)が変われば行いが変わり、行いが変われば関係が変わり、関係が変われば生活の現実が変わり、生活の現実が変われば社会が変わるという図式に気がついたのです。このように自分を変え、関係を変え、現実を変え、社会の仕組みまでをも変えていくことによって初めて私たちは、現実的に災厄を避け、叶わなかった願いを叶えていく道を拓いていくことが出来るようになるのです。

神を動かすことから自分を変えることへ - この古代宗教の大転換を導いた代表者が、インドではお釈迦様です。お釈迦様は難行苦行の末に、自分自身の意識を内観する瞑想法を種々の修行法の中から選んでそれを深めました。そして気づきの力を高めて災厄(苦しみ)を避けると同時に、自分自身の深い求めと神の求めがついに一致して、叶えられる願いを抱くことの出来る領域(悟り、三昧)へと至る道を見出したのです。中国では孔子が始祖となって儒教が興り、老荘思想も道教として体系化され、徳を持って平安に生きる個人の心の持ち方や生き方の指針が示されるようになりました。そしてユダヤでは、厳しい自己反省(悔い改め)の末に、それまで神の怒りを避け、願いを通じさせるために行っていた律法の遵守が、自分自身の心と生き方を整え、神の求めに叶う願いが抱けるようになるためのいのちの修練の指針として捉え直され、ユダヤ教が再興される契機となるのです。

さてこのように視線を自分自身の意識の方に向け、自分を知って心の在り様を変えることによって自分の潜在的可能性を引き出し、本当に災厄を避けて願いが叶えられるようになっていく道筋を、瞑想法を例にとってさらに深く考えていって見たいと思います。そしてまたその願いを現実に実現する祈りの実践についても明らかにしていってみたいと思います。次回のパンセの集いは5月10日の火曜日、16時からです。お時間許す方はご参加下さい。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)