ゴンと高野山体験プロジェクト〜

パンセ通信No.84『人間の意識と求めの変遷 - 内観による調和と共生へ』

May 15 - 2016

■2016.5.15パンセ通信No.84『人間の意識と求めの変遷 - 内観による調和と共生へ』

皆 様 へ

アメリカでトランプ氏が共和党における大統領候補の指名を確実にする一方で、オバマ大統領の広島訪問が決定しました。アメリカの中で、権力の主導権を巡って複雑な動きが展開し始めているようです。1970年代に製造業の国際競争力を失って以降のアメリカは、金融業界(ウォール街)、軍需産業(ネオコン)、グローバル企業が中心になって、その利権のもとに国家を動かしてきたと言えるでしょう。経済的には新自由主義的政策をベースにして、自由競争によるアメリカンドリ-ムをエサにばらまき、結果としては権力の中枢を担うエスタブリッシュメント(富裕層)ばかりに富が集中し、庶民との経済格差を拡大させてきました。今アメリカの大多数を占める庶民層(市民層)が、この自分たちの利益にならない国家の体制に対して異議を申し立て、数ある大統領候補の中からトランプ氏を選び出し、また民主党ではサンダ-ス候補を推しています。ここにアメリカの一般市民の利益という、既存権力を牽制する大きな圧力が形成されてきました。このために、アメリカの既存の権力層の内部においても変化が起こり始めたようです。グローバル企業や金融業界の一部が、市民の利益への譲歩を模索し出したと思われます。これらの企業の一部の資金がトランプ氏に流れているという報道もあり、パナマ文書の開示も、こうした政策転換と関連があるのかもしれません。トランプ氏の政策の基本は“アメリカの利益”であって、アメリカという国家の中の誰の利益なのかが曖昧です(サンダ-ス氏の場合には、市民の利益を明確にしているのですが)。このあたりにアメリカのグローバル企業が、市民に譲歩しつつも巧妙に自分たちの利益を保持し続けるからくりを見出したようにも思われます。いずれにせよアメリカの権力構造が変容し、保護主義、孤立主義の方向にその政策が変化することは間違いの無いことでしょう。私たちはその変化の動向を見極めていかなければなりません。

一方で私たちの国に目を転じると、戦後の経済発展の中で、政治は二流でも企業は一流という信頼がありました。しかし今、東芝の不正会計事件や三菱自動車の燃費偽装問題、空港滑走路の不正耐震工事や電通もからんだ東京五輪招致の贈賄疑惑など、この国の根幹を担う企業の経営やガバナンスの公正な機能への信頼も揺らいできております。もちろん日本でもアメリカ同様格差の問題は看過しがたく、生きづらさが増しています。安定していたはずのこの国の構造も、揺らぎ始めてきているようです。いったい何を指針として、私たちはこれからを生きていけば良いのでしょうか。幸い安倍首相のおかげで、憲法や安保法制を始めとして、国家の統治に関する問題を基本から考え直してみる機会には恵まれました。しかし私たちの国の仕組みと将来の運命を決めるものとして、もっと抜本的な問題も浮上してきております。国家を主体にその求心力でもって政策運営を行った方が私たちの利益になるのか、国民主権に立ち返って、国民の利益に基づく国家の再形成を行っていった方が私たちのためになるのか。それを問われる局面を、安倍首相はつくり出そうとしています。前者の場合は、国家が国民の権利と利益を侵害しないで政策運営が行えるのかという疑問が残ります。後者においても、国民が国民の利益になる政治を行うなど本当に出来るのかという疑問が浮かびます。それを本気で目指す政治勢力も、そのノウハウも、現在の私たちは持ち合わせていません。いずれにせよアメリカの政策転換が起これば、日本が戦後拠り所としてきた政策は大きく転換することを余儀なくされます。それに対して私たちは、何の準備も出来ていません。準備の無いままに大海の荒波の中に放り出されて漂流する間に、これまで営々と築き上げてきた富を貪り取られるというようなことにもなりかねないでしょう。

こうした状況の中にあって、私たちの1人1人がしっかりと自分自身に信頼を置いて、過つことなく自分と全体の利益になるような指針を見出していく力を養っていくことが求められます。そうした力を私たちが身につけていく取り組みを、続けていきたいと思います。次回のパンセの集いは、5月16日の月曜日、時間は18時からです。これまで毎週火曜日の16時から会を持ってきましたが、都合により今後は、毎週月曜日の18時からと変更させて頂きます。お間違えの無いようお願い致します。場所は初台・幡ヶ谷の地域で行います。

パンセの集いでは、私たちがどんな状況にあっても自分を傷つけずに生かし、他の人のためにもなることを求める“いのちの力”を高めることを検討してきました。またその求めを、実際に自分の生活や仕事の具体的な場面において実現していくことの出来る、“生きる力”を養うこともテーマとしています。さらにこの内的な“いのちの力”と外的な“生きる力”を、実際に価値として提供するプロジェクトにも着手しています。それでは、具体的にはどのようにすれば“いのち力”と“生きる力”を高めていくことが出来るのでしょうか。古来より人間の求めというのは、災厄を避け、自分たちの願いを実現させることに向けられてきました。つまり最も単純な言葉で言えば、“いのちの力”“生きる力”というのは、災厄を避け、願いを実現する力とも言い換えることが出来るでしょう。そのために古代の人々は、“神”を味方につけて自分たちでは力及ばぬ願いを叶えようとし、原初的な祈りによって心の力を高め、また礼拝様式も整えて、自分たちの願いが最も効果高く叶えられる方法を模索してきました。しかしBC500年代の激動と動乱の中で、人々は神に犠牲を献げ供物を奉納するだけでは災厄を防げず、願いも叶わないことを身に滲みて思い知らされることになります。そこで再び、どうすれば災厄を避け願いを叶えることが出来るのかという、真剣な問いがなされることになりました。その結果として古代宗教の大転換が起こり、視線が自分たちの意識の外側に存在する神殿や礼拝のあり方に向けられるのではなく、自分自身の意識の内側に向けられて、自分のあり方を問い直すことで願いを叶えようとする道が模索されるようになったのです。願いが叶わないのは、願いを叶えるための行いを問う以前に、私たちが心の中で問題を捉えるその捉え方、あるいは願い方や願いそのものに問題があるのではないかと気づくようになったのです。危機や可能性の兆候があっても、それを見過ごす私たちの心性の問題です。また私たちが抱く“願い”も、本当に自分を生かす“願い”なのかどうか、よく吟味してみなければならないと思うようになったのです(願いが叶ってお金持ちになっても、不幸になるケースはよくあります。)。こうしてまずお釈迦様によって、私たちが外界の自然現象を観察すると同様に、私たちの内面で意識がどのように働くのかを観察する方法(内観法、瞑想)が集大成され、自分の意識の働きを知って、気づきの力を高めて願いを叶えていく方法が深められていったのです。

そこで今回からのパンセの集いでは、自分自身の内面の意識の動きを観察し、自分自身を知って願いを叶えていく実際的な方法を考えていきたいと思います。しかしその前にもう少しだけ、人間の意識の流れの歴史的変遷についても見ておきたいと思います。そのことが、意識を内観するにあたっての方法論にも影響してくるように思われるからです。

前回以来BC500年頃を契機に、人間の意識が外の世界に向かうだけでなく自分の内面にも向けられるようになった経緯を見てきました。そのことによって私たちの先人たちは、自分の意識と外界の現象との相関から、根本的に認識や存在や生き方について考えてみるようになり、インドでは仏教が成立し、中国では儒教や老荘思想が形成され、ギリシアでは哲学発展し、中東ではユダヤ教の再興がなされました。ではその背景として、この当時の社会にどんな変化が起こっていたのでしょうか。1つには前回も申し上げたとおり、祭政一致により保たれていた古代国家の秩序の崩壊と戦乱です。しかしもう1つ見落としてはいけないことは、都市部を中心に商業と手工業が発展してきたことです。このことによって私たちの先人たちの“求め”が、その心の中で大きく変容していったと思われるからです。古代国家の秩序が安定している限りにおいては、その秩序が維持され、その秩序に沿って願いを行うことが人々の“求め”でした。しかし商業によって富の追求という新しい価値観が生み出されてくると、人々の“求め”は、古い秩序から解き放たれて“自由”に商業に従事して利益を得て、生き方の可能性を拡げることに移っていきました。こうした先人たちの“自由”への求めが、既存の秩序や価値観を離れ、自分自身の意識に立ち戻って世界や生き方を改めて捉え直し、新しい価値観を生み出していこうとする動きとなっていったのです。

このような人間の意識の求めの変化と相関して、古代世界は大きく変容し、各地域において文化が発展していくこととなりました。文明が人間の欲望を充足するための社会・経済の装置を意味することに対し、文化とは、“文化人”という言葉に象徴されるように、個人の自由な意識の働きの中で自分で納得されたことに基づいて組み上げられた、教養や知識などの精神的活動の所産を意味します。こうしてこの時代には、文明や文化が発展していったのですが、やがて自分の意識から始まって、自由に願いを実現していこうとする“求め”のあり方にも、再び大きな転換の訪れる時がやってきます。それが紀元の前後のことでした。インドで大乗仏教が起こり、中東ではキリスト教が誕生していったのです。それまでの宗教は、自分の意図によって律法や戒律を守ることで救われ、願いを叶えていこうとしました。しかしキリスト教や大乗仏教は、自分自身の意識の深層ですべてを統べ治める絶対者に出会い、この絶対者の力によって自分自身が救われることを求めました。この絶対者によって、競争よりも他の存在との“調和”へと導かれることによって、願いを叶えていこうとしたのです。私たちの先人たちの求めが、“自由”な自己実現から、“調和”による共生へと変化していったのです。

ではなぜ先人たちの求めが、この時期に大きく転換していったのでしょうか。その背景にあった1つの要因が、東西交易の発展です。BC500年代におきた古代宗教の大転換以降、商業や手工業はさらに栄え、1つの地域の文明内に留まることなく文明間を結ぶ交易へと発展していきました。アレクサンダ-大王の遠征などもあって、この頃までにエジプトやローマ帝国とインドとを結ぶ交易、そしてまた中国との交易(シルクロード)が活発になりました。東西交易は、この交易に従事する者に莫大な富をもたらしました。次いでもう1つの“求め”の変化の要因となったのが、奴隷制の普及です。東西交易路や交易拠点の確保を巡って、ローマ帝国のような大帝国が出現し、その経済の基盤を支えるために奴隷制が発展しました。それまで小国であっても自由な民であった人々が、ローマの征服により奴隷の身分に貶められていったのです。この結果この時代にあっては、階層が大きく二極分化していったことが見てとれます。商業・交易によって莫大な富を所有するようになった商人や支配階層と、日々の生活にも困窮する平民や奴隷階層の人々と。つまり現代にも通じる格差の拡大が、深刻な問題として存在していたのです。多数を占める平民や奴隷階層の人々は、自分たちの力ではどうにもならない生活の苦しさと、辛い運命のもとでの生きづらさに押し拉(ひし)がれていました。そしてこうした人々は、自由な競争による自己実現よりも、絶対的な神の力に帰依することによる平等と、調和と共生の秩序による生活の安定を求めるようになっていたのです。つまり意識は内面へと向かい、求めは調和と共生へと向かうようになっていたのです。こうして誕生したキリスト教や大乗仏教は、やがてヨーロッパや中国・日本などにおいて、自由な競争よりも秩序と安定を重視する封建制を支える意識構造となっていきました。

しかしこの意識の構造にも、その後1,000年以上の時を経て、大きな転換の訪れる時がやってきます。それがヨーロッパにおける、キリスト教の宗教改革です。このころまでに十字軍の遠征の失敗やルネサンスによる自由な人間復興の取り組みを経て、封建制秩序が揺らいでいました。その一方で商品・貨幣経済が発展し、自由主義的市場経済も育ち始めていきます。こうなると状況はBC500年の頃と似てきます。人々の求めは、封建制の桎梏から解き放たれて、自由に商品・市場経済で競争して富を得て、自分自身の人生の可能性を拡げていく方向にシフトしていきます。つまり再び人々は、“調和”による共生よりも、“自由”な競争による自己実現を願う方向に、その意識の求めを振り戻していったのです。その意識構造の支えとなったのがプロテスタンティズムです。プロテスタンティズムは、既存の宗教的権威や世俗的権力を介さず、ダイレクトに個人が神と結ばれる信仰によって自分の義を確保することで、既存の秩序を壊し、自由に自己実現していくための正当性の根拠を与えることに役立ちました。そしてまたこの自由な自己実現を支えるもう1つの支柱となったのが、“科学”です。人々の意識は、一刻も早く求めを実現して富を得ていくために、自分の内面の詮索に向かうよりは、外部の自然や社会の法則の解明へと向かい、科学を発展させていきました。この科学の恩恵もあって、工場制機械工業や資本主義が発展し、人々は飛躍的な物資生産と金銭的な富を手にするようになっていったのです。科学とプロテスタンティズム、それを支える外界に向かう意識の働きと自由な自己実現への求めが、近代を開き、現代に至るまでの意識の構造の特徴となったのです。

このように人間の意識の構造の歴史的変遷を辿ってみると、その時代の状況に応じて、意識の働きかけの対象が外界に向かうのか内面に向かうのかで、振幅していることがわかります。また私たちの求めも、“自由な自己実現”か“調和と共生”かの間で振れてきました。BC500年の仏教の成立時点では、人々は新しい価値観をつくって商業の発達という新しい可能性に生きるために、意識は内面に向かい、求めは自由な自己実現へと向かいました。格差が拡大して生きづらさが増し、キリスト教や大乗仏教の成立した紀元前後の時代には、人々の意識は内面の深層へと向かって絶対者たる神に出会い、その絶対的な力に帰依することで調和と共生の秩序がもたらされることを求めました。意識は内面に向かい、求めは調和と共生へと向かったのです。一方利潤追求への求めが意識上でも顕在化していった近代の宗教改革の時代には、個人と神とが直接結びつくことで既存の価値観を打破し、意識はむしろ外界に向かって働いて、自然や経済の法則を利用しようとしました。そして人々は、自由に競って富を手にする自己実現の求めに狂奔したのです。つまり意識は外界に向かい、求めは自由な自己実現へと向かったのです。それでは現在はどうでしょうか。現在もまた冒頭にも述べたように、これまでのシステムに綻(ほころ)びが見え、私たちの社会と経済が破綻の危機の淵にあることは間違いないことでしょう。紀元前後の時代のように、私たちが無力なままに格差が拡大するのも現代の特徴です。その一方で、人間のあくなき富の追求と消費によって資源の浪費と自然の収奪が行われ、社会の持続可能性が危ぶまれています。こうした状況にあって私たちが、人間の意識構造の歴史的な振幅から類推できることは、私たちの意識は新しい価値観を見出すために内観する方向に向かわざるを得ず、私たちの求めは自由な自己実現の弊害から、調和と共生を回復する方向に向かわざるを得ないということでしょう。今再び私たち意識は内面へと向かい、求めは調和と共生を願う方向へと振れているのです。

安倍首相が、来年4月に予定されていた消費税の10%への増税を、先送りする方針を固めたと報じられています。その判断そのものは、現在の経済状況を鑑みると妥当なものかもしれません。しかし問題なのは、私たちの国が大規模な金融緩和を行って財政を悪化させ続ける一方で、それを正常に戻す出口戦略が見出せないままに、危機を深化させているということです。恐らく安倍首相に替わって野党が政権に就いたところで、ヘリコプタ-マネ-をばら撒くほか為す術が無く、早晩通貨価値の下落と財政破綻を招いて、ハイパ-インフレが生じることになるでしょう。それまでに、あと何年の時間が残されているのでしょうか。私たち1人1人が自分の意識の内面を探り、創造性を発揮して新しい可能性を見出していくのでなければ、自分たちに降りかかる危機を回避していくことは出来ません。そのために自身を内観する方法として、まず身体をリラックスさせて無理の無い状態に置き、その上で自分の意識の自然な働きと求めから可能性を見出していく方法が、先人たちによって伝えられております。呼吸法と整体と気功によって、身体を整えた上で行う内観法です。また自分の求めを普遍的な求めにまで高めて、その求めを自分の日常の具体的な状況にまでブレークダウンして実現していく手立ても、伝統宗教には“祈り”という方法で伝えられています。その1つ1つを辿りながら、現代の私たちが新しい価値観を見出し、その価値を実現していける方法を検討していきたいと思います。そしてその方法を実践していくことも、私たちのプロジェクトとして取り組んでいければと思います。

次回のパンセの集いは5月16日の月曜日、16時からです。曜日が火曜日から月曜日に変更となるのでご注意頂いた上で、お時間許す方はご参加頂ければ幸いです。(場所は初台・幡ヶ谷の地域で行いますが、当面の間都度場所が変わる可能性もございますので、初めて参加ご希望の方は、白鳥までご連絡下さい。)